メールで話そう 

「心のほころび」 のつづきです。 前のページはもう読んだ?


お願い: このコーナーでは読んでくれた人からの意見や感想を待ってます。
      メールでHASENOBU、雪見の両方に同時に送ってくださいね。
      反対意見ももちろん歓迎だよ〜。 掲載されたくないという人はその旨明記しといてね。

HASENOBU、雪見へのメール(同時発信)   


No.13 1998年12月27日 雪見→HASENOBU 「オンナとオトコの位置」

 確かに…。
 ぼうのメールを読んで考えてしまいました。生まれたばかりの赤ちゃんや小さい子供のことを「めくら」と呼ぶのはあまりにつらいです。そして、そのお母さんは自分の子がそう呼ばれたらどんな気持ちがするでしょう。

 それから、ぼうの言うように大きな読者数を持つ媒体で言葉を使う責任というのもわかる気がします。(注:ぼうは赤ちゃん関係の雑誌に記事を書くライターです。)本当にこの問題は単純じゃないよね。

 「めくら」「つんぼ」「おし」等等。これらの言葉がいつ頃できた言葉か知らないけれど、きっと昔は目や耳や口の機能が劣ることが、即、生存の問題にもつながるような時代だったに違いありません。だから、それらの言葉の響きには「嘆き」とか「憐れみ」が感じられるのかも知れません。ただ、今の時代はそのような機能の障害は生活にかなりの支障はきたすものの、昔ほど深刻な生命の問題ではなくなってきているはずです。らっこさんも言うように、車椅子でしっかり仕事をする人が増えてきている国もあるし、やがては世界的にそうなるでしょう。そうなれば、かつての重い響きを持つそれらの言葉はやがて現代の感覚に合わなくなり、自然に使われなくなることもあるかも知れませんね。うーん、なんだか自分の考えも揺れてしまいます…

 まだまだこの問題を考えていきたいけれど(引き続きご意見くださいね)、今回はがらりと違うタイプの問題を取り上げたいと思います。それはわたし自身が悩んでいる問題なのです…

 みなさんは旅館に泊ることがあるでしょう? 和室に通されると、部屋にあるのは床の間、部屋の中央にテーブル、ですよね。あなたが異性の同伴者と一緒だったら、あなたは、そして同伴者はどこに座りますか? 

 わたしは(知らない人がいるかもしれないから、一応言うけど)女性です。そして配偶者は男性です。その和室に一歩踏み込むや否や、わたしはその旅行を深く後悔するのです。洋式のホテルにするんだったと。何故なら、わたしは和室のどこに座っていいか、わからないから。そして、わたしがいつものその疑問を口にするや、夫はうんざりした顔をするから。

 わたしだって全く無知な人間ではありませんから、常識的に日本という国では床の間を背にして座るのが上座であり、戸口に近い方が下座であるということぐらい知っているのです。そして、日本では何故か、男が上座に座り、女が下座に座ることが暗黙の了解となっているのです。しかし、なぜなの? 男と女はなぜ、そんな風に上下の関係になっているの? さあ、これがわたしの素朴な疑問です。誰かお答えください(笑)

 付け加えて言うと、わたしはしばしばわざと上座に座ります。夫は自分の妻が変わり者の頑固者だとよくよく承知していて、諦め顔で下座に座ります。そして、仲居さんが食事を持ってくると…一体どんな顔をすると思いますか?(笑)「この奥さんはなんて非常識な女なんだろう」とその顔には太字のゴシック体ではっきり書いてあるのです。軽はずみな仲居さんだと、その感想を思わず口にすることさえあります。

 上座、下座、わたしはどっちに座ってもいいのです。そんなこと、本当につまらない問題なのです。でも、つまらない、どうでもいいことだから、疑問に思うんです。旅館に泊る限りわたしのこの疑問は消えません。夫の嘆きも続くのです。HASENOBUさん、可哀相な雪見夫婦のためにアドバイスをください。


No.14 1999年1月6日 HASENOBU→雪見 「男性(中心)社会」の成り立ちについて思ったこと

  悩みを引きずったまま年を越し、そして悩みは解決せぬまま今日を迎えました。皆様、明けましておめでとうございます。昨年同様、かつぶし荘、くまきの部屋を御愛顧下さい。(意味不明) おっと、大家さんの雪見さんの所の宣伝を忘れた。ま、いいか。(笑) どうやら近いうちに新装開店、大出血サービス、ということになるようですし、その時に、また。

 さて、私の悩みを引き起こしたのは...、前回の締め括りの言葉、「HASENOBUさん、可哀相な雪見夫婦のためにアドバイスをください。」という一言でした...。(笑)

 一体、私に何が言えるのでしょう...? 「では、これからは御夫婦での旅行をしないか、するとしてもホテルを利用するなり、野宿するなり、といった方法で解決を。」とお答えしても頷いてくれる雪見さんではないでしょうし。(笑)

 雪見さんは「上座、下座、わたしはどっちに座ってもいいのです。」と思っていらっしゃるのだから、本当は御自身では(解決はしていないかもしれないけれど)既に答えを出しているわけですよね。だから私が今さらどうのこうの言っても始まらないのではないかと...。(笑)

