メールで話そう 

「心のほころび」 のつづきです。 ページ1ページ2ページ3はもう読んだ?


お願い: このコーナーでは読んでくれた人からの意見や感想を待ってます。
      メールでHASENOBU、雪見の両方に同時に送ってくださいね。
      反対意見ももちろん歓迎だよ〜。 掲載されたくないという人はその旨明記しといてね。

HASENOBU、雪見へのメール(同時発信) 



No.31 1999年3月16日 HASENOBU→雪見 「差別は、いけない」


 もう季節は卒業の時期。いきなりですが、新しい門出を迎え胸を膨らませる人達の意気込みが風に乗って伝わってきそうな気さえします。(って、いきなり白々しいことを書きました、はい。) 先月末あたりから風邪気味だったようですがもう大丈夫ですか、雪見さん?

 さて、本題に入りましょう。まず「いいトシをした男」については故意の表現だったのですね...。まんまと引っ掛かりました、私は...。(爆) ただ、「分業としての主婦業がかなり楽なもの」なのかどうかについては意見が分かれる所かもしれませんね。もちろん、現在は実に様々な電化製品が巷に溢れていて一昔前の主婦業とは比べ物にならないくらい相対的に「楽」になったとは思いますが。そして雪見さんのおっしゃるように、手を抜こうと思えば抜けるものかもしれませんし、また逆の言い方をすれば(笑)いくら念入りにしても際限がないのかもしれませんね。
 また、「職業観」も興味深く読みました。(収入を得るための)「仕事」というものに確かに、かなりの強迫観念を持たれているようですね、雪見さんは...。これについても私とは大きく考え方が異なるかもしれません。 また「その言葉、額面どおりに受け取ります。」というのも、何か、挑戦的に響くのは私が偏屈者だからでしょうか...?(爆) 世の中には夜働いて、昼間は比較的フリーな職業の人も、また一日置きに休みがあるという職業の人もいますし、そういう人が昼間テニスをしていようが、一日中海を眺めていようが(笑)、ちっとも構わないことのように思います。
 続いて、「夫」「妻」という言葉については、雪見さんが書かれていたように、どれだけ定着してゆけるか、そして定着させようとするか、が大きな問題ですね。私個人としては、前にも書いたように言葉を規制してゆくという考えに、どうしても馴染めない部分があって、自分の中でも矛盾があるし、まだ戸惑っています、はい...。例えば上司と話していて、その上司の配偶者のことを指すのに「妻」という言葉を使うことはできません。上司に対する尊敬の意を、やはりその配偶者にも当てはめ「奥様」という言葉を使うことになってしまいます...。
 そして、前回、ごねて回答しなかった(笑)事柄について。雪見さんの書かれたのを読んで、かなりの部分、同じことを考えているのだと気づき、驚きました。(「驚きました」って、別に、深い意味はありませんが。) 私としては「人間は個人として存在するのだから、自分が生きるのを邪魔してもらいたくないのと同様、他の人の邪魔をしてはいけない」というような表現を答えとして持っていました。これは雪見さんが「他人の生を尊重しなければならない」と表現されていたのと同じような考えに基づくものです。
 ただ、私は理想に走りやすいので、「人生が一回きりだから」ということには、あまり大きな価値を認めていません。かといって「輪廻」を信じているとかいうのではなく。「一度だから」、「二度あるから」(笑)というのを抜きにして、人は自分の、そして他の人の人生・生命を尊重しなければならない、というわけです。
(また、「いい人過ぎる」と言われそうですが...。) だから、差別という悲しいことは、あってはならないのだと思うのです。

