メールで話そう

第2弾 モノの価値 ひとの価値



お願い: このコーナーでは読んでくれた人からの意見や感想を待ってます。
      メールでHASENOBU、雪見の両方に同時に送ってくださいね。
      反対意見ももちろん歓迎だよ〜。 掲載されたくないという人はその旨明記しといてね。

HASENOBU、雪見へのメール(同時発信)




No.1 1999年5月25日 雪見 → HASENOBU 「天狗の文鎮」

HASENOBUさん、お懐かしゅうございます(笑)。
思い起こせば第1弾が好評のうちに終了したのが4月初め。あれからわたしはHASENOBUさんから第2弾の企画を連絡していただくのを毎日首を長くして待っていたのですが、今はもう6月が目前…。さすがですねえ、牛歩のHASENOBUここにあり。などと初回から茶化すのはこれくらいにしましょう(笑)。

いきなりですけれど、先月わたしは仕事で群馬のある学校に2週間出張していまして、その間いろいろな先生方にお世話になりました。最後にその学校を去る時に「記念品です」と頂いたのが、その街の特産品らしい「天狗の文鎮」でした。「ありがとうございます」と感謝して頂いたものの、わたしは天狗というイキモノ?が特に好きでもないし(どちらかと言えば嫌い)文鎮を必要とする生活もしていないし、ちょっと困ってしまいました。

結局その文鎮は「どうしていいか、分からない」というだけの理由でわたしのPCの横に半月ほど置かれていたのですが、最近忽然と姿を消しました…。って、こないだ掃除の時に捨ててしまっただけ。せっかくプレゼントされた品をこんなに呆気なく捨てられるわたしって冷血女?(笑)たまに不要品をまとめてフリーマーケットで売ることもあるのですが、この手の趣味の装飾品?って大抵売れ残ってしまい結局捨てることになるのです。だから、今回もあっさり捨ててしまいました。

だけど、モノって不思議。同じ天狗の文鎮も例えば好きなひとから「雪見さん、これ…」と頬を染めておずおずと渡されたものなら(笑)こんな風にすぐには捨てなかったかも。(少なくとも2ヶ月くらいは捨てずに置いていたかも(爆))モノそのものよりも、人間ってそれに付随する記憶を大事にするのでしょうか。それがモノの価値を決めるのでしょうか。それとも、その天狗の文鎮が美しくて手がかかった工芸品ならば、わたしでもそんなに簡単には捨てられなかったのでしょうか。

それにしてもモノを大事にしないわたし。結婚指輪さえ、今どこにあるのかわかりません(爆)。結婚指輪にはわたしの結婚の決意は宿っていないのです、たぶん(笑)。わたしの決意はあくまでわたしの心の中にあり、指輪にはないのです。(もっともその指輪は太り始めるまでの数年間は指にしていましたから、毎日身につけていたモノとしてのある程度の愛着はあったはずなのですが。)

さて、初回というのに大して意味がないことをダラダラ書きましたが、今日のポイントは「雪見にモノをプレゼントしても無駄」ということでしょう(笑)。わたしの誕生日は9月ですが、何かプレゼントしたい人はモノではなくて、メールにしてね〜(笑)。ということを、読者のみなさんにこの場を借りて言ったところで、今日はこれまで(笑)。

  

No.2 99年5月28日 HASENOBU → 雪見 「甲子園の土」

お久しゅうございます、雪見さん。お手紙をもらうのも随分お久しぶりのような気がします。(爆)
 さて、「モノの価値 ひとの価値」というのが今回のテーマなのですか...。これまた随分とややこしい、前回と同様、あるいはそれ以上に個人の考え方と関わる問題を選ばれたのですね...。これも結論までの道のりは長いでしょうね〜。と言うよりも既に迷走のスタートを切った、そしてゴールは「迷宮」という気さえしますが。(笑) ま、今回も焦らず、ゆっくりと行きましょう。
 実は私も、この「価値」とテーマについてはかなり深い関心を持っていました。いや、関心というのは正確じゃないかもしれません。むしろ疑念を抱き続けていた、という方が当たっているかもしれません...。