 と、このことについても明確な回答は保留しておいて...。

 でも、この「性差別」というテーマについて、この10日間ほど考えていたことを書きます。それは多岐にわたってまとまりがついていないのですが。

 まず、一つは、恐らく、言ってみれば「男性(中心)社会」というものは、人類誕生以来、自然に出来上がってきたものであろうということ。私は文化人類学の知識も僅かですので、これがどの程度正しいのか、また世界中の文化の中で「男性(中心)社会」がどれくらいの比率で存在するのかは分かりません。けれども、「女性(中心)社会」、もしくは「男女が完全に平等な社会」というものは稀有ではないかと(何となく)想像します。それは私が男だからそう思いたいとかいうのではありませんし、またそうであるべきだと思っているわけでもありません、念のため。

 ただ、男女の身体的な差異、それは筋力、生殖機能(?)などのことですが、これにより、共に生きてゆくための知恵として原始時代から仕事が分業化されただろうから、という極めて素朴な根拠に発するのです。狩りをする、獲物を、時にはとても大きな獲物を持ち帰る、といった力仕事は「主に」男が担当し、その間、女性は、赤ちゃんがいれば授乳したり、また現在の「家事」と呼ばれるような作業を担っていたのではないのかと...。

 そして、社会、というか地域社会の規模が大きくなるに連れて、男達の様々な「外での仕事」が分業化され、さらに細分化され、色々な「職業」が生まれてゆく...。その過程の中で「男性(中心)社会」が成立していった。そして、同時に様々な慣習が生まれてゆく。

 と、勝手な想像を膨らませてしまいましたが。(笑) どなたか、この辺りの事情に詳しい方がいらっしゃればお話を伺いたいです、はい。

 さて、そういうことで出来上がった「男性(中心)社会」。それは起源的には自然発生したもので、その時点では「優劣」だとか「性差別」という意識はなかったのではないかと、そう思いたいです、これは。(笑)
 その意味では、「男性(中心)社会」は歴史の中で必然的に育まれてきた自然な社会と言えるかもしれません。(ここだけを捉えて騒がないでくださいね、雪見さん。(笑))

 ところが!! ここが、ポイントなのですが、そのような社会が確立して行く間に、ずるい男が自分たちに都合の良いように仕組みを変えたり「しきたり」を造ったりしたと思われます。常識不足な私は多くの実例を出せないのですが、「女人禁制」といったもののほとんどは何の根拠もない理不尽なものではないでしょうか?

 そしてもう一つ。いわゆる産業革命以降、特に肉体労働の多くが機械化され、さらに現在のような高度発展(?)した文明時代においては男女の身体的差異による役割の分担の必要性が年々弱まっていますよね? ところが、時代の要請のこのような変化に「男性(中心)社会」というシステムは存在価値(というか「存在理由」)を失っているにも関わらず、残っている。だから「現代」という面だけを切り取って眺めると、はっきり言って、かなりいびつなものになってしまっている。

 文明が発祥してからどれくらいの年月が経過したのか知らないけれど、その辺りから連綿と(?)熟成されてきたシステムが、僅か百年や二百年では変わらないように思うのです...。(あ、慌てて補足しておきますが、「変わらなくっていい」と言っているんじゃないですよ。有形無形の形で根強く残っているのだから変わりにくいだろうなぁ、ってことです。) 

 では、どうすればいいのか? となるのですが、これは次回に...。ちっとも目新しい意見ではないのですが、少しだけ期待していて下さいね、雪見さん!



突然ですが、筒井康隆の断筆についての参考情報 (1.7.99)



No.15 1999年1月11日 雪見→HASENOBU 「もう一度、和室」

 うーん、やっぱり。HASENOBUさんをしても、わたしの思いは通じないのかなあ、と今回は思ってしまいました。そう、和室における男女の上座、下座の問題です。確かにわたしは部屋のどこに座ってもどうでもいいと思ってます。でも、「どうでもいい」ということは「言われたところに大人しく座る」ということじゃないんです。どうでもいいことなのに、何故世間はこだわってわたしに決まった位置を押し付けようとするの? 「ほかの人がしているのだから、あなたも文句言わないでそうしなさい」と言われるのはHASENOBUさんも確か嫌いじゃなかったっけ?

 同じようなことだけど、以前世の中で話題になった「学校の出席簿は何故、いつも男が先か」という問題がありましたっけ。(これは何年も前に話題になったのですが、最近はどうなんでしょうか)これこそ、つまらない、どうでもいいことですよね。出席簿を男から始めても女から始めても、どうってことないんです。ほんと、つまらないことですよね。「ったく、フェミニストの連中ってのは、詰まらないことをヒステリックに騒いで。暇な連中だよ」というのが大半の男性の素直な感想だったのではないでしょうか。…でも、つまらないことなんだったら、「いつも男から」にしなくてもいいじゃない?女からの場合があってもいいじゃない?なぜ、「いつも」男なの?