  前に、雪見さんは「性差別をなくすことは日本文化を崩してゆくことになる」という趣旨のことをおっしゃっていました。それに関して私は「いいんじゃないですか、崩れても?」という、極めてぶっきらぼうな返事をしました。これは誤解を招いたかもしれません。別に私は「日本文化を根底から覆そう、否定しよう」などという乱暴なことは考えておりません。そのことを前提(?)として念頭に置いておいて下さい。
 で、この前提のもとで「日本文化を崩す」ということは、文化の継承と、そしてその手段として用いられる「教育」ということと関わってきます。このことについて触れておきたいと思います。
 まず、文化の伝承ということについて、です。目に見えるもの、目に見えないもの含めて文化というものは受け継がれていきますよね? その際の媒介となる基本的な単位は「親から子へ」というものであり、いわゆる「しつけ」の中に含まれると考えてもいいかもしれません。もちろんそれだけではないのですけれども、一番「原始的」な伝え方は多分そうであろうと思います。「次の世代に文化を引き継いでゆく」ということは、人間にとって大きな義務だと思います。(何も大袈裟なことを考えなくってもいいのですが。)
 ただ、この引き継ぎというものは「はい、これだよ。大事にして、そして次の世代に渡してね。」というようなものではないですよね?(当たり前だけれど...。) さらに言うと「自分が文化の継承の担い手になっている」という意識がないままにこの引き継ぎの作業は行われていることの方が多そうです。
 また、目に見えないものである場合は特に、その引き継ぎが不完全なままであると思います。(はっきり言うと「完全な引き継ぎは不可能」でしょうけれども。)
 引き継がれてゆくものが変容してゆくのは仕方のないことだし、もともと「完成したもの」として出来上がっていたわけでもないし、ひとりの人間が全てを背負って次世代に託してゆく作業でもない。個々の人間が「日本語」を含めた「習慣」を受け継ぎ、そしてまた次へと。このような流れを巨視的に見れば、「文化の伝承」ということになるのだと思います。
 であれば、引き継ぎの際に(無意識であっても変容するのだから)、少なくともその時点で(「差別」などの)「よくないこと」として認識されるものは是正する方向に持ってゆくべきでしょう。
 もちろん私が「いいんじゃないですか、そんなの崩れても?」と言ったときに考えていたのは、「日本文化の美しいと思えない部分」です。「男が上で女が下」というのは、確かに日本文化の基本の一つであるとは思いますが、それが正しくないということであれば、やはり駆逐(!)すべきだと思います。

 で、ここで出てくるのが「教育」ですが今回は既にかなり長くなったんで、これについてはまた次回、充分に記したいと思います。ということで、雪見さんにバトンタッチ!(笑) よろしく。




No.32 1999年3月21日 雪見→HASENOBU 「日本的な空気について」

 HASENOBUさん、こんにちは。

 いきなりですが、前のメールで「日本文化」なんて言葉を出したのはまずかったかなあと反省してます(笑)。 あの後、読んだ人から「何をもって日本文化と呼ぶのか。例えば現在わたしたちが“日本文化”と思い込んでいるものは明治以降人為的に作られた部分が多い。例えば鎌倉以前はもっとおおらかで男女間の差別も少なかった」という意見ももらいました。その通りだと思います。そうですね…。「日本文化」というよりは「今、わたしたちを取り巻く日本的な雰囲気」と言い換えた方がいいでしょうか。で、特にわたしが日本的と感じるのは「合理的でない情緒的な雰囲気」なんです(これはこのメール交換の冒頭近く、言葉狩りのあたりでも触れましたが)。

 HASENOBUさんは文化の「無意識的引継ぎ」のことを書かれました。例えば、京都の旧家のお正月のしきたりなどはかなり意識的に引継がれている例でしょうが、日常生活でのなにげない女性軽視などは家庭で、職場で、無意識にこれまで引継がれてきてしまった文化なのでしょう。

 この無意識、というのは結構手強いですよね。わたしは「日本型情緒菌の空気感染」と呼びたいくらいです(笑)。本当に、自分では差別しようとも思っていないのに、使う用語やちょっとした生活慣習にすでに差別が組み込まれていて全然気づかなかったり、あるいはふっとそれに気づいた人が「あれ、これって何だかおかしい」と思っても、なかなか声をあげにくい雰囲気があると思います。

 HASENOBUさんが「どうせ無意識な引継ぎで変容していくものなのだから、よくないものは是正していけばいい」とおっしゃっているのはその通りです。例えば和室で男女がどう座るのかということも、もし「男女の上下関係はおかしい」とある人が考えるのなら、その人は意識的にそれを変えてそれを次世代に伝える努力をすればいいわけですよね。ただ…。さっきも言った「日本的な雰囲気」というのは手強くて、和室で慣習を覆すような違う座り方をすると(たぶんHASENOBUさんは経験されていないでしょうが)かなりの「抵抗」を感じるのです。その抵抗を体現しているのは旅館の仲居さんなのです(; ;)。更に言えば、その抵抗を自分自身も感じてしまう、というところがわたしのようにごく普通に日本に生まれ育った日本的な女の辛いところなのです。

