メールで話そう

第1シリーズ 「心のほころび」


No.1 1998年12月7日 雪見→HASENOBU 「裏日本って差別なの?」

HASENOBUさんへ:

寒くなりましたね(; ;) なんと関東地方では早くも雪が!
ところで、こないだテレビの天気予報を見ていて、ふっと思ったんです。

昔はよく「表日本」「裏日本」って言ったものだけど、最近聞かなくなったなあって。今は「太平洋側」「日本海側」って言うみたいですね。「表日本」「裏日本」という言葉はいつ頃から使われなくなったんでしょう。そういえば、「裏」という言葉を使われるのは嫌だ、という日本海側に住む人の意見を新聞の投書欄で以前目にしたことがあるけれど。これも一種の差別用語というわけなのでしょうか。

その頃瀬戸内海沿いの街に住んでいたわたしは、「裏日本と呼ばれたくない」という投書を読んで、「ふ〜ん、そんなもんかね」とぼんやり思ったものでした。別に裏という言葉がひどく悪いイメージだとは思わなかったけれど、住んでいる当人たちが裏日本という言葉は嫌!というのならよくない言葉なのかもね〜、と思ったことを覚えています。

じゃあ、山陽、山陰という言葉はどうなのかな。山陰に住んでいる人たちは「陰」という言葉は嫌い!とは思っていないのかしら。山陰に住む人たちが「嫌だ」と言わない限り、「山陰」という言葉はOKなのでしょうかね…。

そんなわけで、わたしたちは特に自分たちのことを差別する人、と思ってないけれど、なんとなく日常的に「ついうっかり」差別してしまっているのかなあ、と思ったのでした。そして差別とは「差別される側」の人が「これは問題だ」と言って初めて差別になるのだ、と思いました。つまり、山陰の人が(事実かどうかはわたしは知らないのですが、仮に)「山陰って名前はぜ〜んぜん、問題ないよ」って言えばそれは差別にはなり得ないわけです。山陽の人が自分で「あっ、こういう山陽、山陰って呼び方は差別だから止めようぜ」って騒いだとしても、山陰の人が平気でいる限り、この用語は差別用語にはならないわけなんだなあ。…ってわたしは思ったんですけどね。

HASENOBUさんはどう思いますか?



No.2 1998年12月11日 HASENOBU→雪見 「差別用語の言い換え」

 こんにちは、雪見さん。 最近の広島は曇りがちの日が多く、この前、出張ででかけた尾道や因島などでは少し雨も降ったりしました。でも、その時は12月ももう1週間を過ぎているというのに、まだ紅葉真っ盛りで、何となく不思議な気持ちで山々を見ていました。

 さて、本題に入りましょう。
 う〜む...。(いきなりですが、考え込んでいます。(笑))

 「表日本」「裏日本」という言葉、いつ頃から使われなくなったんでしょうね〜? 少なくとも1970年代中ごろまでは使っていたような気がします...。以前『消えた日本語』というタイトルの記事をどこかで読んだのですが、それを引っ張り出せばいつ頃消えたのか分かるかもしれません。が、きっと雪見さんはそれが何年のことなのかどうしても知りたい、というのではないでしょうから、この問題はほおっておきましょう。(爆) きっと、これを読んでる誰かが調べて教えてくれるでしょうし。(笑)

 さて、それはそれで片づいたとして(おい...。)、なるほど、「表」と「裏」は、どこか「優劣」と関係する言葉を持っているようですね。「裏社会」、「裏幕」、「裏街道」など、ちょっと考えるだけで「マイナスイメージ」を持ったものが多い。「裏金」、「裏口入学」、まだまだありそうだ。あ、「裏切り」なんかもそうですね。「うらぶれる」とか「うら悲しい」とかは関係ない、か...。(笑)
 一方、表、という言葉はそんなに「プラス」というイメージはない、ですね。もちろん「表通り」とか幾つかの語は思いつくけど、厳密には「表」はニュートラル、通常の状態を意味していて、「裏」になるとマイナスへ向かう、という風に考えられますね。

 ん...? ちょっと、こういう話ではなかったか...?(笑)

 問題なのは、差別とは「差別される側」の人が「これは問題だ」と言って初めて差別になる、のかどうか、ってことでしたね...?

 嫌な言い方なのですが(笑)、逆に言うと、「差別される側」の人が「これは問題だ」と言い出さないかぎり、差別にはならない、ってことになるのでしょうか...?
 どうでしょう? 何となく違うような気もするのですが。

 もしかすると、「言って初めて差別になる」というところを私は雪見さんとは違うように捉えているのかもしれません。私は天の邪鬼なので(笑)「言って」を文字通りに取っているようです。(って書いてますが、確信犯です。(爆))
 雪見さんは「差別されていると感じた時点で」と表現してもいいとお考えですよね、きっと?

 いやいや、揚げ足を取りたいのではないのです。(笑) 私は、別の観点で「言った時点で差別になる言葉」というのを今、念頭に置いているのです。例えば、放送禁止用語など。議論のためだから(そして、今はその用法が特定の人物を指しているのではないという状況ですので)はっきり書くと、「めくら」だとか「おし」や「びっこ」などの言葉です。このような語は非常に多くありますよね。そして、それらはマスコミによる「言葉狩り」に遭い、消されていっています。最初の「裏日本」や「表日本」などもその一例ですよね。
 そしてこれらの語には、代替物として「目の不自由な人」や「日本海側」だとかの言い換えの言葉が与えられています。では、このような言葉を使えば、それで差別がなくなった、ということになるのでしょうか?
 このあたりのこと、雪見さんはどう思われますか?



