毒にも薬にもならない話 Part 4

目次
その31 ええっ? 31?(笑)
その32 ママチャリ
その33 町内会
その34 おんなごころ
その35 説教話
その36 説教話(2)
その37 オイ、アクマ
その38 ある翻訳について(1)
その39 ある翻訳について(2)
その40 ある翻訳について(3)

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その31 ええっ? 31?(笑)
 「ええっ? もう31?」というのが偽らざる心境である。
 実にいい加減な気持ちで始めた「くまきの部屋」であったが、よく考えてみると、既に30どころか、全体で150以上の駄文を書いたことになる...。何なんだ、一体、これは...?(って、問い掛けられても困るだろうけれど。)
 ま、それはどうでもいいとしよう。(なら書くなよな、オレ。(爆))

 気づいていない人もたくさんいるだろうけれど、私の所有するCDをリストにしたものを最近アップした。このホームページはもともと「音楽関係」のページが集まるべきの場所だということもあるのだけれど、自分でも蔵書目録ならぬ蔵CD目録をいつか作りたいと思っていたので...。
 改めて探してみると意外にたくさん買い込んでしまったような気がする...。邦楽だけで300枚を越えているようだ。(「ようだ」というのはまだリストが完成していないから、だけど。) 洋楽はそんなに聞かないけれど、それでも200枚くらいはあるような気がする...。う〜...、まとめるのが大変だ...。ま、いつか気が向いたら...。
 で、当人はびっくりするだろうけれど、甲斐、このリストを作ったのは一つには甲斐のためでもあるのだよ。(爆)
 ま、甲斐氏というのは、リードヴォーカル氏のことで、これまでにも何度か名前を出したことがある。氏は、私の数少ない友人の一人である(と私は思っているが...。(笑))。 あはは...。勝手に実名を出したが、ま、いいでしょう。(爆) で、彼がMDプレイヤーを買ったときに「めぼしいCDがあったら、お互いに録音しよう。」と話になったことがあるのだ。(笑) もちろん、CDからMDのダビングはデジタル録音なのだが、「個人で楽しむ」という範囲内のことなので著作権の侵害にはならないはずである、多分だけど。

 それと、ついでに、だけれど、誰か「菅原進」のCD持ってませんかぁ〜? 「菅原洋一」じゃないっすよぉ〜。(笑) 菅原進の「ラッシュアワー」って曲が入っているのだったらもう、言うことなし。
 それから「根田成一」のCDも探しているんだけれど。そもそもあるのかどうかも分からないけれど...。って、こんなことをここに書いても仕方ないか...。よし、今度、fjのnewsgroupにまた投稿しよう!(笑)
 じゃ、そういうことで...。(笑)
(1999年3月 書き下ろし)
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その32 ママチャリ
 良く知らないのだが「ママチャリ」という言葉があるらしい。どうやら「ママ」さんが好んで乗るような「自転車」を意味するものらしい。

 広島に移り住んで最初の数カ月間、私は一種の「単身赴任」であった。4月に転居したのだが、その2カ月後には子供が生まれる、ということで妻は九州に置いてきたのであった。(「置いてきた」って、別にモノ扱いしているわけじゃないですから、その辺のところ、よろしく。)
 で、当時、住んでいたアパートは勤務先から徒歩で15分弱、最寄りのJRと私鉄の駅からも近辺の商店街からも徒歩10分ほどの、非常に便利の良い立地条件に恵まれているものであった。(う〜ん、冗長的な表現だ...。)が、毎日の通勤や買い物には、やはり自転車があるに越したことはない。ということで、引っ越してすぐに自転車を買うことにした。
 そして私が買ったのはいわゆる「婦人用自転車」というものであった。どうして「婦人用」と銘打たれているのかは分からないが、ハンドルの前にはカゴも付いていて、また変速機は付いていないものの、気軽に乗れる自転車だった。
 そして娘が生まれ、その翌年には妻も改めて就職し、日中は子供を預けねばならない事態になった。で、私は愛用の自転車の荷台の部分にコアラの柄のついた幼児用補助席(?)を取り付けた。それに娘を乗せて保育園に送り迎えをしようというわけだ。各週の始めと終わりには昼寝用の布団を持ち運びしなければならないため自家用車を使うことも時折あったものの、この「コアラ号」(って、もちろん私の愛用の自転車のこと)が娘(そして、その数年後の息子)の通園の足であり、同時に私の通勤の足でもあった。

