毒にも薬にもならない話 Part 1


目次
   その1  名前のお話
   その2  「くまき」のお話
   その3  気をつけたい言葉のお話
   その4  「〜と思う」という表現のお話
   その5  否定文のお話
   その6  英会話が上達する教材(1)
   その7  英会話が上達する教材(2)
   その8  「日本人が、日本語訛りの英語で話す」ことについて
   その9  英語が話せるようになるには
   その10  国際会議での日本人の英語

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---その1 名前のお話---

(ちなみにこれはとある方とのメールのやり取りで書いた話です。)

> >「名前で、え〜っ? どうして?」と感じてしまうのもありますが。
>
> たとえば?  この前のサボテンからじゃなくてどんなのがあるんですか?

そうですね、記録取ってるわけじゃないけど、まず思い出したのが、「佳恵」。「よしえ」ではなく、「かえ」と読むのですが、それ自体は別に、どうってことはない。でもその子の苗字が「竹尾」なんですよ。ですから、続けて読むと「竹を買え」と言う感じで....。一体、どうして...?と私は思ったりします。(本人に尋ねたところ、やはり小学校のころは名前でからかわれたとか。)
 それから「うらら」という名の人もいて、幼いころ、山本リンダの曲に、曲名は忘れたけど、なんか、そんな感じの歌詞(?)があって、やはり、相当、つらい目に遭ったそうで...。
 「二郎」っていうのは(最近少ないですが)、まあ、取り立てて珍しくもないけど、やはり苗字が「岩岡」だったもんで、「岩を噛ろう」となっちゃって、呼ぶときには「かじろ〜」と呼ばれていたそうです(友人談)。
 「弥生」ってのも可愛らしい名前ですが、8月生まれだったり...。「え?! 8月?」って驚いたりして。
 「千乃」っていうのも古風な感じでいいのですが、苗字も2音。で、「沖千乃」となると、(言いやすいけど)座りが悪い、というか、バランスが今一つ、考慮されなかったのでは?、という(いらぬおせっかいですが)気がします。
 ちなみに私の娘、「いずみ」と(ひらがなで)名付けたのですが、後になって、「ん? もしも将来、『泉〜』やら『小泉〜』という人と結婚するとしたら?」ってことに気づきました。娘にはまだそのことは言ってませんけど、「泉君」や「小泉君」などとは、あまり親しくなれないかも...。(^_^;)
 友人に、「松島和寿」というのがいるのですが、本人は「母音だけ考えると、『あういああういあ』で変だ...。」と気にしてました。
 本などでは珍名などたくさんありますが、実際、遭遇することは、そんなにありませんね。(電話帳など調べるとおもしろいけど。)友人では「茶木谷」(もじどおりの読み)というのがいました。

 さて、ここでクイズです。(おいおい...。) 家内の実家のはすむかいに「京」という苗字の家があります。「京」の一文字で何と読むでしょう? ヒントは「4文字」だということで....。

じゃあ、また!!
---追記 で、ちなみにこの「京」というのは「かなどめ」と読みます。想像つくかもしれませんが、昔の「いろはすごろく」では、「京」がゴールだったわけで...。で、「いろはにほへど・・・」の最後に来るのだから、「かなどめ」。本当だよぉ。作ったんじゃないよぉ。(虚しい叫び声)
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---その2 「くまき」のお話---

今解き明かされる「くまき」の由来!
ってそんな大げさな話じゃないんですが...。
 「くまき? それ何ですか?」と言われることもしばしば。(あ、冗談です。) が、私の近い友人達はほとんどその「くまき」の正体・起源を知っています。(と、思う。)

