毒にも薬にもならない話 Part 3


目次
   その21  大学の教員
   その22  教科書
   その23  母の話
   その24  アメチョコサン
   その25  じゅその行動(1)
   その26  じゅその行動(2)
   その27  魔法の鏡
   その28  猫より始末の悪い
   その29  間違いの指摘
   その30  観葉植物

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その21 大学の教員

 N氏の勤務先はとある短期大学であり、N氏はそこの教員である。で、短期、という冠(?)が付くものの「大学」であることには変わりなく、一般的には「学者」と呼ばれることになる。
 ま、そんなことはどうでもいい。
 で、大学の教員、というものには3つの仕事があるとよく言われる。それは「教育・研究・雑務」である。自明のこととは思うが一応、解説しておくと、「教育」というのは「授業をすること」とほぼ等価であると考えてよい。(厳密には「教材研究」も含まれるが。) 「研究」というのは、それぞれ各自の専門分野の研究をして学会で発表したり論文としてその成果をまとめあげることを言う。そして「雑務」というのが、ま、今言った「教育・研究」以外の仕事のことであり、具体的には、大学の中の色々な委員会の仕事、学科内の仕事、学生指導、その他諸々を指すと考えてよい。
 で、この「3つの仕事」は、大学が違うとかなり比重(というか、配分)が異なってくる。特にN氏のところのような弱小短大では最後の「雑務」の度合いが高くなる。
 そしてN氏の場合、一年を平均して言うとこの3つの仕事の比率は「2:1:7」くらいの割合になっている。(爆) 決してN氏がものぐさだとか、研究心(?)に欠けている、というのではない、多分。(笑) ちなみに、大規模大学、国立大学、特に名声のある大学などでは、恐らくその割合は「2:7:1」くらいであろう。(笑)
 18歳人口の低下に伴う受験者、入学者の減少は特に短大にとって死活問題である。よって、何らかの策を講じなければならない。高校を訪問したり広報を発行して宣伝したり、公開講座を開いて地域に対しての貢献度のポイントを稼いだり、高校生の興味を惹くようなカリキュラムを作ったり、学科を改組したり、語学研修やその他の課外活動の企画・運営をしたり...。
 この夏などもN氏はほとんど夏休みを返上してカリキュラムを練っていた...。他の大学へでかけ情報を得たり、入手できた他大学の学生便覧に掲載されている課程表(カリキュラム)を検討したりもした。休みを取ったときでさえ常にカリキュラムのこと、2年後の改組のことがどこか心の中でひっかかっていて、N氏は本当に寛ぐことはできなかったと言う。(というか、それは、今でもそうらしい。)

 が、N氏の同僚の中にも色々な人がいる。N氏はあまり具体的には書かないが。(笑) 2カ月の夏休みの間、数回しか出勤しないような教員も一人や二人ではない。普通の日でさえ講義時間以外は学校にいない人もいるそうだ。かと言って、そういう人達が目を見張るような研究業績を挙げている、というわけでもないのがN氏には不思議である...。(笑)
 「一体、そういう人達は何をしているのだろう?」と時折N氏は不思議になる。

 N氏は「頼まれると断れない、弱気な人間」だと自分を評する...。(爆) 所属する学科には11名の専任教員がいるが、6名の外国人には委員の仕事は回されない。よって、残りのスタッフは5人だが、その中の3人に雑務は集中しているらしい。そして、運の悪いことにN氏はその3人のうちの1人となっているらしい...。(爆)

 N氏は自分がもはや「学者」でも「教師」でもないのではないか、と不安に思い、学生達に申し訳ないと思っているらしい...。そしてN氏は時間が取れたときに専門書を読んでいないことが多い自分が悲しいとも思っているそうだ...。
(1998年12月 書き下ろし)
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その22 教科書

 12月...。
この頃になると私のもとには数多くの郵便小包みや宅配が届くようになる...。「ほぉ...。そんなにお歳暮をもらうのかぁ...。」と思った方、残念でした。(何なんだ、この小学生みたいな書き方は...?)
 それらは「教科書の見本」である。多くの説明は不要だろうが、この時期になると翌年の担当科目も決定するので教科書出版社がこぞって献本を送り付けてくるのだ。
 「教科書カタログ」を送ってきて、そして目ぼしいものがあったら同封の「審査用見本請求のハガキ」で折り返し連絡するように請う出版社は常識のある出版社だ。
 だが、中には自宅にも、そして職場にも(全く同一のものを)送り付けてくる所もあるのだ...。頼みもしないのに「これなんか、どうですかぁ?」と言わんばかりに何冊も送ってくるのである。
 初めのうちは、嬉しかった。(爆) ただで何冊も英語の教科書が送られてくるのだから。(笑) 定価を合計すると何万円分もの本が送られてくるのだ、しかも無料で。(し、しつこい...。)