 あるとき、何かの用で私の研究室に来た学生が言った。
 「先生はママチャリに乗ってるんですよね? この前、見かけましたよ。」
 「ん...? 何、その『ままちゃり』っていうのは?」と私。
 「え? 知らないんですか? 先生が乗っているタイプの自転車をママチャリって言うんですよ。」と、その学生は教えてくれた。
 「へぇ〜。そういう言い方をするとは知らなかったよ。」
 「で、私、びっくりしたんですよ。まさか、大学の先生がママチャリに乗っているなんて。」
 そう言われてびっくりしたのは私の方だった...。(笑) そんな目で見られていたとは...。(って、これは大袈裟です、はい。)
 が、そういう自転車に私が乗ることを、一種の恥だと考えた学生、そして、そんなことを何ら「恥」だとは思うことのなかった私。ついでに言うと、それを指摘されても、ちっとも「恥」だとは思わなかった私。この三者三様の思惑が入り乱れて、そして...、何でもない。(自分でも意味不明。)

 でもね、前にも書いたけれど、迎えに行った帰りに、なだらかな坂道を懸命にペダルをこぐ私の後ろから、娘が「よいしょ、よいしょ」と掛け声をかけてくれたりするのは、とっても楽しい思い出だったんですよ〜。(はい、そうです、親ばかです、私は。(笑)) 風を切って走る時に「うきゃきゃ」という楽しそうな娘(及び息子)の声は純真そのものだった。(笑) 冬の寒い日にも、マフラーと手袋をして、荷台のコアラ柄の座席に、しっかりと握り棒(?)を掴みながらぴょこたんと座っている娘(や、その数年後、同じようにそこに座った息子)の姿って、とても愛しいものだったのですよ〜。(そうなんです、私は親ばかなんですったら。(爆))

 が、その「ママチャリ」も、現在住んでいるちょっと山手の団地に移って以来使うことはなく、そしてある大型ゴミ回収日に出されてしまったのだった...。その自転車を大型ゴミとして処分したことが、即、そのコアラ号絡みのそれまでの思い出を消すことにはならないけれども、「ドナ、ドナ、ド〜ナ〜、ドォ〜ナァ〜」と口ずさみながら自転車をゴミの集積所まで押して行くとき、それでも何となく寂しかった...。
(1999年3月 書き下ろし)
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その33 町内会
 自分でも、何て変なタイトルの話を書こうとしているのか苦笑してしまう。(爆) が、今回は町内会絡みの話だ。

 今日、4月18日をもって私は、二年間務めてきた「公衆衛生推進協議会」の会長職を退いた。そして今夜はその町内会役員の慰労会が催され、私も出席した。
 この「公衆衛生推進協議会」の仕事については以前、愚痴を述べたこともあるし、決してその仕事そのものはエキサイティングなものでもないし、やりがいを感じるようなものでもない。(笑) が、私が一期ならず二期務めたのは、私の(推進委員としての)本来の役目のためではなく、むしろ、町内会の他の役員との繋がり、あるいはもっと言うならば、他の地区の公衆衛生推進役員との触れ合い(これについては以前に書いた、つまんない話の中の高松での研修旅行記を参照して欲しい)などのためであった。
 ま、決して自分の職業が完全に社会から孤立したものではないのだけれども、日によってはどの同僚とも話さず、学生だけを相手にする、ということも珍しくはない。もちろん、職場では、外部の人(異なる職種の人)と会うことなど、ほとんどない。月に二、三度、出入りの書店の営業の人、そして海外研修関係のことで旅行代理店の人と会うのが関の山なのだ。
 従って、職場にいるとき以外の、プライベートな時間でも、そのような機会を自ら求めないとなると、完全に「世捨て人」になってしまう可能性が大きいのだ(笑)。テレビやラジオ、その他のマスコミ機関からはできるだけ遠ざかろうとしているだけに(笑)、地域社会の仕組みを知り、隣人と仲良くすることに私は大きな意義を見出すのである。銀行員、建築家、公務員、バスの運転手さん、商社マン、などなど、当たり前だが私の住む団地にも色々な業種の人たちがいて、そしてそういう人たちの話を聞くのは(少なくとも私にとっては)とても有益なことであり、楽しいことである。

