メールで話そう 

「心のほころび」 のつづきです。 最初のページ前のページはもう読んだ?


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      メールでHASENOBU、雪見の両方に同時に送ってくださいね。
      反対意見ももちろん歓迎だよ〜。 掲載されたくないという人はその旨明記しといてね。

HASENOBU、雪見へのメール(同時発信)   




No.25 1999年2月21日 HASENOBU→雪見 「本当に立ち止まってしまった...(^_^;」

 2月の初めにはこちら(広島)では大雪が降り、私の住んでいるところでは20センチ強の積雪。そしてその2週間後には最高気温16度近くという4月並みの陽気。そして今日はまた雪がちらついています...。雪見さん、風邪など引かぬよう御自愛下さい。

 なんだかんだと忙しい時期が過ぎ、やっと返事を書くだけの精神的・時間的なゆとりができました。長い間停滞してしまいすみませんでした。
 ってことで、本題に入ります。まず、No.21の雪見さんの文面。「ひょっとしたら、『男が女より力が強い』ということが性差別の根源かも、と思ったりしました。」とのことですが、私が以前に書いたのはそのことです。そしてそれから「仕事の分業」が進み社会がより組織化して高度に複雑になるにつれ、そこに「いわれのない性差別やしきたり」が巧妙にはめ込まれていった、というのが私が考えていたことです。(「バイオニック・ジェミー」というのは私は知りませんが(笑)、きっとテレビドラマか映画のヒロインなのでしょうね。)

 「最後にこんな話はいかが」と切り出して提示して下さった気の滅入る話についてですが。頷ける話です。って、私もその男に共感するという意味ではなく、そういうことはありうることだろう、ということです。確かに気持ちが暗くなる話ですね。

 人間に性別がある、ということ、これは動かせない事実ですよね。そして、当たり前なんだけれど、女性も男性も、同じ「人間」ということも。(何を今さら...。(爆))
 ですが、「男女平等」ということが叫ばれ始めたときに、「何でも同等。同じにする」というのは変ですよね。性差を無視して全て平等、というのは新たな差別に繋がりますよね。(前に書いた研修会の「自信満々君」と同レベルのことを今、私は言っていますが...。(爆))

 「わたしが無理してあくせく生活のために働くことはないのだわ」と時に思う雪見さんの気持ちを責めることはもちろんできません。(笑) 私のテニス仲間(?)である女性達もきっとそうでしょうし、そして、彼女達は彼女達で「分業」としての「家事」を一生懸命にやっていることでしょうし。

 以前に雪見さんは「でもわたしはやっぱりおとなによる子供の教育には期待しない」とも述べられていましたが、それでもやっぱり私は期待したいです。というか、それ以外に方法があるのでしょうか? (「おとなによる」という部分には重きを置かなくっていいのですけれども。)
 私は昭和初期や、もっと前の時代の社会における女性の立場というものを良く知りません。もちろん、学校で習った「参政権」などのことは知っていますが、日常のくらしの中に潜んでいた様々な差別についてはあまり存じません。が、それらと較べて現在の社会はどうなのでしょう? 「男は外で仕事、女は家にこもって家庭を守る」という従来のパターンを完全に踏襲している比率はかなり下がってきているんではないでしょうか? 核家族の増加、様々な生活様式の変化、多くの事象が従来のパターンを減らす方向に向かっているように思えるのですが...。
 私が前に「過渡期」という言葉を使ったのはこういう意味です。が、だからと言って「こういう方向に社会の流れが向かっているから気にしなくっていいよ。放っておけば性差別なんか自然になくなるよ。」と言っているのではありません。少しでもその流れが加速するように努力を怠ってはならないわけです。そして雪見さんのように問題意識を持つ人がどんどん発言を続けて行かねばならないのです。

 さて、No.23のぼうさんの文面。「好きなことを好きなようにすればいいかなぁって、ちょっと柔軟すぎかな??」ということ、多分そうなってゆくんじゃないですか。(笑)
 一時期「アッシー」だとかなんか良く知らないけれど、その類の言葉が流行りましたね。(定着したのかどうかは知らないけれど。) 最近の若い女性を見ていて、私も同じようなことを感じます。「この子達、完全に男を操っているなぁ...。」と。
 「そんな日は来るのだろうか??疑問だ〜。」については、いずれそうなって行くとしか思えません。完全に、かどうかは分からないけれど、それが「不自然である」と感じられなくなる時代はもうすぐそこまで来ているようにも思います。

 続いて、No.24の太郎さんの文面。
 これはめぐみさんに対しての質問ですが、長期間話を滞らせた罰として私に答えさせて下さい。答えられるものだけですけれど。(笑)

> 「概念的に結びつけられない」とは、どういう意味ですか?