 さて、本題に入りましょうか。まずは「モノ」の方から始めたいと思いますが、それでいいですよね?
 ある人にとって、とても大切な「価値のあるモノ」が、他の人にとってはただのガラクタであったりすることもありますよね?
 例えば甲子園の土。(爆) 念願の甲子園出場を果たした高校球児達が試合に負けて涙を流したりしながらグラウンドの土をスパイクバッグかなんかの布袋に詰めている光景が画面に映し出されたりします。って、高校野球なんてもう十数年以上見たことはないけれど。あの風習は今でも続いているのでしょうか? あ、別に答えてくれなくっていいです。そんなこと知りたくもないですから。(笑)

 この前のメールによると、雪見さんは「天狗の文鎮」をあっさりと捨ててしまったようですが、私はモノに執着するタイプ(もっと言うなら貧乏性)なので、実に惜しい、と思いました。郵送してくれたら有り難く受け取っていたのに...。そしてできるだけ早い時期に、何かの機会をとらえて知人の外国人に「これは日本の伝承文学に登場する天狗というものをモチーフにしたペーパーウエイトなのです。長い間大切にしていたのですが、これを私と貴君の友情の証として進呈しましょう!」と恩着せがましく譲ったのに...。(爆)
 あ、でも、私もそう言えば、結婚指輪をなくしたことがあります!!(笑) しかも二度も。(って、二回結婚したというのではないのですが。)

 と、冗談はさておき。
 「モノの価値」というのは(先ほどの「甲子園の土」などの場合のように)かなり個人的な「思い出」やら「思い入れ」ということと深く関わっているようですね。というより、それこそが「価値」を決めるのかもしれないなぁ、という気さえします。
 
 ま、普通に考えると、例えば「価値のあるもの」として「ダイヤモンドの指輪」やら「ブランド品のバッグ」だとかを思い起こす人も多いことでしょう。だけれども、本当にそれらの「モノ」に価値があるのか、ということになると私としては少しばかり首をかしげたくなります。
 確かにそれらは金額で言うならば「高価なもの」かもしれません。だけれども、本当にそれらの品々は価値があるのでしょうか? お金という尺度に換算するということをしなければ、特に、この疑問は膨らむばかりです。
 今、ダイヤモンドを例に出しましたが、結局は石炭と同じ元素からできているものですよね? ただ、石炭の量に較べ、ダイヤモンドは数量が少ないからという理由で、あたかも宝石の代表格のように扱われているのではないか、というような気もします。(これは装飾品に関心を持たない私の勝手な印象かもしれないけれども。)

 こんな風に考えると、一体、ある「モノ」が、それだけで価値がある、というようなことがあるのだろうか、とすら思ってしまいます...。

 とりとめのないメールですね、毎度のことながら。(笑)
 で、どうでしょう、雪見さん。今私が感じている疑問、つまり「一体、ある『モノ』が、それだけで価値がある、というようなことがあるのだろうか?」という疑問に対して考えてみてくれませんか?

 ということで、軽く、ジャブを返したところでおしまいにしたいと思います(笑)。お返事をお待ちしております。
 では、また〜。




No.3  99年6月1日 雪見 → HASENOBU 「思い出の品」

こんにちは。始まったばかりなのに、早くも立ち止まってしまった雪見です(笑)。実はこの話題はみんなで気軽に楽しく話せる話題だと思って選んだのです。でも、考えてみると非常に抽象的で観念的な話題なんですね…。どうしよう…(笑)

と、唸ってばかりでも仕方がないので取りあえず前に進みましょう。確かにひとがモノを大事にする理由はそのモノにまつわる記憶があるから、という場合が非常に多いでしょうね。今回はこのことに絞って考えてみたいと思います。(モノにまつわる記憶なしに、モノそのものに価値があるかどうかは後日考えたいと思います)