 この団地は造成されてまだ10年も経たない若い団地である。昔からの人が住んでいるわけでもなく、互いが新参者ばかりであって、進んで手を繋ごうとしないかぎり、いつまで経っても「よそ者の集まり」から脱皮できない。ここでは伝統的な行事が受け継がれているわけでもない。だからこそ、町内会が住民を結びつける役割を果たし、町内の行事を創ってゆき、そしてこの街を明るく住みよいものへとする必要があるわけだ。
 よその家の中のことなどは知りたくはない。だけれども、自分の家だけが、自分の家族のことだけが大事、といったせち辛い世の中は、嫌だ。
 このまま書き続けると、段々話が大きくなってもっと理想主義的なこと(「人類の平和」だとか...)に走ってしまいそうなんで、このあたりで、おしまいっ!(笑)
(1999年4月 書き下ろし)
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その34 おんなごころ

 これはもう、いきなり(爆)と書きたい。(爆)
 一体、HASENOBUに「おんなごころ」の何が語れるというのか?(笑) 自分でもつくづくと思うが。

 実は、音楽の話のPart 5にあるその42「Without You」(2)に書いたことについて、数少ない「くまきの部屋」の熱心な女性読者から「私は女なのでしょうか?」という問い合わせがあった。ま、「Without You」(2)を読んでいただくと分かるのだが、私は因幡晃の歌の世界は「おんなごころを切々と歌ったものだ」とそこで書いているのだ。どうやら、くだんの女性読者はそれを読まれて「自分はそんなことを全然思わない」ということで、御自分の性別の判断の根拠に一抹の不安を覚えたらしい...。(爆)
 
 冗談はさておき。
 実際、私も良くわからない。「おんなごころ」って。(笑) これは、いつぞや(今はもうない)「暗い話」シリーズの中にも書いたのだが、女性は、私にとって永遠に謎である。それは私の妻も含めて、だ。(笑)
そして、私はそれを「分からないし、分かりたくないとも思う」のである。
 
 と、言いつつも、ここで因幡晃の曲を一曲。う〜ん、いいや、歌詞を全部、書いちゃおう。

 少しは私を振りむいてくれても いいじゃないの
 別に愛なんてほしいわけじゃないの いつもそうよ
 強がりだと言われるけれど すりきれてしまったのね
 いいじゃないの いいじゃないの

 少しは私と話してくれても いいじゃないの
 貴方にとって 何でなくてもいいの いつもそうよ
 口の軽い女じゃないよ 明日どこかへ飛んでゆくわ
 いいじゃないの いいじゃないの (因幡晃作詞・作曲 「いいじゃないの」)

...。私には良く分からない。(笑)
 サガンが「第二の性」の中で述べたように「女性は、人間として生まれ、そして女性になる」のかもしれない。(引用が間違っているかも...。(笑)) そして、私、HASENOBUは男であるが、他の男になったことがないので「男」の心情というものさえ分かっていないのだろうと思う、いや、ほんとに。
 だからそんな私に「おんなごころ」が分からないのは当然だ。うん、そうだ。そうに決まった!(爆)

 何なんだ、この文面は、一体...?(笑)

 いつか、どこかで「人間は、その性別に関わらず『男の部分』と『女の部分』を持っている」というのを読んだ記憶がある。これは何となく頷ける説である。もちろん「果たして『男らしさ』や『女らしさ』って?」という素朴な疑問が残っているのだが...。
 ただ、はっきり言えるのは、このような事柄には(生物学的な事象を除いて)明確な答えはない、ということ。そして、答えに思えるようなものは、畢竟、その人の「期待」の裏返しであることだけだ...。
(1999年5月 書き下ろし)
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その35 説教話