No.3 98年12月13日 雪見→HASENOBU 「放送禁止用語って」

HASENOBUさん:
わたしは変わった日本人なので季節の挨拶は省きます(爆)

そうですか、早速、放送禁止用語ですね…

放送禁止用語についてわたしが言いたいことは二つあります…
ひとつは言い換えたからといってその用語の後ろにある差別はなくならない、ということ。つまり、視力に障害がある人のことを「障害がない人に比べて劣っている」と考えるのなら、「めくら」と呼ぼうが「目の不自由な人」と呼ぼうが大差はないということです。ただ…前回も言ったように“差別かどうかは差別される側が判断することだ”(雪見仮説)とすると、この問題も視力障害のある人に聞くべきかもしれません。そして彼らが「めくら」は不愉快だ、「目の不自由な人」と呼んでほしいと言うならば、そう呼ぶべきなのかもしれません…ただ、その場合その人に聞いてみたいですね、「目の不自由な人」と呼ばれたら、差別されていないと感じるのですかって。(ところで、視力に障害があるって劣っているってことなのかなあ)

放送禁止用語のもうひとつの問題は日本語を乱しているということ。「目の不自由な人」という日本語はあきらかに不自然だし、文章の中で使われるとその文章の美しさを損なってしまうと思いませんか。だけど現在この手の言葉が激増中みたい。これってひょっとしたら「抗菌ブーム」と関係あるかも!(爆) 日本中が清潔を旗印に、ばい菌を目の敵にしている今、同じ風潮で「目の不自由な人」のような一見清潔そうな造語が氾濫してしまうのかも…。「めくら」のようなばい菌は排除されてしまうのかも。

HASENOBUさん、今、ふっと思ったのだけれど、「目の不自由な人」という清潔語にわたしは何故イライラを感じるのかな。それはたぶんその言葉に中途半端な「情緒」を感じるからじゃないかな…安っぽい「センチメンタリズム」というものを。「視力障害者」と言えば中立で客観的な言葉なのに、「目の不自由な人」には何やら似非ヒューマニズムのニオイがしませんか?キモチ ワルイ… (それに比べて「裏日本」を「日本海側」と言いかえるのは賛成です。「日本海側」というのは情緒を排除した客観的な表現だから)

話は全く飛ぶのだけれど、日本語の性に関する用語に「陰」とか「恥」とかの漢字がつくことを以前ある日本語通のアメリカ人に言われ、確かにそのとおりなので文字どおり恥ずかしかったのを覚えています。日本人ってなんで言葉に変な「情緒」を混ぜてしまうんだろ… あ、すみません、大きく話がそれました(笑)

…わたしは日本を愛するあまり(爆)つい日本人を批判してしまうのです…

でも、この放送禁止用語―あるいは言葉狩りーは日本人の情緒性(?)を露呈していて興味深い問題かも!(笑)

ちょっと迷走し始めた?(笑) HASENOBUさん、次回よろしくっ!


No.4 1998年12月14日 読者のらっこさんからメールが来ました!

メールでははじめましてですね。。らっこです。。

さて、例の雪見さんのHPの企画に載せさせていただきます。。

ちなみに、同様に季節の挨拶はありません(笑)

さて「差別」というものについて。。まず今議論の焦点となっています「目の不自由な方」について。これで思い出したのが「筒井康隆」さんの断筆のきっかけとなった事件です。。
あの方の小説が一編、教科書に載ることになったのです。ところが例の「めくら」という、日本人の正義感から来るところの、倫理的にいう不適切な表現で、それを修正しろ!ということになりました。
しかし、筒井氏は断固反対といったものです。これで思ったのが、反対運動をされた方。。というのが、いわゆる普通の方。PTA等なのです。。
これって変ではないですか?
もともと差別というのは何なのでしょう?
私が思う差別というものは、ある人の弱い点、それは個人の資質等だけでなく、その置かれている立場なども含め、その点を利用しその人を馬鹿にするようなこと、だと思います。
だから、一番最初に、この話のきっかけとなった「裏日本」についてですが、もしこの言葉を使って「おまえは、裏日本にすんでるから〜」となったら差別だと思います。
ちなみに、それを使用されるほうがそれを嫌うというのについてですが、たしかにそれは差別だと思います。でも、なぜそれを嫌うのかというのは、誰かがその言葉に「劣っている」という意味をも含ませてしまったから、ではないでしょうか。
もともと名称というのは、理由があってつけられたものです。地名においては呼び名をつけておいたほうが便利だから、ということでしょう。
さて問題は、その名称というものに意味をつけてしまった事から来るのではないでしょうか。そしてそれを生み出すということこそが実は差別なのではないでしょうか? ただし、この名前をつける時点において、最初から「差別」を含めようとする言語については除きますが。

読み返してみると、なんだか良く意味のわからないものになってしまいましたが、最後にひとつ、これこそが差別ではないかな?という話を。

例えば、あるところに体の不自由な方がいます。すると周りの人は、その人が体が不自由だからといって助けてあげる。そして、助けた人は言う「ああいう人は、私たちが助けてあげなくてはならないの。」と。

確かに、助けてあげることはすばらしく良いことだと思います。しかし、その行動をするに当たっての考え、そして必要以上の特別化、まさにこれこそが差別というものを生み出しているのはないでしょうか? 「めくら」の話も、それが差別用語だから!といっている人こそが、一番差別していたりして。。