 HASENOBUさん、わたしがこの「メールで話そう」の企画を思い付いた直接のきっかけはこの問題でした。つまり、こういう小さな差別、深刻な人権問題でもないような無邪気な差別、「差別」という言葉を使うことさえためらわれるようなちょっとした差別…だけど、それにどうしてもこだわってしまう自分がいる。どうもスッキリしない。そんな時、わたしはどこまで黙って我慢し、どの時点から言葉に出して「おかしい」っていうべきなのだろう。どんな風に抗議するべきなのだろう。これがわたしの初めの疑問だったのです。

 差別される側の思いはなかなか、他の人に伝わらない。これは男女差別において一番痛切に感じられることです。 数ある差別の中で、男女差別はひょっとしたら一番難しい問題かもしれません。男と女は仲良くするのが一番だし、みんな仲良くしたいと思ってる。昔はとにかく、最近の日本では女がマナジリを決して抗議すべき男女差別はだんだん少なくなりつつあります。だから、ある女たちが(決してフェミニズムの連中だけとは限らない。わたしみたいに おかしいと思ったことをおかしいと口に出してしまう単純な女たち)その疑問を口に出すと、世の中は(男もそして女も含めて)「そんな詰まらんことを騒ぐんじゃない」と冷たい目で見るわけです。(例えばセクシャル・ハラスメントの話題になるとある種の男性たちは必ず不快そうな反応をしたり、或いはそんなこと真面目に取り合う気にもならないといった冷笑を浮かべますよね。)

 男女差別の起こりについてのHASENOBUさんの説明、よくわかりますし、大筋同意します。でも、わたしの関心は「今、目の前にあるモンダイ」なんです。

 それで、HASENOBUさん、今回も同じ質問を形を変えてさせてくださいー。
 あなたが雪見とたまたまある格式のある和室に入ることになったとします。あなたは不幸なことに「雪見は和室の上座下座について疑問を持つ女だ」ということを知っているわけです。さて、あなたはどこに座りますか?「雪見さん、お好きなところに先に座ってください」というのはこの際、認めません(笑) そしたらわたしも「いえいえ、HASENOBUさんこそ、まずお座りください」と言うでしょう…。ふたりでずっと立っていますか?(笑) 次回はどうか、この単純な質問にお答えくださいね。



No.16 雪見の友人、京都在住のNさんからのメールが届きました!

 今年も元旦は嫁になってお膳につきました。これはもう、上座がどうの、差別がどうの、言ってられる世界じゃないですよ。もうちゃ〜んと子どもの席順まではっきり決まっていて、M(娘)がいとこ(義弟の息子)の隣で食べたいと希望しても、そんな非常識なことは認められませんでした。女と男では、お膳の色も形も違うし、お膳につける紋も女は実家の家紋を使うらしいよ。Mのお膳のは義父が決めたらしい。

 白味噌のお雑煮(餅、大根、小芋、頭芋が入ってる)はあまり好きじゃないけど、私は頭芋(大きなえび芋みたいなの)だけ割と好きなのです。でも、これは「カシラになれるように」という意味なので、男はたくさん食べた方がいいけど、女には食べさせたくないらしい。いつもしつこくおかわりをすすめられるので、「じゃあ頭芋を」と言うと、突然沈黙が訪れます。まったくねえ、何回やったらわかるんだよ、と向こうも思ってることでしょう。

 北海道は最高だった(食べ過ぎた)けど、この元旦でしらけちゃったよ。

(注:Nさんの夫は京都の旧家の次男。)


No.17 99年1月14日 HASENOBU→雪見 「地道な努力」

 ふぅ〜...。寒い日が続きますね〜。庭の温度計は摂氏1度。そして私の書斎(!)は、入ったときには3度でした...。ここまで寒いと警戒して風邪も引かなくなるような気がしますが、充分、御自愛下さいね、雪見さん。

 さて、雪見さんのNo.15のメール、冒頭の部分を読んで「ちょっと、ちょっと...。」と思いました。前回の私のメールでは確かに「上座・下座」についての明確な答えは出してませんが、かといって「おとなしく慣習に従ったほうが得策ですよ。」というようなことは考えていませんでしたし、またそのような含みは持たせないよう返事をしたつもりだったのです、私なりに。 
 私も上座・下座ということを男女の間で厳格に決めるなんていうのは荒唐無稽で何の根拠もない、と思っております。(だからといって、常に「上座・下座」を無視する、ということではありません。招いたものと招待客、目上の人といる場合など、これも多種多様な状況がありますが、基本的に慣習に従っているような気がします。) 
 そこで、前回改めて突きつけられた(笑)御質問、そういう状況を想定するのはかなり困難なのですが(爆)、どこに座ってもいいと思っています。入り口との距離、方角などにもこだわらないので、その時の気分次第で座ると思います。だから「で、どこなの?」と言われても困るのですが。もちろん、雪見さんが「HASENOBUが上座に座るのは嫌だ」と思われるのなら上座には座りません。(別に座りたくもないし。)
  テーブルが置いてあるならば、相対するような格好で着座したくはないです。任意の角を挟んで二人が直角になるように(...? 適切な語がありそうだけど、思い浮かびません...)座りたいと思います。真正面で人と向き合うのはあまり好きじゃないですから。(別に対人恐怖症だとかではないのですが。) 変な話をすると(笑)、そのテーブルが充分に広いのであれば、できれば並んで座るのがいいです。そしてその時には左側がいいです。(私は左利きなのでお箸を持つときに衝突するのを避けるため。) その部屋にテレビがあるのであれば、それに背を向ける位置を選ぶだろうとも思います。
 ということで、私としてはこれ以上の返事はできませんが、納得していただけましたか、雪見さん?

