メールで話そう 第1弾 「心のほころび」

終了後のみんなの感想
 (2)




てっこう (1999年5月7日)

雪見さん、お疲れさまでした。これは「メールで話そう」が終わられたことに対するものです。

 今日、えらいところで雪見さんにお逢いしてしまいました。お初ですとかとぼけたことを言っていたと思いますが……
 いま、メール=Aメール≠ニいう文字が頭の回りをヒヨコちゃんとなって回っていきます。

 活字をみると、くらくらと眩暈を感じるわたしなんですが、どうもディスプレイで文字を拾うのに体が拒否反応を示しているような気がします。
 が、しかし――
 ハセ先生と素敵な雪見さん、あとダンディな方々や麗しい方々のログはちゃんと目に入っていましたよ。
 えっ、「ハセ先生」の前にどうして形容がないのかって?
 うーん、うーん、うーん、と、考え込んで寝てしまいました。ハチマンの姿が悪霊となって目の前を通り過ぎていく。
 いかん、真面目に書かんと怒られてしまう。
 えーっと、それでなんの感想でしたっけ?

 そうそう、「メールで話そう」の感想でしたね。困難なテーマに向かって、一歩一歩登って行かれるお二人と、それを温かく見守っておられる人々の魂に触れて――なんか、歯が浮いてきた〜 いえ、ちょっと痛風なだけです。えっ、足じゃないのって? うーん、うーん、寝てもうた。得意技になりそう。

 さて、少しは真面目に書かないと、「メールで話そう」の思いテーマに弾きとばされそうです。
 ここで一つ、わたしのHPの一頁に記載したものから引用(抜粋)することにします。
 題材としては、京都新聞の夕刊(平成11年2月26日金曜日)「現代のことば」に、塩田浩平先生の言葉が載っていましたので、それを引用したものです。
 詳細は、http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Kaigan/6104/mail0.htmlにありますので、興味があればどうぞ(って、もう見たぞ〜ってお叱りを受けそうですが…… えっ、まだ見ていない。そうですか……)  


 …………………#### 抜粋 ####………………

 一方、乙武氏、当のご本人は、明るく、そうして実に清々しく、素直に自らを表現する一人の現代的な好青年であると――氏の『五体不満足』(講談社)がベストセラーになり、テレビで対談する彼の姿を見て、「乙武彼さんのような青年がこのようにして世に出てきたことは、ハンディキャップと障害者に対するわれわれの認識を根本的に変えさせたという点で非常に意味が大きい」

 「同情でない真の思いやりとは何か、ということを考えるきっかけ」を与えてくれると、訴えておられます。

 「我々の社会では長い間、障害者は社会から隔離し隠すものとされてきたため、まだまだ障害を特殊な目で見て、偏見や差別につながる事例が少なくない。乙武さん自身も述べているが、大切なのは子供のときから障害者に対する『心のバリア』をもたないような社会環境を作ることだろう。」

 哀れみを覚えるのはわたしたちの単なる底の浅い感傷にしか過ぎなくて、彼の側に立ったものじゃない。そこには「心のバリア」があると。その「心のバリア」を取り除いて初めて、共感があり、あるべき社会の人間関係が生まれる。

 これは言うに易し行うに難しであり、「我々の意識も変わってくる」ことが必要で、「社会がハンディキャップを持った人を特別扱いせず、そうした人々が一般の人々にまじって生活することによって、街や学校、職場で障害者の姿にみんなが自然に触れるようなれば、我々の意識も変わってくるに違いない」

 「人は一人一人みんな違った個性を持っており、集団を構成する個性が多様であればあるだけ、その社会がゆたかで活力のあるものになる。人が互いに尊重し、いわゆる障害も個性の一つであると多くの人が考えるようになったとき、その社会が本当に成熟したと言えるのではないだろうか。」と先生は結ばれています。


     
   ……………………#### 抜粋 ####…………………


 さて、ここからは自省を込めて、書きます。
 先生の言葉に触れて、心の洗われる思いがしました。

 結文を読まれて、綺麗事ばかりに聞こえてしまいますか? それとも、そういうバラ色の未来が待っていると思いますか?
 わたしは後者でありたいです。すると、自身に返ってくるものがあります。自身の心の狭さや汚れを感じます。