二通り考えられそうですが、その女子高校生は「全く差別だとは思っていなかった」ということ、あるいは、それを耳にした人が「それは差別ではないのか?」と騒ぐこと、だと思います。

>どうして自説を論理的に展開していらっしゃるのですか?

(差別を)「論理的に定義することは不可能である」ということと、自説を展開することとの間には関係がないからだと思います。

>そういうことも、もちろん有り得ます。それは、曲解に至るまでのプロセスです。

「曲解」が普通の意味として受け入れられるほど蔓延していたとしたら? それはもはや「曲解」ではなくなりますよね。では、何をもって「曲解」であるのかないのかを決めるのか? その「程度の問題」のことをめぐみさんは示唆されているのだと思います。

>ちゃんと公平な人間がいます。裁判官です。

裁判官は「公平であろうと常に努める(べき)人」であって、「公平な立場の人間」ではないと思います。
(でも、それ以前に、ここで法や裁判の話を持ち出すのは変な話のような気がします、はい。念のために補足しておくと、ここで話し合いたいのは「人間の内面の問題」であって法的な決着に頼るような問題ではないので。雪見さんが例示された「ホームから女性を突き落とした男」はきっと殺人罪に問われたことでしょうが、その裁判の中で、その男の動機の「女でも」という部分が問題になって、「女性蔑視の社会は間違っている。男女平等の社会を作らねばならない」という判決が出たとは思えませんが。そして仮に出ていたとしてもそのことによって「万人に対する基準として適用される」ことになったとも思えません。)

 ...。かなり長くなった...。だけれど、その割には目新しいことは...。(爆)
 あ、怒らないで下さい、雪見さん。(笑) 「もう慣れた」のでしょう?(爆)

 私が(不本意ながら)沈黙を保っていた(笑)間に考えられたことがあると思います。また、「おとなによる教育には期待しない」のであれば、他にどうすれば良いとお考えなのかもお聞かせ下さい。どうぞ、お願いします、雪見さん。(笑)

 では、また!!


No.26 1999年3月1日 雪見→HASENOBU 「日本文化」

 HASENOBUさん、春はもうすぐそこみたいですねぇ。4月になれば新生活が始まる人も多いでしょう。このコーナーは確か12月に始めましたが、なんともうすぐ半年になるわけですねぇ。(よくわからないけど、しみじみ…)

 ところで女性に対する差別の問題はこのコーナーでHASENOBUさんと話し合うのは少し難しいかもしれないと思い始めています。なぜならわたし自身がこの問題では当事者なわけだけれど、自分の「女性であるが故の悩み」をここで切々と訴える気もないですし、またHASENOBUさんもわたしに対して(例えば)「雪見さん、そういう態度は甘えですよ」などということは思っていても書けないでしょうから。(逆の立場なら、雪見は書くでしょうけど(爆))

 (例えば、前回のメールで雪見やテニス仲間のおばさまたちに対する心優しいコメントをいただきましたが、わたしは納得できません(爆)。だって、同じことをいいトシの男がやっていたとしてもあなたは同じように優しく「わかりますよ〜。家事を分業してやってるんだから、いいんじゃないですか〜」と言うでしょうか。女なんだからそういう生活してもいいんじゃないの?という考えをされるとわたしは「差別された」と感じてしまうのです。)

 それから、ずーっと前にもらっていて返事が書けなかったぼうのメール(No.23)について。あれを読むとなんだか不思議に明るい気持ちになってきました。本当に世の中はすこ〜しずつではあるけれどよくなってきているのだと思いたいです。だけれど、ひとつ言いたいことは、そうやって男は上座、女は下座という習慣を崩すということは、実は日本文化を崩すことだ、ということです。そういう覚悟をわたしたちは持てるのでしょうか。HASENOBUさんはそういう覚悟を持って和室で女性と90度の角度で、あるいは並んで座ったりするつもりなのでしょうか。(こういう座り方は日本文化的には噴飯ものですよね!)

