ちょっと堅い話 Part 4

目次
その31 ギターを弾く時に
その32 友人Mのこと
その33 MIDIのページのこと
その34 「似ている」ということ
その35 プロフェッショナル
その36 Lucky & Unlucky (1)
その37 Lucky & Unlucky (2)
その38 娘、13歳
その39 広報原稿
その40 必要なモノ

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その31 ギターを弾く時に
 ギターを弾く時に何が大切だとあなたは思いますか?(おい...、誰に話しかけているのだ、HASENOBUは...?(爆))
 すぐに思いつくことはいくつかあることでしょう。ある人は「情感を込めて弾くこと」と言うかもしれないし、「きちんと弦を押さえて、ちゃんと響くように鳴らすこと」が大事だと言う人もいることでしょう。
 確かにそれはそうだと思います。(もちろん「情感を込めて」などというのは、それ以前に「ちゃんと弾けること」があって、でしょうが。)
 技術的なことを言うと、それはかなりの項目が並びそうです。「単音を弾くときには、左手の指を寝かさず、フレットに近いところを押さえる」ことも必要でしょうし、右手のピック、あるいは爪先がどの位置で弦を弾くのか、どれだけの強さで弾くのかなども大切なことです。

 ですが、敢えて私は言いたいと思います。

 逆説的な言い方に聞こえるでしょうが、「余分な音を鳴らさない」こと、だと。これが鮮明な音を響かせるためには大切なことだと思うのです。

 ギターにも色んな種類があって、簡単に考えてもクラシックギター、フォークギター、そしてエレキギターという区分があります。クラシックギターは、ガットギターとも呼ばれますが、基本的にナイロン弦3本と低音部の3本の巻き弦を持つものです。フォークギターは、最近では「アコースティックギター」とも呼ばれることが多いのですが、弦が金属製で、堅い音がします。またエレキギターは、弦のことで言うとフォークギターと同じですが、胴体に装着されたピックアップにより音を拾いアンプで鳴らすことになります。

 ですが、どのギターも奏法としては「弦を指(あるいはピック)で弾き音を鳴らす。左手で適宜、フレットを押さえることによって音の高さを変える」ということで共通しています。
 このように書くと「鳴らす」ことが前面に出てくるのですけれども、私は「鳴らさないこと」も同じ程度に大切なことだと考えています。

 とあるフレーズを弾くとしましょう。当然、上に書いたこと、つまり「弦を指(あるいはピック)で弾き音を鳴らす。左手で適宜、フレットを押さえることによって音の高さを変える」という作業を連続して、あるいは複数の弦で同時に行なうことになるのですが、その際に、鳴らしてはならない音を出さないことが、難しく、そして大事なことだ、ということです。
 速いフィンガリングが必要となる場合は特にそうです。押さえていた弦から指を離すだけでも音が生じてしまうことがあります。不要な音が鳴らぬよう右手で軽く弦を押さえミュートする、あるいは左手の、他の指を軽く触れさすことによって音が鳴らないように配慮する、ということが要求される訳です。

 「ギターを弾く」という言葉からするとどうしても「弾くこと」ばかりに目が行ってしまうのですが「弾かないこと」も同じように大切なのです。
 
 こう考えると、私たちの人生、というものも、少し考えを改めたほうがいいのかもしれません。「言わないこと」が「言うこと」と同じくらいに大切な時や、「しない」ことが「する」ことと同じように大きな意味を持つ時というものがあるのではないでしょうか...?

 と、まぁ、ちょっと雰囲気を変えてもっともらしいことを書いてみました...。(笑)
(2000年2月14日 書き下ろし)
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その32 友人Mのこと
 昨夜、久し振りに親友から電話があって話をした。主な要件は「マンション購入を考えているんだが、どう思う?」ということであったが、その話題が終わり、友人達のその後の動向(?)に話は移った。
 その時に、友人Mが、昨年末離婚した、という話を聞いて、私は少なからずショックを受けた...。

 友人Mは中学校以来の友人で、私としては、極めて少数の親友の一人だと思っている...。(ま、彼が私をどう思っているのかは知らないが、披露宴のスピーチを私に頼んだのだから、ま、それなりの友達だと思っているのだとは思うが。)
 うむ...。

