ちょっと堅い話 Part 3

目次
その21 私の言葉
その22 教師という仕事
その23 ある読書感想文
その24 縁(えにし)
その25 誤解
その26 むのたけじ
その27 百聞は一見に如かず...?
その28 災い
その29 要領
その30 表現するということ

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その21 私の言葉

 私の言葉は、神の言葉。などと書くといかにも不遜だし、そんなことは思ってもいない。(いきなりふざけた書き出しだ...。)

 さて、冗談はさておき、とあるところで、書物からの引用をした後「もう引用はこれくらいにして、私は私の言葉で語るべきでしょう」というような文を、つい最近書いた。そして、それからは自分で考えながら書き進めたのだが、実はその時、「む...、これは本当に私の言葉なのか...?」という不安に駆られていたのだ。

 最近ではあまりじっくりと本を読むことがなくなってしまったのだが、眠る前には新書を読むことが多い。この間も、茶道の家元か誰かが書いた本を読んでいた。その本は十年以上前に買った本で『良いお嬢さんを育てるためには』といった感じのタイトルの本だった。もちろん買った当時に一度は読んでいるのだが、何気なく再読する気になったのである。読み進むうちに「この著者はかなり男尊女卑的な考えをするんだなぁ...。」と思いながら以前読んだことを思い出した。(笑)
 実は、私も、はっきり言うと「男尊女卑」的な考えが染みついている。果たしてこの言葉がふさわしいかどうかは(大きな問題だが)良く分からないのだが、「女性はやはり〜」という、女性観というか期待というか、ま、そんなものを持っているのだ。自分としては決して差別的な考えをしているつもりではないのだが。

 ところが、「子供には割れてしまう食器を使わせましょう。そしてモノが壊れる悲しさを教えましょう。モノを大事にする心を育てましょう。」といった内容の文面があったのだ、その中に...。(爆)
 なぜ、ここで「(爆)」なのかは、雑文 Part 5の中にある「こわれもの」という駄文を読めば分かる。私がそこで述べていることは、上記の家元が書いた事柄と内容的にはほぼ同じなのだ...。
 しかるに「こわれもの」の文面を書いたときにはその本のことなど記憶の片隅にもなかったのだ。もちろん「このようなことは私以外に考える人はいない」などという大それたことは思っていないし、100人の人がいれば90人は思いつくこと・考えるようなことしか私は思いつかないし、考えない。(ちょっと控えめ、かな?)

 しかし、だ。「自分で思いついたこと、自分で考えたこと」だと私が思っていたもの、って果たして本当にそうなんだろうか...? 結局は、今までに私が読んできた書物に大きく拠るのではないのだろうか? 書物に限定しなくたっていい。他の情報獲得手段(?)によって私の無意識のレベルの中に入り、そして埋もれていったものが、何らかのきっかけで活性化し、表に出てきた(そして、駄文となった)ということではないのだろうか?

 もちろん、それらがそのままゾンビのように生き返ったというのではなく、形を変え、表現を変え、そして違った要素を仲間として、であろうが。そして、その再生の過程の中でHASENOBUのフィルターがかけられているのであろうが...。

 書くということ、表現するということに対して相変わらず懐疑的な姿勢のままのHASENOBUの独り言でした...。 
(1999年7月 書き下ろし)
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その22 教師という仕事

 以下、脈絡のあまりないことを列挙。

 教師というと、「聖職者」を連想する人がいる。もしかしたら教師の中には「自分は聖職に就いている」などと思い込んでいる者もいるかもしれない。勘違いも甚だしい。

 どのレベルの学習者を相手にするかによって教師に求められるものは異なる。当たり前だが。もちろん、教授内容のことだけではない。学習者の中へ入り込んで手を繋いで進むのか、それとも向かい合うのか、さらには、背中を向けるのか。