 昨今の英語教科書は、高い。(きっぱり) 専門書でもないのに二千円以上、というのも少なくはない。「えっ? こんなに薄っぺらいのに...?」と思いたくなるような教科書でも千円以下ということは滅多にない。上に書いた「自宅にも、そして職場にも」送り付けてきた会社のを確認したら1セットは10冊で、その金額は18,000円ほどだ。合わせて36,000円分!!
 もちろん、一部でも数多く採用されたい、と教科書出版社が願っているのはよ〜く分かる。
 でも、同じものを重複して送り付けるくらいなら、その経費の分を教科書の値段の引き下げに使ってもらいたいほどである。

 ということで、私の職場の部屋の書庫にはそういった無用の教科書が少なく見積もって500冊はある...。(1000冊くらいあるかも...?) 棄てるのも忍びないので年に何度か部屋の前に段ボール箱を置き、その中に不要の教科書を入れて「興味のある学生は自由に持ち帰りください!」と書いた紙を貼って処分している有り様である...。
 もしも、この「くまきの部屋」の読者の方で大学の英語教科書が欲しいという奇特な方がいらっしゃれば、喜んで差し上げますので、御希望の分野(時事英語、英文法、英作文、文学、エッセイなど)を明記の上、HASENOBU までメールをください。適当なものを探してお送りします。(でも切手代だけ、後でくださいね〜。使用済みの切手やベルマーク、ブルーチップの類は遠慮しますが。)
(1998年12月 書き下ろし)
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その23 母の話

 これまた、いきなり、って気もしますが。(笑)

 いつの日からか、母は変わったような気がする。(爆) うまく書けないのだけれど。別にある特異な体験を機に人格が変わった、とかいうのじゃない。(笑)

 私の幼い頃、母やかなり厳しい人だった。父に買ってもらったばかりの魚捕り(?)の網を持って淀川に魚を捕まえに行き、そして足を滑らせて全身ずぶぬれになって帰った来た私を、母は厳しく叱責し、そしてその網を私の目の前で折ってしまった。(笑) 根に持っているわけではないが、印象深い幼い日の想い出の一つである...。
 また、小学生の頃は必ず学年ごとに「ドリル」を母から与えられ、毎日一定量やらされていた記憶もある。当時は進学塾というものなかったし、仮にあったとしてもそんなところへ子供を通わせる経済的余裕など私の家にはなかったと思う。が、読書好きの私が本を欲しがると必ずといっていいほど買ってくれたし、そんな時、私は子供心ながら「こんなに本を買ってもらっていいのだろうか...?」と多少、後ろめたい気がしたものであった。(もちろん、学校の図書館や市立図書館などから本を借りたりしてましたが、中には、どうしても所有したい本などがあったんです、はい。)

 昭和10年に農家の次女として生まれ、中卒で就職し、そして誠実さだけが取り柄の平凡な男(ごめん、お父さん!)と見合い結婚し、子育てをしながらも内職や仕事を持ち、働き続けた一人の女性...。(冷めた書き方だけれど。) 母にとっては金銭的に安定した生活を送ることが日々の願いだったのかもしれない。ことあるごとに「うちの父さんが公務員だったらねぇ〜...。」と溜め息混じりに呟くのを現に何度も耳にした。

 ということで、私も兄も公立の高校へ、そして地元の国立の大学へと進んだ。本当は、私は大阪外国語大学に行きたかったのだけど、仕送りも要らない、と言ったのだけれど両親から反対されて引き下がった...。「ほぉ〜、気概のないヤツ...。」と思われたかもしれないが、年子の兄が一浪したため、私の立場(?)は限られていたし、それまでの両親の苦労を目の当たりにしていた私には自分勝手なことはしてはいけないと自己規制したのである。
 滑り止めに私立大学を受験することもなかった。「絶対」合格する自信はあったし。(爆) ただ、万一のことを考えて「税務大学」(!)の試験は受け、それは合格していた。だからもしかしたら、今のような生活ではなく、もっと事務的な時間の過ごし方を要する暮らし(?)を送っていた可能性も皆無ではないわけで、それを思うと、これまた不思議な気持ちだ。