 さて、前回の私のメールの続きです。私は「現代」という面だけを切り取って眺めると、はっきり言って、かなりいびつなものになってしまっている、と書きましたが、もちろんこれは「現代の日本の社会は女性が不当に差別され続けている」ということです。 
 私は自分のことを取り立てて(本当の、そして、積極的な意味での)フェミニストだと思ったことはありません。むしろ自分の生まれ育った環境などを考えると「男尊女卑」のしつけを受けてきたと言ったほうがより正確かもしれません。(そのしつけが果してどの程度効力を持ったものなのかは明確ではないですけれど。) だけれども、そんな私でさえ、今の日本の社会での女性の地位というものはおかしいと思う、ということなのです。
 で、前回は「ではどうすればよいのか?」というところで終えてしまいましたが(笑)、予想される通り「現在は過渡期であるから、いわれのない差別が残っている。それは見えないところにも残っているはずだから、根気よく、より望ましい方向へ向かうよう努力し続けよう。」ということへと話は移って行きます。そして、その運動、というよりも、その作業は、地道に行われ続けるべきで、革命のような華々しいものであってはならないとも思います。じわじわと制度の中に巧妙に組み込まれてきたものだから、じわじわと追い出していったほうがいいと思うからです。
 では、当然、「その具体的な方法は?」ということになりますね。これについては、かなり理想主義的な私には、「教育の力」に拠るしかない、と言いたいです。もちろんこれは「学校教育」のことだけを言っているのではありませんし、「勉強」というような捉え方もして欲しくないのですけどね。子供の頃のしつけから始まり、学校や地域の中での教育、当人自身による自己啓発、社会人になってからも、もっと言うと死ぬまで全ての段階においての教育です。 
 人間の感情の中に「優越感」というものがあれば、それは「劣等感」や「差別する心」というものと結びついてゆくという所まではコントロールできないだろうとは思います。ですが、それでも、私は、現存するいわれのない差別は一つ一つ消してゆかねばならないと思うし、そしてそれは全ての人に課せられた任務だと思います。(私が「全て」という言葉を使うときは、かなり気合いが入ってますよ。(笑)) 一朝一夕にうまくゆくものではないでしょうし、必ず結実するという保証があるわけでもない。でも絶対に怠ってはならないことだと思います。(ちなみに私が「絶対」という言葉を使うのは余程のことですよ〜。(笑))

 まだ話の途中なのに結論めいたことを書いてしまいました。(笑) 別に、もうこれで打ち切りましょうということではありません。「名簿」についての話題もありますし。でも、今回は、もう充分長くなってしまったので、雪見さん、次、どうぞ!(笑)


No.18 1999年1月14日 読者の太郎さんからメールが来ました!

>太郎さんが「辞書に掲載されていることが根拠になる」と
>書かれておりましたが、これはいかがなもんかとわたしは
>思います。「辞書=正しい」という図式は「有識者=博識」
>と同じで、単なる権威主義にしか見えないのですが、わた
>しの思い過ごしでしょうか。辞書に載っていなくても世間
>一般で頻度が高く使用されてる言葉はいくらでもあります。
>現実にその言葉でコミニュケーションが成り立っている以
>上、その言葉は正しいわけですよねぇ、これって矛盾して
>ませんか?ですから私は辞書はあくまでも参考にしかなら
>ないと思います。

ハハハ。批判されちゃいましたか。 (^_^;)
めぐみさんの反論に対する私のほうからの主張は、一度は書いて雪見&HASENOBUさんに送ったのですが、相手の意見を否定し反論することは、当企画の運営方針に合致しないので掲載しないことにしました。
>相手の意見の異なる部分を無視しようということではない
>ので。むしろ、その違った部分を無闇に否定するのではなく、
>それも「一つの考え方」だと尊重しつつ認めるだけの余地を
>残しておきたい
(↑HASENOBU氏のメールより抜粋)

質問です。
例に出しておられる女子高生は部落という言葉を知らないから、女子高生が部落という言葉を発しても差別ではないということですよね?。では、女子高生の発言をそばで聞いた第三者が「差別の発言だ」と感じたらどうなるのですか?。あなたの説では、女子高生の行為(発言)は差別にあたりますか?。それとも、差別という行為をしていないことになりますか?。


 No.19 1999年1月16日 雪見→HASENOBU 「差別されている気楽さ」

 本当にHASENOBUさんって理想主義者なんですねえ…。教育の力、ですか…。
 教育という言葉を聞くとどうしてもおとなが学校や地域や家庭で子供を教えるということを考えてしまうのですけど。でもHASENOBUさんはおとなになってからの自己啓発も含めているわけですね。

 おとなが子供を教育する、という点ではわたしはあまり期待できないと思ってしまいます。教育する立場のおとなが差別精神のカタマリである可能性が大ですし。しかもPTAママのように自分の差別精神に気が付かない困った人も多いでしょうし。ただ、名簿だとか家庭科で扱う内容だとか、改善すれば差別をなくす効果が期待できることもあるでしょうけど。…でもわたしはやっぱりおとなによる子供の教育には期待しないな。

 おとなになってからの自己啓発は当然あるべきでしょうし、ない人って救いがたいと思う。でも、「自己啓発」なんて大仰なもんじゃないよね。自分について、人間について、まともに考える人ならば、どんな年になっても学んでいくものだと思う。(…でも、考えない人も多いのだろうな。)たぶんおとなが子供に本当に教えるべきことは、これからの長い人生のいろんな問題を自分のアタマで考えること、公式にあてはめるのでなくて自分自身の考え方を持つこと、かもしれないね。

 ところでわたしと運悪く和室でふたりっきりになったらどうするかという、考えるだけでもおぞましい問いに対する誠実な回答をありがとうございます。この件についてはまた後で蒸しかえすと思います(笑)が、今日は触れません。

 さて、ここで理想に燃えるHASENOBUさんに水を差すようなことを言ってもいいですか?(笑)

 女性に対する差別は本当になくすべきなのかしら? 
 差別される側の女性は本当に差別をなくしてほしいと思ってるのかしら?