 「教える」人は誰でも教師である。学校の中に教師がいるとは限らない。同様に「学ぶ人」は誰でも学習者たりうる。だけれども、教師も学習者もいない学校があるかもしれない。

 ちなみに幼稚園は学校だ。そして保育園は学校ではない。ま、これは法律上の問題だが。だけれども保育園に教師がいることもあるだろうし、幼稚園に教師がいないこともあるかもしれない。

 しつけというものも教育の範疇に入れるとしたら、これが一番難しい教育だろう。「人間」じゃないものを「人間」にしてゆかねばならない。

 誤解を恐れず、大胆な言い方をすると、しつけがなされずそのまま学校に来る者が、現在、増えているらしい。そういう者を「子供のまま」と呼ぶべきか「動物のまま」と呼ぶべきかは、また大きな問題だが。

 無目的なまま大学に来る者も増えている。「みんなが進学するから...。」という、果たして理由と呼んでいいのか分からないような理由で入学するのだ。しかし、わずか18歳で自分の一生を大きく左右するかもしれない選択をさせるのも、酷な話である。自分の適性や資質を知り、将来像を描くだけの十分な時間が高校卒業までにはあったのだろうか...?(多分、自ら意識すればあるはずだが。)

 「木を見て森を見ず」という言葉がある。「木を」見る、だけでもえらいと思うが。

 教師の使い方を知らないものが増えている。本を借りるだとか空いた時間に押し掛けて色々な話をするとか、とにかく使うだけ使って後はゴミのように捨てていいのに...。私は教師はサービス業だと思っているので、私なりに学生のことを最優先して考えているつもりだし、成績評価のこと以外ならできるだけ学生の要望を聞き入れたいと思っている。

 とは言え、卒業生がたまに研究室に私を訪ねたりするととてもウレシイ。(笑) 中には職場での不満を漏らしてゆく者もいるが、それでも、そういう教え子達の元気な姿を見ることは、理屈抜きに、ウレシイ...。

 「職員室に昔の教え子が来たと言って大喜びしている老教師がいる。情けない姿だ。教師は、教え子達に乗り越えられてこそ、のものなのに...。」というような趣旨のことを言ったのは佐高信だ。彼も、元、高校教師だったそうだが。彼の言わんとすることも分からなくはないが、きっと彼は教え子達に素通りされたクチだろう。乗り越えるほどの障害にもなってなかったのではないか?

 以上、ただの呟き。
(1999年7月 書き下ろし)
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その23 ある読書感想文

 今回の話は、本当に堅いよ〜。コンピュータの話。しかもUNIXについての話だ。

 ごめんなさい。(爆) 脅しましたが、大袈裟です。確かにUNIX絡みの話ではあるけれど、例のごとく、私得意のいちゃもんだ。

 この春、Windows98を搭載したPCを買った。他の部署との書類の互換性の問題でこのところ苦労していた末での購入だった。(が、あくまでメインはMacintoshである。Windows機はほとんどネット専用機(?)となっている。)

 さて、とある方の薦めで、そのWindows機に、さらにもう一つのOSを入れてみようか、という気になった私は仕組みもわからず、Vine Linux 1.1 を導入しようとして、そして見事に失敗した。(爆) どうにかWindows98の修復は成功したのだが、ハードディスクのパーティション情報の一部が損傷したままのようである...。(笑)

 そこで、少しUNIXについての知識を持たねばならないと思って、この夏休みに帰省した際に、いわゆる入門書を二冊持ち帰って勉強することにしたのだった。うち一冊は、日本人が書き下ろした初歩的な解説書であり、もう一冊は英語の本をとある日本人学者が訳したものであった。前者は、ま、分かった。文面だけの理解であるのでどれだけ実際に理解できたかは自信がないけれども、おおよその概念は分かったような気がする。