 時は、そう、(何が、そう、なんだか...)1980年のとある大学の「学習心理学」の講義のまっただ中。担当教官のS先生は、ダンディーな中年紳士。その語りかけるような話しぶり、上品な物腰(笑)で、私達の尊敬を集めている助教授でした。
 で、その彼が「エビングハウスの忘却曲線」についての説明をしている時のことでした。
 有名な学説なので説明は不要かもしれませんが、念のため。「エビングハウスの忘却曲線」というのは、エビングハウスというドイツの心理学者が行ったとある実験の結果を曲線で示したもの、です。その実験というのは「意味的な関連のない語をランダムに選び、学習者に示し、記憶するように指示し、時間の経過とともにどれだけ正確に思い出せるか、逆に言えば、どれだけ忘れてしまうか?」の実験なのです。その実験の結果というのは、至極当然のことなのですが、「意味的に関連のないものは忘れられやすい、一方、関連づけられて覚えられた語は定着度が高い」というツマラナイものでした。(ですから「記憶法」とやらいうものに「イイクニ作ろう、鎌倉幕府」とかの音遊び的な要素を盛り込んだり、何らかのストーリー仕立てで覚えると記憶の持続効果が得られる、ということになるわけです、はい。)
 で、さらにエビングハウスは「無意味な単語の場合はさらに忘却の度合いが激しい」ということも実証したわけです。で、そこでそのS先生、「ですから、たとえ関連性がなくとも、ちゃんとした『ピアノ』やら『学校』といった有意味な単語よりも、そうですね、例えば『くまき』などのような意味のない単語の方が覚えるのには困難である、というわけですね。」とおっしゃったのです...(前半はうろ覚えですが)。
 くまき...。あぁ、なんて素晴らしい...。その時、私を含め、何人かの学友は思いっきりその単語に魅せられてしまったのです。(ほんの一部の人間です、そんなことがうれしいのは。)
 以来、仲間内では「意味のないこと」、さらには転じて「無駄なこと」を「意味する」ものとしてこの単語が使われることとなったわけです...。
 ということで、なぜここが「くまきの部屋」なのか、おわかりいただけたと思います。はい、ここまで読んで、「あぁ、時間を無駄にした。」と思われたあなた、私の思惑通りです。(爆)
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---その3 気をつけたい言葉のお話---

 「一番」やら「絶対」という言葉を平気で使う人がいる。それも結構な割合で、である。言葉に無神経な人達と言ってしまえばそれまで、だが。
 もちろん、例えば明確に数値で表されるものや、二者択一の事柄であれば問題ない。例えば「今回のテストでは***が一番の出来だった。」やら「私の部屋には窓が絶対2つしかない。」(何なんだ、この文は...?)などのように。
 ところが、上記の人達は「〜するのは一番身体に良くない。」だとか「あの店は絶対においしい。」などと、いかにも涼しげな顔でのたまうのだ。
 そんなとき、まず殆どの場合に「おいおい...。」と私は思う。前に別のところで述べたが、「どうして『一番』なんて言えるわけ? それは、あらゆる可能性や事例を念頭に置いての発言?」と思ってしまうのだ。(ちょっと自分でも悲しいのですが。)

 先日、帰省した。そして母から「タバコは身体に一番悪い。」と繰り返し聞かされた。もちろん母が私の健康のことを気にしてそう言うのは分かっている。が、心のどこかで反発しているHASENOBU...。「タバコよりもヒ素やら水銀を飲んだりするほうがもっと身体に良くないし、簡単に手に入るガソリンや軽油も飲むときっと身体に良くないと思うけど...。プラスチックを燃やしたときの煙やシンナーやらもタバコより有害だと思うけどなぁ...。挙げていけば幾らでも出てきそうだよ。」などと、口に出して言わないものの、思ってしまう。
 かと思うと夜、独りジンを飲んでいると「寝酒は身体に一番悪い。」などと母は言う。「あれ? 一番身体に悪いのはタバコじゃなかったの?」と言い返したくなる...。
「またそんな屁理屈を言う!」とますます怒られるのは自明の理なので何も言わないでいるが...。
 やれやれ...。
 「世界中の全ての女性と話したことがあるわけでもないし、その人達全員に会ったわけでもない。きっと世界のどこかには最適な女性がいるとは信じている。だけど、今まで会った女性の中では多分一番、君のことが好きだと思う。」などと言って妻を口説いたわけじゃないのですけれども。

 でも、これを突き詰めてゆくと約束はできなくなる。「多分8時に来る。もしかしたら途中で事故に遭うかもしれないし、地震が起こって電車も止まるかもしれない。家族の誰かが倒れたと連絡が来るかもしれない。だから『絶対来る』や、『きっと来る』や『必ず来る』とは言えない。」なんて言ったら、「こいつ、本当に来る気があるのか?」と怪しまれることだろう。(あ、別にHASENOBUがいつも約束を破る人間だ、というわけではありません。HASENOBUは憶病者ですからあんまり約束を破ることはないです。絶対、ではないですが。)