ちなみに日本はこういう傾向が強いようです。アメリカやその他の国では車椅子に乗った人が当たり前に仕事をします。

って、これ書くことがすでに差別の一歩ですね(苦笑)私は「車椅子の人」がある意味で特別の人だと思い、それはきっと今の日本人の考えでもあると思いますが<ちがかったらごめんなさい>、でもきっとアメリカでは「車椅子の人」も普通の人なのでしょう。


No.5 98年12月14日 読者の太郎さんからメールが来ました!
 ふ〜む。なかなか良い着眼点ですねぇ。雪見エライ。HASENOBUの話も、実に面白いね。

 さて、それでは、私も議論に参加しましょう。
問題の焦点は、何をもって差別と呼ぶのかということですね。
今、出ている意見は・・・。
★差別される人が、差別を意識したとき。
★差別される人が、差別の事実を主張したとき。
この二つですね。
 この問題の答えを探るには、そもそも「『差別』とは何か」という事をはっきりさせなければなりません。
広辞苑第4版によると・・・、【差別】とは「差をつけて取りあつかうこと。わけへだて。正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと。」となっています。
今、我々が焦点にしているのは、「正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと」の意味でしょう。この定義を読むと2つの条件が見えてきます。
条件(1) 正当な理由がないこと
条件(2) 劣ったものとして不当に扱うこと
この2つの条件を満たしたら、差別です。広辞苑がそう言ってます(笑)。

 さて、上記のような根拠に基づき、今回の例である「表日本&裏日本」と「山陽&山陰」が差別なのかどうか検証しましょう。
 まずは、「表日本&裏日本」から。
 表か裏かを決めるには、日本列島がどっちを向いているのかを先に決めなければならない。そもそも「表日本」とは、明治以後に近代化の進んだために付けられた名称です。近代化が進んだのは、太平洋側に港が多かったためと考えられます。港が多いと言うことは、諸外国にとって、そこが表になるわけです。これは、情緒を排除した、論理的かつ客観的な根拠と言えます。すなわち、正当な理由です。したがって、条件(1)を満たしていないので、「表日本&裏日本」は差別でない。

 次に、「山陽&山陰」を検証しよう。
 山陽とは「山の南側」という意味で、山陰とは「山の北側」いう意味です。山陽地方は、「中国地方の南部、脊梁山脈南側の区域」で、山陰地方は、「中国地方の北部、脊梁山脈北側の区域」です。「山陽&山陰」の「山」とは、脊梁山脈のことを指していて、その南(北)側だから山陰(陽)なんです。これは、論理的根拠です。正当な理由があり、条件(2)を満たしていないので、差別ではない。

 以上の検証により、2つの例は、いずれも差別でないと思います。
 蛇足ながら付け加えておくと、ここに述べているのは、「私の意見」です。「正しい意見」かどうかは、十人十色の考え方次第でしょう。

 最後に・・・。
>日本語の性に関する用語に「陰」とか「恥」とかの漢字がつくことを以前あ
>る日本語通のアメリカ人に言われ、確かにそのとおりなので文字どおり恥ず
>かしかったのを覚えています。
フーム。そうですかぁ。言われてみれば、たしかに「陰」とか「恥」とかの漢字がつくねぇ。ところで、どうして、こういう漢字がつくと恥ずかしいのかな?。

 それでは、今回はこの辺で失礼します。
(^_^)/



No.6 1998年12月17日 読者のめぐみさんからメールが来ました!

 初めて筆を取らせてもらいます。めぐみと申します。
皆様の「差別」に対するご意見興味深く読まさせてもらいました。
読み進めていくうちに、ふとある話を思い出しました。

昔、桃井かおるが「世の中、馬鹿が多くて困りません?」と呟くTVCMが有りました。このCMに対して『「馬鹿」は差別だろ!』という苦情・非難が局に多数届いたそうです。しばらくして、そのCMは構図や構成は全く前と一緒で「世の中、天才が多くて困りません?」と呟くCMに変わりました。
この素早い対処から、どうも苦情が来ることを始めから想定していて(というよりもそれを待っていて)、制作時に2パターン作っていた様です。案の定差し替えたCMには苦情は来ず、制作サイドはニンマリとしたことでしょう。

わたしはこの話を聞いたとき、日本人の差別意識を逆手に取ったその手法にを賞賛すると共にそのブラックさに薄ら寒いモノを感じてなりませんでした。つまり一連のCMに『「馬鹿」を差別とわざわざ非難する「天才」達こそ本当の馬鹿だという事に気付いてない!』という思惑が潜んでいた事にです。

わたしは全集を持っているくらいの筒井康隆ファンなので、彼の断筆宣言にはハッキリいって地団駄踏みました。彼のそこに至る顛末は割愛しますが、ここで云いたいのは、あの騒動が起こる数年前に、わたしが使った教科書にも例の作品は掲載されていて、その当時それが差別だなんて全く問題になってなかったという点です。つまりわたしが勉強していた時点においても、その差別用語(便宜上こう云います)はそこに書いて有ったにも関わらず、その時はまだ差別とは認識されてなかったのです。
これって、変な話だと思いませんか?
この話は某作家(だったっけ)が云った、「誰も見ていない森の中で木が一本倒れたとしたら、その木は本当に倒れた事になるのか?」に通じるモノが有ります。