 私は説教話をするのは好きだが、されるのは嫌いだ。(笑)
 ちなみにちょっとウソだが。(爆) 「ちょっと」というのは「説教」好むのは一種の職業病であるからかもしれない。だが、実際に私は学生に向かって説教を垂れることは、滅多にない。学生には「勝手にすれば。」の態度で臨んでいるのだ。
 例えば授業中に学生に当てる。指名された学生の中にはしどろもどろになりながらどうにか答えようとする者もいれば、最初から「分かりません」と白旗を揚げる者もいる。
 そこで私は問う。「ごめん。途中で遮って悪いんだけれど、ちゃんと予習してきましたか?」あるいは「『分かりません』って、予習をしてきたけれども分からなかった、ということですか? それとも予習をやってこなかった、ってことですか?」
 たいていの場合、前者である。その場合、私は冷たく言い放つ。「あ、そう。じゃ、いいです。他の人に当てましょう。」

 え? HASENOBUは厳しい先生だって? いや、そんなことはないっす。(笑) ただの「冷たい先生」です。
 学生には毎期、一番最初の授業の時に私なりの方針を伝えている。それは一回言えば充分だ。くどくどと何度も授業で「しっかり勉強してきなさい」などと言うことは、私はしない。
 「『勉強をする』のもそれぞれの自由であるし、また『勉強をしない』こともそれなりの自由である。ただし、大学というところは『勉強をする』ことを目的とした者が集まる場所であるのだから『勉強をしない』ことを選んだ者の多くはペナルティを課せられることになる可能性が高くなる。」と、分かりやすく伝えているのだから。
 事実上、私は今、英語の教師となっている。英語に限らず語学というものは常日頃の反復学習が必須だ。使わないと、触れていないとどんどんその力は落ちるし、また逆に、コツコツと努力を続ければその成果が現れやすいものである(と私は思う)。もちろん、このことも学生には伝えているし、「1. 授業でカヴァーすると思われる範囲(教科書にもよるがたかだか2ページ程度だ)を読んでおくこと 2. その中に未知の単語があった場合にはその意味を辞書で調べておくこと 3. 自分なりの試訳(?)をしておくこと」の3点を揚げ、できれば3の段階まで、それが無理であればせめて2の段階までは予習したうえで授業に臨むようにも言っている。

 別に予習の段階で全てを理解しておくことを望んでいるのではない。全て分かるのであれば別に授業に来なくたっていい。予習というのは「自分がどこまで分かって、どこが分からないのか」を明確にするためのものなのだ。「自分がどこが分からない」のかが分からないまま授業に出てもほとんど意味はない。予習してこそ、自分が誤ったところ、分からなかったところの説明を聞いた時にその説明が生きてくるのだ。ただ漫然と授業に出て友人の答えることや教師の説明を書き写しただけで語学力がつくとは思えない。

 もちろん、今、私が述べたことが学習全般に当てはまるわけでもないし、全ての授業についても同じだというのではない。いわゆる「講義形式」の、次の時間で何が取り扱われるのかも分からないようなものであれば話は別だ。私が言っているのは、特に私のように一冊の教科書を丹念に読み進むことを明言しているような語学の授業の場合のことだ。それをお忘れなく。

 と、意味なく説教めいた話をしてしまいました...。(笑) もう、癖になっているのかなぁ...。(爆)
(1999年5月 書き下ろし)
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その36 説教話(2)
 前回、説教されるのは嫌いだ、と書いたが、今回はその話だ。
 もっとも、本来、「説教」というのは、読んで字のごとく「教え」を「説く」ことなのだろうけれども、普通に「説教」という言葉で連想されるのは(宗教的な場合を除いては)「お小言」やら「叱責」、場合によっては「詰問」である(ような気がする)。そういう、ただ「怒られている」と感じるようなのも嫌だけど、穏やかに、諭されるように語られる説教はなおさら嫌いだ。(爆)

 さて、その、諭すように語られる「説教(めいた話)」の中で時折使われるのが漢字の成り立ちがらみのものだ。具体的に言うと、例えば次のようなものだ。

例1:現代人は「忙しい」と毎日、口ぐせのように言います。皆さんもふと気づくとその言葉を口にしていませんか? ですが、「忙しい」という漢字は立身偏に亡くなると書きます。そうです、「忙しい」というのは、身の回りの些細な事柄に振り回されて、心が亡くなる、心を見失ってしまうことなのです。これではいけませんね。いつも心にゆとりを持つように心がけたいものです...。