 ま、言語の経済性や強意的な表現方法ということを考えれば、そういう言葉を使うのは理解できなくもないのですけど、それでもちょっと...、ね。
 (ああ、尻切れトンボの典型...。)
---1998年8月 書き下ろし---
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---その4 「〜と思う」という表現のお話---

 先に書いたことと通じる部分があるのですが...。
 「事実の叙述」と「事実・事物についての感想」は峻別されねばならない(と思う。)が、その区別というか、境界線は曖昧模糊とした部分がある。
 「私の部屋にはギターが4つある。」というのは、思うだとか思わない、といった問題ではなく、事実であり、言い切ることのできる事柄である。が、「そのギターはどれも私が奏でると素晴らしい音がする。」というのは主観であって、場合によってはただの思い込み、妄想であるかもしれない。(爆) そこに邪悪な意図が盛り込まれれば、それは法螺であったり嘘であったりもする。(もちろん、「私の部屋にはギターが4つある。」という文にしたって、発話者の精神状態の具合によっては思い込みであったり(爆)、嘘であったりもするが。)
 では「あの人はやさしい人だ。」というのはどうだろう?
 言うまでもなく、これは、ただの感想である。この言明が事実であるかどうかはすぐに例証できるものでもないし、「やさしい」という形容詞の定義次第で真となったり偽となったりするものである。(と言うか、そういう範疇付けにそぐわない、のである。)
 「このケーキはおいしい。」は?
 はい、これも感想ですね。他方、「少なくとも私がそれと同じケーキを食べたときに、私はおいしいと思った。」と言うのは、より正確かもしれないけど、かなり警戒した表現ですね。
 じゃあ、(1)「あの時、信号は青だった。」は? (2)「その頃、僕は孤独だった。」は? (3)「彼は歌をうまく歌った。」は? (4)「その部屋には誰もいなかった。」は? (5)「あの店はいつ行っても混んでる。」は?
 どうなんでしょうね...?
 普通に考えれば(1)と(4)、(5)は事実の報告・叙述、そして(2)と(3)とは感想(の報告)のようですが、全くその逆、ってこともありそうで...。
 基本的に「評価の形容詞を含んだもの」や「知覚絡み」のものは感想だと解したほうがよさそうですね。それが複合的に使われて「その素敵な女性は私に恋心を抱いていた。」なんてのは...?(笑) そんなこと言われたら、もう、疑ってかかるしかないですね。(爆)
 ん〜っと、別に、「人の言葉は疑ってかかれ!」という主張をしたいんじゃないです、はい。ただ、場合によっては突き詰めて考えて、何でもかんでも鵜呑みにしないようにしないといけないんではないでしょうか、ってことを言いたかっただけ。(のような気がする。)
---1998年8月 書き下ろし---
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---その5 否定文のお話---

 またもや唐突なタイトルですが、一般に、否定文は、肯定文に較べて「情報量が少ない」ということについて、です。
 例えばHASENOBUが自己紹介をする、としましょう。その時に「私は18世紀の人間ではありません。作家ではありません。登山家でもありません。16人の子供がいません。長女の名前は『恭子』ではありません。バス通勤をしていません。左手の甲にほくろはありません。飛行機で墜落死したこともないのです。クリントン大統領と握手した経験はありません。(以下、延々と続く...。)」と言ったとしたら...?
 上の否定文の内容は全て真実ですが、だからといって「ほぉ〜...、HASENOBUはそういう人物なのか...。」と納得してくれる人は、まず、皆無でしょう。
 かのように、否定文は情報量が少ない、のです。
 もちろん、「私の友人の甲斐圭介氏は横浜に住んでいます。」といった発言も、自己紹介の際にはほとんど用をなさないのではあるけれども、「じゃあ、たまに横浜に遊びに行ったりするのかな?」という推測を導きうるという意味において、上記の否定文の羅列よりは有意義でしょう。
 では、このように情報量の少ない否定文が、かなりの頻度で実際の言語生活において用いられるのはどうしてでしょう?
 また、否定文ではなく「対義語」を使った文はどうでしょう? 二重否定の文が使われるのは何故でしょう?