 ごめん。だけど、ここが男女差別の難しい点だと思うんです。なぜなら、確かに企業への就職の際の不公平や一般社会での習慣となった不合理な事柄など、腹立たしい女性差別の事例は多いのだけど、一方で女であることはとても気楽なことなんです。だから多くの女はそんな2級の気楽な人生を楽しんでいるとうのです。例えば、職場で「女性に雑用をさせないでほしい。もっとマトモな仕事をさせて!」という女がいる一方で「こんなに楽で単純な仕事で給料もらって、まわりのおじさんたちからちやほやされて、女ってホントらくちんだわ〜」って思ってる女はかなりいる。「家事や子育てを妻に押し付けている夫は許せない!」って怒る妻がいる一方、「専業主婦って大好き!夫に稼がせてわたしはカルチャー教室通いできるなんて、女って得だわ!」って笑っている女は多いのです。

 職場における「女らしい素直な女性社員(しばしば男性社員から「うちのオンナのコ」と不思議な呼ばれ方をする)」、あるいは「家庭的な妻」、こういう人たちは差別をなくしたいとは思っていないでしょう。「和室で下座に座るのは変だ。もちろん上座にも座りたくない」などとブツブツつぶやくわたしのような女を一番冷たい目で見るのはこういう女たちかもしれません。

 立派そうなことを書いているわたし自身も「女だから」という隠れみのに逃げ込んで楽がしたい!と思うこともしょっちゅうです。差別される立場に甘んじている気楽さ、こういうワナもあるのです。


No.20 1999年1月16日 読者のめぐみさんからメールが来ました!

 何か話を元に戻して心苦しいのですが、太郎さんの質問について返答いたします。

 わたしは、部落という言葉を知らない女子高生には、言葉自体を知らないのだから、それを差別と概念的に結び付けられないのでは?と言いたいわけで、太郎さんの言う、「部落という言葉を発しても差別ではない」というのとは話し違います。もしそう取ってしまったのでしたら、スイマセンこちらの説明不足です。

 例えば、DVDプレーヤーってのがありますね。これをもし相対的に価値が解る人(求められる人)がみれば、それはとても画期的で興味深いものでしょうが、もとより映像技術に興味が無い人にしてみれば、そんなの欲しくもないし、どうでもいいモノなわけです。

 つまりは、こういう事です。(これはあくまでも例として引用しただけで、「どうでもいい」で片付けられる問題か否かは別問題です)

 先日友人から、「差別用語ってその人の知識量と受け取り方で変わってくると思う」と言われましたが、まさにその通りだと思います。

 結局「言葉」というモノは与える側・受け取る側によって多種多様に変化してしまうわけで、その一つを俎上に上げ「これは絶対差別だ!」と言い切る事は難しいし、全てに公平な立場の人間がいない以上、そこには既に何がしの自分なりの価値観が反映しちゃってるわけです。だとしたらそれは、単なる考えの提示しか過ぎず、それを万人が「うん、それは差別だ、けしからん!」と頷かせるのは難しいし、逆にそんな多数決やなんかで決められるものじゃないし、そんな世の中は嫌だな〜・・・とわたし的に思うわけです。


No.21 99年1月25日 HASENOBU→雪見 「ちょっとたちどまって...」

 もう大寒を迎えたというのに今日の昼間は春を思わせるような良い天気。思わず口笛を吹きたくなるような、そんな日和でした。(ちょっと意味不明かも。) その一方で風邪が流行っているとのこと。充分、お気をつけ下さい。>皆さん

 で、理想に燃えたところを雪見さんに水を差されたしまった HASENOBU です...。(笑)

 雪見さんのおっしゃること(「一方で女であることはとても気楽なこと」と考える人達が存在すること)は良く分かるような気がします。「女だから〜」という風に甘えている女性が、確かにいます。そしてそのような人達は男女が完全に対等であるような社会を望んでいないであろうということにも、残念ながら同意せざるを得ません。(笑)

 話をちょっと変えるようで悪いのですが、「差別される立場に甘んじている気楽さ」ということで、ふと、それで思いだすことが一つ。
 私の義父は元、中学校の教頭でした。一時期、彼は水俣の方の中学校に勤めていたことがあります。教科は社会科だったのですが、場所柄「水俣病」のことを調べたりしたことがあるそうです。その彼がある時、「これは、いつも生徒達に言っているんだが」と前置きをして、溜め息混じりに私に言いました。
 「世の中には狡猾な人達がいて、本当は何でもないのに、『自分は水俣病にかかっている』と偽って医者に行き、そして診断書までもらって国や県に慰謝料の請求をする者が悲しいことに後を絶たないようだ。そして補償金をせしめて遊んで暮らしているんだ...。そういう卑劣な行為は本当の水俣病患者に対しての侮辱であるということに気づいていないのだろうが...。だから水俣病患者であることの認定に際して充分なチェックが必要になってくる。つまり、本当の患者までもが認定を受けるのが難しくなってきている。難しい問題だ...。」