 で、教育なのですが(あ、やっと到達したこの話題!(笑))例えば、HASENOBUさん一家がご家族で旅行した際、旅館に泊るとする。そのときいつもご夫婦が男上座、女下座の座り方をするならば、お子さんには自然にそれがインプットされるでしょうし(まあ、親から以外にも空気感染によってそれは早晩インプットされてしまうのですが)、敢えて違う座り方を実践してみせるなら、お子さんにはそれが伝わっていくのでしょう(但し“反面教師”と受け取られる可能性もあるでしょうが(爆))。

 (学校教育だけでない広義の)教育を考えるとき、わたしが一番難しいだろうと思うのは、日本型情緒菌がうようよ漂っているこのわたしたちが呼吸している空気の問題ですね。その菌は外の世界だけでなく、わたしたちが日本に生まれて以来自分の体内にもずっと保持しているものなのですから。

 と、何だか例によって雪見的に「非論理的」メールになってしまいましたが(笑)次回はHASENOBUさんが考えている教育についてお聞かせください。

かしこ(笑)




No.33 1999年3月31日 HASENOBU→雪見 「換気扇のフィルター」

 こんにちは、雪見さん。もうすっかり春らしくなったと喜んでいると、この数日はまたやけに寒かったりして...。暖かい日には、だだっ広い公園をただ、てくてくと歩いてみたいですね〜。そんな心のゆとりも欲しい今日この頃です。(笑)
 さて、「日本型情緒菌」あるいは「合理的でない情緒的な雰囲気」と雪見さんが名付けられたものについて少し考えてみました。どうやら雪見さんは「理性 vs 情緒」あるいは、「合理的 vs 情緒的」という図式を描いているようですね...。(いや、だからどうしたって訳じゃないです。ただ書いただけです。(笑)) 「頭では分かっているんだけど、どうしても気持ちの上で〜」というああいう感じでしょうか?
 確かに、自分でも気づかないうちに、ある特定の思考パターンに囚われた発言や行動をしてしまうことがありますよね。それほど根深く、また「自然」なものだとも言えるのでしょうが。

 さて、教育の話題です。以前、私がこのことを持ち出したときにはかなりの理想主義的なことを書きましたので、きっと「希望に満ちあふれた HASENOBU の教育論」を期待されたのではないかと思いますが、もしそうだったら、その期待は打ち消して下さい。(爆) 色々なことを考えると「未来はバラ色」だとは思っていません、私は。(笑) ま、ここでの色々なこと、というのは日本だけでなく世界が抱える諸問題なのですが、それには触れません。
 が、こと性差別についてはかなり私は楽観的かもしれません。(おいおい...。)
 これから書くことは決して嫌みだとか反語だとかいうのではないのですよ、ということを念押しした上で...。最近の若い人たち(笑)、言葉を変えて言うと、次世代を担ってゆく人たち、というのは、私たちが思っているよりも、あるいは、私たちがそうであったのと比べると、かなり「男女の差」というものを気にしなくなっているのではないでしょうか? これまでに何度か話題になった「上座・下座」ということについてはその概念すらも知らないような者も少なくはないでしょう。(もちろん統計をとった訳じゃないのですが。) もっと大胆なことを言うなら、目上・目下という観念すら持たないような世代が育ちつつあるようです。そういう人たちに「格式ある旅館の和室で座るときには〜」というようなものが受け入れられるとは、到底思えません。
 私は自家用車で通勤しているので実際に目にすることは少ないのですが、バスや電車の中(や公共の場所)で、何のためらいもなく、化粧に専念する若い人たちは決して珍しくはないそうですし...。その人たちに「女は慎み深く、男の三歩後ろを〜」(笑)というような考えは、踏襲して行けるものでしょうか...?(しなくてもいいんですが。)
 極端な例を出したように思われたかもしれませんが、私たちの親やその前の世代の人たちが「戦争中は食べ物がなくって〜」という話をしたときに、それが私たちに実感として身に沁みて伝わらないのと同じように、彼らに「そもそも男(あるいは、女)というものは〜」というようなことを言っても実感できないのではないか、という気がします。

