ちょっと堅い話 Part 6

目次
その51 でぇ〜っ!!
その52 ぶち...。
その53 貝掘りのすすめ
その54 好き放題
その55 今、生きているということ

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その51 でぇ〜っ!!

 「でぇ〜っ!!」というのは私の口癖の一つだが(どんな口癖だ、それは...?)、今日は、この「でぇ〜っ!!」もしくは、もう一つ同類の「ひぇ〜っ!!」という口癖で書いてみたい。(意味不明)

 さて、今期の、つまり4月からの私の出勤は、全て朝一から始まるために、それなりに早い。前は、例えば「午後からの出勤」なんてのもあったのだけれど、そうは行かないのだ...。

 で、どんなに遅くとも8時半には家を出ないと遅刻、という状況である。私の住んでいるのは山を切り開いたところにある団地であり、7時半から8時半くらいまでは、一種の「交通ラッシュ」に近い側面がある。(もちろん、市内中心部方向に出てゆく車線のみ、であるが。) 
 ところが(?)、詳しく書く気はないが(笑)、HASENOBU家で「山越え(ルート)」と呼ばれる抜け道を通ると、少し時間が短縮されるのだが、このルートは、その名前が示す通り、見通しが悪く、くねくねしている上に、アップダウン(?)も激しくて、ちょいと鬱陶しい。
 ま、そういう訳で、時間にゆとりがある時には素直に、普通のルートを使う。そうすると職場までは20〜25分で到着できる。一方、山越えルートを通ると15分前後である。

 従って、これまではよほどのことがない限り、朝の出勤時には普通のルートを選んでいたのだが、このところ、とても疲れることが多く、朝も、ついついぼぉ〜っとしてしまって、それで焦って出勤することが多くなり、必然的に、この「山越えルート」を選ぶことが多くなっているのである...。

 さて...。この前の火曜日も、生ゴミを出した後、「ひぇ〜、遅れそうだ〜!!」という状況で骨折セリカに乗り、焦って出勤。当然、山越え、だ。

 と、そのルートの最高標高地点を過ぎたところで、つまり、ここから先は下りのみ、という所で、時ならぬ(?)渋滞が...。
 「れれ...? このところの雨続きで土砂崩れでもあったのかな...? 道路工事かな...?」とやきもきする。

 ふ〜む、この交通状況からすると、少し先の方で片側通行になっているようだ...。カーブが多いため、何なのかは分からないが...。
 で、しばし待たされ進んでいくと、警官が交通整理をしている...。で、さらに先のカーブの手前には「事故」と表示したパネルを載せた警察の車が。

 「おいおい、頼むよぉ〜...。朝っぱらから事故なんてやめてくれよぉ〜...。」と内心思いながら進んでゆくと、おお...。いわゆるRV車がミニバイクと衝突したらしい...。しかも、そのバイク、前輪というか、前半分あたりがRV車の下敷きになるような、潜り込むような感じのグシャグシャな状態だ...。

 おいおい...。ちょっとこれ、危ないんじゃないのか...? 横目で見たところ、警官がおばさん(運転手?)と話をしており、歩道には女子高校生が放心状態で座り込んでいる...。う〜ん...。あの女子高校生がバイクの運転手か...? でも、見たところ無傷みたいだし...。あのバイクの惨状からすると、違うようだなぁ...。ふ〜む...。

 ま、そういう訳で、その朝は数分遅刻してしまった訳であるが、今朝、また、予期せずして山越えルートを得ればざるを得なくなった。

 と、例の、この前のカーブのあたりに、たくさんの花束その他のお供え物が...!! 「げげっ...? まさか、この前の事故って、死亡事故...?」

 ということで、数日前の新聞を取りだしてみたところ、何と...! やはり死亡事故だった...。死亡したのはミニバイクの運転者。彼は17歳の少年で、そしてRV車を運転していたのは、50前のおばさん...、しかも私と同じ団地の住人だ...。事故の発生は私が現場を通った1時間ほど前のことのようである...。

 う〜ん、特に見通しが悪いというようなところでもないんだけれど、カーブであるからにはどちらかがセンターラインを越えて、というような状況なんだろうなぁ...。(新聞では詳しいことは書かれていなかったが。) でも、いずれにせよ、私が通勤時に時折使う道で死亡事故があったとなると、ちょいと思うところがある...。<いや、気持ち悪いとか、気味が悪いとかではなく。「偶然の怖さ」というか、何と言うか...。