 ほっといてくれ〜。(爆)
 心にゆとりが持てないから忙しいんだ〜、こっちは!! 
 また、こんなのもよくありそうだ。

例2:「人間」という言葉を考えてみて下さい。そうですね、「人」は二つの棒が寄り掛かっている所を表わしたものですね。どちらかが欠けてしまうと倒れてしまうのです。このように支え合って初めて「人」でいられるのですね。そして「人間」となるとこれは「人」と「人」との「間」ということです。これも、人が一人では生きてゆけないことを意味しています。「自分」だけではなく、他の「人」との関わりあいの中でこそ「人」は「人間」となるのです。

 止めてくれ〜、どっかで聞いたような話は〜。(笑)
 そんなことを言うのなら「嬲る」(念のため記しておくと「なぶる」です、はい。)という漢字のことを詳しく話してくれ〜。(爆) 「宴」という漢字についてはどう思うのか、教えてくれ〜。(笑)

 ふむ、文末の「〜」も連発するとなかなか趣深いものがあるなぁ...。(笑) ←で、これが結論〜。(爆)
(1999年6月 書き下ろし)
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その37 オイ、アクマ
 さて、賢明なる読者諸君。(どこだっ、どこにいる?!(爆)) もうお気づきだろうが、タイトルをカタカナで書いたのにはそれなりの意味がある。が、その話は後にして。

 仕事が「できる」ためには、「ほうれんそう」が肝要だと私に説いた人がいる。(爆) 私がその類のことが嫌いだということを知りつつも敢えて御教示下さったその人の御厚意に感謝しつつ...。(笑)

 「ほうれんそう」の「ほう」とは「報告」のこと。「れん」は「連絡」で、そして「そう」は「相談」...。これがあれば円滑な仕事ができること、請け合いっ!!

 って、私は本気じゃないですが。(爆)

 それならば「スムーズに仕事を進めるには報告、連絡、相談、この三つが大切です。」と最初から言えばいいじゃないかぁ〜っ!!(爆) 何で、その頭文字(?)をとって、わざわざ「ほうれんそう」などと言わねばならないのだ〜っ!! もしも物覚えの悪い私のような人物が、同じ野菜ということで「え〜っと、何だったっけ...? あ、『プチトマト』だ! え〜っと、最初の『プ』は、何だったっけまぁ...。あ、『プリクラ』だ! で、次の『チ』が...、え〜っとぉ、『血祭り』で、次の『ト』が...、『豚足』、そして・・・。」などと、あらぬ方向に持って行ったら、そしてそれを実行に移したらどうするんだぁ〜っ!!(かなり作為的だけど...。)

 あ、今、ふと思い出したのだが、私の職場の前トップの人は訓話好きな人であった。彼はある式典で、米国IBMの社長だかなんだか忘れたけれど、とある人物の言葉を引用した。それは「クリエイティブな仕事をするためには、5つの『T』が必須である」というような内容だった(と思う、確信はないが)。もうかなり前の話だったし、私はため息をつきながら聞いていたのではっきりとは覚えてないが最後のTだけは覚えている。それは、その後の解説からすると間違いなく Think のことだったのだが、彼はthの音を無視して、まさしく「シンク」と発音した。それじゃ、まるで「洗面台、流し」である...。そうでなければ「沈め!」ということなのか? はたまた「辛苦」なのか「深紅」のことなのか。(爆)

 で、それはそれとして。
 タイトルの「オイ、アクマ」だ...。これも、そうだ。頭文字で作ったものなのだ...。
 これは、私の同僚(以前、別の所で書いた「学生思いのいい先生」であるN氏)のことなのだが、彼は、新入生を対象としたオリエンテーションセミナーで、この話を学生達に披露した。内容は...、やはり明確には覚えてない。(笑) が、「豊かな人生のためには」というようなことで持ち出したものだったと思う。(後になって知ったのだが、これはこれで結構、有名な話らしい。) 「怒るな、威張るな、あきらめるな」などなど、その類のものだったはずだ。
 私の順番はN氏の後だったので「先ほどのN先生の『オイ、アクマ』の話を聞いて私も一つ思いつきました。それは『コラ、タヌキ』というのですが...。」と冗談で切り出したのだが(笑)、(いつもは真面目な私が冗談を言っていることに)学生達は気づかず「ふむふむ...。」と頷いたものだから、私はおおいに焦った...。(爆)

 何なんだろうなぁ、一体...?