思い出の品にあまり(というより、殆ど)頓着しないガサツで冷酷なわたしでさえ、考えてみると、ドイツに住んでいた頃、よく通った近所のレストランで別れの記念にオーナーからもらった店の名前入りのお皿2枚を後生大事に持っているではありませんか! それから、ドイツ語学校で使っていたボロボロの教科書も引越の時にどうしても捨てられなかったので、きっと今でも押し入れのどこかにあるはずです。HASENOBUさんもそんな「甲子園の土」的な品物をきっと幾つか持っていることでしょう。(次回のメールで思い切って告白してはいかが?(笑))

なぜ人はモノに思い出が込められていると思うのでしょう。モノなしで、自分の記憶だけで満足しないのでしょう。「思い出の品」はなぜ必要なのでしょう。

人間の記憶ってとっても頼りなくて、おまけに人生の時間はあまりに速く流れてしまうし、人の心はすぐに変わっていきそうだし…それで心細くて人は思い出の品にすがってしまうのではないでしょうか。そんな気がするのですが…。わたしにとっては(あまり認めたくないのですが)ドイツでいた数年間はとても幸福だったし、今の生活はあんまり幸福だと思わないし(笑)、そんなわけでついつい振り返ってしまう、特別な時期なのです。その特別な時期の記憶を少しでも自分のそばに止めておきたくて、わたしは思い出の品を捨てることができないのでしょう、たぶん。

それからまた過去の思い出にこだわるのではなく、これからの決意の象徴としてのモノもあるかもしれませんね。心に決めたことがあって、その決意をいつも覚えておくためのモノ。結婚指輪などはこれに当たるのでしょうね。

さて、これを読んだみなさんの思い出の品、思い入れのあるモノの話、なぜそれが大事なのか、(それとも大事だと思わないのか)を教えていただければ嬉しいです…。

というわけで、HASENOBUさんの思い出の品は何ですか?


No.4  99年6月4日 読者のぼうさんからメールが来ました!

 大切なもの、思い出の品・・・・じぇんじぇんないっす(笑) 思い出そうとしても、なんにもないんだよねぇ(笑)。学生時代に彼女からもらった手編みのマフラーは別れた途端に捨てたし(ひでぇぇぇ!)、そのあと付き合った彼女からもらった猿の置物はまだ持ってるけど、異様な形をした猿の神様のたたりが怖くて捨てられないだけ。ホントは捨ててぇぇ! あと・・・ブランド品も全然ないんだよねぇ。服だって背伸びしてGAPってところが笑えるしさ。なんで学生さんたちはブラダとか簡単に買えんのかなァ・・・すっごく疑問。 とにかくですねぇ、大切なもの、思い出の品、ないんですよぉ。困ったなァ・・・
ひっじょーに困った! と、思ってたんだけど・・・・いろいろ棚を漁ってたら、懐かしい品がいっぱい出てきたんでびっくり。学生時代の写真、卒業アルバム、それから、俺って高校時代に吹奏楽部に所属していて、ちょっと自慢なんだけど、県内でもなかなか有名だったんですよ、その吹奏楽部がさ。だから、そのときに自分が使ってたスティックとか、端っこが黄ばんだ楽譜とか、県大会のビデオとか、吹奏楽コンクールのテープとか・・・とにかくその時代の思い出がダンボール箱にぎっしり詰まってたんですよぉ。すっげーびっくり・・・だけど懐かしかったっす〜。ひとり暮らしするために実家を出るとき、とっさにダンボールに詰めて持ってきたんだろうけど、あまりの忙しさにすっかり忘れていたんですねぇ。「あー、こんなの大事に持っていようと思ってたんだァ」と、自分の健気さに泣けたね(笑)。というわけで、次に引っ越しするときも、これだけは大事に持っていくんじゃないかなァ。あとは何を捨てたって構わないけど(笑)。
 ただし、この思い出の品にすがって生きるようなら、確実に捨てると思うけどね。