 と、質問でこの文を終わらせます。私なりの答えはありますが、書くと長くなるんで書きません。答えのお問い合わせも御遠慮願います。(爆)
---1998年8月 書き下ろし---
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---その6 英会話が上達する教材(1)---

 時折、新聞の一面を使い切っての「英会話教材」の広告がある。
 「知らないうちに英語で笑っている私がいた!」だとか「アメリカの赤ちゃんは文法を知らなくても英語が喋れるようになる!」といった体験談やら小見出しのある、あの(どの?)広告である。
 営業妨害になるかもしれないんで具体的な名前は挙げないが、何となく胡散臭い。胡散臭さで言うとテレビの「福留某」や「関口某」などが司会で出てくる番組と同じくらいである。
 私自身、英会話には興味がなく「日本に来る外国人は日本語を学べ!」という主義を持っている。(以前は、どうせ日本で暮らすのだから、英語なんて喋れなくたってちぃ〜っとも構わない、と思っていたが、現在の職業に就いてから海外へ出張しなければならない用事も出てきて、焦って「英会話」の練習をし、ペラペラではないもののたいていの話題なら聞き、話すだけのレベルにまでは行ったと思う。)
 通常の日本人が英語に接するのは中学入学以後、である。私もそうだった。しかし、現在の中学、高校での英語教育がコミュニケーションを主体としたものではない限り、「自由に英語でやり取りをする」という所へは行かない。(「行かない」もなにも、そういうことを目指してないのですから。)
 で、先程の英会話教材の話。そういった英会話教材を使ったことがないのだが、はっきりと言い切りましょう。そんなのは嘘っぱち。だまされてはいけません! 一つ一つ論拠を示しながらの説明が望ましいとは思うが、そこまで暇ではない。(と言いつつそもそもこんなことを書いてるんだから結構、暇なのかも...?(爆))
 ここではポイントとなる2点だけに触れておきたい。
 第一に、通常の日本人は、すでに「日本語」という母語を習得してしまっているのを忘れてはならない。(「母国語」ではありません。「母語」です。「母国語」という言葉には、国家という政治的な概念が含まれていますので正確ではありません。)言語の習得の臨界期というのをお聞きになったことがあるだろう? 色んな説があるが、6歳頃までに言語に触れていないと人間はどの言語も覚えられない、というものである。(だから中学から英語に接するというのは遅い、というのではない。むしろ日本語もしっかりしないのに幼児英語教育、なんてとんでもない、と私は思うのですが。)
 我々が英語を学び始める時期には既に「母語」として「日本語」を習得してしまっているのであるから、人間の言語習得装置の各種パラメタは「日本語」用に設定されているのである。だから、言語系統上、類型の全く異なる英語は、それこそ異質であって、同じインド・ヨーロッパ語族を母語に持つドイツ人やフランス人が英語を学ぶこととは根本的に難易度に差があることにもなる。
 ちょっと話がずれたが、日本語を身につけた以上、その呪縛からはなかなか脱皮できないのである。「英語で考える癖をつければ英語なんてすぐ話せる」などというのも私には信じられない話である。
 で、その「日本語を身につけたとき努力しましたか? していないでしょう? だから、英語を覚えるのにも努力など要らないのです。アメリカ人の赤ちゃんが英語を覚えてゆくように私たちも英語を覚えればよいのです!」などと例の広告では謳っている。
 あのねぇ〜...。本気でそんなこと言ってるのかなぁ...? そしてこんなのを「あ! そうなのか!」と鵜呑みにしてしまう人もいるのだろうか...?
 確かに日本語を覚えるのに努力した記憶は、ない。ものごころがついたときには話せるようになっていたし。でも、生後から5歳くらいの間の父・母、その他周りの人々の努力はいかなるものか? まだ何も言えない赤ちゃんを相手に「ほ〜ら、これが『本』ですよ〜。」と繰り返し繰り返し言い聞かせ続けてくれたその労力はどうなんだ?
 私たちは日本語を使いこなせる人間なのだから、それを「アメリカ人の赤ちゃん」と同じに考えてもらってもどうしようもないのではないか?(続く)
---1998年9月 書き下ろし---
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---その7 英会話が上達する教材(2)---