そんな事をふまえまして、先のメールで太郎さんが差別の発生の意見を、
(1)差別される人が、差別を意識したとき。
(2)差別される人が、差別の事実を主張したとき。

の2点にまとめてくださってましたが、わたしの考えはこのどちらとも違い、差別の発生は、
(3)差別は誰かがそれを差別と感じた(云った)とき。
だと思っております。

基本的にわたしは、「めくら」だとか「つんぼ」だとか「おし」だとかの言葉が差別用語だなんてこれっぽっちも思ってません。それどころか日本の言語文化において無くてはならない素晴らしい言葉であると確信しております。本当の問題はその言葉自体に、間違った意味論を植え付けてしまった社会なのではないでしょうか。そして、上辺の言葉尻だけを捉えてどうこうしようとする怠惰的な行為が単にその問題を複雑にしてるだけではないでしょうか。

「めくら」→「目の不自由な人」のすり替えは、皆様のおっしゃる通り、直接から間接に変換することにより、オブラートに包んで隠してしまえば、問題が解決すると勘違いしている、日本人の臭い物には蓋的発想でしかありません。
結局それは自分たちの失敗をお互いうやむやにする馴れ合い、又は周りの眼を気にする小心的恐怖を本質的に内包している日本人の逃げなんだと思います。これは、現在社会で問題になっている、不良債権をとばす事によってその場をだけ何とか取り繕うとする日本の銀行の体質を例に挙げるまでもなく明らかです。

そういった日本人もしくは日本という村的社会構造を考慮せずに「これは差別だ!」とレッテルを貼る事は、単なる自己満足・自己欺瞞であり、自分が「見識者」である免罪符を求めるさもしい行為でしかなく、そこに雪見さんが云うところの似非ヒューマニズムを感じるのだと思います。

 結局、問題はそれを無意識のうちに「差別」と感じる人間の心の方に有るのであって、ついては言葉や表現を変える事によって自分の中に生じた「忌むべき物」を封じ込め安心するという偽善的態度に気付かない限り日本人の中から「差別」は無くならないし、その線引き自体が優越感に裏打ちされている事にもっと正直になるべきです。その上で初めて本当の「差別」に対する論議が始まるのではないか、とわたしは思います。

以上、私見の走り書きで、論旨がまとまっておりませんが、どうか温かい目で持ってお許し下さいませ(笑)



No.7 1998年12月17日 HASENOBU→雪見 「差別は言葉の問題なのか?」

まだ自分の意見を何にも述べていないのにどんどん議論が進んでゆくようで、焦っておりますです。

 さて、私は少々変わった人間だと自覚しておりますが「風情」が好きなので季節・時候の挨拶をしておきましょう。(笑)
 どこか春を思わせるような陽射しとは裏腹に朝晩は大分冷え込むようになりました。雪見さんはじめ、らっこさん、太郎さん、そしてこれを読んでいる読者の方々、風邪など引かぬよう御自愛下さい。
 らっこさん、太郎さん、御意見を寄せていただき有り難うございました。このような反応があると公開メール企画の当事者としては当事者冥利に尽きます。(笑) また、他の方からも私信を頂いております。この場を借りて改めてお礼申し上げます。

 で、本論に入ります。
 雪見仮説の"差別かどうかは差別される側が判断することだ"というのには基本的に同意します。「基本的に」というのは、もちろんこれ以外にも「差別」と呼ばれるものがある、という意味です。が、それについては今の段階で議論しても話が錯綜するだけでしょうから控えます。
 らっこさん、太郎さん、御意見を寄せていただき有り難うございました。このような反応があると公開メール企画の当事者としては当事者冥利に尽きます。(笑) 
 で、私は詳しいいきさつを知らないのですが、筒井氏の断筆騒動は「てんかん」にことを発していたと記憶しているのですが...。(違っていたらごめんなさい。) いずれにしても、氏の小説のとある表現が取り沙汰されたのは間違いないですね。「表現の自由」という権利と大きく関わった事柄なので、これを扱うのも二段構えくらいの姿勢が必要でしょうね〜。ということで「差別」の方をまず丁寧に考えてゆきたいと思います。
 「広辞苑第4版」を拠り所とした議論も興味深く思いました。ですが、相変わらず広辞苑は意味の分析が甘いという感じがしてなりません。第5版でも引用の語については改訂なし、でしたし...。もちろん、広辞苑の得意な分野というのはあって、それはそれで特筆すべき価値のあるものだと思いますが、私自身は、広辞苑の語義(の分析・解釈)には大きな不満を持っています。新明解国語辞典(第5版)の「差別」の4番目の項を、参考までに引用しておきます:

 優越感を味わおうとしての偏見に基づいて、自分より弱い立場にある人や何らかの不利な条件を負っている人に不当に低い待遇を強いる(侮蔑的な扱いをする)こと。

 もちろん、この定義が完全だとは思っていませんが、広辞苑よりは編者の意気込みが見られるので私は好きです。
 
 さて、広辞苑の定義から二つの条件を導かれ、その前者(正当な理由がないこと)にあてはまらない、ということから「表日本/裏日本」は差別語ではない、また「山陽/山陰」は後者の条件を満たしていないから差別語ではない、とされておりますが、私はともに前者だけで結論が出されているように思ったのですが...。
 後者の条件、これは先の雪見仮説に関連しますが、「そう呼ばれることが劣ったものとしてみなされているようで嫌だ」と言う人がいたとしたら?

