メールで話そう

第2弾 モノの価値 ひとの価値


終了後のみんなの感想文(1)


雪見(1. 10. 2000)

ふぅ…。感想文を書かなくては…(笑)。今、ひととおり読み返して深いため息をついてしまいました。ほんとに難しいテーマでしたね。でも、二人とも結構頑張ったと思います(笑)。うん、自分たちを誉めてやりたいと思ったりします(爆)。

抽象的なテーマのせいか、HASENOBUさんとのやり取りに言葉遣いによる誤解があったり、言いたいことをうまく理解できない(理解してもらえない)個所が残ったのはちょっと残念です。「言葉を尽くしても分かり合えないことがある」という事態は覚悟していましたが、言葉を尽くす努力を充分にしなかったような気が(わたしの場合)します。その点は反省しています。

今回のシリーズで恐らく誰もが認める点は、モノにしろ、人にしろ、自分が価値を認めるものには自分という人間(存在そのものやこれまでの人生)が映し出されている、ということではないでしょうか。わたしたちは皆違う人間ですから、価値を認めるものも違って当然だし、価値の度合いも全く違っていることでしょう。そして、自分が大切に思うものを否定されたり乱暴に扱われるということは、即ち自分という人間を否定され乱暴に扱われるということですから、非常に不愉快に思うわけです。

HASENOBUさんの「自分中心主義」という言葉で表されるように、わたしたちの価値観は皆違っています。ただ、今わたしは「自分中心主義」に賛成しながらも、その一方で「もうひとつの視点 ― 個々の自分を超えた絶対的な視点」があるような気がしてしまいます。それはひょっとしたら、No.7のメールでHASENOBUさんが呟かれた「『モノ』と『コト』の境界線が曖昧なように、『個人的な価値の基準』と『共通の価値』についても完全に別個のものとしては考えづらいかもしれません...。」ということにも繋がっているのかもしれません。

最近思うのですけれど…(このHPの「ユーミンを聴いていた頃」にも書いたのですが)今を生きるわたしたちが今この瞬間に感じていることには、人間がその命の営みを始めて以来延々と繰返し感じてきたことが底流としてしっかり流れているんじゃないでしょうか…。星の王子様で「僕」が味わった井戸の水の味、HASENOBUさんがマフラーをもらって思ったこと、ドンちゃんが吹奏楽部時代の品々を時折見て思うこと、などなど、それらはその時初めて生まれた感情ではなく、同じ思いをわたしたち人間は延々繰返し味わってきているのではないでしょうか。わたしが思う「もうひとつの視点」とは、「神」とか「宇宙」とかの言葉も思い浮かぶのですが、意外と、この「ずーっと昔から生まれて死んで愛し続けているわたしたち人間の思いの集積」なのかもしれないなあって思ったりしています。

さて、このシリーズで「ひとの価値」について考えていた時、わたしたちは「自分が他人をどう思うか」について主に話してきましたが、最後の最後に「自分という人間は一体価値のある人間なのか」ということを考えないではいられません。自分という人間を目をそらさずに見つめなくてはならない時、たとえ他の人から「あなたは価値がある人です」と言ってもらっても(そう言われるのは有り難いことだけれど)、自分を「評価」するのはやっぱり自分自身なのですよね。

No.24でわたしは「あなたは鏡理論」の話をして、他人が持つ鏡についてふれましたが、その時、「自分の像は自分自身では外から見られないという問題はある」と言いました。でもよく考えてみると、わたしたちって自分を映す鏡を自分でも実は持っているのです。普段は見たくないのであまり見ないようにしているだけで。わたしは雪見という人間について全てを正しく理解できてはいないかもしれない。しかし、過去も含めて世界で一番雪見のことをよく知っている人間ではある。そんな自分が持っている雪見自身を映し出す鏡…それを見るのはかなり辛いです。

今回のシリーズの難しいテーマを選んでしまったのはわたしでした。猛反省しております(笑)。次回のテーマ選びはHASENOBUさんに全権委任いたしますっ。どうぞ、よろしく!