 恐らく、これは水俣病に限ったことではないかもしれません。「自分は被害者だ!」と声高に叫ぶことで何らかの利益に浴しようという人達は...。こういう風に表現すると誤解を招くかもしれませんが。 

 さて、性差別に話を戻します。雪見さんは「立派そうなことを書いているわたし自身も」というように御自身の中にもその意識が存在する可能性があることを率直に述べられています。(こういうところに私は雪見さんの人間的な魅力を感じるのですが。(笑)) そして正直な話、私自身、やはり「男だから〜」だとか「女だから〜」、そして、その裏返しである「男のくせに〜」や「女のくせに〜」という風に思ってしまうこともあります。(笑) ええ、これは確かに「ここが男女差別の難しい点」ですね...。頭では分かっているのに(分かっていない場合もあるかもしれないけれど)、実際の行動にはそれが徹底して反映されるとは限らない。しかも、たちの悪いことにこれは一人の個人の中でさえもそういう状況(矛盾した心境)がありうる。
 もう一つ思いだしたこと。つまらない話なのですけど。高校の教員になったあと、何度か「新規採用教員研修」というのに駆りだされました。(笑) その時にやはり「性差別」が研修のテーマになったことがありました。その時の内容は、あまりにもつまらなくって私の記憶には残っていないのですが、一つだけ憶えていることが...。それは、ある新規採用の教員が「ここで気をつけないといけないと僕が思うのは、男女の区別と差別というのは違うということです!」と研修会の席上で自信満々に発言したことです。(ちなみにその時、私は「おいおい...。ここは小学校の学級会じゃないんだよ。」と思って失笑しそうになりましたが。)
 はい、つまらない話でした。

 話を元に戻します。「女性の中に女性が差別を受けていることを逆手に取っている者がいる、もしくはそれを悪用したいと思う気持ちがある」というのが現時点での話題ですね。
 私は女性ではないので明言はできないものの、男にだって、男であることを口実に自分の都合の良い方に考えてゆく場合があると思うということを宣言(!)した上で、そのような女性がいる限り、性差別は無くなりにくい、そして、そのような女性(の心理)を糾弾できるのは女性自身ではないのか、という風に思います。
 だからこそ、雪見さんも歯がゆく思っているのでしょうが...。そのあたりのことはどうでしょう、雪見さん? もう少し、その「ワナ」について雪見さんの思っていること、考えていることを表明していただけませんか?

 あ、ちなみに出席簿の話をちょっと。現在は、小学校によっては「男女混合」で「生年月日順」になっているところもあります。また、私が非常勤で教えている大学もそうなっています。だからといって、これで雪見さんの、「なぜ、いつも男(が先)なの?」という疑問が解決された訳じゃないですけど。
 そもそも「男女」という言葉自体そうですね。(男が先になってますよね。) 英語での呼びかけ(?)は "Ladies and gentlemen!" ですが。一方で、 "Boys and girls!" というのもありますね。ま、英語の話はどうでもいいのですが。(笑)
 基本的に(?)人間の性別は二つしかないのですから、どちらかを先に、そしてどちらかを後にするしかないのでしょうけれども、その順番に深い意味はあるのでしょうか...? よく分かりません、はい。

 ああ...、教育の問題について触れる段階まで行けませんでした...。ま、前にも言いましたが、先を急がず話を進めましょうね、雪見さん。(笑)

 極めて要領の得ない文面になりました...。なぜか思いがあちこちに跳んでしまい自分でも収拾がつかないようです。そのついでに、もう一つ。以前、差別用語についての話題の頃に書いて雪見さんに送ったものの、この公開メールの中で持ち出すことを保留していた文面があります。先日、それを私のホームページであるくまきの部屋の中に掲載しました。ここでの議論と直接の関係はありませんが、少し関連したことを書いています。もし興味のある人がいらっしゃったら、「ゆきみ横丁の三毛猫」のリンクの所から飛んで行って下さい。(笑)
 では、また!!



No.22 1999年1月28日 雪見→HASENOBU 「カラスを見た日」

 今年の冬ってどうなってるんでしょう。どうして雪が降らないの?
 とても不満です…。(と、たまには天候のことにも触れてみたりして/笑)

 さて、差別されることに甘んじる安易さ。わたくしたち女の前にいつもあるワナについて語れとのこと。そういうワナを一生懸命避けたり、でも、はまってしまったり、の繰返しが実にわたくしの哀しい人生でありましたが(笑)、このコーナーでは個人的なことは書くのはやめておきましょう。「ワナにはまるまい」という気持ちと「ワナにはまっちゃえ! らくちんだから!」という気持ちがいつも心の中でせめぎあって来たわけです。そしてその勝敗結果は半々…あ、いや、後者がわずかに勝っていたかも…(爆…ためいき) 例えば、今もわたしは強い誘惑を感じているところです。「夫はなんとか二人分の生活費を稼いでいるし、わたしが無理してあくせく生活のために働くことはないのだわ」などと、朝、暖かいふとんから出る決心をするときなど、ふと思ってしまうわけです、はい。(笑)

 ところでー
 例えば身体障害者に対する差別と、女性に対する差別はかなり違う顔をしていますよね。身体障害者に対する差別の根底にあるのはきつい表現をするならば「規格外商品の人間」という考えでしょうか。そして女性に対してのそれは「<一級の存在>である男性に対して女性は<二級の存在>の人間である」という考えではないでしょうか。(人種差別の場合もそれに近いでしょうか。あるいは、<善>の人種に対して<悪>の人種という場合もあるのかも…。)

 女性に対するこの「<二級>の女は<一級>である男の脇で、協力する、仕える、慰める、存在である」という考えは一見穏やかに、社会の中に深く浸透しています。学校でも家庭でも会社でも、あ、それから旅館でも(笑)。ひょっとしたら理想を追い求めるHASENOBUさんのおうちでも…(笑) それから、ひょっとして、わたしのうちでも?!