 実は、私自身は「差別(用)語」って、何だろう、という所で止まっています。止まっている、と言われても困るでしょうが、もっとはっきり言うと、私は「言葉」と「差別(という事象)」は完全に切り離して考えたいと思っているので、端的に言うと、「言葉」そのものには何の責任もない、と思っています。(う〜ん、少し表現しづらいです。) 具体的に言うと「めくら」の替わりに「目の不自由な人」と言い換えても、何一つ変わらない、ということです。言葉に(問題の)責任があるわけでもないのですから。

 「盲判」はダメ? 「明き盲」も? 「目がくらむ」は? 「盲」と書いて「めくら」ではなく、今は廃れてしまった言葉「めしい」と読むのは? (ずいぶん前に読んだ長谷川きよし氏の本から引用したいのですが、行方不明です...。ちなみに長谷川きよし氏は全盲のシンガー、ギタリストです、念のため。)

 単語の成立には色んな要因や過程がありますが、原則的には自然発生的に使われ始め、それが(地理的に)広がり、定着してゆくものです。現在「差別用語」あるいは「放送禁止語」とよばれるものは、恐らく、そのように「自然発生」したものと思われます。もちろん、それなりの必然性があるからこそ生まれ、使われてきたと思われます。それを人為的に「消す」のは不自然だと思うのです。人間と同様、言葉にも誕生と消滅がありますが、人為的に「消す」のは、どこか間違っているような気がしてならないのです。急いで付け加えておきますが、私は決して「差別用語をどんどん使おう!」と主張しているのではありませんので、念のため。(こんなことを書くのは情けないことですが、ついでにもう一つ。ある人の意見を否定することはその人そのものを否定することではない、ということも御理解下さい。>読者の皆様)

 「差別」という言葉が「性差別」、「障害者差別」、「部落差別」、「人種差別」などなど、実に多くのものを指し得るんで、まずはどれか一つに絞ったほうがいいのかもしれません...。もちろん、共通して「心の問題」だというのはあるのですが...。

 ということで、今回も僅かしか自分の意見を出していませんが...。(すごすご...。)
 ま、始まったばかりだし先を急ぐ必要もないことですから...。

 じゃ、雪見さん、次、お願いね。(笑)


No.8 1998年12月18日 読者の太郎さんからメールが来ました

HASENOBUさんへ
>さて、広辞苑の定義から二つの条件を導かれ、
>その前者(正当な理由がないこと)にあてはま
>らない、ということから「表日本/裏日本」は
>差別語ではない、また「山陽/山陰」は後者の
>条件を満たしていないから差別語ではない、と
>されておりますが、私はともに前者だけで結論
>が出されているように思ったのですが...。
> 後者の条件、これは先の雪見仮説に関連しま
>すが、「そう呼ばれることが劣ったものとして
>みなされているようで嫌だ」と言う人がいたと
>したら?
 私の文章を読み返してみたんですが、論理的におかしいですね(笑)。指摘して下さってありがとう。条件(1)と書いたつもりでした。
 訂正です−−−>「山陽&山陰」のところで条件(2)を満たしていないと書きましたが、条件(1)の誤りです。数字を間違えました。お詫びと共に、訂正します。気付いた人も多いと思いますが・・・。 (^_^;)

 辞書定義を満たしているかどうかの条件は、どちらか一つを満たせば該当するというものではありません。今回の例で言うと、2つの条件を同時に満たした場合に「差別」に該当するということです。一方でも満たしていない条件が有れば、それは該当しないのです。
 さらに、もう一つ。厳密に言うと、辞書は日本語を分析する物ではありません。正しい日本語を決定する物です。たとえ巷で多用されている言葉でも、辞書に掲載されていれば正しい、掲載されていなければ、その言葉は間違いです。辞書の編纂は、巷の言葉を参考にしているので、ギャップは少ないと思いますが、ゼロではないようです。

 つまり、こういうことです。↓
貴方の使っている日本語は正しいですか?。
貴方は正しいと主張するでしょう。
しかし、何を根拠に正しいと主張しますか?。

 安心して下さい。辞書に掲載されていれば、正しい日本語だという根拠になります。このほか、文学者が正しいと言った、などが正しい日本語である根拠になります。ただ、異なった定義がありえます。
 広辞苑以外にも辞書は有ります。多くの言葉はどの辞書でも同じ定義をしています。しかし、辞書によって異なった定義をしている言葉もあります。そういう場合は、どれを正しいとするかを考えます。すなわちどの辞書が、より高い信頼性を持っているかということです。これは辞書の歴史とか編纂者の肩書とか、その他で判断します。
 万一、「辞書の定義は間違ってるぞぉ」ということならば・・・・。う〜ん、私にはどうしようもありませんね。エライ人(編纂者)たちが集まって決めることですからねぇ。次版では、改正してくれるように祈ります。
 かなり、話がそれましたね。

 それでは、話を差別の話題に戻します。
 (・'・;) エートォ...。今出ている意見は3つかな。
(1)行為の受け手が、差別を意識する。(←チョット言い換えた)
(2)行為の受け手が、差別の意識を主張する。(←言い換えた)
(3)任意の誰かが、差別を意識する。(←めぐみさん説)

 この3つかな。
 では、私の意見を・・・。

差別は、なにをもって差別と呼ぶのか。
        ↓
差別の定義を満たしていれば、それは「差別」と言える
        ↓
では、差別の定義は、何が決めるのか。
        ↓
誰が決めても良いが、正しい定義であるという根拠が必要
        ↓
辞書に掲載されていることが根拠になる。