 話がそれてしまった...。
 で、私は、実にいい加減な気持ちで小学校教員の採用試験を受けた。当時、私の学部からは7割程度の合格率だったはずだが、私は残り3割に入った。(笑) ま、自分では小学校の先生は向いていない、と自覚していたし、友人が夏休みも毎日図書館で受験勉強をしているのを尻目に自動車学校に通っていたりした(爆)のだから、落ちたのは当然かもしれない。が、それでも「公務員は最高の職業」と信じている母には私の不合格はショックだったと思う、きっと。(私も、それなりにショックだったけど。)
 私としては本格的に英語の文法研究をやりたい、と思い始めていたため、それなら大学院へ進もう、と思った。で、この際(笑)県外に出たい、と思って、実際、受験もした。が、他の受験者は英文学を専攻していた者ばかりである。私がカエルの解剖やマット運動、ピアノのバイエルの練習をため息をつきながらやっていた時に色々な詩人や作家の作品を鑑賞して来た者ばかりである。私の付け焼き刃の英文学の知識がかなう訳はない...。試験の4つの分野の中で、総合英語(?)と言語学の試験はかなりできた、と自分でも手応えはあったが、英米文学と第二外国語は、恐らく2割の点数も取れなかった自信がある。面接試験の時には、試験官の高名な英文学者から「君は文学を軽視しているのかね?」と嫌みを言われたのだから、惨憺たる点数だったのだろう。落ちて当たり前だ。(爆)
 で、結局、滑り止めに受けていた地元の国立大学の大学院へ進むことになった。(しつこいけど、爆)
 そこで苦悩の2年間を過ごしたものの、適当な大学の勤め口の空きがなく、仕方なしに受けていた(笑)高校の教員採用試験に今度はパスした。そして翌春、晴れて(?)県立高校の教員となった。
 母が喜びに喜んだのは言うまでもない。夢にまで見た公務員、その公務員に息子が仲間入りを果たしたのだ!

 が、その喜びも長くは続かなかった。(笑)

 恩師の紹介の広島の小さな短期大学への異動の話に私は飛びついたのである...。そして私の「公務員時代」は僅か2年で終焉を迎えたのであった。

 ん? 「母」の話なのに、何か、私のこれまでの人生の中でいかに「妥協」という言葉がキーワードになっているかを記しただけのような...?(笑)
 ってことで、続く、です。
(1998年12月 書き下ろし)
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その24 アメチョコサン

 アメチョコサン...。それは不思議な響きを持つ忘れ難い日本語の言葉の海の中をあてどなく彷徨うクラゲのようなものかもしれない。(ちょっと意味不明)

 時を遡ること、9年。HASENOBU夫婦は共働きのため、娘を日中はどこかで預かってもらわねばならなかった。自宅の近くに公立の保育園があったものの年齢が足りず入所の可能性もなく困っていたところ、「星母乳児園」というのが近辺にあるということを同じアパートに住む方から教えてもらった。そこは「乳児園」とはいうものの、元保母のおば(あ)さんが自宅の居間(?)を使って5名ほどの乳幼児を預かってくれる、というものであった。
 なぜ「せいぼ乳児園」なのに「聖母」ではないのかは、そのおば(あ)さんを一目見たときに良く分かった。が、なぜ「星母」なのかは今も謎である。ま、別にいいんだけど。

 で、その乳児園では保護者との連絡のために大学ノートを使い、それに一日の様子や連絡事項などを書いてもらうというシステムが採用されていた。「今日は節分の豆まきをしました。」だとか、「少し下痢気味のウンチをしていました。」などのことが記されるのであった。
 そして、年に何度かお菓子の袋を持ち帰らせることがあり、その時には、例えば「ひな祭りのプレーゼントです。」などのように書かれていた。「プレゼント」ではない、「プレーゼント」である。なぜかは分からないけど。