 で、どうしてこのような若者が生まれてきたかというと、それは「教育の力」によるものに他なりません。(とはいえ、私がそれを歓迎しているというのではなく。そして、くどいようですが、私の言う教育とは「学校の勉強」のことだけを言っているのではありません。) 「しつけがなっていない!」と声高に叫ぶ人もいるでしょうが、確かにそういう方向へ時代は流れているようです。
 「人に迷惑をかけている訳じゃないのだから」、あるいは「悪いことをしているんじゃないのだから」という言葉でことが片付けられることが多くなるにつれ、私がなんとなく淋しくなってしまうのは、やはり私も「日本型情緒菌の空気感染」に曝されてきたからでしょうか?(笑)
 このあたりのことはどう思われますか、雪見さん? ということで、かなり歯切れの悪い文面で雪見さんはお怒りのことでしょうが、よろしく...。
 あ、忘れてた。(笑) 今回のタイトルは、「日本型情緒菌」との連想でつけたものです。(笑) で、「換気扇」というのはもちろん「教育」のことを指しています。となれば、「フィルター」の意味するものは...。(笑) きっとお分かりだと思うので、敢えて書きません。(爆)


No.34 1999年4月1日 読者のCHUCKさんからメールが来ました!


こんにちは! 雪見さん、はせはせ。
CHUCKです。
「メールで話そう」のコーナーよりお便りしています。

以前、はせはせより、差別用語についてのコラムを書いている、との知らせを受けまして(くまきの部屋−ちょっとちゃっくとちゃっと参照(笑))、このコーナーには興味がありました。

読んではいたものの、書き込みやメールを送ることには、少々気が引けていたのですが、先日の名刺交換(笑)より、少しだけ仲間に入れたような気がして嬉しく思っています(^^)。>雪見さん

さて、雪見さんの

 どんな問題でも、簡単に答えが出ると思うのは もういい加減やめない?>みなさん

という発言が少々気になりまして、キーを叩いています。
こうした発言を誘発するお返事が多いのかな?(^^;;;

僕の目には二人は言葉を尽くして考えを伝え合っているようにも見えるし、言葉を利用してゲームを楽しんでいるようにも見えます。

今はそれほど真剣に考えて生きているとは自分でも考えていませんが、「生きている証」というものにこだわった時期がありました(笑)
結論はこうでした。

「どれだけ人に影響したか?」

なんて端的な書き方(^^;;
先ほどの疑問を自分で証明しているようです(笑)

ここから少しお二人の話題の一つ「差別用語」にすり寄っていきますけど、まず、「人に影響」する一番重要な要素は「言葉」だと思っています。これは今でも変わりません。先ほどの命題(笑)を言い換えると、どういう言葉を使って人に影響をすることができるのか?ってなります。

こんな僕の観点からお二人の話題をとらえると話題の焦点の前にお二人の話しぶり、本当に見事だなぁ、と感心してしまいます。相手に伝えたい内容を理解してもらおう、っていう優しさにあふれた文面、とても好感が持て、だからこそ、内容をもっとしっかり読みたいという欲求につながってまいります。

時には似た方向から、またある時は(キューティハニーみたい・・・)全く別の方角から切り入るお二人の意見、様々な角度から物を見ることができ、これもまた興味深い理由の一つです。

何が言いたいかといいますと(笑)、お二人の会話を眺め、自分はどうだろう?などと考え込みながらお風呂に浸かる人間がここに一人いるっていうこと、それだけ伝えたくて(笑)

ちょっと本題からはずれ、感想を述べさせていただきました。
心より続きを楽しみにしております。
結論を急がずに、どうぞ末永く、このコーナー続けてください。

話題の焦点が寝ぼけるおそれがあるので、このメールは掲載しなくて結構です(笑)

それでは、また(^^)



No.35 1999年4月2日 雪見→HASENOBU 「最後に」

 HASENOBUさん、桜がもうすぐ満開です!
 いくらなんでも、桜の話題にはふれずにおれませんね、何といっても日本人!(笑)

 さてさて。「日本型情緒菌」とわたしがふざけて呼んでいるこの「日本的なもの」が必ずしもいつも悪いものだとはわたしも思わないのです。ただ、場合によっては困ったものになりますよね、という話。そして今回わたしたちがダラダラと話している(笑)女性に対する差別を考えるとき、何故かわたしはこの空気が気になるんです。この問題はわたしにとって今後も抱え続けるテーマになりそうだ、と最近思うようになりました。このコーナーをやったおかげです(笑)。