BOU (1. 11. 2000)

「メールで話そう」感想文

               1年1組(笑) BOU

「モノの価値、ひとの価値」だけで、こんなにも長い間話し合って
こられた雪見&HASEやんに、まずはお疲れさま! 途中に、
サンタクロースやら星の王子様やら、ジグソーパズルやら鏡やらの
飛び道具が登場し、困惑博士のBOUとしては毎回、「フケ〜〜(深い)」
と感心しきりでしたが、とうとうその深いところに潜る勇気がないまま
ラストまで読み終えてしまいました。物を書く作業は徹底的に自分自身
と向き合うことで、どんなテーマを書き続けていようと、最終的には「自分」
に立ち戻ってしまいます。モノの価値、人(他人)の価値を考えながら、
「自分の価値は何だろう? 自分は価値ある人間なんだろうか?」
と考えずにはいられません。社会人としての価値、恋人としての価値、
友人としての価値・・・・・・と、見る人によって自分の価値は大きく変わって
くると思いますが、自分を「価値ある人間」だと、漠然とでも感じてくれる人
って、とても少ないですね。だから、そういう他人はとても大切にしなければ
いけないと思うのですが、だからといって、他人の評価は絶対的ではない
ようです。むしろ、アテにならないものかも知れません。例えばボクは、
年末の忘年会で初めて会った人に、「俺はアンタが嫌いです。本当に
キライです」と面と向って、真顔でいい放ちました(笑)。こんな人はあん
まりいないかも知れませんが、そのときの状況と、相手の話を、ほんの
1時間程度の短い時間で総合して、その結果が「アンタがキライ」です。
ボクはその男の過去や、本当の姿を知らないまま、彼に向って評価を
下したわけです。ひどい人間ですね、ボクは(爆)。でも、彼はボクにとって
価値のある人間ではなかったものの、別の視点から見た人間にとっては
とても価値ある人間なのかも知れない。その人が垣間見せる断片で、他人
の評価はさまざまに転変するから、とても曖昧なものなんでしょうね。もち
ろん、すべてを公平に見られる人もいるのかも知れませんが、神様か、
仏様か(笑)、そんなところでしょう。だからボクは思うんです。自分の価値は
自分で探すべきだって。自分がどうしたらキラキラしていられるか、どうしたら
生き生きと暮らしていけるか、どうしたら価値ある生き方ができるのか、その
答えが分かるのは、自分をいちばんよく知っている「自分」以外にいないんじゃ
ないかって。ある意味「おめでたい」考え方ですが、自分で自分を捨てたら、
きっと生きる意味なんてないですよね。そう考えて、ボクもこれから、自分の
価値を探していきたいと思います。ものすごく難しいことですが(笑)。
看過しがちなテーマですが、ここまでつきつめて思考錯誤されたお二人に
心から拍手を送ります。でも、次のテーマはもっと簡単なのにしてください(爆)



HASENOBU(1. 19. 2000)



 強引にこのシリーズを終え(笑)、そして気がつくと一カ月以上経っていました...。その間に私は誕生日を迎え、平静を装いつつも落ち込んでいました。
 別に「歳を取った...。一歩一歩、死に近づいている...。」というような不安に駆られているからではありません。ま、全然関係ないことはないかもしれませんが、「一年前の自分と較べて、少しでも成長したのだろうか? 少しはましな人間になったのか?」ということを自らに問いかけるとき、うなだれてしまうばかり、ということが歯がゆいのです。(笑) かといって私は「向上心に溢れる人間」でもない...。(爆) だけど、無為にただ一年を過ごしてしまったという事実を前にして、もどかしさが募る、という...。

 ま、それはそれとして。
 この「モノの価値、ひとの価値」シリーズを終えたことで、私は自分自身を誉めようなどという気には、全くなれません。(爆) 雪見さんはともかく、私の文面(というか、私が書いた内容)は、秋以降、完全に失速しています。え? なぜかって? それは、前に「結論は出ないかもしれないでしょうけれども」と書いたにも関わらず、私自身で「自分中心主義」を前面に出してしまったから、です。
 
 雪見さんの感想文の中に、「神」とか「宇宙」とかの言葉も思い浮かぶ、とあったのを読んだときには、とても意外に思いましたが、「ずーっと昔から生まれて死んで愛し続けているわたしたち人間の思いの集積」というものが「もうひとつの視点 ― 個々の自分を超えた絶対的な視点」であるとは、私は思いません。(爆) ま、これまた私と雪見さんとの違いなのかもしれないし、言葉上の行き違いかもしれませんが。