 このN氏は、卒業アルバム(!)にも、担任教師からのメッセージとして「覚えてますか? オイ、アクマ」と書いてたけれど...。違った風に覚えられていたらどうするのだろう...?
 オチャラカ、イモヅル、アブラアゲ、クリキントン(に)マガイモノ...。(節をつけるために、ちょっとだけ考えました、はい。)
 本当に大事なことなら、変に略したりせずに、そのまま言えばいいのになぁ...。そのまま覚えればいいのになぁ...。

 何なんだろうなぁ、一体...?
(1999年7月 書き下ろし)
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その38 ある翻訳について(1)
 この前、あるところで『星の王子さま』についての話題を扱った。興味のある人は是非ともそちらを参照してもらいたい。それは「ゆきみ横丁の三毛猫」というページの中、「メールで話そう」というコーナーにある。
 同じ話は繰り返したくないのでそこでの話の中身そのものはここでは書かない。ここで書きたいのは、岩波書店から出ている内藤濯(ないとうあろう)氏の訳について、である。

 今、私が手元に持っているのは岩波少年文庫のヴァージョンだが、奥付を見ると岩波から最初に出されたのは1953年のことであり、以来、1976年に改版が発行され、1990年の秋の「第66刷」が私の持っている版である。岩波の「1刷」がどれだけの部数なのかは知らないが、他の装丁の本もあるだろうし、かなりの部数が出ていることは間違いないだろう。(ちなみに、私の知り得た情報では英訳版が1943年にニューヨークで刊行され、その後に原作が1946年にパリで出版されたという。現在では日本を含め、二十数カ国でこの作品は翻訳されているそうだ。)

 この話はこれまでにも何度か読んだことがある。小学生の時にも読んだ記憶があるが、恐らくはやはり内藤氏の訳で読んだのだろうと思う、定かではないけれど。

 と言いつつ、話を変えるようだが、私は文学に造詣が深くない。また文学の観賞法についても疎い。例えば、ある作品をテーマとするとき、その同じ著者による別の作品との関連づけを行いながら観賞する、といったような手法もあるだろうし、その作品が描かれた時代背景などを考慮することによって、新たな解釈(?)も出てくるようなこともあろう。だが、別のところでも「君は文学を軽視しているのかね?」と指摘されたことがある私には、文学作品は、あくまで単体で完結した世界を持ったエンターテインメントだ。それに、人間の細かな感情の動きや機微といったものについては、そもそも、とても難しくってよく分かんないのだ。(笑)

 だが、文学とは縁のないそんな私でもこの『星の王子さま』の内藤訳は、ちょいとばかり首をかしげたくなる点が多い。もちろん読んで分からないことはないのだけれど「う〜ん、この表現は...?」と思わないではいられないような箇所が散見されるのだ。訳されたのがもう40年近く前だということもあるから、その言葉遣いがいささか古臭くなっているというような感も拭えない。

 訳者の内藤氏については何も知らない。きっと「フランス文学者」なのだろう。訳本を出すくらいなのだから高名な人なのかもしれない。しかし、それはそれ、これはこれ、である。(笑) もしかして氏の訳のみが、日本の「星の王子さま市場」を寡占しているとなると、私は、少なからぬ危惧を抱く。(かなり大胆なことを書いているなぁ、私は...。)

 上に記した「メールで話そう」という企画の中で引用をするにあたり、当然ながら、私としては内藤訳を使いたくなかった。そこで、あくまで参考としての内藤訳、原文のフランス語、そして英訳されたものを手元に置きながらの作業を行なった。この作品のフランス語の原文と英訳の対照という作業は、実は大学4年生の時にやったことがあるのだが、その時には日本語訳をしなかった。
 そこで、改めて今回、全てではないものの、気になる個所だけを照らし合わせながら読んでみて、内藤訳には色んな文句をつけたくなった。(爆)