 みなさん、京都にたまに旅行に行って、お寺や古い家並みを見て「ああ、いいなあ。ニッポンだなあ」って思うでしょ?「日本文化ってシットリしてていいなあ」とか「和服の女の人っていいなあ。大和撫子だなあ(笑)」とか、行きずりの旅行者として思いますよね?でも、みんなの大好きなその「日本文化」というやつは「男が上、女は下」という確固たる基本的差別の上に成り立つものではないでしょうか。(No.16のメールをもう一度読んでみてね) もし本当に男女差別をなくそうとするのなら、わたしたちの美しい日本文化を壊してしまうかもしれない、という覚悟を持たなくてはならないのでは?

 例えば、日本語です。
 話し言葉では自分の配偶者を「主人」「家内」と呼び、相手の配偶者のことは「ご主人」「奥様」と呼ぶのが世間的に最も受容された、聞いて違和感のない日本語ですよね?ところがそれが嫌いなヘソ曲がりも世の中にはいて(笑)わたしは自分の配偶者を「夫」と呼び、彼はわたしのことを「妻」と呼ぼうとしています(かなり、苦しそうだけど)。この「夫」「妻」という言葉は話し言葉としては、全くこなれておらず、話す度、聞く度に大変な違和感を覚えます。(聞いて吹き出した人もいました。それも若い人)でも、がんばって使いつづけていくつもりです。そのうち少しずつ世の中に受容されるんじゃないかと期待して…。ところが相手の配偶者を示す言葉についてはもうお手上げです。本当は嫌いな「ご主人」「奥様」という言葉を使わざるを得ません。代わりになる言葉があればいいのですが。

 言葉は文化ですよね。差別をなくそうとすると、わたしたちはこんな風に麗しい日本語を崩していってしまうことになるのです。世の心有るひとたち(?)はきっと眉をひそめていることでしょう…。

 最後に教育について、ですねー。
 教育について話す前にHASENOBUさんに改めてお聞きしたいことがあります。

    ”人を差別することは何故いけないことなのか”

 (いまどきの子供は「人を殺すのはなんでいけないことなの?」)とあっけらかんと聞いて大人はどう答えるべきか真剣に悩んだりするらしいけれど)
 ちょっとこの基本的な素朴な疑問に対する答えを考えてみませんか?

 じゃ、またね。



No.27  1999年3月3日 読者のLLさんからメールが来ました!

はじめまして
LLです
そんなものなくなるわけがない
なくなると本気で考えているやつがいればただの
理想家にすぎない
現実はそんなにあまいものではないとおもう
そういう人生観はひとから教えてもらうのではなく
自分で学び取るしかないのでは
差別についてはきっと同じ立場にならなければ
わからないとおもう
今20になっていきなり価値観をかえて人をみるのは
難しい
身体障害者をみて同情心しか生まれてこない
そんな世の中で信用のおけない教師から差別について
おそわったとしてもそれは何の意味ももたない
なぜなら教師=偽善者という考えしか今の若い
世代には生まれてこないからだ



No.28 1999年3月7日 HASENOBU→雪見 「それは日本文化?」

 さてさて...。(と、いきなり揉み手をしているような調子で登場してみました。(笑))
 異常気象という言葉も聞き慣れてしまい、何が「異常」であるのかが判らなくなってきたような気がしますね。だけれども、確かに、だんだん春へと向かっているのは間違いないことで、木々の枯れてしまったかのような枝にも確かに春が一歩一歩近づいて来るのが見て取れる今日この頃です。

 今回は引用形式で話を進めて行くことをどうぞ御了解下さい。そうしないと進めにくいので。
 まずは、雪見さんのNo.26から。

>例えば、前回のメールで雪見やテニス仲間のおばさまたちに対する心優しいコメントを
>いただきましたが、わたしは納得できません(爆)。

あぁ、そうですか。(笑)

>だって、同じことをいいトシの男がやっていたとしてもあなたは同じように優しく
>「わかりますよ〜。家事を分業してやってるんだから、いいんじゃないですか〜」
>と言うでしょうか。

は...? どうしたのでしょう、雪見さん? 自明なことを尋ねられてますね...。もちろん、言いますよ。

>女なんだからそういう生活してもいいんじゃないの?という考えをされるとわたしは
>「差別された」と感じてしまうのです。

いや、「女なんだから」ということは言ったつもりがないのですけれど...?(笑) 繰り返し言っているように、分業をしていて、そしてそれぞれがやるべきことをやっていれば後はテニスをしようが、一日、海を見つめていようが(笑)、構わないと思いますけれど...?