 以上、まとまりはないけれど、そして何かを強く訴えたいわけじゃないけれども、書き綴ってみました...。
(2003年7月11日 書き下ろし)

その52 ぶち...。

 ぶち...、と言っても私の堪忍袋の緒が切れた音ではない。私の心の呟きだ。

 さて、「ぶち」というのは、ついこないだまで「こぶち」と呼ばれていたノラ猫の名前である。日記、その他で何度か記したかと思うが、我が家には、なぜか猫が遊びに来る。いや、遊びに、というよりは「エサをもらいに」かもしれないが...。

 いずれにせよ(?)、とにかく私の庭にやって来る猫は数匹いて、それらが一同に会することはないが、述べ数で言うと7匹ほどの猫と顔見知りな訳だ。

 その中で、「ぶち」は新参者で、旧称「こぶち」ということからも分かるように、まだ子猫だった。白と黒のぶち猫で、その模様がなかなか可愛い猫だったが、非常に幼い頃人間にいじめられたか何かで、極度に用心深い猫だった。

 昨年11月頃に生まれたんじゃないかと思うんだけれど、最近はよく出没し、エサもぱくぱくと食べ、かなり大きくなってきたため「これじゃあ、もう『こぶち』じゃないよなぁ。今度から『ぶち』と呼ぼうか。」と家族で話していたのはつい最近のことだった。

 そのぶちが、死んだ...。

 今日、午後8時頃、私が台所で皿洗いをしているときに息子が「ねぇ、父さん。外でぶちが横になっているよ。」と報告しに来た。
 「はぁ...? そりゃ変だぞ。あの猫はそんな振る舞い、しないよ。昼間ならともかく、こんな時間に寝そべることもないよ。」

 ってな訳で、見てみると、うん、確かに横に倒れているような恰好だ...。「おいおい...、あれ、死んでるみたいだよ。」と私は言い、外へ。そうっとぶちに近づいてみる...。「ん...? 普通、この位置だと気づいて逃げ出すのに...。」というところまで近づいても動く気配は全くなし。

 ということで、間違いなく死んでいた...。つんつんと触ってみても、もう柔らかくない。死後硬直が始まっているようだ...。手足を伸ばし、そして、例の(?)長い尻尾をつんと伸ばした状態でぶちは永遠の眠りについていた...。
 「うそぉ〜...。」と言った娘が涙を流す。
 「生き物はいつかは死ぬもんだよ、お姉ちゃん。」とじゅそがいつものとぼけた様子で小生意気にも姉を諭すようにコメントする。

 9時過ぎ、妻が帰って来て、そして家族の見守る中、ビニール袋、そして段ボールの中に入れられるぶち...。<もちろんその役目は私だ。

 明日の朝、市営の火葬場に持っていく予定である。「ペット小」であれば4,200円の手数料で済むらしいが...。だが、この数カ月間、ちょこちょこと庭にやって来てはヘタクソな鳴き声で「エサくれ、にゃお〜ん。」と言ってなごませてくれたぶちへのせめてもの恩返し(?)だ、最後まで見届けてやろうかと思う...。

 なお、図らずも、前回のこの「駄文」、アップしそこねていたんだけれど、どちらも「死」にまつわるものとなったんだけれど、これは偶然なのか? それとも必然なのか...?

 あ、ちなみに、生前のぶちの姿(この頃はまだ「こぶち」だった)を見たい人はどうぞこちらへ。
(2004年3月15日 書き下ろし)

その53 貝掘りのすすめ

 昔、つまり私が少年だった頃、2回ほど貝掘りに行った記憶がある...。
 一回は、地区の子供会の遠足みたいなもので、大阪湾の南の方のどこだったか、ま、とにかく遠浅の海岸で、そしてもう一回は確か父が(私と兄を)連れて行ってくれた。>場所は不明
 
 ものの本によれば、本当の潮干狩りというのはそれこそ「ザックザック」と(?)掘れば貝がコロコロと出て来るという、実に魅惑的なものである...。ところが、私が体験したいずれにおいても「おお〜! たくさん採れたぞ〜!!」という記憶はなく、苦労した割には成果がないというものだった。(笑)