 問題は、後者だ。サブタイトルには「入門&活用の手引き」と書かれているが、最初の数ページを読んだ時点で頭痛がしてきた...。かなり直訳に近い、それなのに、理路整然としない文面になっているのだ...。
 具体的な例を挙げたほうが早いだろう。
 問題の本の「第1章 序」の6ページからだ。ここではechoコマンドについて、そして引数の説明がなされている。それをちょいと引用してみよう:

引数が空白によって区切られているという事実の結果として、空白自身は引数のなかに含めることができない。それらの空白は引数を自動的に分けてしまうであろう。これはまったく受け入れがたいものである。しかも、実際に正しくない。UNIXの一貫したきまりは、「決してできない」というのではなく、「もちろんできる」ということである。したがって、そのような制限はただちに解消されるべきものである。引数に空白が必要ですか? その方法を説明するのは容易なことではあるが、ここでは説明しないでおく。今少し待つべきである。
  
 ...。
 おい...。
 果たして訳者は「理解してもらおう」と思っているのだろうか...?
 ま、引数について、そしてその指定の方法については私なりに別の本で理解していたから、上の引用の内容がてんで分からない、ということはない。
 だけれども、UNIXの一貫したきまりは、「決してできない」というのではなく、「もちろんできる」ということである、などと突然言われても何のことなのか、皆目、見当がつかない...。これはまったく受け入れがたいものである。(爆)

 翻訳、ということについては別の稿でも述べたのだが、「自然な日本語」であることが、まず、何と言っても第一に重要なことではなかろうか...?
 きっと、この本は、それでも、この訳者であるT氏の業績の一つになっているんだろうけれど、ちょっとね〜...。

 ということで、この本は10ページまで読み進むことなく放棄しました。読み続けると、今よりももっと頭が悪くなるような気がしたんで。(爆)
 あぁ〜...。(←脱力の溜め息)
(1999年8月 書き下ろし)
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その24 縁(えにし)
 縁とは不思議なものだと、つくづく思う。もちろん、血族関係にあるような人達も含めてそのように思うのだが、そうでない場合には尚更である...。
 「くまきの部屋」のことにしたってそうだ。確かに私が把握している読者は、本当に数えるほどしかいない。(爆) だけれども、何らかの理由でこの駄文を読んでいる(不幸な(爆))あなたは、私と縁のある人なのだ。
 凡夫である私にとって、このように駄文を連ねることは容易ではない。(笑) けれども、あなたが読んでくれているかもしれない、という思いが私の原動力(?)なのだと思う。(って、書きたいから書く、のがほとんどなんだけれど...。(爆)) でも、それでも思うのは、「♪同じ時代に生まれ いくつかの同じ季節を過して〜♪」という歌詞だ。(笑) そう、私を取り巻くほとんどの人は同じ日本という国に生まれたのである...。

 飲んだくれの私のことだから、生命の誕生、精子と卵子の出会い(?)などなどの小難しいことを言いたいのではないけれども、分子を1として、そして偶然というものを何乗かした分母のような、極めて低い確率で今の私がいて、そして私の知人がいるのだ、ということを強く感じるのだ。

 夢のようなことかもしれないといつも思うのだが、最近ではインターネットにより、本当にかけ離れた地域との人とも気軽に交流ができるようになっている...。絶対に出会うことも、すれ違うこともなかった人と、ネット上とは言え、言葉を交わし、そして同じ時を過ごすことができる...。数年前までであれば、まず、考えられなかった状況だ。