 それよりも「同じことをいいトシの男がやっていたとしても」というところに私は思いっきり引っ掛かってしまったのですが...。「いいトシ」というのがどのくらいの年齢のことであるのかはさておき。その発想が女性差別を(間接的にだけれど)助長していると思いませんか?(*1)ここが「性差別」という問題の難しいところではないのでしょうか?(即ち、女性自身が気づかぬうちに自らを間接的に貶めている、という...。)

>本当に世の中はすこ〜しずつではあるけれどよくなってきているのだと思いたいです。

ええ。それは、間違いのないことだと思いますよ。(だから「安心していい。大丈夫。」ということにはなりませんけれど、前にも言ったように。)

>だけれど、ひとつ言いたいことは、そうやって男は上座、女は下座という習慣を崩すと
>いうことは、実は日本文化を崩すことだ、ということです。そういう覚悟をわたしたち
>は持てるのでしょうか。HASENOBUさんはそういう覚悟を持って和室で女性と90度
>の角度で、あるいは並んで座ったりするつもりなのでしょうか。(こういう座り方は日
>本文化的には噴飯ものですよね!)

はぁ...。「噴飯もの」だとは知りませんでした。(爆) きっと「日本文化にそぐわないもの」だろうとは思ってましたが。(笑)
 ですから、「そういう覚悟を持って?」と問われると「そうです。」とは言えません。(だって覚悟していなかったのだから...。)
 でも、今は、大丈夫。(笑) そうです。そんなことで崩れるような「日本文化」なら私には不要です。

>もし本当に男女差別をなくそうとするのなら、わたしたちの美しい日本文化を壊してし
>まうかもしれない、という覚悟を持たなくてはならないのでは?

それで崩れてしまうのであれば「美しい」文化ではなかったということでしょう。いいんじゃないですか、そんなの崩れても?(*2)

>でも、みんなの大好きなその「日本文化」というやつは「男が上、女は下」という確固たる
>基本的差別の上に成り立つものではないでしょうか。

そうでしょうか...? 良く分かりません...。確かに、「男が上、女は下」というのは日本の文化の「確固たる基本的差別」なのかもしれませんが、日本文化全体がその「上に成り立つ」ほどのもののようには思えませんけれども...。(もちろん、それ(「男が上、女は下」)がかなりの範囲で蔓延していたとは思います、はい。)

>言葉は文化ですよね。差別をなくそうとすると、わたしたちはこんな風に麗しい日本語
>を崩していってしまうことになるのです。世の心有るひとたち(?)はきっと眉をひそ
>めていることでしょう…。

...。ここで「こんな風に」というのは、女性が自分や話相手の配偶者を「御主人」と呼び、男性が自分や話相手の妻を「奥様(奥さん)」と呼ぶ、ということですよね...? そういう呼び方は「麗しい日本語」なのですか?(*3)

>最後に教育について、ですねー。
>教育について話す前にHASENOBUさんに改めてお聞きしたいことがあります。
>    ”人を差別することは何故いけないことなのか”
>ちょっとこの基本的な素朴な疑問に対する答えを考えてみませんか?

この基本的で素朴な疑問に対する答えは、私なりに、あります。(笑)
 が、私は、自分の答え(つまらない答えです、はい)を提示する前に、雪見さんには、今回私が問い掛けた疑問(*1〜3)に対して答えてもらいたいです。(笑)
 もちろん、雪見さんの返答次第で私の返答が変わるということはないのですが、今、答えるのは、何となく、「しゃく」な気がします。(爆)

 続いてLLさんの文面について。

>そんなものなくなるわけがない
>なくなると本気で考えているやつがいればただの
>理想家にすぎない
>現実はそんなにあまいものではないとおもう

そうです。だから理想家なのです。(笑)

>そういう人生観はひとから教えてもらうのではなく自分で学び取るしかないのでは

そうです。だから自分で考えて行って欲しいのです。(私も、そして、雪見さんもそう願っているのです。) 私の言う「教育」というのは必ずしも「答えを教えること」と等価ではありません。

>差別についてはきっと同じ立場にならなければわからないとおもう

はい、これも同感です。でも、「同じ立場」になれないのだとしても「じゃあ、知らない。分からない。」で済ませて良いのでしょうか?
 もっと言うと、「寝た子を起こすな」ということで何も知らないままでいい、ということでしょう
か?(そんなことはないでしょうけれども。)

>今20になっていきなり価値観をかえて人をみるのは難しい

でしょうね〜。急激なものであれば不可能でしょう。けれど、少しずつ、少しずつ、変えてゆくのは難しくないのでは?