 くぅ〜...。こんなはずじゃない...。(意味不明)

 そして九州へと引っ越し、それから何度か本格的な(笑)潮干狩りを体験することができた。中学、高校生の頃は友達のお父さんに連れて行ってもらってみんなで競い合って掘ったり、また、天草で独り暮らしをしていた高校教師時代(2年間のうち、独身だった最初の1年)にはちょくちょく近くの海岸まで足を運んだものだった。 もちろん時期にも寄るのだが、さすが自然が豊富に残っている天草の海。小一時間ほど一心不乱に作業に励めばかなりの収穫があって、一晩寝かせて(って、砂抜きをして、ってことだけれど)バター焼きなどをして、食べ切れないくらいだった。(笑)

 結婚後は、う〜ん、なぜなのかは分からないけれども潮干狩りからは足を洗ってしまって、僅か1度だけ、娘が小さいころに出かけた記憶がある...。

 そういう私であるが(どんな私だ...?<一人突っ込み)、このゴールデンウィークには3回、潮干狩りに出かけるという暴挙に出た。(意味不明)

 最初は4月29日、みどりの日。子供2人を連れて、瀬戸内海に浮かぶ島にフェリーで渡り、そして場所を探しているうちに干潮の時を過ごしてしまい、不本意な結果に終わり(笑)、そこで5月2日、今度は妻をも含めて一家総攻撃態勢で臨み、う〜ん、まあまあの結果。そして最後、今日、つまり5月4日、今度は私が単独で切り込むという、そういう手順である。(何が「手順」なんだか...。)

 それはさておき。

 子供や妻と一緒の時には「ほらほら、こうやるんだよ。」と指南しないといけないので作業に没頭できない訳であるが、今日は丸々3時間、誰とも口をきかず(笑)、黙々と、そして一心不乱に貝掘りの作業にいそしんだ。
 その間、「精神を統一して、心を無にしなければ!」と思いつつも(意味不明)、様々なことを考えていた。

 この貝掘りって、何だか「カニを食べる」という行為に似ているなぁ...。ついついのめり込んでしまって、ただひたすら、という心境(?)になってしまうなぁ...、とか。
 また、上で「精神を統一して〜」などと書いたけれども、「貝掘り」というのにも「〜流」だとかいったような流派や流儀があるのだろうか...。もしかして、それは家の秘伝となっていて、嫡子にのみ伝授されるとか...。(意味不明)
 それから、「正しい貝掘りの道」、略して「貝掘り道」とかあるんだろうか...? ま、剣道や柔道などの格闘技なら話は分かるんだけれども、例えば、英語の勉強にだって「英語道」だとか「英語道場」などという方向に持って行っている著名人もいるんだけれどね...。(笑)
 ま、英語道なんてのはおいといて、剣道やら柔道、空手道、ちょっと外れるけれど武士道だとか、単にその技術や心構えということだけではなく、極めていけば「永遠の真理」に近いような、奥義というか何と言うか、そういうものに行き着くような気がするんだけれど、貝掘り道じゃ、ちょっとね...。どこに行き着くというのか...? アサリの酒蒸し? それとも貝汁定食か?(意味不明)

 おおっと、話がずれてしまった。

 私が言いたいのは、そういう邪念を打ち払って(爆)、心を空白にして一途に打ち込むことの尊さである。(<おい...。)

 誰しもが経験したであろう、幼い頃の砂場遊び。しかも、苦労して造り上げた砂の城を一気に破壊するようにスコップ、もしくはクマデでザクザクと掘るという、人間の持つ「破壊本能」を小規模ながら満足させてくれるのが貝掘りである...。そして、宝物探しのように珠玉の貝を掘り出す、喩えを変えれば、人間の持つ「狩猟本能」を少しずつ満たしてくれるのが、うん、貝掘りの醍醐味なのである。(脈絡なし。)

 と同時に、あちこちの漁村で聞かれるであろう「この辺りの浜も、すっかりアサリはおらんようになった...。」という嘆きの声を忘れてはならない。(<いや、マジで。) あまりにも巨大過ぎて私の駄文などでは扱えないような次元のこと(つまり環境保護などのことですが。)も、実際に海岸に行ってみないと分からないことかもしれない。