 ある日、娘にお菓子を与えたときに、娘は「アメチョコサ〜ン アメチョコサ〜ン」と妙な唄みたいなのを口ずさんだのを私は聞き逃さなかった。「え? いずみ、今のは何?」と問い掛ける私に、娘は「アメチョコサンのお歌」だと答えた。そして、娘に問いただしたところ、次のような真相が明らかになった。
 星母乳児園でもおやつの時間がある。その時間には、子供たちは仲良く椅子に並んで園長先生から煎餅やキャラメルやら飴玉などを貰うそうだが、その前にみんなで「アメチョコサンのお歌」を歌うことになっているらしい。その歌詞は以下の通りである:
 「アメチョコサ〜ン アメチョコサ〜ン
  イッパイナランデ ゴーロゴロ
  オイシイ オイシイ ゴーロゴロ
  アメチョコサ〜ン」
メロディーを文字で表すのは難しいが、ほとんど音の高低の移動がなく極めて単調、平板。もちろんサビもなく抑揚に欠ける。ま、ちょうど読経のようなものだと思ってもらえれば幸いである。(笑)
 このような無気味な歌を3歳くらいの子供が唱和する様子、思い浮かべるだけで結構笑える。と同時に情けなくもなるが。

 この妙な歌のことについて私は騒ぎ立てなかったが、あれは園長先生の作詞作曲なんだろうと思う。確かめていないけれど。

 なお、下の子供(息子)も娘の4年後にその乳児園にお世話になったが、息子もこの歌を知っていた。HASENOBUの危惧していたように、やはり星母乳児園では「アメチョコサンのお歌」が伝統的に歌い継がれているようだ...。
(1998年12月 書き下ろし)
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その25 じゅその行動(1)

 あ、いきなりですが、念のため。この「じゅそ」というのは私の息子(現在、小学1年生)のあだ名です。って、彼のことをそう呼ぶのは私と妻だけですが。

 その土曜日、妻は出がけにじゅそに必ず1時には家に帰っておくように申し渡していた。じゅそを連れて出かける用事があったらしい。が、じゅそは時間になっても帰ってこなかった。やきもきしながら妻は待ったと言う。そして15分近く遅れて玄関に、いつものように間の抜けた調子で「ただいまぁ!」と言う息子の声が響いたそうな。
 「どうしたの? 1時には帰ってきなさい、って言っておいたでしょう? 学校はとっくに終わってるでしょ!?」と妻。
 すると、じゅそは悪びれた様子もなく次のような説明をしたそうだ。
 「あのね、今日は***ちゃんと一緒に帰ってきたんだよ。でねぇ、途中で気持ちのいい空き地があったからそこで草の上にゴロンとしてたんだよぉ。え? いや、寝てはいないよぉ。そうだねぇ、2分くらいかなぁ...。 うん、それから虫を探したり公園でドングリを拾ったりしたんだよぉ。あ、そうだ。お母さん、ドングリ欲しい? 欲しかったら、3つくらいならあげてもいいよ。」

 何とも呑気なヤツである...。ちなみに「***ちゃん」というのは同級生の女の子である...。(笑)
(1998年12月 書き下ろし)
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その26 じゅその行動(2)

 その木曜日、じゅそは家の玄関の前で焦っていた。今日は週に2回通っているスイミング教室の日だ。出がけには水着、バスタオル、会員カードなどをスイミングスクールのバッグに入れ準備万端、玄関の靴箱の横においてある。

 スイミングスクールのバスが来るのは3時50分頃だ。これまでにも数度、家でグズグズして乗りそびれたりした。ちょっとだけやるつもりのテレビゲームに夢中になって、ふと気づいたときには4時を過ぎてしまっていたこともあった。
 だから、今日こそは、今日こそはちゃんと用意して外へ出て早めにバスを待とうと思っていたのに。

 お姉ちゃんはまだ帰ってこない。5年生だから木曜日も遅かったっけ...? 走って学校まで行ってお姉ちゃんに訳を話そうか...。

 学校を出たのは3時20分過ぎだったから家に着いたのは多分今は40分くらいだろう。あ〜、早くお姉ちゃん、帰ってこないかなぁ...。家の鍵を忘れたんで中に入れない...。スイミング...。温水プール...。
 あぁ、どうしよう...?