 今日、お昼の休み時間に近くの公園を歩いていたら、カラスが二羽すごい勢いで飛んで行きました。強そうな一羽がもう一羽を追いかけていじめていたのです。それを見て、ひょっとしたら、「男が女より力が強い」ということが性差別の根源かも、と思ったりしました。動物なんて皆そうだもの。強いやつが威張って、弱いものはこそこそ陰に隠れたりしてる。人間だって、案外そんな単純な順列づけになっているのではないかしらん。

 例えば…バイアグラみたいな奇跡の薬が登場して(爆)、女性が突然チカラが強くなったらどうなるかな。女が皆バイオニック・ジェミー(古い!)みたいに強くなって、男と格闘しても負けなくなったら…差別はひょっとしたら無くなるかも…? というのは、公園を散歩しながらのわたしのつまらない妄想です、はい。(一方でHASENOBUさんが以前のメールで書いた「原始時代からの仕事の分業」が発端であるという説はたぶん正しいのだろうとは思うのですが。)

 HASENOBUさん、今日は最後にこんな話はいかがでしょう。
 わたしはよく電車に乗るのですが、都会の混んだ地下鉄の駅のホームに立っていて、電車が轟音と共にホームに入って来るとき、いつも少しだけ恐怖を感じてしまいます。実はもう何年も前に(たぶん10年以上前だと思う)読んだ新聞の三面記事の記憶が消えないのです。それはある男が駅のホームに立っていて、電車が入って来る直前に自分の前に立っていた女性を突き落とし、女性は電車にひかれて即死、という事件でした。その記事によると、男は「むしゃくしゃしていたので、女でも突き落としてやろうと思った」と警察で言ったそうです。「むしゃくしゃしていたので、石でも投げてやる」とか「むしゃくしゃしていたので、ガラスでも割ってやる」といった調子でその男は「<女でも>突き落としてやろう」と言ったのです。その男にとって(そして、ひょっとしたら他の男たちにとっても)心の奥底で女とはそういう存在なのでしょう。わたしはそういう「女」という種族のひとりなのだ、と思ってしまうのです。

 あ、ちょっと気持ちが暗くなってきました(笑)


No.23 1999年2月5日 読者のぼうさんからメールが来ました!

 ちょっと仕事に疲れたので、性差別について考えてみよっかなーって(笑) そんな安易なことでいいのか!って思うんだけど、とりあえず思うことを。

 性差別っていうのは、俺も感じたね。数ヶ月前まで勤めていた会社ってのは社員が60名くらい。内、男性社員が社長を含め5人。まさに女の園。大奥と呼んでも過言ではないね(笑) 俺はそういう中で仕事をしていたんだけど、いわゆるキャリアウーマンが男社会の中で浴びせられるであろう罵詈雑言は、ほぼ体験してるね。
 ちょっと仕事で失敗すると「だから男はダメなのよ」って陰口叩かれるし(爆)、会議でちょっと意見すると「女のツラさをどうして男のあんたが理解できるのよ」って冷笑されるし、「見本として載せるから精液を提供して(爆)」なんてセクハラまがいのことまで言われたね。じゃ、お前は自分の卵子を提供すんのかって(笑)つまり・・・なんというか、社会は幅をきかせている方が勝つっていう感じあるよね。ふつうはどこへ行っても男が幅をきかせてるよね〜。電車に乗っても「妻と子ども養ってます。大変なんだぞ〜」的なオヤジが卒塔婆みたいに突っ立ってるし、「女が男の仕事に首つっこみやがって。さっさと結婚して辞めちまえ」って心の中で毒づいてるオヤジは会社にはびこってるし。多くの働く女性ってきっと、「女ってだけで、どーしてこーなの?」って疑問にぶち当たるものなのかも知れないっすね。いま、俺はフリーになったわけだけど、男ってだけで無条件に信用されることもあって、確かにそれは感じるんだなー。やっぱ男の方が優位に立ってるのかなぁってそんなときに思うね。