 キザな人々は自分を納得させるために言うかもしれない。「これは必然なんだ。」と...。確かに、そう考えればいかにもその「出会い」が貴重なものであり、特別な意味合いを持つもののように思えることだろう。だけれども、私はそこまで独善的にはなれない。むしろ、あくまで「偶然」だからこそ、その出会い、触れ合いというものを大切にしたいと思うのだ。
 見られる、あるいは、読まれるという意識もなく、その時にたまたま私HASENOBUが「****な気分だった」(?)という理由だけで書いた文面がきっかけであなたと出会い、そして今に至っている、というような状況。恐らくは、いや、きっと、その間に私のナイフのような言葉であなたは傷ついたかもしれない。そして、申し訳ないけれども、これからもその可能性は十二分にあることと思う...。(爆) それはそうなんだけれども、敢えて私は言いたい。本当にありがとう。そして、これからもよろしくっ!!
(1999年9月17日 書き下ろし)
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その25 誤解
 見方を変えると、途端に評価が変わってしまう、ということがある。「見方」、「評価」という言葉が適切であるかはさておき。つまり、とある人にとっては「理解」だったものが、別の人に言わせれば「誤解」であるような、そんな場合のことを言いたいのだが。

 見解の相違、と言ってしまえばそれっきりだが、たいていの場合、人から「それは誤解だよ。」と指摘されたものが「あぁ、なるほど...。私は誤解していたのか...。」ということになることは少なく、「ふ〜ん。じゃ、それは『あなたには誤解に思える私の理解』なのか...。」と(再び相手に言わせれば)「誤解」をまだ引き摺ったままの理解であることが多い。しかも私のような頑固者の場合には、往々にして。

 ん...? ちょっと言葉で遊んでいるかな...?(笑) ま、いいでしょう。

 「人間、誰しも常に自分が正しいと思っている」という言葉がある。(本当にそんな言葉があるのかな? ありそうだけれど。) 少なくとも、「正しい」とか「間違っている」という次元の話でなければ、確かに全て人間は自分中心であるが。例えば「全てを神の思し召しのままに...。」と思う人だって、そう「思うことを選んだ」のはその人自身なのだから。(ちょっとこれも話のポイントがずれているけれど、ま、これもいいでしょう。)

 しかるに、一方で「それは誤解だ」という人の心境も、これまた頷けるものだ。私だってこれまで何度も「ちょっと待って〜。それは誤解だよぉ。」と思ったことはある。つい先日もメールを頂いていたのに返事を書きそびれている内に「返事がないのが返事だと受け取りました」と言われ、焦りに焦ったばかりである。(爆) そう、その相手の人にとってはそれがその人の正しい「理解」であったわけだし、それは私には否定できないことである。

 私は、恐らく、いや、きっとこれからも「誤解」を繰り返していくことだろう、相手に対して、そして自分の中でも。もしかしたら、一生、「誤解」であることに気づかず過ごして行くことになるようなものもあるだろう。最後の最後まで自分の「理解」が「誤解」であったことに気づかないまま、という場合、果たして、それを「誤解」と呼んでいいのかどうかは良く分からないけれども...。
(1999年10月13日 書き下ろし)
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その26 むのたけじ
 むのたけじ、という人がいる。もしかしたら「人がいた」と書くべきかもしれないが、よく知らない。別に彼の生い立ちにも、そして経歴にも、さらに言うなら現存しているかどうかにも興味はない。

 出会い(?)は、もう20年ほど前のことだった。ふと立ち寄った古本屋で氏の著作『詞集 たいまつ』という新書を手にしたときだった。当時私は大学生だったが、その著作を何気なく手に取り、ただただ面白そうだな、という印象だけで買って帰ったのだった。

 家に帰ってその本を読み、私は、かなり感動した...。

 その感動をここに記すつもりはないが、確かに彼は私に大きな影響を与えた人である。

 私は引用は好きではないが、今も心に残る彼の言葉を、なぜか、今、ここに引用しておきたい気分になった。以下、『詞集 たいまつII』(評論社刊)からの引用だ。

 いま仮に一組の男女から出発して三〇年後には四人家族となり、さらに三〇年後には新しい八人家族となるという具合に単純な倍数計算をして一世代を三〇年だとすれば、アダムとイブの一組は第二六代目つまり七八〇年後には一億三四二一万七七二八人となる。実際の人口増加はこのように進まないとしても、一二四代もむかしにさかのぼれば日本人はみなきょうだいだ。その子孫がおれたちだ。だれかがエタとよばれなければならないいわれがあるのなら、おれたち日本人はみなエタだ。だれかが血統からして自分をテンノウとよぶいわれがあるなら、おれたち日本人はみなテンノウだ。(『詞集 たいまつII』 49ページより引用)