 う〜む、自分でも何を書いているのか、何を書こうとしているのか分からなくなってきたぞ...。(爆)

 ってことで、強引にまとめると、とにかく、今度の休みにはスコップ(あるいはクマデ)を片手に海岸に行って貝を掘ってみたら、という提案である。心を空白にできる人は無我の境地に達して欲しいし、そうでない人は邪念に惑わされながらでも良いから、色々と思いを巡らせても良いと思う。きっと何か学べることだろうし、ふと気づけばアサリ貝の収穫というおまけもついてくるかもしれない。

 ま、このように貝掘りの道は厳しく険しいのだ。<まだ言ってる...。
(2004年5月4日 書き下ろし)

その54 好き放題

 前にどこか(の駄文)で書いたことだが、このところ、私はかなり「好き放題」にしている...。って、法に触れるようなこと(強盗や殺人や覚醒剤だとか)は、もちろん、していない。ま、愉快犯的なことは何かやってみたいと思うことは頻繁にあるが、それもちゃんと抑えている。<おい...。

 ってことで、本来、かなり禁欲的であるはずの私にしては「好き放題」ということで、それは、例えば手が2本しかないのにギターをどんどんと買い漁ったりということや、やらなきゃいけない仕事があるのに音楽の世界に浸ったりテニスをしたり、休日には昼過ぎからお酒を飲んだり昼寝をしたりなどという、微笑ましい程度のことである。

 さて、話は変わるが先日(って、昨日だけれど)、「ふぅ〜...。日曜かぁ...。今日はのんびりするぞぉ〜っ!」と意気込んで、その手始めとして朝、10時過ぎまでベッドに籠り、そしてのそのそと起きて、ぼぉ〜っとしながらコーヒーを飲んでいた時、我が家の電話が鳴った。

 それは、元教え子からの電話であった。卒業して、う〜ん、もう5年ほどになるかと思うのだが、彼女は丁寧に挨拶した後、同じクラスだったMさん(=もちろん、私の元教え子)が24日、心不全で亡くなった、ということを告げた...。

 詳細は不明だが、お通夜、葬儀、全てが終わった時点でMさんの弟さんから連絡があったということらしい。

 ここでその卒業生Mのことをくだくだと書くつもりはないが、私の卒業研究(ま、一種のゼミだ。)を取っていたということもあるし、そして2年間、彼女の在籍していたクラスの担任をしていたということで、卒業後も何度か会ったりもしていた。一番最近では、確か、5月の連休明けに彼女が勤める外資系コーヒーショップ(って、名前を伏せる理由もないが)に立ち寄ってテイクアウトのコーヒーを買って「やぁ。頑張っているね? また遊びにおいでよ。」と声をかけというところである...。

 う〜ん...。何と言ったらいいのか...。

 ま、そういう訳で「心ゆくまでのんびりほのぼのと過ごすのどかな日曜日」ではなくなった訳だが、かといって、それで取り乱したり、くら〜い雰囲気を家族にまき散らす訳にも行かない...。私は、もうオトナなんだ...。

 ということで、心紛らすために(?)子供を連れてラーメン屋さんに行き、そして久々のMIDIファイル作りに没頭したり、PCでチャットをしたりなどなど、努めて(?)普通の姿勢を取り続けた。
 私が意気消沈したりすることは、あの、竹を割ったような、そしてとても陽気なMが望むところとは思えない。

 そして、今日(あ、週明けの月曜ということだけれど)も、実に普段通りに職場に行き、そして仕事をして来たのだけれども...。

 それでも、いくら割り切ろうとしても、私だって機械じゃないんだから、どうしてもMのことに思いが行く...。

 だけど、(再び)それでも、「実は昨日の朝、元教え子から電話がかかってきて、〜〜」などとMの話をしたところで、若さ溢れる18、19歳の学生にはピンと来ないだろうし、「毎日毎日を精一杯生きてくれよ!」と彼女達に嘆願しても始まらない...。

 今回のこと(つまり、Mの死を知ったこと)で、好き放題の私の暮らしぶりに大きな変化は、多分、ない。実際、こういう職業をしていると(いや、職業には関係ないか...?)、若い人の死に触れることもないわけではない。高校教師をしていた時の、現役の教え子(高校三年生男子)を初めとし、すぐに思いつくだけでも、もう5人の訃報に接している...。