 「でねぇ、私が家に帰ったら純一が玄関の横のね、階段のところでランドセルを抱っこしながら座ってたんだよ。でね、私、『あれ、純一、スイミングは? 行かなかったの?』って訊いたんだよ。そしたらね、『鍵、忘れたから入れなかった...。』って半泣きになりながら言うんだよぉ。」(娘の証言1)

 じゅそは決心した。よし、鍵に替わるものを使えば玄関は開くに違いない。辺りを見回した。あった。庭に適当な木の細い棒が...。

 「そしてね、『じゃあお姉ちゃんが開けてあげるよ』って言って鍵を差し込もうとしたけど、鍵が入らないんだよぉ。で、良く見ると木のかけらみたいなのがドアのところにいくつも落ちててさぁ。『純一! どうしたの?』って訊いたら木の棒を突っ込んで開けようとしたんだって! 私も塾に行くのに4時30分のバスには乗らなきゃいけないというのに...。」(娘の証言2)

 結局、娘は隣のお宅のおばさんに事情を話し、そして妻の勤務先に連絡が入った。重要な会議中であったが取るものもとりあえず帰宅した妻を待っていたのは、肩をがっくりと落とした息子と、巻き添えを食ってブーブー顔の娘だった。妻は近くの公衆電話から「鍵の110番」に連絡し、作業員がやってきて仕事を終えるのを見届け職場に戻った。その時にはもうすでにその重要な会議は終了していたという。

・じゅそが鍵を持って出るのを忘れた。
  被害1 じゅそは楽しみにしていたスイミングスクールにまたもや行きそこねた。
  被害2 娘は不本意ながら塾をお休みした。
  被害3 妻は発言しようと意気込んでいた会議を棒に振った。
  被害4 じゅそは巻き添えを喰った姉から冷たくあしらわれた。
  被害5 じゅそは、なかなか口を割らなかったため、巻き添えを喰った妻からこっぴどく叱られた。
  被害6 HASENOBU は娘が欠席だとわかっているのに当番のため塾のお迎えに行った。
  被害7 HASENOBU 家は無用の出費(錠の修理代 5000円也)の憂き目に遭った。

1998年12月15日の出来事だった。
(1998年12月 書き下ろし)
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その27 魔法の鏡

 ♪魔法の鏡を持ってたら〜 あなたの暮らし のぞいてみた〜い♪

と、いう荒井由実の曲(ふ、ふるい...)があったが、その話ではない。また「テクマクマヤコン」と唱える秘密のアッコちゃん(さらに、ふるい......)の話でもない。
 もしかしたら、これから書くことは世の中の常識なのかもしれない。ただ HASENOBU にはその情報がこれまでの人生に欠落していたというだけで大騒ぎしてここに書きつけるようなことではないのかもしれない。(丁度、私の先生(1)の F先生の銀行の話と同じレベルなのかもしれない...。(笑))

 それは、今年の夏のある日、例のテニスクラブでプレーをして、汗だくになってシャワーを浴びた後のことだ。タオルで身体を拭いながら、ふと、洗面台の前に行った。(これ自体はそんなに不思議なことじゃないけれども。)
 「ん? れれ?」と私は思った。心なしか、痩せて見えるような...?

 私は高校卒業までは、かなり痩せていた。高校2年生の頃は身長は167cm ちょっとくらいで、体重は50Kg あるかどうか、という程だった。それ以来身長はほとんど伸びていない(笑)が、体重は、ど〜んと増えた。教育実習に行った頃からどんどんと太り、今では72Kg を超えるという程にまでになってしまった。(爆) ま、おなかにだけ肉がたまったのではなく、全体的に肉が付いていると(自分では)思う。(笑)

 話は元に戻る。
 で、その洗面台に置いてある比較的大きな鏡の中の私はほっそりして見えるのだ! 鏡から遠ざかると余計に細くなるように見える。「さては...?」
 鏡に近づき、顔を横にして見てみた。すると、案の定、逆に顔が広がったように感じられる。(笑)
 何のことはない、その鏡は一種の凹面をしているのだ、水平方向に。もちろん、その歪みの度合い(歪曲度?、湾曲度?、屈折度?)は極く僅かであり、今までその鏡の前に何十回も立ったことがあるはずなのに気づかなかった程なのだから。もっとも、私は鏡をじっくり見るということをしない人間であり、髪の手入れだってしない、と言っていいほどだ。(笑) 朝、二日に一回くらいヒゲを剃るが、十秒前後で終わるし。(爆)

 「もしや...?」と思って自宅に帰ってから洗面台の鏡をじっくり見た。やはりそうだ。この鏡も凹んでいる。(笑) この家に引っ越してすでに4年になるというのに、気づかなかった...。(笑)

 翌日、職場の自室の手洗いの所にある鏡も確認した。やはりそうだ。この鏡も凹んでいる。(爆) この研究室に移動してすでに10年以上経つのに、今の今まで気づかなかった...。(爆)