 第二のポイントは、結局、「英語がしゃべれること」が普通の日本人にどれだけ必要なことなのか、ということと関わっている。
 「仕事で必要だから」、「ボケ防止のため」など、色々な理由があるかもしれない。ああいった英語教材に手を出そうというのは、まぁ、(きっと本人にとっては深刻な)それなりの理由があるのだろうが。しかし、身の回りを見渡してみても「英語がしゃべれないと暮らしてゆけない」というほどの危機的な状況はあまりないのではなかろうか?
 映画にしたって字幕がある、小説にしたってすぐに翻訳が出される。こういう娯楽の範疇を引き合いに出しても始まらないが、「英語が全然話せない」というので何が困るというのだ、現在の日本で?
 そう言ってしまっては身もふたもないが。
 別に英語が話せることを特別なものにしたいわけではない、念のため。言いたいのはそのような英語教材の広告が「何年も勉強したのに英語が話せないことは恥。 国際化社会に生きる現代人は英語なんか話せて当たり前」みたいに思わせる(節がある)のであれば、それは困ったことだ、ということである。
 そのような英語教材、あるいは英語講座の料金は、安くて3万円、高いものなら20万円を越えるようなものもあるだろう。(事実、そういう高額な語学テープ一式をつい購入してしまい、どうしたら解約できるのか等々といった苦情や相談はマスコミなどでも取り上げられているようだし。)
 これからアメリカに移住して一生をそこで暮らす、というのなら、ま、そこまで切羽詰まっているならそういう教材にすがってみてもいいだろう。効果のほどは定かではないが。
 しかし、本屋に行けばちょっとした「語学書コーナー」もあって選ぶのに困るくらいの種類の参考書もあるし、ラジオやテレビでも英語の講座がある。そういうもので何が不満なのか? 何か一冊でいいから完全に暗記してフレーズが口をついて出てくるほど真剣にやったことがあるのか? 忙しければタイマーで録音して欠かさずラジオ講座を一年、通して聞いたことがあるのか? そういう身近なものを試して、それでも駄目だった、というのであれば、おそらく、高価な講座や教材一式を試しても無駄だろう。(ま、考え方によっては、「〜万円も払ったんだから、今度こそ絶対に効果を挙げて見せるぞ!」という動機づけがなされ、学習に身が入る、という意味では勧めることもできるかもしれないけど。)

 「英語が話せる」ことは、決して特権的なことではないし、血のにじむような努力を要するものでもない。また、「英語を〜年間も勉強したのに話せない」というのも恥じることではない。(前にも言ったように、中学、高校の英語の授業は決して「英語で話せること」を主眼にしてはいないのだから...。現在では「コミュニケーション重視」ということが文部省では言われているが、大学入試が抜本的に変わらない限り、多くは期待できない。中学、高校での英語教育、大学入試での英語の位置づけ、などについては、別の機会に。)
 ちょっとした日々の努力を重ねてゆけば英会話なんて身につくのに...。ま、2,3日で、というのは無理な話ですけれど。語学を身につけるには何と言っても反復練習が必要ですから。私も娘に「とうたん。」の一言をいわせるのに「はい、『とうさん』って言ってごらん。」と何度繰り返したことか...。数えてはいないけれど、少なく見積もって300回は言ったと思う...。
 でもこの繰り返しを自分でちゃんとやれば、必ず英会話だってできるのに。なのに「駅前留○」とやらの英会話学校が全国に蔓延してゆくという不思議な状況...。
---1998年9月 書き下ろし---
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---その8 「日本人が、日本語訛りの英語で話す」ことについて---

 これについてはとある方が HASENOBU's Message Board に記されたものをまず引用します。

(引用始まり)
 で、体験的なことから言えば、案外コミュニケーションは取れるものです。
 相手は翻訳機じゃなくて人間ですからね。
 僕たちが外国人の少々崩れた日本語でも理解できるのと同じで、
 多少発音がbrokenでも、文法が変でも(borrowとlendを間違えたことだってある^-^;)
 理解してくれるものです。あとは根気ですかね…
(引用終わり)