 別れたいきさつは、良く知らないし、ここであれこれと推察するつもりもない。Mに電話して詮索するなんてことも、もちろん、しない。

 でも、とても不思議、というか、とても不可解なことに思えて仕方がない...。
 ま、確かにMは冴えないヤツである。時折放つ冗談も座を白けさせるのが関の山で、ほとんどの場合は冗談を言ったことさえ気づいてもらえない。決して口が立つタイプでもなく、歌を歌うと私以上の音痴だ。
 でも、真面目すぎるかもしれないけれども、今どき珍しいほどの純朴なヤツで、信頼できるヤツだ。ちょっと頼りないけど...。

 ...。

 うろ覚えだが、結婚したのはまだ数年前のことだ。確か35歳の頃だったんじゃないかと思うが、最近の風潮からすると晩婚とは決して言えないだろう。相手は、確か7歳ほど下のお嬢さんだった...。その女性のことはほとんど知らないけれど落ち着いた感じの知的な美人、という印象を受けた。

 二人は、私にはお似合いの夫婦に見えたし、きっとこれからずっと仲良く、そして慎ましく東京の片隅で暮らして行くのだろうなぁ、と(勝手に)私は信じていた。

 ま、友達の中には、いつもフラフラしていて(?)「おいおい...。大丈夫か? お嫁さんに愛想尽かされないように気をつけろよぉ。」と思いたくなるような者もいるが、Mは、決してそんな男ではなかった。

 うむ...。
 今度、Mに会いに東京に行こうか...? でも、何にも言えないよな、私には...。
(2000年4月5日 書き下ろし)
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その33 MIDIのページのこと
 この春、カナダに出張していた間の息抜きとして私はMIDI作品を作ったりした。そしてそれは「不幸の手紙 from CANADA」の中にも触れていたことだけれど、その作品をアップするにあたって気にしていたのは「著作権」のことだった...。
 もちろん、MIDI作品を自分で作って自分だけのコンピュータだけで楽しむのであれば、間違いなく「個人で楽しむ範囲内」のことであろうが、それをインターネット上で公開する、となると事情は異なる...。実際に私のあのページを見る人の数がいくら少なく限られたメンバーであったとしても、そして公開することで私が収益を上げていない(笑)としても、どう考えても「著作権」に引っ掛かるような気がしていた...。

 確かにインターネットの世界では「おいおい...。こんな写真を勝手にアップしてもいいのか...?」というようなサイトが掃いて捨てるほど(爆)ある。とある歌手などの熱狂的なファンが勝手にその歌手の写真やらアルバムの画像などを置いているようなのは、日常茶飯事とさえ言っていいくらいである。(ちょっと言い過ぎ...?)
 私はあまり「ネットサーフィン」ということはしなくて、毎日訪れるサイト(掲示板)は5つにも満たない。けれども、時折、ふと気になったことを検索エンジンで調べてあちこちさ迷ったりすることもある。そんな時に、それが音楽系のサイトであれば特に著作権を完全に無視したような内容のページであることが、多い...。

 高音質のまま圧縮をかけファイルのサイズが小さいMP3とやらが話題に上ることが多いけれど、私はまだそれに触れたことは、ない。(笑) (そもそも、もしそういうファイルがあったとしても私のパソコンで再生できるかどうかも知らないし...。) しかしパソコン関係の雑誌を見るかぎり、結構、違法サイトみたいなのが多いらしい。有料で最新のヒット曲などがダウンロードできるようなところもあるらしいが、ま、きっとそういうのは日本音楽著作権協会(以下、JASRACと表記)に申請をし、その許諾を得て(そして定められた著作権使用料をちゃんと支払っているのだろうが...。

 で、MIDIの話だ。(笑)

 今までオフコースの楽曲を始めとして、幾つかの「MIDI作品」が置かれているサイトを訪れたりしている中で、この「著作権」を考慮し、それに気兼ねしている(笑)ところもあれば、そんな気配はちっとも感じられない(爆)ような所もあって、様々だった。
 とある所からの情報であるが「現在のところ、JASRACはインターネット上のMIDIファイルについては明確な姿勢を示していない。」とのことで、さらに「自分は、自分の作ったMIDIファイルは『個人で楽しむ範囲内』だと思っている」との(根拠は良く分からないけれど)意見が述べられているような所もあった。