そんなわけで今回は、HASENOBUさんが提示してくださった、新明解国語辞典(第5版)の定義を元に、差別に該当する条件を、挙げます。

『優越感を味わおうとしての偏見に基づいて、自分より弱い立場にある人や何らかの不利な条件を負っている人に不当に低い待遇を強いる(侮蔑的な扱いをする)こと。』

条件(1) 人に対して不当に低い待遇を強いる
条件(2) (1)の行為は偏見に基づいている
条件(3) (2)の偏見は優越感を味わうことが目的である
条件(4) (1)の対象者は、自分より弱い立場にある人や
    何らかの不利な条件を負っている人である。

 この(1)〜(4)の条件を全て満たしたら、差別に該当する。新明解国語辞典がそう言っている。このセリフが気に入った(笑)。

 最後にもう一つ、蛇足ながら付け加えておきます。皆さん、既に十分承知しておられると思うのですが、念のために書きます。
 「差別用語」と「差別という用語」は、意味が違います。HASENOBUさんが仰ったとおり、「差別用語」自体には何の責任もありません。しかし、「差別という用語」が何を指すのかは、明確に把握しておく必要があります。これこそが、我々のテーマなのです。



No.9 98年12月20日 雪見→HASENOBU 「めくらと目の不自由な人」

 わたしだって風情を愛する女ですが、言いたいことがたくさんあるので今回も時候の挨拶は省略します。(それに1週間くらいで時候って変わらないじゃない?)(笑)

 人間誰も皆、毒を持っています。正義のPTAおばさんだって実は大変な毒を持っているのです。(ただ自分の毒に気がつかない人って始末が悪い。)人間が創る文学ですもの、毒のない文学はありえません。もし文学を解毒してしまったら、味のないスカみたいなもんになっちゃうよね。

 言葉は人間が作り出すものです。どんな言葉にもその後ろには思想があると思います。「めくら」という言葉の裏にはある思想があり、「目の不自由な人」にも別の思想があります。つまりは言葉って人間そのものって気がするな。その時代時代に生きる、それぞれの毒を持った人間が表れていると思います。わたしは「めくら」という言葉自体がそんなに立派な美しい言葉だとは思わない。ただその後ろにある思想は少なくとも「目の不自由な人」の思想よりはマシだと思う。それから、めくらめっぽう、とかめくら判、とかいう言葉は確かに長く使われてきた言葉だし、生き生きしていて好きだから、一部の馬鹿な人たちのためにそれらの言葉が消されるのは嫌です。

 確かにHASENOBUさんが言うように、ある言葉が人為的に消されるのはおかしいと思います。その言葉の後ろにある思想が現代の思想からずれて行って、その結果自然に使われなくなる、というのならいいのですが。

 差別はいつ差別になるか。
 めぐみさんは「(3)差別は誰かがそれを差別と感じた(云った)とき。」って言ってるよね。でもわたしはしつこく「差別は差別される側がそれを差別と感じた(言った)ときに発生する」と思うの。もう一度言うけど、「山陰という言葉は差別だ」と日本人全体が声を大にして叫んだとしても、山陰に住んでる人が「別に何とも思わないよ」と言ったら、「山陰」という言葉は差別用語じゃないと思うの。

 めくらの例で言えば、PTAおばさんが「めくらは差別用語だ」といくら騒いでもめくらの人が「めくらでもオッケーだよ」と言えば、めくらは差別じゃないと思うんです。(そういう場合PTAおばさんのご立派な意見は「馬鹿のたわごと」にしか過ぎないわけです。) ただ、めくらの人がもし、「めくらを目の不自由な人と言い換えるのが不愉快だ。差別的だ」と言ったとしたら? そうしたら「目の不自由な人」という言葉が今度は差別用語になってしまうわけです。

 だから、この二つの言葉についてはめくらの人たちの意見を知りたいです。彼らが「めくらという言葉は不愉快だ。差別だ」と言うなら、残念だけど、わたしは「めくら」という言葉を使うのはやめます。(今のところ知っているのは長谷川きよしはめくらで構わないって言ってることだけ)

つまり、わたしはどうしても「差別される側」の気持ちがポイントだと思ってるんです。別の言い方をすれば、ある差別問題について、わたしは自分が差別される側でないならば、決定的な意見は言えないと思っています。最終的な判断はあくまで「差別される側」がするべきだと思っているのです。

 「ちびくろサンポ」の例はどうでしょう。
 わたし個人はちびくろサンボは可愛いと思うし、子供の頃とても好きな話でした。だけど当事者の「差別される側」である黒人が「あの話は黒人差別の現われであり、不愉快だ」と言うのであれば、黒人でないわたしはもう何も言うことができないと思うのです。わたしたちは差別する気持ちなんか全然ないんだよー、と言っても、彼らが嫌だから止めてほしいと言えば、黙って引き下がるしかないんだと思っています。だって、わたしは黒人じゃないから、黒人の痛みは想像するだけで本当にわかってはいないから。

 ただ、差別される側の人に言いたいのは(あるいは自分が差別される側となったときに心しておきたいのは)人間は毒を持つ存在なのだ、ということを忘れないでほしいということ。なんでもかんでも、ちょっと不愉快になったらすぐに「差別だ!」と騒がないでほしいのです。

 ところで、今度は「雪見自身が差別される側に立ったときの話」をしたいもんです。でも、今回は充分長くなってしまったので、次回のお楽しみ!