 もう、私の下手なコメントは無用だ。
 だが、この上記のような文章が、私という人間の在り方・考え方を揺り動かしたのは事実である。
(1999年10月24日)
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その27 百聞は一見に如かず...?
 百聞は一見に如かず、という言葉がある。その対象のものが物体であれ人間であれ見知らぬ土地であれ、だいたいの場合は、いくら説明を聞いて分かっていたと思っていても、実際にその対象を目の前にしたときに、今まで自分の頭の中で築いていた「〜〜像」がガラガラと音を立てて崩れる、ということは、確かにある。
 ま、それだけ「見る」ということによって得られる情報量が圧倒的に多い、ということだろう。「群盲像を撫でる」という言葉なども、ある意味では、この視覚の優位性(?)を示すものだと考えて良さそうだ。人によっては「自分のこの目で見るまでは信じられない」などというようなことを口にしたりもする。
 だが、敢えて言いたい。見ることは、そんなに確かなものなのか? 自分が見たものは、本当に自分の目に映った通りだったのか?

 ところで。(笑)
 アメリカのチャットに登録して以来、時々変なメールが舞い込むようになった。「インターネットで一獲千金!」だとか「ビジネスで成功する秘訣を教えます!」などのような、いかにも胡散臭い内容のものばかりだからタイトルを見た時点でゴミ箱行きだ。
 だが、先日、「ん...?」と思うタイトルのメールが来ていた。"How to See Through people's Clothes"というのがそれだ。(爆) 以下、転載: 
========================================================
How to See Through people's Clothes
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Have you ever dreamed you're able to see through people's clothes like Superman or James Bond?
Now at last your childhood dream can come true!!!
All you need to SEE THROUGH CLOTHES is a special optical lens made in Japan.
This lens enables you to see LIVE nude images at the beach, at the pool, and even on busy city streets.
You can not believe this then click http://www.kaya-optics.com

何なんだぁ〜、これは一体...?(笑) 英語だけ載せておくというのも嫌みっぽいんで私なりの意訳を書いておく。
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服が透けて見えるっ!
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スーパーマンやジェームズ・ボンドみたいに服が透けて見えたらなぁ、と思ったことがありませんか?
何と、この魔法のようなことが現実になったのですっ!!
日本製の特製眼鏡をかければ、ほら、浜辺で、プールで、そして街を行く人々も、み〜んな丸裸!
こんな話信じられないよというそこのあなた、さあ、ここをクリック。http://www.kaya-optics.com

全く馬鹿げた話である...。指定のホームページは見ていないんで、どんな「魔法の眼鏡」なのかは分からないけれど、その発想そのものからして呆れてしまう。こんな宣伝で、日本の光学技術やテクノロジーが胡散臭いものと思われたりすると情けないが...。

 で、今、上の引用をしたのは、最初の「見ること」との関わりで、である。街を歩く人々が裸で歩いているように見えるというのは、かなり異様な光景であり神経を疲れさせそうだが、そんな「魔法の眼鏡」よりも、人の心の中が見える眼鏡のほうが、あったら面白いと思う。(爆) ま、仮定の話は嫌いなんでくどくどとは書かないけれど。(あ、念のため言っておくと、「あったら面白い」だけで、そんなものが欲しいと私が思っているのではないので...。)

 長い時を隔てて出会った旧い友。外見はすっかり変わっていても、話してみると以前のままの、いいヤツだったりして安心したり、かと思うと、見かけはあまり変わっていないのに中味がすっかり変わってしまっていたり...。いや、別に友達でなくったっていいんだけれど。(笑)