 ということで、私も、ファイルをアップするにあたっては、ちょっとためらった。(ま、私の作ったMIDI作品のレベルが低い、ということのためらいもあったけれども...。(笑))

 しかし、昨日、今までよく訪れていたN氏のサイトが手直しされ、そして「MIDIファイルへのアクセス数(ダウンロード回数)」が分かるようになっていたこと、そしてJASRACへ許諾申請中であることが書かれているのを見て、私は焦ってJASRACのホームページを訪れてみた。

 そこに書かれていたことは、私にもう充分その妥当性が窺われる内容だった...。(その内容をここで紹介はしないけれど。(笑) 興味のある人は自分で探して読んでみて下さい。)

 ま、私が手がけていたとんぼ(ちゃん)の場合には、現在、ヒットしている訳でもないし、私がMIDIファイルを作ったからという理由で、彼らの、本来ならば、もっと売れるはずのレコードやCDの売れ行きが悪くなってしまう、よいうような事態が生じるとは思えない(爆)のだが、そういう局面とは別に、他の人が作って所有している「財産」を利用しているということは間違いない。それにオリジナルの作品を勝手に「改変」してしまっているということも...。

 う〜ん...。

 ということで(?)私は、やはり今のままの形で「とんぼ(ちゃん)のMIDI」を私のホームページに載せておくことは控えることにしたのだった...。
 と同時に、自分が作ったMIDI作品は誰かに聴いてもらいたい、とも思う。たとえ出来は良くなくっても、だ。(爆) 特にその楽曲が好きだ、という人には聴いてもらいたいし、そして「カラオケで歌いたいけれど、あまりにもマイナーだからどこにも見当たらない」というような人にも...。(笑) ということで、私はまだ迷っている...。
(2000年5月23日 書き下ろし)
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その34 「似ている」ということ
 ということで(?)、ちょっと考えてみたいのだけれど。
 ある人とある人とが似ている、と思うときがある。(「思う」と言うより「感じる」と言ったほうがより正確かもしれないが...。) そして、その「ある人」のどちらかが自分である、ということも、ま、あり得る話である。
 もちろん、ここで考えているのは「容貌」ではなく、性格、というか、その人の行動や発言などが、ということなのだが。(どこが「もちろん」なのかはさておき。(爆))

 で(?)、私にもそう感じる人がいる。仮にS氏と表記することにしよう。(謎爆)
 そのS氏とは、直接の面識はない。(ここで言う「直接」とは「実際に顔を突き合わせて会って話をした」、という意味で、だが...。) それでも、ネット上での書き込みなどを見て「ふむ...。何となく、この人、私に似ているところがあるなぁ...。」という印象を持ったという、つまりはそういうことである。
 S氏のことは、私は良く知らないし、(他の人に対してと同様(笑))、取り立てて「もっと知りたい...。」と思うこともないのだが、S氏の発言などを読むと妙に共感できるのである。
 かといって、「何から何までそっくり」だとも思いはしない。何と言ってもS氏と私は別人なのだから。

 さて、ここで「別人」ということばを使ったが、実はこれが今回の駄文のキーワードなのだ。(笑)

 「人」は、それぞれ違うのだ...。
 ま、「何を当たり前のことを...。」と思われてしまうかもしれないけれども。でも、その「当たり前のこと」を少し考えてみたい気分なのだ。(意味不明)

 で、いきなりだが(笑)「私は変わっている。」ということについて...。(あ、念のため言っておくと「私こと、HASENOBUが変わっている」というようなことではなく。全般的な話として、である。)
 これは、ある意味、先ほどの「当たり前」のことと大きく関わっているし、またあんまり関係のない、こともある。(意味不明か...?)
 例えば、現代の日本の中で「新聞を購読していない」、あるいは「テレビ番組を見ない」ということは、もしかしたら「変わった人」であることの証左であるかもしれないが、「これらの条件を満たせば必ず変わった人である」ということにはならないだろう。(金銭的な理由ではなく)携帯電話も持たず、普通の電話機さえ自宅にない、となれば(私には)「変わった人」と思えるかもしれない。(もちろん、「食事はしない」とか「全然眠らない」というのも「変わった人」であるけれども、それ以前の問題(?)であるような気がする。)

 果たして「変わった人」って、何なのだろうか...?