 さて、思い出の品に関してはこんなカンジっすー。それにしても俺の楽譜とかスティックって、他の誰でもない「俺だけ」の価値あるモノなんだよなァ。他人にはただの紙切れであり、棒っきれ。そうそう、アニメのフィギュアとかブラモデルを後生大事に飾ってる人とかいるけど、俺にはガラクタ積んでるようにしか見えないし、裏のおじいちゃんの盆栽にもあんまり価値を見出せない(笑)。人によって、モノの価値って変わるんだよなァ。
 自分のものではないけれど、京都の建造物を見てもじぇーんじぇん面白くないっていう、ぼうの姉みたいな人もいれば、三十三間堂の観音様を見て涙する俺もいるし(笑)、モノに対する価値観は人によって大きく違いそう。そんなのも気になるなァ・・と思いつつ、今回はこのくらいで許してやるかっ(笑) っつーことで、またメールしまーす(^0^)




No. 5 99年6月5日 読者のなおぼーさんからメールが来ました!

雪見 様  HASENOBU 様


楽しく読ませていただいとります。

ぼくにとって、一番大切な”物”は、大学行くのが嫌になってやめようかなぁと思ってたときの高校の先生から手紙です。

「あなたは数学科にいながら、そこで学ぶことが無為に終わるのではないか?と思ってる。けど、それは、間違いで、社会では数学は様々な分野で応用されている。けど、それは何なのかは勉強してもわからないでしょう。けど、猛勉強して社会に出たら、後にわかります・・・(みたいな内容だった)」

たった3pの便せんですが、いまでも大切に飾っています。(だが3pめはなくしてしまった・・・アハハ)

今回のテーマはボクにとって、とても興味深いものです。なぜなら、「人にとって物の価値がどこから創造されてるのか?」てことは直感的に「いや、あれは大事なものだから」と感じてるだけのようで、その感じるまでのメカニズムは全く不明だからです。

初めは人の欲にからむのでは?とおもってました。しかし、どうもそれだけではないようです。もっと他の理由があるような気がしてならない。例えば夢や記念になるもの・・・夢や記念のシンボルなんて何の欲求も満たさないけど、なぜか大切にもっている。・・・正直全くわかりません。お二人の文章読ませていただきながら、なんか手がかりをつかめるといいです。期待してます。

ただ、”ボクの中”では世間で共通価値付けされている”金額”が、物によっては、かなり価値付けとしておかれているなぁと感じました。例えばダイヤの指輪とか全く興味ないけど「高い」と知ってたら、ボクは大切に持ってるでしょう。もしかしたら、”金額”だけに価値観をゆだねている物も少なくないかもしれない。

金額等という”世間の基準”によって、自分の価値観が相対的に変わるのは別にいいと思うんですが、自分の価値観の全てをゆだねるのは(物にもよるんでしょうが)考えものだなあ、ボクって少し、混同して価値観をおいてる物があるのかもしれない・・・と感じる今日この頃です。(個人的にはコレは毎年変わりゆくブランドの流行を追う人間への批判でもありますが、まぁ、それはここではいいでしょう)

それではまた。
                                                     なおぼーより


No.6  99年6月6日 読者のドンちゃんからメールが来ました!

私も皆さんが書いていたので・・・。
ぼうさんも、吹奏楽部だったんですね。私もです。
結婚して、実家からちゃんと昔の楽譜・テープ・プリント・レコードすべて持ってきました。もちろん楽器も・・・。
楽譜には、その当時の言葉まで記されています。
そのテープには文化祭の模様とか、練習の時ののもあります。遊び半分でフォークコンサートして、その時のテープもあります。
なぜか、吹奏楽のものに関しては無意識に「特別扱い」してました。想い出をいつも引っ張っては生きてはいないんだけど、自分が一番輝いていた時だったから・・。片隅にでもおいていたかったんだと、思います。他人からは「そんな昔のもの」なんですがね(笑)
でも、本当に疲れた時はそれを見て、思いっきり泣いていたこともあります。泣きたい時は泣く!!これが私のモットーです。(笑)
人間なんて、いつも気持ちがはりつめたら、息が詰まってくるしくて生きていけないよ。。。
まぁ・・・。自己満足でいいんじゃないかな!