 そうです。この方のおっしゃる通りだと思います。良い意味での開き直りも必要でしょうし、まずは、言いたいことがちゃんと相手に伝われば、それでいいはずなのです。ただ、その際に、訳もなく妙にくだけた表現を使ったり、また sea と she がまるっきり同じ発音、というのは無闇にコミュニケーションの円滑さを損ねてしまうという意味合いにおいて障害になるかもしれません。完璧を求める必要はないにしても、ある程度の正確な表現、発音は大切であろうと思います。お互いがじかに話をするという状況であれば、ジェスチャーや表情などが大きくものを言いますから問題は少ないものの、そればかりに頼ると電話でのやり取りで困ったことになってしまいます。
 郷に入っては郷に従え、の言葉のごとく、海外、それも英語圏の国であれば、英語を使って話す(もしくは「話そうとする」)姿勢が相手に対する礼儀だと思います。免税品店や土産品店などでレジに並んで「なにのろのろしてんのよぉ〜! さっさとしてよ、もぉ〜!」なんて叫ぶ日本人、見たことありませんかぁ? 別に高見に立っているつもりではないけど、極めて不愉快ですよね。
 我々は日本語を母語としているのですから、そして日本にいるかぎり英語で話さねばならないような状況は極めて稀なのですから、当然、我々の話す英語の中に日本語の音体系の一端が見え隠れしてもちっとも不思議ではないのです。
 通訳などの英語を話すプロなどは例外でしょうけれども、普通(?)の日本人、さらには英語教師も含めて「正しい英語で正確に発音する」ということは必要ない、と思います。(決して自己を正当化するわけじゃなく。)
---1998年9月 書き下ろし---
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---その9 英語が話せるようになるには---

 それには、英語を話す人を恋人にする。(う、すみません...。)
 おそらく、それは有効な手段でしょう(経験がないのでわかりません...)が、私自身のことを振り返りながら話をしましょう。
 中学、高校、大学、そして大学院、と合計12年間、英語を学んできましたが、その間「英語で話したい!」と強く思ったことはありませんでした。ので、当然、話す練習もしたことはありませんし、「知らないうちに英語で笑っていた自分がいた」という神経障害のようなことになったこともありませんでした。
 ですが、英語教師として赴任したとある高校に「英語指導助手」のアメリカ人が定期的に巡回してきたときには「あ、ちょっとは練習したほうがいいのかなぁ...?」と思うことはありました。しかし、その高校は(一応)進学校でしたし新米教師であったHASENOBUは自分の英会話力の向上よりも身につけねばならないことが他に多くあったのでした。
 ところが、ひょんなことから現在の大学へ転職し、同僚の中に何人もネイティブの英語教師がいる(現在は6名)という境遇に相対してしまい、しかもほぼ毎年、アメリカやカナダでの学生の語学研修旅行で引率教師として行かねばならないということに...。この時点で、初めて焦りました...。
 そこで、どうしたかと言うと...。
 まず、唐突ですが、「自分の知らない単語を相手が言ったとしたら聞き取れない」ということに賛成してもらえますか? これは「自分の知らない単語を話の中では使えない」ということと同じくらい当たり前ですね。であれば、次に「自分の知ってる単語を自分がちゃんと発音できれば、相手がそれを言ったときに聞き取りやすい、ということになる」っていうのも御了解していただけますね?
 ということで、まず、私は「聞く」練習を始めました。最初の段階では英語の教科書に付随しているテープをテキストを眺めながら聞き、次にテキストなしで音声に集中して聞き、何と言っているかが聞き取れるまで繰り返し聞く。(しまいには一部暗記してしまうほど繰り返す。)
 それから自分でテキストを見ながらできるだけテープの音(個々の単語の発音、スピード、イントネーション)を再現するように声に出して読む。次には、テープの音に合わせながら読む。場合によっては(覚えてしまっているので)テキストも見ずにテープに合わせて発音する。
 という極めて地味な作業を繰り返し行いました。
 これは、効果があると思います。教材は何でもいいのです。例えばラジオ講座の1週間分のダイアログでも。本当に暗誦できるくらいにまで繰り返したら、次へと進んで行けばいいのですし、焦って先へ進むことを考えてはなりません。
 前に触れた書店の語学コーナーにある「英会話フレーズ集」のようなものでもいいでしょう。目移りして何冊も買い込む必要はありません。自分のレベルに合う(もしくはちょっと上)と思われる1冊だけをテープ(最近はCDもありますが)と共に購入し、やり遂げるのです。
 HASENOBUのお薦めとしては『必ずものになる 話すための英文法』(研究社出版刊)です。前書きにも、私が上で述べたようなことが書かれています。「30回くらい繰り返しても駄目。せめて80回くらい繰り返すよう」にその著者は述べています。私も同意見です。
 地味なんだけど、やっただけの効果が挙がるはずです。(その意味で英語(英会話を含む)は、やりがいがあると思います。やっただけ報われるんですから。)
 もっと言うと、別に新しい本を買わなくっても、もし中学時代の英語教科書が手元にまだあるのなら、それでも結構です。よく言われますが、中学3年までの英語を完全に身につけていれば、英会話はもとより、書いたり読んだりするのにも困らないのです。(単語だけは適宜、増強しなければなりませんが。)
---1998年9月 書き下ろし---
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---その10 国際会議での日本人の英語---