 じゃ、「上座に座るか、下座に座るか」みたいな問題はっていうと、そういうのって、いまの子知ってんのかなぁ(笑)って感じがしなくもない。コレ、変な意味にとんないでね、ゆきみさん(^^)。知らなきゃ、そんな疑問感じずに済むもんねぇ。
 この「上座、下座」問題ってさぁ、なんかとても外見的な問題のような気がする。内面的な「男だから、女だから」「男らしさ、女らしさ」っていう概念は拭えないし、それは体の機能を男女一緒にしなきゃありえないように思うんだけど、外見的な、なんというか客観的な「男だから、女だから」みたいなのは、気にしなくてもいい時代になってきたのかなって。だって、女だってどんどんおでん屋に入って、ポン酒かっくらってるし、男だってスカート履いたり化粧したりしてんじゃん(笑)たかのユリ??だっけ? あのエステも男性エステをスタートさせたし、鈴木その子の事務所の男性社員は顔真っ白く塗ってたよ(爆)
 なんか、そういう外見的なことって、気にする必要ない気がするなぁ。気にするなでは済まないのかもしんないけど、時代がそうなってきてるのは感じるよね。例えば、例えばの話だけど、あるカップルがドライブに行きました。彼は助手席で作ってきたお弁当を広げて彼女の口に入れてあげて(笑)、女の子はそれをむさぼりながら運転してたとします。ちょっと異様(爆)。だけどさ、お互いがそれでいいなら、それもアリなんじゃないの?好きなことを好きなようにすればいいかなぁって、ちょっと柔軟すぎかな??(爆) でも、俺はそう思うね。
 会社組織の問題もさぁ、「夫だけど主婦やりてぇぇ」みたいなのが、たくさん出没すると変わるんだろうなー。「男は仕事、女は家庭」ってのはやめてさ、好きな方を選べるようになると変わる気がするなぁ。それには、何千年も前から受け継がれてきた「男は狩りに出て、女はメシを作る」っていう概念の呪縛から解き放たれなきゃなんないんだろうけど、そんな日は来るのだろうか??疑問だ〜。
 まぁ、どんな時代であろうと、俺としては、好きに生きることが最も大切だと思うわけさ。
 だからゆきみ、今度、和室の部屋に泊まるときは、上座に座ろう!(笑) 「こっちに座りたいの! 誰がなんて言ってもこっちなのっ!」って。ダメかな? もしくは、そのときの流れで決める。旦那さんが先に部屋に入って、なんとなく上座に座ったら、それはそれでいいし、ゆきみが先に部屋に入って上座に着いてもよし! これって、結局「気にすんな」って結論になっちゃうな〜。難しい〜!!あからさまな女性差別を受けたなら別問題だけど、どちらでもいいことなら、自分のスタンスを貫く態度ってぇのが、かっちょいいかなーって思います(^^)
めっちゃ話が迷走してるぅぅ〜!(笑) 俺の頭ではこんなことしか言えないのだ、許してくれぇぇ、ゆきみ!(^^)

No.24 1999年2月13日 読者の太郎さんからメールが来ました!
>わたしは、部落という言葉を知らない女子高生には、言
>葉自体を知らないのだから、それを差別と概念的に結び
>付けられないのでは?と言いたい
では、この女子高生は勉強して言葉を知るべきだということですか?。たとえば、侮蔑的な表現を相手に対して公然と言った場合、侮辱罪に問われます。知らなかったで済ませますか?。
 それと、もう一つ聞きたいのは、「概念的に結びつけられない」とは、どういう意味ですか?。

 DVDプレーヤーの例でも述べられているように、めぐみさんの説では、知っているか知らないかがポイントなんですね。しかし、めぐみさんは、差別の発生を論理化・図式化することはできないと仰っています。これは矛盾しませんか?。そもそも、当企画は、何をもって差別と呼ぶのかを論理的に話し合うための場です。差別の発生を論理的に分析することで、自分自身の行為が糾弾されるという不測の事態を避けることができます。
 ただ、「論理的に定義することは不可能である」というのも立派な一つの意見です。しかし、それを述べた後で、どうして自説を論理的に展開していらっしゃるのですか?。

>結局「言葉」というモノは与える側・受け取る側によって
>多種多様に変化してしまう
そういうことも、もちろん有り得ます。それは、曲解に至るまでのプロセスです。そうならないように、言葉を正しく使うという共通ルールが存在しているのです。曲解を完全に避けることは難しいですが、共通ルールに従うことで、できるだけ曲解の発生を防ごうというわけです。

>全てに公平な立場の人間がいない以上、そこには既に何
>がしの自分なりの価値観が反映しちゃってるわけです。
>だとしたらそれは、単なる考えの提示しか過ぎず、それ
>を万人が「うん、それは差別だ、けしからん!」と頷か
>せるのは難しいし、逆にそんな多数決やなんかで決めら
>れるものじゃないし、そんな世の中は嫌だな〜・・・と
>わたし的に思うわけです。
 嫌かもしれませんが、それが現実ですから、しかたないですよ。そういう世の中なんです。
 ところで、「差別を受けた」とか「いや、差別行為はしていない」と、争いになったら、どうなるのでしょう。当該行為によって被った精神的苦痛に対する損害賠償請求を受けた場合は、どうなるでしょう。もちろん、「私の行為は差別ではない」と主張するでしょう。相手が「そうですか、差別じゃなかったんですか。それなら良いんです」などと了解してくれれば問題にはならないでしょう。しかし、了解しない場合は?。
 「全てに公平な立場の人間がいない」と、あなたは仰っていますが、そんなことはありません。ちゃんと公平な人間がいます。裁判官です。このような争いになった場合は、裁判で決着を付けることになります。当然のことですが、判決を下す人は「公平な立場の人間」です。
 そして、ご存じのように判例という物は、今後の判断材料として利用されるのです。それは確かに「一つの考えの提示」ですが、それ以降は万人に対する基準として適用されるのです。
 めぐみさんの例示によると、
『現に社会にあっても、その女子高生にとって「部落差別」はない』
と仰ってましたね。しかし、その女子高生も社会の一員である以上、社会のルールに縛られます。「自分にとって、それは差別ではない」と主張しても、それは認められません。「社会にあっても、その人にはない」という事は、その人は社会のルールから解放されているということです。



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