☆ドンちゃん・・でした。




No.7  1999年6月6日 HASENOBU → 雪見
 ぼ〜っとするひまもなく梅雨入りです! 雨の日が続くかもしれませんね。でも、それはそれでいいことです。私はテニスができなくって身体がなまってしまうことでしょうが、今、雨が降らないとお米の成育が心配です。雨よ、降れ降れ!!(って、祈祷師気分。)

 さて、「モノ」の価値について、特に「思い出の品」ということで、ぼうさん、なおぼーさん、そしてドンちゃん、感想をお寄せ下さってありがとうございました。厚く厚く御礼申し上げます...。m(__)m みなさん、それぞれに大切な思い出の品があるんですよね。「じぇんじぇんないっす」とおっしゃりながらも懐かしの品々と再会して感動にむせぶぼうさん。(呼び捨ての方がいいかな...?(爆)) また、恩師からの手紙が一番大切だというなおぼーさん。教え子からそう言われるのは教師冥利に尽きることでしょうね、その先生にとっては...。(思わずもらい泣きしそうです、はい。) またドンちゃんも高校時代の吹奏楽のテープ、大切に保管されているんですね〜。うんうん。

 かく言う私にも、私なりに大事なモノはあります。しかも、かなりモノに執着するタイプなので、ここでそれらについて書き始めるとそれだけで年の瀬までこの企画を引き伸ばせるほど(爆)、身の回りにはいっぱ〜い、あります。(笑) 加えて、「どれが一番?」ということを考えるのが苦手なので、あれもこれも、どれもこれも、どいつもこいつも(笑)、それなりに大切なものなのです、私にとっては。
 ですので、私の思い出の品、というものについて具体的には書きません。御了解下さい。>雪見さん

 今回、感想を寄せて下さった上記のみなさんも記されているように、これらの「思い出の品」が大切なのは、それらが(当たり前だけど)、何らかの時代の記憶を甦らせるものであるからであり、そして(なおぼーさんの場合は異なりますが)「他の誰でもない『俺だけ』の価値あるモノ」(ぼうさん)であり「自己満足」(ドンちゃん)なのですよね。つまり極めて個人的な価値の基準によるものです。(もちろん、それが変だとか悪いと言ってるのじゃないですよ。)
 この「個人的な価値の基準」についてもなかなか面白いものがあるような気がします。例えば、その当時(?)ちっとも気にかけていなかったし大事だとも思っていなかったモノが、時を経てふと取り出して見たとき、かけがえのないものだと思われたり...。経た年月と正比例して(知らずしらずのうちに)その「価値」が増えていった、ということでしょうか? それとも(取り出した瞬間に)突如として価値を持ったのでしょうか?
 また、この「個人的な価値の基準」というのは、本当に「個人的」であって、たとえ、他の人がとやかく言ったところでそのモノの価値(もちろん、個人的に与えている価値)は変わるはずがないのに、他の人からとやかく言われるのは何か、嫌ですね。(笑) それを大切だと思っている自分の価値観、あるいはそう思う自分そのものを否定されたような気になるんでしょうね。(「でしょうね」なんて他人事みたいに書いていますが、私はそうですっ!!(笑) ま、気にしないことにしてますが。(爆))