 そして、その度に自分の無力さというか、何と言うか良く分からないけれども、つくづく、しみじみと考え込んでしまうのである...。

 あ〜、何も結論めいたことまで行き着かなかったけれども、ま、気にしないで欲しい...。
(2004年6月28日 書き下ろし)

その55 今、生きているということ


 このページの更新、8年ぶりだ...。(爆)

 しかも、前回の、最新のものが「好き放題」ってことで、それを8年ぶりに読んでびっくりした...。

 あらら...。それも「死」にまつわるものだったとは...。

 この「くまきの部屋」の実質上の更新が途絶えて、もう何年にもなる。って、忘れていた訳じゃなく、ただただ「書きたい!」と強く思わなかっただけで。極少数の熱心な読者の方からは「どうしたんですか? もう更新、しないのですか?? 待っても待っても、ですよ。」という苦情に近いリクエストのメールも数通だけど(笑)届いていたのだが、とにかく、「いや、特に書きたくなくって...。」というのが真実である。

 さて...。

 その封印を解いて今夜、この文面をしたためる。

 もう詳細は記さないが、同僚が、一昨日、亡くなった...。
 
 職場の中でも(私の中においては)一、二位を争うほど、敬愛していた同僚である。本名を記しても問題はないのだけど、取り敢えず、「S先生」と表記することにする...。

 で、唐突だが、この文面は、私からS先生への、弔辞である...。

 と、書いた時点で涙腺がゆるくなってしまった...。今日の告別式でも、泣かないと決めていたのに、教え子たちの泣き顔につられて嗚咽を漏らしてしまった...。

 S先生。これまで本当にありがとうございました。

 私の研究室の電話番号の次が情報センターで、パソコンで、あるいは学内LAN関係で困ったことがあるとすぐに番号をプッシュし、「S先生〜、ヘルプ〜!」と泣きついていた私でした...。だけど、S先生はちっとも嫌な顔を見せずに、にこやかに、そして温和な調子で対処方法を教えてくださいました。時には私の部屋までご足労頂き、直接、私のPCをいじって、暗号めいたコマンドを入力し、原因の究明をしてくれました。

 S先生との付き合いの発端は、20年余り前の、S先生の赴任以来です。私の方が年齢は少し下で、当初は所属の学科も違い、深い交流はありませんでしたけれども、職場の(当時の)若者たちの集いの飲み会などを重ねるに連れ、親交を深めて行ったように記憶しております。

 教職員組合主催の「栗拾い」のイベントではご家族連れで参加され、子煩悩なS先生のお姿も拝見しました。上のお子さんを奥様が抱っこされていた記憶がありますから、もう20年近く前のことだったでしょうか...。

 今日の告別式での、卒業生、在学生からの弔辞にもありましたが、S先生は学生の指導に非常に情熱を傾けておられました。大学祭、その他の学内イベントには、準備の段階から一所懸命に、文字通り汗だくになりながら手伝われていらっしゃり、その姿をお見かけすると「あぁ、私もやらなきゃ!」と思ったものです。
 
 S先生は、「自ら発言し、人を動かす」タイプの先生ではありませんでした。ともすれば、「発言だけして、自らは何も動かない」タイプの猛犬じみた教員が闊歩する中で、S先生は、ご自分のことは二の次にして、率先してことに当たる姿勢を貫かれました。

 俗に「子は親の背中を見て育つ」と言いますが、きっとご家庭でもそうだったのだろうと思います。S先生、安心してください。3人のお子様は、私が言うのも僭越ですが、立派にご成長されています。昨日のお通夜、本日の告別式、そして火葬場での振舞いを見ていて確信いたしました。

 職場のことに話を戻します。

 と、言いつつ、飲み会の話ですが...。

 S先生は、越後のご出身ということもあってか、酒豪でした...。私もかなりの「呑み助」ですけれども、S先生は私の知る中でもトップクラスの酒豪でした...。いくら飲ませてもちっとも酔った感じは見せず、飲ませ甲斐がなかったほどでした。(笑)
 
 最後にS先生と飲んだのは、昨年末のことでした。そう、27日の、ちょうど1ヶ月前の12月27日のことでした。やはり同様に敬愛するO先生の(いつもながらの)強引な誘いで、広島駅前のホテルで「蟹&ステーキ食べ放題、飲み放題」というイベントに同席させていただいた時だったはずです。
 