 今、ここで個々の点を書き連ねるのは控えよう。特に原文のフランス語について言うならば「フンフン」と鼻歌を歌いながら読めるほどのフランス語の知識は私にはないのだから、内藤訳に私が「ケチをつける」のは、確かにおこがましいことだろうけれど、それでもケチをつけたいのだ、私はっ!!(爆)
 (続く)
(1999年7月 書き下ろし)
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その39 ある翻訳について(2)
 さて、では、少し具体的に話をしよう。一体、HASENOBUは内藤訳のどこに不満を抱いたのか、という話だ。

 まず、その第一点は、言葉のぞんざいさ、である。語り手である「ぼく」の年齢ははっきりとは記されていないが、確実に成人であるという想定だ。(ちなみにこの作品は1942年の秋頃から書かれ始めたものらしい。サン=テグジュペリの43歳の頃だ。) 一方、「王子さま」が何歳なのかもはっきりとは分からないが、地球の年齢で言うならば(笑)、幼くて8歳、おそらくは10〜12歳くらいだと考えたい。変声期を既に迎えた年齢だとは考えたくない。(爆)
 なのに、である。(笑) この語り手の「ぼく」が王子さまに向かって、ちゃんと言葉らしい言葉を投げ掛けたその第一声が「だけど・・・・・・あんた、そこで、なにしてるの?」である...。
 大の大人が、小学生くらいの男の子に「あんた」なんて言うか、普通...?(笑)
 少なくとも私の日本語の語感からするとこの呼びかけはかなり変だ。内藤訳の初版(?)ではどうだったのかは知らないが、まさか40年ほど前はそういう語法が一般的だったとも思えない。
 その後は呼びかけの言葉は場面に応じて変化している。「ぼっちゃん」と呼んでいる個所もあれば「君」と呼んでいる場面もある。片や、語り手の「ぼく」ちゃん(笑)は王子さまへ向かっての発言の中では「ぼく」と自称している...。(笑)
 大の大人が、小学生くらいの男の子と話すときに自分のことを「ぼく」なんて言うか、普通...?(爆)
 もう、これだけでも内藤訳にため息をつきたくなった理由がお分かりだろう。

 「寄せ算」...。ま、これには目をつむろう。(笑) 今では「足し算」が普通だろうけれども、時代の流れのせいであって、内藤氏に悪気はないだろうから。

 しかし「赤黒先生」って何者だ? それは「ふとっちょの赤黒先生の寄せ算」という言葉の中でも出てきているが。原文は Monsieur cramoisi であり、英訳版では red-faced gentleman となっている。「クリムゾン」ということであれば、確かに「赤黒い」イメージなのかもしれないが、これは顔のことを言っているのだから「赤ら顔の〜」だとか「赤銅のような顔色(笑)の〜」、あたりの訳の方がより妥当ではないか? それに、この人物は決して「先生」ではない。後の王子の話の中に出てくる4番目の惑星の、星を数えてばかりいる男のことなのだ。ところが、そこでは「実業家」という言葉だけしか用いられておらず、この「赤黒先生」=「実業家」だということは内藤訳では、はっきりとは分からないという「ていたらく」(爆)だ。

 「あんたが、あのバラの花をとてもたいせつに思ってるのはね、そのバラの花のために、ひまつぶししたからだよ」って、そんな...。「ひまつぶし」って...。昔は「ひまつぶし」という言葉に、もしかしたら、ひょっとしたらプラスの意味があったのかもしれないけれど、今、これを読むと、「せっかくのセリフが台なしだぁ...。」という気分になる...。ここは、原文のフランス語でも英訳の方でも確かに「無駄に費やす」といった意味合いの単語が使われている。だけど、だからといって「ひまつぶし」とはならないように思うのだけれど...。
 ま、このあたりは完全に解釈の問題であるんで、私見なのだけれど、私としては、「何らかの見返りを期待したり、明確な意図を持っていなかった」というような意味合いで捉えたいと思っている。だから、せめて「あのバラに自分の時間を注いだからこそ、あのバラは君にとって大切に思えるんだよ。」などのように、中立的な訳をした方がいいように思うのだが...。

 解釈、という点では、もう一つ、細かい点ながら気にかかるところがある。が、これは、またまた、次回へと...。(爆)  
 (続く)
(1999年7月 書き下ろし)
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その40 ある翻訳について(3)
 ということで、これを最後のいちゃもんづけにしよう。(笑)