 一方、なおぼーさんも少し触れられていたように、共通の価値を持つものとして、例えば「お金」というものがあります。(価格の設定というプロセスの仕組みは良く分からないのですが...。) これなどは、個人的な価値基準ではないものの代表だと考えていいと思います。私が、仮に100万円の現金を持っていたら、それは他の誰かが持っている100万円と同じ価値であるはずです。(って当たり前ですが。)
 ところが、私が持っている100万円は、私にとっては大切な価値あるモノであっても、知らない人が持っている100万円は、同じ価値だとしても、私には大切ではありません。(笑) もっと言うなら、その人が1億円持っていたとしても、私には私の100万円の方が大事です。(爆)
 ということで、ここで「所有」という事柄が浮かび上がってくるような気がします...。(え、強引ですか?) ま、お金のような卑近な、そして生々しい話は忘れていいのですが、「モノ」と「コト」の境界線が曖昧なように、「個人的な価値の基準」と「共通の価値」についても完全に別個のものとしては考えづらいかもしれません...。
 う〜む、自分で書いていて思考がどんどん広がり歯止めがかけられません。(爆) ということで、唐突ですが今日はこの辺で...。まだまだ先は長いことですし、こんなメールをもらったからといって戸惑っていてはいけませんよ、雪見さん。(爆)
 では!!



No. 8  1999年6月7日 読者の紅さんからメールが来ました!
私は「モノの価値」には、二つあると思います。
まずひとつ、プレミア。

私はモノを捨てられず、溜め込んでいます。思い起こせば幼少の頃からのようで、祖父の遺伝かもしれません。祖父は、海辺に流れ着いているオモチャのかけらや石などを拾っては私にくれました。幼い私は、子供によく見られるようにそれらのガラクタをまるで宝物のように思うのでした。そして、祖父が亡くなると、それらの価値はグンと上がったのです。「お爺ちゃんにもらおうと思っても、もうもらえないもの」それは「買おうと思っても限定販売で、もう売っていないもの」いわゆる「プレミア」がついたのでした。そしてプレミアの呪縛にあうように「あの時拾ったボールペン」やら「○○ちゃんが引越すときにくれた消しゴム」、初めてデートで行った映画の半券(これはさすがに4年後くらいにやっと捨てた)などが生きてきた時間の分だけ溜まって行きました。

もらった消しゴムや映画の半券などは、その人が好きだったから捨てられなかったのではないのです。それらのモノには、その時の自分の様子、天気や気温、空気、友達の顔などその時の「時間」が含まれているように思われたのです。その「時間」らは、もう二度とは来ないもの。それが私にとっての「プレミア」になってしまったようです。今は必要無くても、それを大事にしていた過去の自分に申し訳無くて捨てることができないのです。高価なモノの「プレミア」も同じだと思います。「大量には収穫できないから」高い値段のつくダイヤモンドだとか。

私の溢れ返るガラクタの中で、一番重みのあるのが中学の頃に書いた文章です。雪見さんも言ってたけど人の気持ちは変わりやすいし、変わるのは悪いことではない(成長の証でもある)けれど、ある瞬間その時分に考えていたことって忘れてしまいがちで(特に私はひどい健忘症;)それが大変もったいないことに思えた私は「このノートは自分が子育てをする時に使おう」と将来の自分にあててそのときの自分の気持ちを書き連ねたのでした。決して楽しい中学生活ではありませんでした。だけどそのノートこそ私の「モノの価値」を代表しているのではないかと思われるのです。ところがいくらプレミアがつこうが、整頓ができないので(すごく苦手!)高価な代物も彼からのプレゼントも、私の部屋に来れば一緒の扱い。乱雑に転がっているだけ。だけど、愛してる。

そして二つめは、ドンちゃんさんの述べられていた「自己満足できるもの」。
ぼうサン(敬称、迷います(笑))が挙げていたフィギュアーやお爺さんの盆栽などは自分だけが満足して楽しめるもので、世の人全てに理解されないし、されなくてもいいと思っている。私は飼っているセキセイインコが大好きで大事に思っていますが、鳥が嫌いな人には全く理解されないでしょう。

それは「人の価値」にも似たようなことが言えるのではないでしょうか。「あんな人のどこがいいの?」なんて言われる人でも自分にとっては大事な人。趣味にも同じことが言えると思います。自己満足。ただ、こういう価値のつけ方もあると思います。例えば、「あの人は有名人(と繋がりがある)だから大事にしておこう」とか「趣味はお茶、お花ってことにしておこう(お見合い時)」とか。それって、世間的に出来あがっ(てしまっ)た共通の価値観であって、お金と同じようなものではないのかな。そして、共通価値満足度か自己価値満足度のどちらを重視するかは人による。その個性は環境によるものではないか・・キリがなさそうなのでヤメマス。。。