 昨年の春、倒れられ、入院生活を送られたにも関わらず2ヶ月ほどで驚異的な回復力で現場に復帰されましたね。以来、「食事制限、カロリー制限が...。」とのことで、すっかりスリムになられていたS先生でしたが、その「食べ放題」ではパクパクムシャムシャと以前のように召し上がられ、「S先生、大丈夫ですか?」と私が心配して尋ねると「ま、合計で考えればいいですから、ちょっとくらい多めに食べても、後で調整すれば大丈夫なんですよ。」と、にこやかにお答えされていました。

 もう少し、飲み会の話をします。(笑)

 S先生は、飲み会の時でも自ら率先して話題を振り会話の主導権を握るタイプではありませんでした...。寡黙で、他の人(特にO先生など)が話すのを、うなずきながら、微笑みながら淡々と(?)杯を重ねる、という感じで...。時に、同意できない時には「う〜ん...。」と腕組みをしながら首をかしげるだけで、大声で反論したり、ということは、まず、なかったように思います。

 そういうS先生が熱っぽくなるのは、決まって「学生にとって不利」な事案が話題になった時でした。いつも以上に早口になり、ちょっと聞き取りづらいこともあったのですが、「ちょっと待ってくださいっ!」という感じで懸命に意見を述べられていたことを思い出します...。

 話を仕事関係に戻します。

 昨年の春以来、学科長となられ、S先生が入院されていた期間は私が学科長代行を致しましたが、復帰後は情報センター、図書館を統括する「メディアセンター長」と兼任という、激務...。数々の任務が集中していたことと拝察いたします。
 
 心ならずも、私も入試広報センター長として、S先生にいくつもお願いを致しました...。

 朝早くから夜遅くまで、情報センターに詰めていらっしゃることは重々、承知しておりましたので学外へ出かけるような仕事を依頼することは避けておりました。ですが、入学試験の学外会場には、率先して「行きますから!」とおっしゃってくださり、今回も松江の方の担当をお願いしましたところ、「はいっ! 喜んで行きますよ!」と二つ返事でお引き受けくださったことが、とても、とてもうれしく、頼もしく思っていたところでした。

 あ〜、話があちこちに飛んですみません...。

 全く同じ文言かどうか自信がありませんが、キャリアゼミの全体会でS先生が毎年、学生達に伝えていたことばは「反省はしろ。だけどクヨクヨするな!」だったかと思います。少なくともそういう趣旨だったかと。
 
 そしてこの言葉どおり、S先生は「あ〜、もうやめた!」とあきらめて投げ出すような行動はなさいませんでした。私だったら、すぐに放り投げて「もう知らない〜。」と言い出しかねないような場面でも、しっかりと、じっくりと考えて善後策を見つけ出そうとなさる姿勢には教えられることが多々、ありました。

 特に人生観とか宗教観などのことをS先生と話し合ったことはありませんでしたが、S先生は私にとっては「人間の鑑」であり、「指針」でもありました。とはいえ、S先生のように、自分のことを省みず、という境地には、すみません、私は辿り着けないような気がしています...。

 S先生。私達の学科は学生数の確保に苦しんでいますけれども、その高邁な教育思想が実を結び、多くの志願者に恵まれることを信じて、これからも頑張って行きたいと思っています。去年より今年、今年より来年、と、学生数が着実に増えていくことが、学生数を増やしていくことが、私達に残された課題だと受け止めています。

 S先生という大きな柱を失った今こそが私達の学科の正念場だと考えています。春にはS先生のご仏前に良い報告ができることを信じて頑張って行きたいと思っています。

 土日祝日を問わず出勤なさって仕事に励んでらしたS先生...。どうぞ、ごゆっくりとお休み下さい。今まで長い間、ご苦労されたS先生、他の人の何倍もの仕事量をこなされたS先生、どうか、安らかにお眠り下さい。

 S先生、ありがとうございました。

(と、書いたのは1月29日のこと。アップロードしようかどうしようかと思いつつ、「月命日」を迎えてしまった...。そして、だからという訳じゃないけど今日、学長のところに行き、S先生の使っていた研究室に私が入るという申し出をした。そして、この文面もアップロードする。)
(2012年1月29日 書き下ろし)
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