 心の問題は、他人(ひと)の心ではなくて、自身の心の問題として捉えないと、なんの進展もないように思います。

 心の醜さ――感じていないだけなのかもしれない。いや、感じようとしていないだけのなのかもしれない。そう、知覚したくはないでしょうが、誰しもがもっているものです。心の醜さを感じてはっとしようではありませんか。
 (ここで、わたしのことではないという方には悪いことを書きました。とことんなのでしょうね。えっ、勿論、どちらかにですよ。澄んでいらっしゃる方はほんとに稀でした。が、振り返ると何人かはいらっしゃいましたが……)

 心の問題――人の心の痛みがわかって初めて人なんだなあということを実感して、人は人、自分は自分という考えの中では――勿論、人が好きだからこそ厭世家になる場合だってあります。問題なのは似非者です。自分ではさも人格者のように思っていて、実際は違う人。なんと多いことか。あんた、あんたのことだよって、雪見さん、わたしを指さすのはやめてね。

 河合隼雄先生が面白いことを言っておられました。
 来たボールをジャストミートしてはじき飛ばす。そうすれば、あなただってプロ野球のリーディングバッターになれるんだと。
 本当にそうですか?
 なれるとお思いですか? なれる筈がないでしょう。
 来たボールをジャストミートすることなんて、言葉で言えばそうなるのですが、実際はできません。
 言うは易し行うは難し

 でも、一般に、実際できないことを出来ているように錯覚することもあるのではないでしょうか。
 人間って勝手な生き物です。謙虚さを忘れた人間なんて、珈琲にクリープどころの騒ぎじゃないですね。ちなみに、わたしはブラックが好きですが。

 ああ、わたしはなんて人間らしいんでしょう。
 まるで天使のようなのに……
 わたしのような人ばかりがいると、この世は天国になるに違いない。

 ええ、実際そうであることを祈ります。

 人、それぞれの個性があって、集まって、その中でお互い、相手のことを認めあって、許しあうことのできる社会が成熟した社会なのでしょう。
ここにきて初めて人類の発展云々と言えるのでしょうね。

 まず、自分にできること――
 えーい、そんなもんは俺の知ったことじゃない。という姿勢では勿論イカンですね。
 心の醜さ、エゴイズムを捨て去るという高貴な(お題目)の前に、実際にできることからやるべきですね。
 小さな親切、余計なお世話という言葉もありますが、相互不信ではなくて、相互に信頼した関係を保ちたいものです。

 要は対岸の火事、自分には関係ないという姿勢を先ず取り払おう――って、難しい。でも、できることから始めればいい。小さなことからしていきたいものです。

 確かに他人(ひと)を自分のこととして捉えることは難しい。素直な心、謙虚な心――死語というか、中身のない言葉になってしまっているような気もしないではありませんが。

 公害問題の捉え方が最近では変わってきましたね。以前は地域的な、限定された問題として捉えられていました。四日市、水俣など地域名が冠されていることからも分かります。地域特有なものとして、一般人にとっては、いわば対岸の火事でした。そうして、それらが拡大されていくと、単に地域の問題ではなくて、もっと広範囲の、そうして地球的規模の問題となってきました。
 突然、危機意識を持つようになる。ここにきて、初めて、自身の問題として感じられる。(まだまだ大丈夫だと高を括っておられる方は大勢いますが…… 一人一人が地球環境に目を向けて、慈しまないと大変なことになりますね。地球環境は未来からの借り物だという言葉は好きですね。子々孫々に今のままの姿を返すべきです)
 どうしようもなくなってから、慌てたってどうしようもないのですが。立つべき土壌がなくなってから、どうして人は立っていられるのでしょう。

 人の痛みを分かるということは難しいことです。他人の問題だと思っている間は絶対に分からない。
 分かろうとしないことが前提になっています。そういう意識が知らず働いているとも言えるのではないでしょうか。

 素直な心、謙虚な心。他人の心の痛みを感じることのできる心というのは、3割バッターになるのと同じぐらい本当は難しいことなのかもしれません。

 と、それから一番遠く離れた天の邪鬼のわたしが言うのもなんですが、斜交いに構えていると、真っ直ぐがどういうことなのかが少しは見えてくるのかもしれません。

 以下、まだまだ続く(女性差別など)のですが、送れなくなりそうなので、きりのいいところで送ります。

 一気呵成に寝ながら書いたので、文意が通ってないかもしれませんね。
 ちなみに、雪見さんは誤解されています。わたしは熟考なんてしません。ぱっぱらですから。
 ではではまた〜