No.10 98年12月23日 HASENOBU→雪見  「黒人の何が問題?」

 こんにちは、雪見さん。今年ももう残すところ僅かとなりましたね。先週の日曜日には冬用のタイヤに履き替えたのに雪が降る気配は一向にありません。羹に懲りてなますを吹く状態の私の車です。(笑)
 さて、取ってつけた時候の挨拶はこれくらいにして。(笑) (あ、別に私は「雪見さんが風情を愛さない女だ」などとは言っておりませんので、そのあたりのこと、よろしく。(笑))

 この前の雪見さんの手紙を見て思ったことをまず幾つか。
 何年前だったか、カルピスのマークが変更されましたよね。それまで使っていたのは(確か)、洒落た帽子を被った黒人らしき人が小粋にストローで飲み物を飲むというのがモチーフだった記憶があります。そしてそれが、どういう理由からか一新して何の変哲もないロゴに変更されたという...。あれはなぜだったのでしょう? 何かの苦情があったのでしょうか? それを見た黒人団体(?)から、「この図柄は黒人蔑視であり、差別だ」というような苦情でもあったのでしょうか...? そのあたりのいきさつは知らないのですが。

 それから、これも私はほとんど知らないことなのですが、多分30年以上も前に、日本で「ダッコちゃん人形ブーム」というのがあったはずです。ちょうど木にしがみつくコアラのような格好をしている愛くるしい黒人の女の子のビニール製の人形で、それを腕などにしがみつかせ(?)街をさっそうと歩く若者たち、といった写真や映像を見た記憶があります。あの人形、とんと見かけませんが、もう発売されていないのでしょうか? いや、別にその人形を私が欲しくてたまらない、とかいうのではないですが。ちび黒サンボが消されたのと同じ理由でこのダッコちゃん人形も消されてしまったのでしょうか...?

 これまたよく知らないことを引き合いに出してしまうのですが、以前、手塚治虫が書いたマンガの中に出てくる黒人が問題になったこともあるはずです。これがどう決着がついたのかは存じませんけれども。

 どこで線を引けばいいのでしょう、一体? 黒人そのものを描くことが問題ではないでしょう、きっと。でもそれをデフォルメして表現したり、未開文化の代名詞のごとく使ったりするとそれは問題なのでしょうけれども、それはどこに根拠を見出せばいいのでしょう?

 「ある差別問題について、わたしは自分が差別される側でないならば、決定的な意見は言えないと思っています。」と雪見さんはおっしゃる。これは非常に謙虚な態度だと私は思います。
 でも、そうすると「自分にはこの表現によって差別する意識は全くない」という確信を抱きつつ「めくら」という言葉を使うことは、「その言葉は私にとって差別用語だから」と目の見えない人が騒ぎ立てた場合には、やはり許されないことになるのでしょうか? 長谷川きよし氏のように、その言葉を何とも思わない、むしろ使うべきだ、と言う人が特別であるかどうかはさておき、もしもめくらの人の中の一人でもめくらという言葉に嫌悪感を覚えるとしたら、それでもダメ、ということになるのかな...?
 もちろんここで考えているのはある特定の人物を指して「めくら」と呼ぶことの問題性(妥当性?)ではなく、総称としての「めくら」という言葉の使用にまつわるものです。

 思いはあちこちに飛んでゆくのですが。(笑)
 私の良く知るある人は「バカチョンカメラ」という言葉を何度となく口にしていました。たまりかねて私は彼にその語のネーミングの由来を教え、それは避けるべき言葉と言いました。が、その時まで(つまり、彼が「バカチョンカメラ」を連発していた時まで)果して彼は差別をしていたことになるのでしょうか? 彼が無知を恥じるべきだという論も成り立ちますが、私は彼が差別をしていたとは思いにくいのです。何といっても彼には「悪意がなかった」のですから。(厳密に言うと少なくとも彼の発言は「意識的な差別行為」には当たらないように思えます。けれども「たまりかねて私は〜」というのは、この言葉の成り立ちが(私の理解に間違いがなければ)極めて忌むべき根拠のない偏見に基づくものであったからです。自然発生した語ではなく、悪意を下敷きにした嫌な言葉だと私は思っていたのです、はい。)

 同様に、悪意がなく「めくら」という言葉を使うことも私には差別行為だとは思えません。ただし、「誤解される可能性がある」というのは否めませんが。むしろ、私自身は逆説的に聞こえるかとは思いますが「めくら」という言葉を使うことによって、目が見えないということは「不自由なことではないし劣っていることでもない」と考えていることを表したいとさえ思っています。(この書き方も語弊がありますけれども。)

 今、身体障害者のことについて考えていたのですが「五体満足」という言葉も差別用語になってしまうのでしょうか...? 「おし」、「つんぼ」、「めくら」、「かたわ」、「びっこ」のこれで五つなのかどうかわからないけれど、これらの語の対義語として「五体満足」という語があるのであれば、これもまた差別用語なのでしょうか...? 詰まる所、問題はやはり以前、雪見さんが触れた「視力に障害があるってことは劣っていることなの?」という所へ戻ってゆくように思われます。

 一つ一つの事柄に決着はつかないかもしれません。また最終的な結論が出るかどうかも分かりません。が、それでも議論をしてゆくこと、意見を交換してゆくことは決して無益なことではないと信じています。
 さあ、雪見さん、続いて雪見さん自身が「差別される側に立ったとき」の話をどうぞお聞かせください。

 と言いつつも、一つ言い忘れていたこと。前に雪見さんは「この放送禁止用語―あるいは言葉狩り−は日本人の情緒性(?)を露呈していて興味深い問題かも!」と書かれたましたよね。これが前に私が言っていた日本にはびこる言霊思想の具現化の一つです。言い換えてしまえば問題は解決した、って考えてしまうわけですね。(笑) めぐみさんも「臭いものには蓋」と書かれていましたが、それと発想は同じですよね。



No.11 98年12月25日 読者のぼうさんからメールが来ました!