 なまじ「見える」ばっかりに、実際には「見えていない」ことが多々あるような気がする...。
 ここで「心の目で〜」などと言い出すと、とても説教臭くなるんでこれでおしまい。(笑)
(1999年11月28日)
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その28 災い
 丸一カ月振りの更新である...。HASENOBUは根が不真面目なので「堅い話」は書けない、という生真面目な性分が「災い」しているのである。(意味不明)

 さて、災いの話、ということで、「ほぉ...。さては、HASENOBU、この一年間を振り返って、自分の身に振りかかった災いについて書こうというのか。楽しみだぞ、ケケケ...。」(何だ、最後の「ケケケ」って?(笑))と思ったあなたは早とちりの達人だろう、きっと。(笑)
 この私が「一年間を振り返って〜」などというような殊勝なことをするはずもないではないかっ!(爆)

 つまらない前置きはこれくらいにして。

 先程、自宅でじゅそ(念のため言っておくと、私の息子、現在8歳だ)が、玄関からダイニングルームまでの廊下をドタドタと駈け抜けた(笑)直後のことである。廊下で何か大きな物が落ちる鈍い音がした。妻と私は顔を見合わせ、「やれやれ...。」という表情を浮かべ、そして「じゅそっ!! 廊下を走るな!! 何を落としたっ?!」と叱った。
 だが、じゅそは「僕、何にも当たってないよ、ほんとだよ。」と、いつものとぼけた調子で答える。
 しかし、何か、固くて大きなモノが落ちたのは間違いがない。そこで私は読みかけの本をテーブルに置き、廊下に行ってみた。
 すると、そこには廊下の電灯の強化ガラス製のカバー(?)が...。手に取るとズシリと来る...。空の一升瓶よりも重いくらいのモノだ...。もう少し他の言い方をすると、半球形の、昔ながらの金魚鉢みたいなものだ。その、厚さ1センチ程の物体が天井から廊下に落ちたのだ!
 見ると廊下のフローリングが少し凹んでいる。(ま、当たり前だ...。2メートル程の高さからあれだけの重量のものが落ちたのだから。)
 思わず身震い...。時間にして1秒足らずの差でじゅそはこのガラスに当たらずに済んだのだ...。(ま、落ちた原因は、ねじ込んでいる(?)のがどういう理由からか緩んできて、そこに廊下を走った振動が加わったから、だとは思うけれど。)
 これが、じゅその頭に直撃、となれば、まず間違いなく頭蓋骨陥没、脳挫傷ってところだろう。あの世行きだった可能性も充分ある。こんなことで息子(あるいは娘)を失ったとしたら、かなりショックである。それに、投函した年賀状を回収するわけにも行かないし、この時期になって喪中の連絡のハガキだって送るには遅すぎる。
 ダイニングルームに戻った私は思わず「じゅそぉ〜。」と、息子を抱きしめてしまった。(笑) 

 で、思ったのは「事故」ということだ。
 ちょっと衒学的だけれど(笑)、英語の諺に "Accidents will happen."というのがある。これは「事故が起こるだろう」という意味ではない。ここでの will は単なる推量(あるいは未来)を表わすものではなく、習性を表わすものであり、従ってこの諺は「事故というものはどうしても起こるものだ。」という意味である。
 確かに...。

 細心の注意を払って、万全の準備をしていたのに、結果的に「まさかこんなことになるとは...。」と思ってしまう事態。それが事故だ。いくら非力な私たちが避けようとしても避けられないものなのだ...。いや、避けるも何も予想だにしなかったことだからこそ事故なのだとも言えるだろう。