直接見聞きしたわけではないので、以下の文面の中に事実と異なることがあるかもしれません。
その場合は御容赦ください。

 国連や、その他のいわゆる国際会議において日本人の「英語力の乏しさ」について語られることが多い(ような気がする。)別に「国際会議」と限定しなくても良いかもしれない。何カ国からかの代表が集まった社内会議のようなものでも、あるいは大学のキャンパスでの各国からの留学生の井戸端会議でも良いかもしれない。
 そういう時に、例えばインドやフィリピンなどのアジアの国からの人達の話す英語が「圧倒的なスピードで、日本人は発言もできずしどろもどろになってしまう」というようなことがあるらしい。(良くは知らないんだけど。)
 で、決まったように「日本人は大学まで含めて10年も英語を勉強しているのに、ろくすっぽ話せない!! 一体、日本の英語教育は何なんだ!!」という暴論へと話が展開してゆく。
 だが、ちょっと、ちょっと。
 別項で述べたこと(日本の英語教育は決してコミュニケーションを第一に考えていないということ)も当然忘れてはならないが、もう一つ、知っておかねばならないのはアジアの国のほとんどでは高等教育が「英語」で行われている、ということである。
 一つの国の中に幾つもの公用語が存在する、あるいはその言語そのものが高等教育での使用を不可能とさせるからなど、様々な要因はあるかもしれない。だが大学(場合によっては高校も?)での授業が全て英語で行われる、という状況を想像していただきたい。
 そもそも、例えば「有機化合物」や「原始共産主義」や「構造的意味論」などといった語彙が存在しない言語が公用語であれば、如何せん、英語を使用しなければ教育そのものが成り立たない、といった国もあるのであって、そのような「英語を使わざるを得ない国」からの留学生(その殆どはその国家のエリート)と「英語なんて知らなくったって一向に差し支えのない国」からの留学生の英語力を比較しても意味がないのではないか? ましてや、そのような事象から「日本の英語教育は時間の無駄だ!」とまで結論づけられたら...。

 こういうことを書くと「あ、HASENOBUは自分が英語の教師だから、そうやって日本の英語教育界をかばおうとしているんだな...。」と思われそうで困るのですが...。私自身、確かに昔は「英語教師」だったし、今も「外国語科」の教師ではあるけれども、自分ではあまり「英語教師」という意識はありません。(確かに「英語の統語論」は中心的な専門分野ですが、自分では、大きく言えば「言語学」が専門で「意味論」と「語用論」とが現在の私の本当の専門だと思ってますので...。)
 う〜ん、それでも誤解されてしまいそうですねぇ...。
 では「なぜ、日本では英語が義務教育である中学校で教科として採用されているのか?」を考えてみて下さい。どうして「韓国語」でもなく「ポルトガル語」でもなく「英語」なのか? なぜ、英語を一生、使わなくってすむであろう地域の中学生(極端な例で言うと、親の跡をつぐ、と心に決めている離島の漁師の子供だとか)も英語を学ぶのか? これらについて自分なりの明確な答えを出してから、日本の英語教育(の誤り、進むべき方向)について語れるのではないのでしょうか?(すみません、挑発的な書き方で...。)
---1998年9月 書き下ろし---
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