 それ以来、どこへ行っても鏡を見るとついつい確かめたくなってしまうようになった。(笑) 確かめる、って言ったって、ただ真正面から見て、そしてその次に首をかしげて(顔を水平方向に傾けて)最初の顔の映り具合と較べるだけなんだけど。意外や意外、実に多くの鏡に同じ仕掛け(?)というか、細工が施されているのである...。

 って、「意外や意外」と思ったのは私だけかもしれないなぁ...。大騒ぎして書くほどのことじゃなかったのかもしれないのかなぁ...。(すごすご...)
(1998年12月 書き下ろし)
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その28 猫より始末の悪い

 今、電話を終えてやれやれとタバコに火を点けたところだ。
 私は今、極めて腹立たしい。(笑) 日頃、温厚な性格と優雅な身のこなしで知られるこの私が、である。(爆)

 理由は...。極めてつまらないことだ。とある人からの長電話である。
 そのとある人は、私の自宅に35分ほど前に電話をかけてきた。1999年度の外国人同僚のシラバスの確認作業をしていた私は、仕事を中断し、娘に呼ばれて離れである私の書斎(笑)を出て電話機へと向かった。娘に「誰から?」と問うと「さぁ...。公衆衛生のなんとかって言っていたけど...。」とのことだ。「? 日曜の昼の3時過ぎに...? さてはこの団地の住民の誰かかな?」と思いつつ電話に出てみると、案の定、そうだった。
 以下、私のことをH、相手をNと表記しよう。

H「はい、代わりました。」
N「あのね、猫がうるさくって困ってんのよっ!」

やれやれ...。また犬、猫の苦情か...。ま、公衆衛生推進協議会の役員になってから時々こういう電話はかかってくるようになったんで、それはいいけれどね。でも、何なんだ、いきなり、この口のききかたは? などと思いつつ。

H「はぁ...。失礼ですが、どちらのブロックのどの班の...?」
N「2丁目の5ブロック。班なんてどこでもいいでしょう!? とにかく猫がうるさくって参っているのよ。何とかしてくれないの、お宅の方で?」

おいおい...。ここまで非常識な人も珍しい。(笑) 受話器から聞こえる声から判断すると50歳は過ぎているであろう女性の声だ。「まぁ、Nさん。もう少しどういう風に困っているのかを詳しくお話し下さいませんか?」という私に対して彼女のした説明は以下のようなものだった。
N「うちではね、うさぎを飼っているんだけど、それを狙って猫がやって来るのよ。しかも夜に。そうね、少なくとも三匹はいるわよ。この前なんか、ちょっと窓を開けた隙に家の中まで入ってきたりするのよ。網戸なんかももうグチャグチャ。」(以下、割愛。)
 とまぁ、こういう感じでしゃべるしゃべる。こっちが何か言いかけても畳み掛けるようにしゃべりまくるのだ。(笑) ひとしきり話した後、それでどうしたらよいのか、というあたりでやっと少しは聞く耳を持ったようだ。

H「話はよく分かりましたが、実際に公衆衛生の方でできるのはとても限られていて、例えば、既にこれまでに何度か回覧板を回して、ペットを飼われている方達に呼びかけるなどしかできないのですよ。」
N「回覧板なんて回しても誰も読みはしないわよ! お宅の方で猫を捕まえてくれないの?」
H「は? それはできかねますよ、Nさん。野良犬の場合には狂犬病のこともあるんで保健所に頼めば捕獲してもらえますけれど、猫の場合は無理です。」
N「じゃあ、どうすればいいの? このまま我慢しろ、ってこと?」
N「いえ、そうは言っていません。実際に今までにこの団地の中でも野良猫でとても困っている班の方達が、ある業者に頼んで猫の捕獲器を借りて捕まえた、ということはありますし。」
H「猫の捕獲器? それで捕まえられるのね?」
N「ええ。今お話しした班では一週間で三匹捕まえたそうです。」
H「へぇ、そんなものなの。ま、ないよりはいいわね。」

実は、このあたりで忍耐強い私も、切れかかっていた。(笑) が、毒物を使うことを考えているらしいNさんに、それは(当たり前だが)思わぬ住民トラブルを引き起こしかねないことを話し、さらに、その捕獲器を、昨年末、公衆衛生のお金で一台購入したばかりで今のところ貸し出し例はないが、規則を守るという約束の上で貸し出しも可能だということを告げるとNさんは次のようなことを言った。