 で、さらにこれを考えていると、運命やら運・不運、さらには神(の意志)ということにまで話が拡がって行きそうだが、それを論じるだけの力量は私には、ない。(笑) ということで、突然、おしまいっ!
(1999年12月28日 書き下ろし)
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その29 要領
 吉野家に行くといつも、店員さん達の手際の良さにはほとほと感心してしまう。ま、別に店員さんの動きをつぶさに観察しているわけじゃないけれど、非常にテキパキとした、無駄のないその様子は見ていて、とても小気味よい。
 カウンターの中を行き来する時には、必ず空いた席のテーブルを拭いたり、ごぼうサラダやおしんこの数をチェックし適宜補ったり、唐辛子やベニショウガの量をチェックしている。駐車場に入っってくる車を目ざとく見つけ車から降りてくる人数を素早く察知し、人数分のお茶を準備する。注文を受ける際には必ず復唱し、さらに奥のキッチン(?)へ明瞭な声でオーダーを伝える。

 時折、メモ用紙を片手にしたお客さんが「特盛2つ、味噌汁4つ、大盛1つと並1つ。おしんこが2つで玉子が1つ。それからコールスロー1つ。」と、お持ち帰り用のオーダーをするのを見かけたりもするが、ふむふむと聞いていた店員さんは、ほとんどの場合、間違えることなく復唱する。キッチンから出された丼を間違えて違う客の前に並べることも、滅多に見かけない。
 基本的に牛丼だけだから、ということもあるのだけれど、空いている時間帯であれば注文して20秒も経たないうちに品物が揃うことすらある。感動モノである...。お昼の12時頃の、ま、おそらくはピークの時間帯であっても注文後、2分待つこともないだろう。

 「要領がいい」というと、何となくマイナスのニュアンスがあるかもしれない。しかし、吉野家の店員さん達の要領の良さ、手際の良さ、そつのない動きは、本当に素晴らしいと思う。

 さて...。ここで「翻って我が身...。」と書くほど私は殊勝じゃない。(笑) 翻って、私の良く知る人物。(ちなみに、職場で、だ。(爆)) ありきたりの書き方をすれば「吉野家の店員さん達の爪の垢を煎じて飲ませたい」と思う。(爆) それがどれだけの効果があるかは分からないけれど、1カ月でいいから吉野家に出向してもらうといいのだが...。(爆) って、きっと、あの人のことだ...。3日も持たないだろうなぁ...。いや、吉野家の方から、どうにも使い物にならないからということで1日で突き返されるかもしれない...。

 ちなみに、その人物は、決して悪い人ではない。それは間違いないのだけれど、でもね〜...。私はほとほと手を焼いているのだ...。(笑)
 たとえば、報告すべきことがあってその人の部屋に行ったとする。私の話は、簡潔明瞭、手際よくまとめるので(笑)すぐに終わる。ところが、「まぁ、立ち話もなんだから、ま、お座りなさい。」という悪夢のような展開になることが多い。そして「今日は、自分の仕事は何もやってないよぉ〜。」という、実に情けない言葉から始まり、その日、いかに自分が雑務で多忙を極めたかを、ため息混じりに、そしてなぜか得意気に延々と私に語って聞かせるのである...。一体、そのようなことを私に聞かせることに何の意味があるのか...?
 また、容易に想像がつくだろうが、その人物は話好きなわけで、話はどんどんと(あらぬ方向へ)拡がってゆく。それが耳学問として役に立つような事柄であればまだしも、「親戚のおばさんが、40年ほど前に、粉ミルクと間違えて農薬を我が子に飲ませてしまって死なせた」というような、私には、何ら関係のないことを、延々と話すのである...。しかも、話は微に入り細を穿つ(笑)のだ...。彼の実家の庭の木の種類、その手入れのコツなど、私に話して何になるというのか...?
 それだけならまだしも(笑)、次々と新しいネタを披露してくれるなら、少しは救われるのだが、既にそのネタで数度、独壇場を演じたことをお忘れになるのか、同じ話を繰り返して、なのである...。「はいはい、そうですか。」とむげにあしらうことは、私にはできない。だから、ちゃんと耳を傾ける。しかし、すでに何度も繰り返し聞いた話だと「ちょっと待って下さい。そこから先は私が話しましょう。」と、思わず口を挟みたくなるほどだ...。
 そういう訳で、私は、最近では特に緊急の用件がない限りは、できるだけその人のところには顔を出さないようにしているのだが、すると、私の部屋に来て「ちょっといいかなぁ。マックで分からないことがあるんだけど、来てくれる?」と、お呼びがかかる...。(ちなみに、私よりも彼の方がマック歴は3年ほど長い。)
 「説明書を読めばいいんだろうけれど、教えてもらったほうが早いからね〜。」と言いつつも、彼は毎度おなじみの初歩的な質問をするのだ...。