 差別についての論議、すごいことになってますねぇ(笑)
 僕だったら、このページ全部、赤入れするでしょう。(赤入れって、校正するということです) マスコミの人間の大半は、「記者ハンドブック」という共同通信社の用語集を持っています。原稿を書くなら、当然、必要になる用語集です。
もちろん、「差別語・不快用語」についても記載されているんです。ちょっと引用ね。
「心身の状態、病気、性別、職業(職種)、身分、地位、人種、民族地域、などについて差別の観念をあらわす言葉、言い回しは使わない。基本的人権を守り、あらゆる社会的差別をなくすため努力することは、報道に携わるものの重要な責務だからである−中略−結果として、差別助長とならない心遣いが必要である」出典:「記者ハンドブック」新聞用事用語集【第8版】/共同通信社

なんだか強烈な責務を背負ってしまったようですが(笑)。こういう書き方も、ナンカ、マスコミっていやらしいよねぇ。でも、全国誌の、しかも売れる雑誌は、何十万部という読者がいます。売れていなくても、何万部という世界。それだけの読者を相手に原稿を書くということは、とても怖いことだと僕は思っています。だって、自分の書き方ひとつで、人の生死にかかわることもあるし、ほんの少しの妥協が、人を深く傷つけることもある。だから僕は「めくら」「おし」「つんぼ」「いざり」「かたわ」「気違い」なんて言葉は、原稿の中で絶対に使いません。例え使っても、校閲さんから「これダメ」って指摘されます(笑)。
 だって、考えてもみてよ(^^) いやでしょ?
 「赤ちゃんの1カ月健診では、まだめくらかどうかの判断は難しいでしょう」なんて書かれたら。
原稿としても、なんか無理してつっぱってる感じで、いい印象じゃない。即、赤入れだね(笑)
 でも何より、読む人がどう思うかが問題。相手がどう思うのかを一番に考えるのが、媒体にかかわる人間の鉄則だと思う。
 「めくらでいいよ。ぜんぜんok!」って、全世界の目が不自由な方が言うなら、使ったっていいんじゃないの? ただ、そんなことありえない。
 差別用語にもいろいろあるけれど、とても怖いこともある。怖いからちょっと書けないけど、言葉って難しくて恐ろしいなぁって思う。
 ゆきみの言ったように、相手がその言葉を聞いて「なんかムカツク〜」って思ったら、それはやっぱり、差別語・不快用語を使ったことになるんじゃないでしょーか? なんだか話がウロウロしましたが、「そっかー。世の中こんな一言に反応する人もいるのかァ」と、日々言葉と格闘しているぼうでした。


No.12 98年12月25日 読者のめぐみさんからメールが来ました!

 書きたいことを先に書かれてしまいました。(T_T)
 話題が段々広がって、どこから手を付けていいか迷ってしまいますね・・・

 えーっと、まず太郎さんが「辞書に掲載されていることが根拠になる」と書かれておりましたが、これはいかがなもんかとわたしは思います。「辞書=正しい」という図式は「有識者=博識」と同じで、単なる権威主義にしか見えないのですが、わたしの思い過ごしでしょうか。辞書に載っていなくても世間一般で頻度が高く使用されてる言葉はいくらでもあります。現実にその言葉でコミニュケーションが成り立っている以上、その言葉は正しいわけですよねぇ、これって矛盾してませんか?ですから私は辞書はあくまでも参考にしかならないと思います。

 さて、自分の論陣を再確認します。わたしは先に「差別は誰かがそれを差別と感じた(云った)とき」と書きましたが、これは概念としての差別を云いたいわけです。

 「部落」って社会的に差別として認知されてます言葉がありますね。例えば、この言葉をそこいらにいる女子高生に尋ねてみるとします。もし彼女が「知らない」と答えたと仮定したとき、「部落」はその女子高生にとっては差別用語ではないわけで、即ち彼の中には差別は存在しないわけです。

 という事はですよ、差別の発生がこういった認識だとしたら、「誰」「何時」「状況」「立場」等々の要因による発生を論理化・図式化なんて出来ないわけです。それではどのようにして「差別」と定義するのでしょうか? 多数決ですか? それともNHKで禁止したからですか? 辞書に載ってるからですか? わたしは違うと思います。

 だって、現に社会にあっても、その女子高生にとって「部落差別」はないんですもん。

 これが、わたしが「差別は誰かがそれを差別と感じた(云った)とき」説を取る理由です。(このアプローチ方法は、先にHASENOBUさんが「バカチョンカメラ」の件で使われてしまいました。云うとおり「バカチョンカメラ」は由来からして確実に、悪意や偏見を下敷きにした言葉です)
 そして、そのような差別の発生方法により、HASENOBUさんが挙げた「カルピスのマーク」(消費者からの「黒人蔑視」発言によって変更)、雪見さんが挙げた「ちびくろサンポ」(最近別題名で発行されましたが再度問題になってる)、「ダッコちゃん人形」(色を変えればOKらしい)、その他、サンリオの「たーぼー」・「ビビンバ」、アニメの「みなしごハッチ」、「巨人の星」の一部分、等々が、やり玉にあげられ姿を消されて(消して)しました。

 こういった、「問題になったからからどうこう」とか「問題にならなければセーフ」って姿勢が差別問題を曖昧模糊・羊頭狗肉なものにしているのではないでしょうか。

 以上自分の説の補足でした。




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