N「じゃあ、それを貸し出してもらえるって訳ね。持ってきてもらえる?」
H「いえ、私の自宅に保管してありますが、個人を対象には貸し出さないことにしているんです。きっとお困りなのはNさんだけではないでしょうから、班の方達とも相談されて、そして班長さん経由で...」
N「うちが班長なのよ。」

 それを先に言ってくれよ。(笑) と同時に、班長であれば今までの回覧板や集まりの場で、公衆衛生がこの犬や猫の問題でどれだけ呼びかけをしてきたかを知っていてもいいはずなのに、とムカッときた。

N「捕まえた猫は、え、なに? 『動物管理センター』に持っていくの? どこ、それ? え、中区富士見町? そんなとこまでいちいち猫を連れてゆくのは面倒だわねぇ〜。 おたくで捕まえて連れていってくれないの? え? ダメ、って...。 けちねぇ。」

この時点で私は切れた。(爆) が、だからといって大声で怒鳴ったり電話を叩き切るなどという真似はしなかったけれども。
 結局、Nさんは「捕獲器を規則に従って借りる、その時のエサは自分で用意する、捕まえた猫は動物管理センターに自分で持ってゆく、使ったらきちんと洗って返す」ことに同意し、「では娘をあとで伺わせますから」ということで話がついた。
 が、電話の後、10分ほどしてNさんの「娘さん」から電話がかかり、「捕獲器は借りないことにした。猫いらずを使うことにした」との連絡が入った。私は「猫いらずは自宅の敷地内だけで使うこと、万が一飼い猫がそれを食べてしまってもその責任は公衆衛生の方では持てない」ことに念を押し、了解してもらった。
 後は野となれ、山となれ、である。(爆) でも、何となく、人気ホームページサイト「サポートセンターの秘密」に書かれていることに親近感を覚える私であった...。
(1999年1月 書き下ろし)
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その29 間違いの指摘

 間違いの指摘、というのはなかなか難しいものがある。ま、学生が授業中に間違えたことを言ったりしたときには別に遠慮せずに指摘できるが、相手が一般社会人だとなるとなかなか指摘しづらいものがある。もちろんそれがとても親しい間柄の人物であればそれは「ん? 今の、違うんじゃない?」と軽く言えるが。
 と、こんなことを書いているのはとある方のホームページで「纏足」を知らなかった人物のこと、「団塊の世代」を「ダンコンの世代」と言ってしまう男性のことなどをネタにした文面を読んだからなのだが。(ってことで、興味ある人はここのリンクのページから「雪見堂」へ飛んでいって下さいね。(笑))

 私の事実上の恩師、つまり、卒業論文の時の指導教官でもあり、また修士論文の実質上の指導教官でもあったT先生は、「有無を言わさず」の「有無」を「ゆうむ」と言ってはばからなかった...。もちろん、その当時学生であった私はその間違いに気づいたものの「先生、それは違いますよ。」とは言えなかった...。(笑) 今でもやはり「ゆうむ」と連呼されているのだろうか...?

 私の親友のM氏は学生の頃、友人に「じゃ、今から雀荘に行くけん、『ダイベン』をしとってくれ!」と言ってみんなから笑われたことがある。もちろんM氏が言いたかったのは「代返」であって「大便」ではない。

 同じ、そのM氏のことだ。これはちょっと趣が違うが、高校一年の古文の時間に「先生! 質問があるんですが。この『ケフ』というのは何ですか?」と質問をして教室中を爆笑の渦に巻き込んだことがある。もちろん「今日」の旧仮名遣いの「けふ」のことである。ちなみにM氏はその後、しばらくの間クラスメートのみならずそれを伝え聞いた者たちからも「ケフ!」と呼ばれていた...。(笑) が、まぁ、これは自業自得というものだろう。
 あ、思いだした! 東大に行った同級生のことであるが、やはり高校一年生の時に「お土産」を「オドサン」と読んでしまって皆から冷たい眼差しで見られていた。(笑)

 この類の話になると HASENOBU は饒舌になる。(爆) 我ながらイヤな奴だ...。(笑)