 「自分が大切に思うものを否定されたり乱暴に扱われるということは、即ち自分という人間を否定され乱暴に扱われるということ」について:
 思うに、ここのところがとても微妙な部分かもしれません。いや、「かもしれません」じゃなくって、「部分です」と言い切りましょう。(笑) 
 実は、私の場合は、前のサンタクロース絡みの話題のところで宣言したように(あんまり)気にしません。(爆) 良く言えば「揺らぎない信念を持っている」のかもしれませんし、「聞く耳を持たない頑固者」なのかもしれません。ですので、「自分が大切に思うものを否定されたり乱暴に扱われるということ」が、「即ち自分という人間を否定され乱暴に扱われるということ」だとは、考えません。だけれども、モノ次第では、私だって不愉快に感じるのは否めませんが。
 「わたしたちは皆違う人間」なのだから、この点でも同じかと思います。ということで(ちょっとややこしい表現になりますが)「『自分が大切に思うものを否定されたり乱暴に扱われるということは、即ち自分という人間を否定され乱暴に扱われるということ』だと考える(あるいは、そう感じる)人がいる」ということは、常に私としては意識しておきたい、ということになります。
 このあたりのこと(?)を危惧して、今回の話題が多くの人に敬遠された(笑)のだろうと思います。特に「好き・嫌い」といった、何と言うか、理屈を越えたもののような場合には、好き(嫌い)である理由を問い掛けることそのものが、否定に繋がるものとして受け取られてしまいやすいですし、当然、感情を逆撫でするものとなりかねません。
 この点、「なぜ?」を連発する欧米型の思考方法(...? そう言い切っていいのかどうか分からないけれど)は、私は好きになれません...。(笑)
 もちろん「なぜ?」と問い掛けることが必要な場合があることは認めます。(...。当たり前ですが...。(笑))が、何でもかんでも問い掛ければ答えが得られるというのは間違いだと思います。「少しは自分で考えたら?」と皮肉の一つも言いたくなります。(爆)
 まずは相手の言ったことをしっかりと受け止め、それを尊重しつつ、じっくり考え、そして不明な点を問い掛ける、という、う〜ん、ゆとりというか、努力というか、それを忘れてはならないと思うのです。(このあたりは、私自身に言い聞かせながらの発言です。)
 感想文なのに、妙に老成したような、口幅ったいことを書いてしまい、すみません。>雪見さん、そして数少ないであろう(笑)読者の皆さん。でも、これが今回のシリーズ当初から私が心の奥底で思っていたことだということは、記しておきたくって。(理由は、尋ねないでね。(笑))

 ...。
 最後まで迷走状態のHASENOBUでした...。

 あ、最後の最後になるけれど。ありがとう、BOU。
 BOUの「自分の価値は自分で探すべきだ」という言葉、胸に響きました。この一言だけで、今回のシリーズが消し飛んでしまうくらいに...。(笑) 

 では、また、お会いしましょう!! え...? もう懲り懲りだって?(爆)


とみぃ (5. 14. 2000)

今回のやりとり、とにかくこの企画自体がおもしろくて、それでダーッと読み進めて、いつしか熱病のように入り込んでいたわけなんですが…。
第2弾から読み始めたのは、タイトルが、最近の私の気分とリンクしたから以外のなにものでもありません。(笑)

それはさておき、今回の企画で私が感じた「人との関わり」について…、やっぱり「ある人」にかけた「時間」とか「思い」へのこだわりって、性格にもよるだろうけど、どーにも断ち切れない感情なんだなぁ、と思いました。
きっと「自分を裏切った人」に怒り心頭になるのも、そのこだわり(執着?)がそうさせるんではないでしょうか。大してこだわりがなければ、悔しくもないもの。
「無償の愛」なんて言葉もあるけど…私にはなかなかできない(笑)。
一度誰かと関わりを持つと、やっぱり思いを捧げたぶんだけ、見返りを期待しちゃいます、どこかで。

私みたいな「粘着質(!)」なタイプにとっては、モノに対しても同じ感情があるかも。
果たしてそれが悪いことなのか、無意味なことなのか?
その答えも人それぞれなんだろうなぁ。
共感してくれる人と、理解してもらえない人がいる。
それもわかってはいるけど、つい自分の考え(それを価値観というのかはわかりませんけど)に振り回されてしまうんですよね。

ホントに「人との関わり」って、やっかいだし、難しい。

でも私、読みながらふと気づいたんですけど、私にとって「価値のない人間」なんて、いない。残念ながら「興味がない人」「嫌いな人」もいるけれど、でも彼らは彼らで、反面教師であったり、自分の中の「人に対して抱くさまざまな感情」を気づかせてくれる存在だったりするわけです。
きれいごとではなくて、ホントにそう感じているんです。

今回、そんなさまざまなことを「星の王子様」の言葉や、お二人のやりとりの中での数々の見解から、再認識させていただきました。

ところで私、雪見さんが言った「自分というパズルのピース」…この言葉には強く共感しました。これを一つ一つ拾っていってくれる人、イエ、拾ってってやろう!という奇特な人に、早く出会いたいものです。
そんな人がいたら最高だけれど、たったいくつかのピースだけでも拾ってくれた人…そんな人のことも大切に考えられるような、心の余裕を持った人間に、これからはなっていきたいものです。



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