しかし、こう自分のことを振り返ると、先述の「映画の半券」を捨てることが出来たのは、「その映画を見た時」よりも大切な事・時間・人ができたからではないだろうか。確かに今の私は以前の私に比べて、最近手に入ったものについては簡単に処分することが多い。モノに時間の経過を頼っていたのを、ある一人のヒトに頼ることが出来るようになったからかもしれない。今の私には、全ての自分を反映させることのできるヒトがいる。そのヒトと5年の時間を共有している。そのヒトが、私の時間を覚えていてくれる。私はそのヒトに会うまでは、自分の生きた時間をモノに託していたのかもしれない。自分が在ったということを確認したくて。そしてそのヒト自身が私の「プレミア」になり、彼の中で常に更新・上書きされて履歴のできた自分が居ることを確認できた時から、それ以降に手に入れたモノに大した価値を付けなくても済むようになったのだろう。彼がいなくなった時には、恐らくまた彼や彼と居た時間にまつわるモノに頼るんだろうな。

「モノの価値」は「自分の価値」なのか?自分が大事にしてるもの=自分の存在の証なのか??モノには自分が宿っている。大切な人にも自分が宿っている。自分が死んでも、モノは形見として残るし大切な人の心の中で自分は生きられるだろう。逆も然り。ていうことは、「モノの価値」「人の価値」は、いずれも自分の生きている時間なんだ。それでもってモノや人をどれだけか愛した時、モノや人に価値が生まれ、その中に自分を見つけられた時にそれらは「自分の価値」にもなるんだ、きっと。だから、HASENOBUさんも言っていた、「個人的な価値の基準を他人にとやかく言われると、自分そのものを否定されたような気になるん」だあ!って、これはすべて「個人的な価値の基準」で見た時の話ですね。

モノそのものとしての価値は、モノがモノとして使われたとき(鋏が紙を切るとか)にあると思います。そのかわり使わなきゃ価値がない(冷たすぎる?)これは共通の価値ではないでしょうか?電車の椅子にみんなが座りたいと思うのが共通?ドアのところの落書きが個人の価値?「藤岡弘(仮面ライダー)と握手したよ」「うそー!いいなー」これが共通?なんとなく、共通の価値感て、全く当たり前のことか他人に話して鼻が高くなるようなことのような気がする。だって個人的価値なんて他人に話したってほとんどわかってもらえないし他人のもよくわかんないもん。なんかよくわからなくなってきた。長すぎて疲れたちゃった。読む人はもっと疲れるんだろうな。雪見さんごめんなさい。だってみんなのメール読んでたら思うことたくさんになっちゃったんです。なんかね、モノに関しては捨てられないコンプレックスがあったからこんなにムキになってるんだなあ。

No.9  99年6月11日 雪見 → HASENOBU 

HASENOBUさん、こんばんは。(季節の挨拶は紙面の都合により割愛)
今回のわたしのメールはかなり寄り道です。覚悟してください(爆)

実は当初は話題をちょっと新しい方向へ…と思っていたのですが、紅さんのメールを読んで気が変りました。あのメールは正直言って胸にひどくこたえました(笑)。何度も読み返しました、はい。

確かに自分にとってだけ価値があるモノには紅さんが言うように「時間にまつわるモノ」と「自己満足できるもの(言い換えれば「自分の好みのもの」でしょうか)」がありそうです。場合によってはその二つが混ざり合うこともあるでしょう。

時間にまつわる個人の思い出の品について:

過去が過去になりきるのはいつでしょうか。Aくんから貰った誕生日のプレゼントのブレスレット。貰った時には感激したし、それからずっと見る度に彼の愛情がジワジワっと感じられてドキドキしたものなのに。今は見ても特に感慨がわかない。無関心。あってもいいけど、何かの拍子に無くしたとしても特別残念に思いそうにない。Aくんと付き合っていた時代は確かに懐かしいし、いい思い出だと思っているけれど、それはもう完全に過去のことになってしまった…。今は新しい恋をしていて、とっても満足してる…。こんな場合、過去が完結したと言えるのでしょうか。