 HASENOBUさんからのクイズ、「フィルター」とは何か…。できの悪い頭で一生懸命考えてみました…。教育が一生懸命、空気を入れ替えようとするときにフィルターはその前で汚れを止めて身代わりのように汚れていくわけだから、何だろ、何かのスケープゴート? まさかね…。見方を変えれば、フィルターの目の細かさによって汚れの通過具合が変わってくるのだから、なんらかの基準? モラルのようなものかな? 同じように風を吸い込んでも、人によってはいい加減な雑なモラルをもっているので教育も大して役に立たないということですか? 先生、回答をお願いします(笑)。零点でもめげませんから(笑)。

 教育、とか、教える、学ぶとかの一連の言葉ってあまり好きな言葉ではないのですが(もっといい言葉があればいいのに…)でも人間は誰でもゆっくり、ゆっくり学んでいっているのでしょうね、きっと。(ほとんど止まってる人もいる?退行してるひともいる?)このコーナーで意識的に扱わなかった話題は「人間はなぜ差別をするのか」という問題ですが、そんなことは各自が自分の胸に手をあてて考えてみればよいでしょう。「差別は決してなくならないのさ」と冷めた風に言うことは誰でもできます。「差別は悪いことだ」「差別をなくしたい」と言うことの方がなぜだか格好悪い(笑)。でも、かっこ悪くてもやっぱりそう思うのなら思うって声に出してみたい気がします。

 世界的に見て差別って多少は減ってきているの? 
 世の中は少しずつよくなってるの?
 人間は少しずつ学んでいってるの? 
YESと胸を張って言えない事例がたくさん、たくさん、あるんだよね…。

 さてCHUCKさん、最後に本当にいいメールをありがとう。掲載しなくてもいいとのことでしたが、絶対掲載します! (偏屈者のHASENOBUさんもきっと泣いて喜んでいるでしょう(笑)) さて、「人に影響を与える」ということについて。勿論いい影響もあるけれど、ときには結果的に悪く影響して悔やんだりすることも人生ありますよね…。また自分では影響などしたくない、と思っていても影響してしまう。やっぱり人間ってひとりで生きているわけじゃないですものね。良くも悪くも他人にコミットしてしまうことの重さをいつも忘れないでいたいと思います。そして差別の場合、誰かに「悪く」コミットしてしまうことは、やっぱりその人の大事な人生に打撃を与えることになる。そしてそんなことをする権利は絶対にわたしにはないのだ、と思っています。このささやかなコーナーがささやかでも「良い」コミットメントになればいいな、と祈りながら…(たぶんこれがこのシリーズ最後のメールになると思うので)

みなさん、さよなら。
HASENOBUさん、ありがとうございました。                
                                   雪見


No.36 1999年4月5日 HASENOBU→雪見 「も一つ最後に」

 こんにちは、雪見さん!
 早いものでもう桜の季節となりましたねっ!(ちなみに桜を見て季節を感じることはありますが、桜を見て自分が「あぁ、日本人だ」と感じることは私の場合、ありません。何せ偏屈者ですから。(爆))

 さて、本題に移る前に、チャック氏へお礼。どうもメールをありがとうございました。私は感情の起伏に乏しいので「泣いて喜んで」はいませんが、嬉しかったです。(笑) 雪見さんと私の公開メールで「自分はどうだろう?」と考えてくれる人がいる、ということを知っただけでも、今までの時間も労力も報われるような気がします。「結論を急がずに、どうぞ末永く」とのことですが、この話題はこれで最終回...。「メールで話そう」のコーナーはもう少し続くと思います、多分。

 それでは、本題に。まず、雪見さん、前回の私のクイズ(のつもりはなかったのだけれど)に対して「先生、回答をお願いします」とのことですが、いつから私は雪見さんの先生になったのでしょう?(爆) それより「どんな問題でも、簡単に答えが出ると思うのは もういい加減やめない?」御自身でもとおっしゃっていたはずです。(笑) ま、意地悪はこれくらいにして(爆)...。
 ええ、そうです。雪見さんが「目の細かさ」に言及されていますが、それです。なんらかの基準、モラル、というのも正解です。自分でもあまりいい喩えではなかったと思うのですが(爆)、空気の流れが「文化の継承」に相当し、換気扇が教育、換気扇のモーターが人間、そしてフィルターがそれぞれの文化ごとに(そして時代ごとに)異なる「モラル」、というのを想定していました。変な光景ですが、換気扇が幾つも並んでいる光景を思い浮かべて欲しいところです。もちろん横に並んでいるのじゃないです。ある換気扇から出てきた空気が続いて次の換気扇に取り込まれてゆくような光景です。少し発想を変えて連続した部屋がそれぞれ換気扇とドアで繋がっている、というのでもいいです。文化が(換気扇を経由しながら)フィルターを通って伝えられてゆく、という情景です。
 ま、この話もこれくらいにして。