 最初に記すべきだったが、私の手元には4冊の『星の王子さま』の本がある。その一つは内藤濯氏の訳による本(岩波少年文庫)であり、Harcourt Brace Javanovich社の発行の原作仏語版と同社の英訳版(英訳者:Katherine Woods)、そして英光社刊の大学テキスト用の本である。
 そして、実を言うと、私はこの作品を十年ほど前に一度、教科書として使ったことがあるのだ。(笑) 上記、英光社刊の本というのは、そのために私の手元にあるのである。

 この作品を教科書として取り上げた授業の中で私が学生達に何と言ったのかは詳しくは覚えていない。だが、「この作品は決して子供向けのものだとばかり思ってはいけません。大人になってからでも、いや、大人になってからこそ、心に響く言葉がたくさんあるんですよ。」などと言っていたのだとは思うが。

 さて、その英光社刊のテキスト、当然ながら注解がつけられている。確か高名な英文学者であるのだが(専門が違うんで良く分からない...。)、福田陸太郎という人物が、サン=テグジュペリ研究家である山崎庸一郎氏の協力を得て、時にはサン=テグジュペリの他の作品からの引用をしながら、詳しい註が施しているのだ。
 
 で、一応の参考として私は岩波の内藤訳を買い求めたのだが、実際には参考にしなかった。(爆) その理由はもう繰り返さない。

 さて、この作品の第7章の終わりあたり:「王子さまは、それきり、なにもいえませんでした。そして、にわかに、わっと泣きだしてしまいました。」と内藤訳でなっている個所。これは、決して、いきなり「わっと泣きだした」場面ではない、と私は思う。すでにその前の王子さまのセリフで王子は泣きだしかけていて、そして、嗚咽を洩らしながら話していて、とうとう言葉にならなくなった、という状況だと(フランス語、英訳を読んで)私は思う。

 そして、その後、その第7章の締め括りの言葉。内藤訳:「涙の国って、ほんとにふしぎなところですね。」
 
 う〜ん...。そんな、何と言うか、軽いコメンテーターのような調子じゃないような思うのだけれど、私は...。

 ちなみの当該個所の原文は: C'est tellement mysterieux, le pays des larmes! (アクサンテギュがつけられない...。どうしてだろう?)
 で、英訳の方では:It is such a secret place, the land of tears.

 もう、フランス語の方は自信がないので略。(爆) が、英語で言うところの mystery という単語が使われている点には注目しておきたい。(その意味で、内藤訳の「ふしぎな」という訳語は、十分にうなずけるのだが。) それは英訳においては、上に示したように secret という単語に置き換えられているのだが、これを「秘密の」と解してしまうと、これもまた良くない。ここでの secret は「他の人には分からない」、「神秘的な」(!)、「心の奥底の」の意味が複合されたものだと考えたいところだ。

 ちなみに、前述の福田陸太郎氏は land of tears という表現について註をつけている。:「涙の国」→「内面の王国」 Saint-Exupery は、人間の内面の王国の神秘性と尊厳について、しばしば述べている。(以下、略)
 (参考までに言うと、上の(以下、略)の部分にはサン=テグジュペリの他の作品からの引用がなされているが、それは知ったことじゃない。(爆) 私としては、あくまでこの作品単体で考えたいから。)

 ということで、ここの部分については、言葉に詰まって泣き出してしまった王子さまの心の中を見抜けない「ぼく」(語り手)がしみじみと述懐している、と考えたほうがいい。決して誰かに「ふしぎなところですね。」と同意を求めているのではないと思う。
 ということで、私としては、福田陸太郎氏の註の方が頷けるので、それを部分的に援用して「心の内側っていうのは本当に分からないところなのです。」というような訳を与えたいと思う次第である。

 などというようなことを考えてみると、やはり私には文学作品の翻訳など無理なんだろうなぁ...。(←いきなり弱気。) 細かな心・感情の動きを的確に捉え、さらにそれを表現するために叙情的な言葉を操って行くような技量は、私にはない...。う〜む...。
 と、頭を抱え込んだところで、おしまいっ!!(爆)
(1999年7月 書き下ろし)
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