 容易に推察されるのは「何らかの刺激(例えば、発言、目撃した光景、自分が直面している事態)に対して通常考えられるものとはおおいに異なった反応を示す人」ということであるが、こんなふうに考えても何も明確にはならない。(笑) 「通常考えられるもの」をまず決めておかないといけないし、それに結局は「逸脱(笑)の程度の問題」であるだろうし...。(つまり、その線引きができない、ということだ。)
 幾つかの項目を立てて(?)、それに該当する度合いによって「変わっている」VS「変わっていない」を判定する、というようなことは少なからぬ困難を伴うのではないか...?

 ちょっと面白そうだからそういった「変人度テスト」を考えてみよう。(爆)

問01 自分の親の名前を忘れた。
問02 出かけるときにはいつもはだし。
問03 電話をかけたことがない。
問04 人に誉められると腹が立つ。 
問05 人と話しているときに、決して笑顔を浮かべない。
問06 刃物を持つと必ず人を刺したくなる
問07 お金を見たことがない
問08 今まで「水」を飲んだことがない

 (あ〜、虚しい...。やめた...。(爆))
 さて、あなたはどうだろうか?(爆) 上の問01〜08で、一つでも「はい」があれば、(少なくとも私にとっては)あなたは「変わった人」である。(意味不明)
 そして、全て「いいえ」であった人は、安心してよい。(笑) あなたは普通の人間である可能性が高い...。
 
 え? 私はどうか、って?(笑) 御心配なく。上の問いには全て「いいえ」だ。
 ん...? 何を書いているのか、って?(笑) 「『変わっている』と『変わっていない』との間の線引きは難しいでしょ?」ということを言いたかっただけだけど。
 そして、先に記したように、人間はそれぞれが固有の存在なのだから、多かれ少なかれ「他の人とは違っている」はずのものだ、ということ。
 この両者を踏まえつつ(?)考えれば、多少なりとも、誰でも「変わっている」のだ。(くくくっ...。(←意味不明の含み笑い。)かなり意図的に用語をすり替えてこじつけたぞ...。)

 で、S氏の話だ。(笑) 
 私自身はS氏と「似ている」ということについては特別な感情も感慨(?)も感じない。「あ、そうですか。」という具合だ。もしかしたら、S氏は、私と同様、(上記の)「常識の範囲内で変わった人」であるのかもしれないが、そうであったとしても、それはびっくりするほど特別なことではないだろう。

 ふむ...。迷走してきたぞ...。(爆)
 そもそも考えたかったのは「似ている、とはどういうことか?」、「人はなぜ『似ている』と感じるのか?」、そして「人は、どうして『自分は(ある程度)変わっている』と思いたがるのか?」ということだったのだけれど、ま、いいや。(笑)

 じゃ、そういうことで〜。
(2000年5月26日 書き下ろし)
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その35 プロフェッショナル
 別に「プロフェッショナルとは...?」というような大袈裟な話じゃない。もしも私がそんなことを書くとすれば、おこがましさの大安売りである。(ちょっと意味不明)

 で、だ。(笑) さっき、久米何とかが司会をしているニュース番組(ちなみに一回も通してみたことはないが)の冒頭で、横山ノック元知事の破廉恥行為に関しての公判の結果が伝えられていたのを洩れ聞いた。「洩れ聞いた」というのは、食事を終え、私は庭に佇んでタバコを吸っていたからだが。

 すると、どうやら大阪からの生中継(?)風に、女性レポーター(なのかな...?)が公判の様子を伝えているらしい音声が流れてきた。
 だけれども、変、なのだ。
 その女性がどこの(出身の)人なのかは知らないけれど、「公判」という語を、語頭に高いアクセントを置いて発音しているのである。(ちょうど「紅白」の最後の「く」を「ん」に変えたと思ってもらえればいい。)
 妙に耳障りだ...。しかも、話の流れからすると「結審」としか思われないのだけれど、その人の言い方では「決心」である...。
 おいおい...。

 前に、広島のローカル番組で素人さんのアシスタント(らしき人物)が、「どんぶり」のことを「ドングリ」と同じアクセントで言っていて「はぁ...?」と思った話を書いたことがあるけれども、今回のはおそらくは全国ネットの番組だ(と思う)。
 ま、ドキュメンタリー番組で地方の人の証言を流す、というのであれば話は別で、その土地の訛りが無いほうが不自然だ。しかし、今夜のは報道番組であり、きっと原稿を読み上げているのだろう。それでいて、何ゆえに変なアクセントを使うのか?