>身体障害者をみて同情心しか生まれてこない

「同情心」が生まれてくるだけでもまだましじゃないですか? そこまで行き着かない人がどうやら、出ているようですよ。

>そんな世の中で信用のおけない教師から差別についておそわったとしてもそれは何の意味ももたない

でしょう。教わるものではないですから。(私の言っている「教育」はそんなに狭いものではないです、はい。)

>なぜなら教師=偽善者という考えしか今の若い世代には生まれてこないからだ

これも、同感です。(爆)
 ただ、くどいようですが、「教師」=「学校の先生」ではないですからね。庭の石ころだって教師であり得るし、包丁だって教師であり得る。(何を学ぶかはその人次第。) そして、一番の教師は自分の親でしょうね。たとえそれが反面教師であったとしても。

 あはは...。また「理想家」と言われそうです。(笑)

 でも、LLさん、ありがとうございます。あなたのような「生の声」が私にはとても嬉しいです。

 では、また!


No.29  1999年3月9日 読者のLLさんからメールが来ました!

こんにちわ
LLです
あなたたちのような考え方もあるかも知れませんね
そのような見方もあると思います
私は大学の日本史の講義のなかでこういうものがありました
第二次世界大戦における日本軍のこうどうについて
というものです
このなかで一般的に日本はひどいことしかしてきていないように
思われているが実際には日本のこの戦争の中の役割は
大きなものであった
日本の行動によって東南アジアの国々はヨーロッパ諸国
から独立することができた
また、戦後、インドから勲章をもらった日本人もいるくらいです
アジア諸国の中には親日的な国がたくさんあるということもしった
物事には違う角度からみるとまったくちがうものになる
日本のとった行動は正当かできるものでわないが
だけど、違うこともしている
と、いうような内容だった
私もこれをきいて人生の考え方がすこしかわった
ようなきがする
物事を安易な情報やかたよった見方から見てはいけないということがこれでよくわかったきがする
あなたがたのいうような社会がくればいいが
やはり無理だと思う。
とくに、われわれ若い世代にはそんなことを真剣に
考えているやつのほうが敬遠される。偽善者として
みなされる。私自身もそうおもう。
私は理想家がだめだとはいわない。それはそれでいいとこもある
しかし、やはり私は理想家にはなれないと思う。
PS、なぜ高校や中学では真実の日本史をおしえないんだろう?
史実は教科書とわぜんぜんとまでわいわないが違うものだった
あまりにも一方的な見方しかしていないと思うんだが。
またきかいがあればホームページによらしてもらいます
でわ。



No.30 1999年3月11日 雪見→HASENOBU 「差別はなぜいけないの?」

HASENOBUさん、いきのいいメールをありがとう。なんだかここのコーナーでは、あなたがいい人過ぎる気がして(!)少し気になっていたのですが、今回のメールはいつものHASENOBUさんらしくてよかったです〜(笑)。つまり、ちょっと偏屈気味で…(爆)。

早速お答えします。

(1) ちょっと誤解されたでしょうか。「いいトシをした男」という世間一般に通用している差別的表現をあそこでわざと使ってみました。個人的にはいいトシをした男、いいトシをした女、どちらでもフルに働いていない人を見るとわたしはイラつくのです。これはわたしがそう思うというだけで、人に考えを押し付ける気はありません。(一種の脅迫観念のようなものかもしれない)。男も女も未婚でも既婚でも、大人になったらちゃんと働かなくてはならない、とわたしは思っているのです。テニス教室の後、 喫茶店で長々とおしゃべり、それからウィンドーショッピング、手抜きの 夕食作り、の奥様たちを見ると「あんたら、ちゃんと働けよなー」と 思ってしまうのです。(分業して主婦業? それがかなり楽なものである ことをわたしは知っています。楽だっていいじゃないって? わたしは 嫌なんです、はい) ついでに言うなら、両方が働いて「収入」を得ていることは共に暮らしている男女のカップルにとっては重要なことだと考えます。どちらか一方に収入がないとそのカップルの関係はフェアになりにくいと思うから。
 さて、HASENOBUさんは相手が男でも女でも同じことを言うとのこと、結構ですね。その言葉、額面どおりに受け取ります。