でも、別の人にとっては過去の恋愛もまだ終わっていない思い出かもしれない。後悔していることがあったり、その恋を凌ぐ恋に出会っていなかったり。そんなときに自分の過去は過去として完結せず、今日に至るまで引き摺ったままなのでしょうか。

そういう未完の過去は一体どうしたら完結できるの? 何か特効薬でもあったら教えてほしいものです(笑)。もちろん、過去を引き摺っているのがイケナイ、と言っているわけではありませんけど。人間、そんなに何でもスパッと割り切れるものじゃない。ぞろぞろ、そこら中に思い出を引き摺りながら情けない思いをして生きるのも、まぁ人生なのかもしれませんけど…。

例えばー、ゆきみ横丁というHPは何年後かにわたしにとってどんな過去になるのでしょう。そして、このコーナーは? 「そんなこともやっていたなぁ」と軽い調子で思い出すのでしょうか、それとも?

そんな風に考えると毎日毎日が未来の「完結しない過去」の増産に思えて気が重くなってきます(笑)。 だからって生きるのをやめるわけにはいかないしねぇ…(すみません、思いっきり後ろ向きのわたし(笑))

それにしても紅さんの言葉、「そのヒトと5年の時間を共有している。そのヒトが、私の時間を覚えていてくれる」、この言葉には負けました…(笑)。過去をなかなか過去にできない弱い人間だからこそ、側で自分を見てくれる人、そして静かに応援してくれる人がわたしたちには必要なんですよね…。その人の記憶の中に自分が残るという考えはよ〜く分かります…。どうか、その方を大事にしてくださいね…。

まだ書きたいことが沢山あるのですが、この辺で泣く泣く止めます。

それから、もうひとつの価値のあるモノ。自分の好みのモノについて。

自分好みであるってどういうこと? 自分と相性がいいこと? そのモノの中に自分を引き付ける「何か」があること?

実はわたしはこの点に非常に興味があるんです。ぼうのメールに三十三間堂の観音様の話がありました。ぼうのお姉さんは同じ観音像を見ても退屈だと感じるのに、なぜぼうは涙を流すのでしょう。それから、たぶんその観音像にぼうと同じように引かれる沢山の人たち(だからその像は優れた造形と呼ばれているのでしょう)は何故その像にひかれるの? 

おかしな例を言うと、最近日本の田舎で突然山の中腹とかてっぺんに、どこかの成金か新興宗教家が大金を投じて建てた(?)真っ白い(或いは金色の)観音像を見ることがありませんか? ああいう像(たぶん有名な像のコピーかもしれないけれど)を見て果たして涙する人がいるかしら、と思ったりするのです。では、三十三間堂の観音様と成金観音とは一体モノとしてどう違うのでしょう。 それは(「これは芸術的で優れたモノです」と誰かがレッテルを貼るよりも前に)長年に渡って多くの人が心を動かされ涙したモノと、全くそうでないモノの違いではないでしょうか。つまり、多数の人による評価がそのモノの価値を決めていると思うのですが。そして、それは「共通の価値観」とはいっても例えば貨幣とは次元が違った価値観のように思われます。

ああ、この件についても、もっと言いたいことがあるのですが、ちょっとここで止めます。

さて、お金、あるいはお金に代わる高価な品物については正直言って、わたしはピンと来ないんです。もともとモノを大事にしない性格に加えて、数字にからきし弱くて、ゼロがいくつ並んでいてもそれがちゃんと把握できなくて(爆)。きっと大粒のダイアモンドを持っていても、うっかりどこにしまったか分からなくなってしまいそうな気がします…。で、この問題についてはHASENOBUさんが後日きっちり論じてくださるだろう、と人に押し付けて(笑)今日は退散〜。





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