 「商品」と「賞品」も、「承認」と「商人」も、きっとその人にかかれば一緒になるんだろうなぁ...。日本語の音節の数が少ない分、同音異義語が多数存在し、そしてその類別のためにもアクセントが一役買っていて弁別の補助をしているということなど、専門家でなくともことばに多少なりとも関わりがあるのであれば気づいていていいことではないのか?(あ〜、悪文の見本みたいだ、この冗長的な文。(笑))

 何だかなぁ、プロとは呼べないような仕事をする人が多くなっているような気がする...。

 あ、それで思い出したけれども、時の総理(笑)。(おおっ...? HASENOBUが政治に関する発言を...?(爆)) なかなか笑わせてもらっている。ま、見るからに、って感じもするが(爆)、叩けばいくらでもホコリが出て来そうだし、種々の発言も度肝を抜かれることが多い。あの人じゃ、うちの町内会長も務まらないだろうなぁ、という気もする。でも、そういう人物が総理大臣でいられるということは、日本も平和ということなのかもしれないなぁ、とも思う。(←やな書き方だと自覚しつつ、それでもこう書きたい。)

 ってことで、また〜。(?)
(2000年6月20日 書き下ろし)
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その36 Lucky & Unlucky (1)
 この夏、帰省した。って、毎年、夏には帰省しているのだが。「お盆には里帰り」、これは日本人の正しい姿である...。(爆)

 で、冗談はさておき、今回の帰省は、妻の仕事の関係上、非常に慌ただしいものとなった。ま、前にも書いたけれど、小・中・高・大という(?)教育機関では、この順序に従って忙しい。(もちろん、これは一般論であって個人差は激しいが。) で、私は8月に入って数日で「完全フリー」と言ってよいような態勢に入ったが、妻はそうではない。11日(金)までは多忙にしており、また18日には研究発表が控えているとのことで週末さえも忙しくしている。
 ってわけで、今回の帰省は12〜16日という日程となった。

 さて...、ここまでが前置き。(笑)
 
 12日は早朝から出発する予定であった。私は午前4時30分には起き、5時には出かけられるように(すでに前夜、支度をしていたこともあるのだ)していたが、妻がぐずぐずしている。(笑) 結局、広島の自宅を出たのは7時を少しまわっていた。そして国道2号線(のバイパス)経由で山陽自動車道へ。土曜日とは言え交通量はさして多くない...。しめしめ...。(笑)

 だが、徳山、防府を過ぎ、山陽道が中国自動車道へと合流して数キロの地点でいきなりのろのろ運転、そして徐行運転、さらには渋滞へと...。
 道路の表示板には「3Km渋滞」との情報が...。(ToT)

 あぁ...。やっぱりお盆前の土曜日だ...。もっと早く、明け方以前に出発するべきだったのだ...。

 しかし、この渋滞は気合いが入っている。(笑) 1時間かかって500メートル進んだかどうか、という具合である...。
 ちなみに広島の私の家から熊本の実家まではちょうど400Kmほどであり、普通であれば、のんびりと休憩しながらでも5時間強で帰りつく。ところが今日はどうだ?(笑) すでに2時間半を経過したというのにまだ100Kmほどしか進んでいない...。この調子だとあと7時間以上かかる...。(笑) いや、時速500mであれば600時間はかかることになるぞっ!!(爆) という、馬鹿げた計算をする時間があるくらいに渋滞はひどかった...。
 しびれを切らしたおじさんがおもむろに運転席を離れ車外に出て、路肩に行き立ち小*(爆)をこなして車に戻ってもまだ流れは動いていない、という状況なのだ...。

 ま、それはそれとして...。

 私は、それまで聴いていたオフコースのCDを止め、ラジオに切り替えた。しかし残念なことに、今、私たちが停滞している個所では「高速道路情報」は受信できない...。また、ここは山地であるので(笑)FM番組も良好には受信できない。仕方なくAM放送に切り替え、そして腹立ち紛れに「演歌」が流れている局を選んだ...。(爆)