 ま、どこの職場にも似たような人がいるのだろうが...。

 あ〜、いかん、いかん...。これじゃあ、ただの愚痴だ。(笑) 実に私らしくない展開になってしまったぞ...。(爆)
(2000年1月27日 書き下ろし)
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その30 表現するということ
 「表現」ということは、私には不可解なものだ。
 今まで数多く書いてきた駄文のそれぞれだって表現であっただろう。たとえ、それらを書いている私が「伝えたい!」ということを強く念じる、あるいはほとんど念じないにしても、それらを読んだ人は、おそらく、HASENOBUが、何かを表現している、という印象を持ったことだろう。
 しかるに、書かれた文章や話された言葉だけが表現の手段では、決して、ない。歌だって、絵画だって、表現の重要な手段だろうし、場合によっては、着ている服にしても髪にしても、何らかの自己表現だとも言えるかもしれない。

 スーツを着て人と会う、というのも「この場がフォーマルな要素を持ったものなんだ」ということを意識していることを表わしているかもしれないし、さらには「そのように意識していること」を相手に伝えようとするからだ、という場合もあるかもしれない。このように考えると、私たちの行動の、いかに多くの部分が「表現」と結びついていることか...?

 しかし、一方で、少なくとも積極的な表現とは考えられないものも、実に多い。
 私は、今、自室で人を飲みながら菅原進の曲に耳を傾けつつ、コンピュータのキーボードを叩いている。だけれど、椅子に腰掛けていることや音楽を聴いていること、酒を飲んでいること、タバコを吸っていることが、何らかの表現をしているとは思えない。もちろん、このように、一つ記してゆけば、それらは「表現された」ことになるのだろうけれども、それ自体(の行動)では、やはり表現とは言い難い(ような気がする)。

 「歌は表現の一種だ」と言ったときに、それに異論を唱える人は、あんまりいないだろう。だけれど、独りで音楽を聴きながら鼻歌を歌う場合、それは表現と言えるのか?(笑) 

 当然考えられるのは、表現というものは解釈する人がいてこそ成立する、ということだが、これも、何だか、はっきりしないような気がする...。
 ま、人と話している最中に、大きなため息をつく(爆)、ということは、それはそれで表現になりそうだし、あるいは、黙ったままで一言も発しない、ということも表現であると思われる。
 しかし、傍らに人がいれば、表現が必ず生まれる、というものでもない。(笑)
 その人に「解釈」する能力(?)がなかったら? あるいは能力があってもその意志がなかったら...?

 また、意図の存在というのも見逃せない要素だろう。何かを「伝えよう」という意志に基づく行為と、そうでない行為との間には大きな差がありそうだ。
 だけれども、これもまた(うまく説明できなくって歯がゆいけれど)決して明確なものではない...。

 あ〜、自分でも訳が分かんなくなってきたぞ。(爆)

 こんなことを考えるときりがない...。でも、まだ、何か言い足りないような気がする...。ということで、多分、また続く。
 あ、そう言えば明日(1月30日)はリードヴォーカル氏の誕生日ではないか!(笑) うん、決めた。この意味不明な駄文を氏に捧げよう。(爆)
(2000年1月29日 書き下ろし)
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