      平成一一年五月七日(金)

                                       てっこう

Erika  (1999年5月8日)

「私の考える差別について」

雪見さん&HASENOBUさん、大変興味深いメールのやりとりを拝見しました。
働く女性として感じた個人的な「差別」についての考えをまとめてみました。

私が職業上の性差別を感じたのは、大学を出て、いざ就職先を探している頃に受けた、いくつかの面接での事でした。まず大学の掲示板に出ている求人広告を見て、電話で連絡を取り、実際にその求人先へ出向くのですが、その求人広告の項目に採用予定:男・女・どちらでもよい、というものがあるんです。男女雇用機会均等法に反してるんじゃないの?とまずここで疑問に思いました。それに男のみの求人が大多数なのです。そこで男女不問の求人を選び、実際に面接にでかけてみると。。。。尋ねられる質問は「結婚はまだですか?」「結婚されても仕事は続けられます?」「うちは最低でも2年は勤めてもらわないとねぇ。最初は使い物にならないんだから。。。」「いや〜、女性だとね、スタッフの女の子達ともめることがあるしねぇ。。。」......etc.

おわかりかと思いますが、それらの会話の「。。。」の先は「だから女性は採用したくない」というのが隠れているのです。履歴書と大学の成績証明書を一応受け取り、中には性格診断テストまで受けさせられた所もありましたが、結果はどれも数日後に書類が郵送で返信され、不採用の旨が書かれた紙片が添えられていただけでした。

なぜ女性だというだけで、「結婚すれば仕事を辞めるだろう」「結婚して続けたとしても出産すれば辞める事になるかも。」「女性スタッフとうまくやっていけないだろう」と考えてしまうのでしょうか?結婚しない、出産しない、一生仕事を続けると思っている働く女性は、ではどうすれば良いのでしょう?同じ大学を卒業して、国家試験に合格し資格も与えられたのに「女性だから不採用」というのは納得行きませんでした。元々負けん気な性格の私でしたから、どんな実習でも試験でも同級生の男子に頼ったことは、一度もありません。それどころか試験の前になって私のところへノートを借りに来たり、テストのヤマを聞きに来るのは男子でした。仕事をする上で、女性であるからという甘えは捨てようと思っていました。

私は差別とは、自分ではどうにもならないこと(たとえば肌の色だとか年齢、性別、出身地など)に対して不当に評価することだと思っています。学歴や技術や性格などは後天的に変えられるものだし、努力の先に結果も見えるわけですよね。評価するならば、そういう面を見て欲しいのです。私の母は幼い頃に事故で父親を亡くし(労働災害事故です)、その後、祖母は未亡人のまま3人の娘(母は三女)を育てました。母親の時代には就職するにも両親健在という条件がついたそうです。離婚したわけでも祖父が罪を犯したわけでもないのに父親がいないというだけで、他の人と違う条件を押し付けられる。。。そんな理不尽なことがあるでしょうか?「片親だから子供を育てそこなった」と言われないように祖母もかなり苦労をし、母も自分に厳しく育ったのだと思います。高校卒業後、彼女は学校推薦で見事就職することができました。そんな事も影響してか私もできるだけ差別はしたくないし、差別する人々を許せないと思うようになりました。ただ「差別はいけない」「差別をなくそう」と言うだけでなく、女性でも男性と同等あるいはそれ以上に仕事をこなせるんだという事を周囲に理解してもらうために日々努力しなければと思います。

雪見さんがメールで書かれたように差別は急には無くならないでしょう。でも少しずつでも改善されていると思いますし、そうあり続けて欲しいと思います。あれこれ批判する前にまず自分が気をつけたいと思います。

最後に「メールで話そう」のコーナーのように簡単には答えの出ない問題についてお互いの意見をめぐらす企画は大変意義のあるものだと思います。最も重要なのは討論の末、結果を出すことではなく、まず問題意識を持つということではないでしょうか?何も考えない行動、また繰り返される過ち(つまり反省のない生活)は人間を成長させないでしょう。「人間は考える葦である。」。。。。では考えなくなった人間は?そうはなりたくないものです。

Erikaより




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