(2) 文化とか伝統とか、一部自分達にとって都合が悪いところ(例えば和室で男女がどう座るか)とちょこっと直したからといって、全体はそうそう簡単には崩せない。それに崩していいものか、どのように崩したらいいか、更には 崩したいのかどうかも、わたしにはわかりません…。ごめんなさい、この件は自分でもまだ上手く説明できないですね。もうちょっと考えてみます…。

(3) フランス人が「フランス語は美しい」と、ドイツ人が「ドイツ語は美しい」と自慢するようにわたしは日本語は美しい言葉だと思っています。だからその美しい言葉の調和を乱す言葉使いが嫌いなのです。たとえ正当な理由があって、新しい用語を使い始めようとしていても。「夫」「妻」はやがて受け入れられるようになってほしい。だけど今の所、これらの単語は(話し言葉として使われたとき)日本語全体の調子を乱しその美しさを損なっていると思います。逆にご主人、奥様の言葉は嫌いだけれど、日本語に自然に溶け込んでいて調和している状態です…。 思うのですが、将来「夫」「妻」の言葉が話し言葉として自然に聞こえる日が来た時、きっとわたしたちの考え方も変化し、他のいろんな言葉もそれに伴って変化していっていることでしょう。(例えば「目の不自由な人」という言葉はなくなっていてほしい、と個人的には期待しますが…。)

 あのー、かなり長くなってしまいました。でも「しゃくだから自分から先に言いたくない」とごねているHASENOBUさんのために、がんばって「なぜ差別はいけないことなのか」のお話を始めてみましょう。

 人を精神的に痛めつける効果的な方法って何でしょう…。肉体的に痛めつけるのはナイフで刺す、毒を盛る、首をしめる、バットで殴る、などなど、無数の方法が思い浮かびます。人を精神的に痛めつけ、一生立ち直れないくらいにするには…わたしが思いつく方法は「その人の自尊心を深く傷つけること」です。これは薄っぺらなプライドの問題ではないのです。人間が人間らしく生きられるのはそれぞれの人が実は(意識していないにしても)自尊心を持っているからだとわたしは思うんです。「自分はプライドなんてない人間だから〜」とへらへらしている人でさえ。自尊心って精神の背骨みたいなものかも、と思うんです。

 ベトナム戦争のとき、アメリカ軍が自国の兵士に徹底的にベトナム人を憎む心を植え付けるために、訓練中にベトナム人協力者によるありとあらゆる精神的虐待を行い、その兵士から人間としての自尊心を奪ったと聞きました。その結果その兵士は精神的に壊れてしまい、後はベトナム人を憎む気持ちと肉体だけが残って戦争の兵器になってしまったのだそうです。痛ましい話だと思います。

 人から差別を受けた人が「自分は気にしない」と強がっても、やっぱりその人の自尊心は傷ついてしまうのではないでしょうか。わたしたちは誰も他人をそんな風に傷つける権利はないのです。自分も他人も、人間の一生はたった一度きりで、やり直すことができません。この「人生が一回きりであること」は差別だけでなく、人間の心のあらゆる問題を考えるとき忘れてはならないことだと思うんです。だから、他人の生を尊重しなければならない、と思うんです。

 最後にLLさんへ。
 「真実の日本史」「史実」とは何なのでしょう。先の戦争のことだけでなく、歴史のどんな部分だって、何が真実なのか、誰が決めるんでしょう。あるアジアの国が「親日的」かどうか、どうやって決めるんでしょう。同じ国でも地方やら階層やら年代やらで考えも違っているでしょうに。あなたも言っているように「一方的な見方」をするのはどんな問題にしろ、避けたいものですよね…。自分という人間が確かにその場にいて目撃した事件でさえ、自分が見たことが「真実」と呼べるのかどうか、わたしには自信がないです、はい…。

どんな問題でも、簡単に答えが出ると思うのは もういい加減やめない?>みなさん




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