 私の知人で、大手の旅行会社の営業課長を務めている人がいる。彼は「出入国」のことを「シュツニュウゴク」と言う...。もちろん「入国」のことも彼は「ニュウゴク」と言う...。それじゃあまるで「入獄」ではないか、と思うのだが...。あまりにもそれを連発するので私は彼に「あのぉ〜、『出入国』というのは濁らずに発音するのではないのですか?」と思いきって口にしたことがある...。が、彼は「え? そうですか? いや、違うと思いますよ。何でしたっけ、ほら、あるでしょ? 単語がつながると音が濁るっていうのが。」と言う。「ああ、『たに』と『かわ』で『たにがわ』となるような連濁のことですか?」と私。「そうそう、それですよ。だから濁るんですよ。」と彼...。
 ええ...? でも、この場合は既に「入獄」という単語がある以上、そうはならないのではないか...?、と思ったが、もしかしたら業界用語として定着しているのかもしれない(まさか、とは思うが...)ので、もうそれ以上は追及しなかった...。(笑)
 ついでに、この人は、私が必要な書類を準備したり彼の代わりに学生から書類を回収したりすると決まって「どうも御足労おかけしてすみません。」とおっしゃる...。果たしてそれを指摘していいのか...?(笑) 「いや、それは『お手数』でいいはずですよ。『御足労』というのは『わざわざ出向いてもらったとき』に使う言葉ですよ。」と言っていいのかどうか...。もしかしたらこれも業界用語なのかもしれないし....。(笑)

 とまぁ、人のことばかり書き連ねましたが、私も同じようなレベルの間違いをしているのかもしれません...。どうか、お気づきの際にはすぐに御指摘下さい。「面子丸つぶれにされた!!」などとは思いませんので...。(プライドの低いヤツ...。(笑))
(1999年2月 書き下ろし)
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その30 観葉植物

 私にはあまり趣味はない。(笑) 音楽と読書と楽器演奏とテニスと飲酒くらいのものだ。
 だが、趣味とまでは行かないが、観葉植物を育てるのは好きである。園芸や土いじりが好きだというほどではないが。水を時折やるだけで良い、という理由で観葉植物が好きなのだ。
 庭付きの自宅を購入して以来、アイビーには愛着がある。妻は「蔦がまとわりつくのは嫌だ!」というが、私は自称「アイビー・コーディネーター」として庭やフェンス付近にアイビーを植え、はびこらせている。(笑) いつかは外壁を蔦が覆うことを夢見て「男の城」付近にも植えているいるが、表面がつるつるの最近の建築材にはなかなかアイビーは「這って」くれないのが悩みの種だ...。(つまらん悩みだと自分でも思う。(笑))

 職場の部屋は昨年春から一人部屋である。広さは畳で言うと20畳ほどで、奥行きのある部屋である。何の研究なのか良く分からないが、一応「研究室」と呼ばれており、書架が左右の壁のほとんどを占めている。部屋の奥(突き当たり?)はほぼ全面、窓となっていて、しかも南向きの窓であるので冬でもポカポカするほどである。
 温室に近い趣のあるこの部屋で私はポトスやアイビーなどを育てている。7鉢くらいあると思うが、実に良く育つ。園芸店で買った小鉢のポトスを少し切り取って置いたところ伸びる伸びる。(笑) 2年もしないうちに高さ1メートルを越すようなものになってしまい、樽みたいな大きな鉢に移植した。

 「花や植物を愛でる人に悪人はいない」というようなことを聞いたりするが、それはウソだ。(爆) 私は心やさしい人ではないし、善人ぶった悪人だと思う。(笑)
 植物には人の精神を安定させる効用がある、とも聞く。これは否定はしない。(なんだ、偉そうに...?) じゃ、やはりそういうものに愛着を持ったり必要とするような人は精神的にどこか不足していることにはならないだろうか?(笑)

 ま、こんなこと、どうでもいい。(なら書くなよ...。)
 「雑草という名の植物はない。」って言葉、知ってます?(誰に言っているんだか...?)
 あぁ、なるほどねぇ〜、と頷くのはまだ早い。(おい...。) これは、私の記憶に間違いがなければ、確か「昭和天皇」の言葉なのだ。ちゃんちゃらおかしい。
 この後を続けるとまた物騒なことを言い出しそうなんで止めとこ。(笑)

 若いときには動くもの。動物や人間、特に異性に関心を持つ。そして少し年を取ってくると、植物に関心を持つようになる。園芸や土いじりに興味を持つようになる。そして、さらに老いると、動かないものに興味が出てきて、石や岩に手を出す。

 なかなか味わい深い言葉だ。(笑)
 さて、今度、時間が取れたら、河原でいい石でも拾ってこようかな...。
(1999年2月 書き下ろし)
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