 確かに「教育」という言葉はふさわしくないですね...。どうしても限定されたイメージがつきまとう。「感化」や「啓蒙」「啓発」あたりも考えられるのですが少し胡散臭い。(笑) むしろチャック氏の使った「影響」という無色で中立的な言葉、あるいは「流れ」や「変化」というもっと大まかな言葉でもいいのかもしれません。が、言葉にこだわってばかりではいけませんね。ま、「人が人を変えてゆくこと」ということを言いたかったのだということは御理解下さい。(もちろん「自分が自分を」「自分が人を」「人が自分を」というもの全て含めて、です。)

 ふっ...。何も目新しいことは書いていないや...。

 あ、それから以前書いたことの補足などを少し。かなり前に私は「それでも、『女のくせに』だとか『男だから』と思ってしまうことがある」というようなことを書きました。「じゃあ、それはどんな時?」という質問がすぐに出てくると思うのですが、その答えは、結局、私が「女」に、または「男」に対してどれだけの期待を抱いているのか、ということと関わってくることです。ですので個別的な事例を挙げても、それは私個人の(勝手な)「期待の裏返し」でしかないので...。
 また「石ころ一つからでも学ぶことができる」というようなことを書いたこともあります。これも「じゃ、何を?」という疑問が湧いたかもしれません。(笑) つまらないことですが、「石ころ」だって人を殺す凶器にもなれば、火打ち石(笑)などのように道具として役立つものもある。その形や組織から、その石の生成過程や環境を推測することができる。石は生命体ではないのだから「経験」というものをもたないけれども、私が生まれる前からその場所に、そのままの形でず〜っと時の変遷を見てきたものであるかもしれない。雨垂れが石をもうがつことがあることなど、「永遠」や「無常」ということに思いを馳せるきっかけになるかもしれない。そういうことを意図していたのです。(笑) 昔見たピーナツの短編映画で、スヌーピーの飼い主であるチャックが、海岸の石を海へと投げるシーンがあって、それを見ていたライナスという人物がそこで呟く「今、君が投げた石ころは何千年という時をかけて海の底からこの海岸に辿り着いたものかもしれないよ。」というセリフも味わい深いものだと思います...。

 「教育」というものは答えを教えるものではないはずです。などと書くと、かなり広範囲な教育論へと繋がってゆきそうなので、ここでは「差別」ということだけに関連して述べます。「差別はいけないことだ」ということをただの御題目のように唱え、それを心に植え付けてゆくだけではあんまり意義はない。(無条件にそれを心から信じ込むことができれば、それはそれで表面上は、良いことでしょうけれども。) さらに踏み込んで、どうしていけないのか、をそれぞれの人間が考え続けてゆく方法を教育は提供すべきだ、と私は思っています。

 ううっ...。これで最後だというのに極めてまとまりのないメールになってしまいました...。ええ、はっきり言います、私の中でも「答え」は出ていないのです。(爆) 開き直るわけではなく、そもそも唯一の「答え」やら「結論」が出てくるようなものではなかったのですし...。そして、逆に言えば(笑)(雪見さんも書かれていたように)これから先も、ず〜っと目を離すことなく、常に自分に問い掛け続けてゆかねばならないものなのですよね、これは。

 ということで、雪見さん、この何カ月の間、私のもどかしい話っぷりに辛抱強くおつきあい下さってありがとうございました。時には雪見さんの焦りが手に取るように分かるようなこともありましたが...。(笑) え、今も、ですか?(爆) そして、このコーナーを読んで下さったみなさま、(きっと少数なのでしょうが...)特に感想のメールを送ってくれた人たちにも深く感謝いたします。

 では、また、いつか、どこかで。(笑)
                              牛歩のHASENOBUより



このシリーズのメール交換は終わりましたが、読んでくれたみなさんからの感想を待ってます。 
簡単なのでもいいですから、メールを下さいねっ。



感想のページへ進む
メニューへ戻る
くまきの部屋のトップへ戻る inserted by FC2 system