 「♪ ここはウミネコ酒場〜♪」といったような歌詞の「さすらい酒場」とかいう意味不明の曲が流れた後、DJが告げた。
 「今日はお盆の帰省客で道路が混んでいるようですね〜。国道2号線はあちこちで渋滞しているようです。また、ラッシュに輪をかけるように中国自動車道ではトラックなどの追突により小月〜美祢インター間が通行止めになってます。」

 おいおい...!! 私と妻は顔を見合わせた。(笑) そう。(笑) 私達は通行止めの区間の手前の所でず〜っと意味なく待ち続けていたのである...。(爆) 幸い(?)問題のインターチェンジの一つ手前のインターチェンジ辺りで停滞していたので、すぐに高速を降りて一般道に向かった私達である...。

 いやぁ、演歌の流れている番組を聴くことなんてついぞなかったのに、たまたま腹いせに(?)聴いて、このような情報を得るとは...。これこそ不幸中の幸いである!!

 ところが...。一般道(笑)は高速道路と同様に混んでいた...。時折すいすいと流れることもあるが、「動いている」:「止まっている」の割合が10:1くらいなのだ...。(ちなみにこの「10:1」という割合は体感値であり、実測値ではないが。) 自宅を出て既に5時間...。なのにまだ3分の1の距離もこなしていない...。(ToT)
 国道2号線を通って、せめて(?)下関までは行こうと思っていたのだが埒があかない...。ということで、美祢西インターから再び高速道路に入ったものの、これまたのろのろ運転となる個所が幾つか...。

 結局、実家に辿り着いたのは午後6時過ぎであった...。丸11時間のドライブ...。以前、深夜に出発して、高速道路を一切使わなかった時でさえ所要時間は7時間弱だったというのに...。
 ま、初めての場所へ旅行で行くのであれば途中の風景を堪能したり、ってこともあるけれど、ただの(?)帰省のための「移動」に丸一日を費やしてしまったような気がして、何だかとっても損した気分である...。

 で、意味なく、続く。(笑)
(2000年8月16日 書き下ろし)
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その37 Lucky & Unlucky (2)
 ということで、実家への向かう車の中で思ったこと...。中国自動車道の時間の浪費は、全て、その日(12日)の午前8時20分頃に起きた「大型トラックを含んだ5台の車の玉突き事故」が原因であるのだけれど、もしもその時間帯にその辺りを通行していたら私達の車もその事故に巻き込まれたかもしれない。場合によっては妻と私とが命を失っていたかもしれないし、どちらかは生き延びたけれども(ま、想像すればいくらでも後遺症は考えられるが)下半身不随になっていたかもしれない...。
 事故の当事者達だって「よぉ〜し、今日は一発、派手な事故を起こして渋滞を作り出してみるとするか!」と意気込んでいた訳じゃないだろうし、偶発的に起こったからこそ「事故」なのだろうけれども...。

 もしも、その日の朝、妻が「髪の毛だけ洗ってゆくから。」と言い出さずにいたら私達は20分ほど早く出発していただろう。となれば、時間的に言って、例の事故の現場を通過することになっていただろう。
 その後だって、九州自動車道でも少なくとも2個所で事故があったようだが、最初の渋滞がなければ、そちらの方の事故に巻き込まれていた、って可能性もある...。
 ま、このように考えてゆくときりがない。もしも20分早く出発して例の交通事故に巻き込まれる、ということはあったかもしれないけれど、もしもあと5分遅く出ていたら別の交通事故の張犯人になっていたかもしれない...。

 もちろん、このような話は別に「帰省時のドライブ」に限ったものではない。(笑) 毎日の暮らしの中で、それこそ無限の事故の可能性がある...。
 楽しくテニスをしているのはいいが、隣のコートから自分の背後に転がったボールに気づかず踏ん付けてしまって足首を捻挫、手をついた拍子に手首の複雑骨折、なんてこともあり得る...。(実際、そういう目に遭ったおばさんプレーヤーを知っている...。) よかれ、と思ってなしたことが裏目に出てしまう、なんてこともしょっちゅうあることだ...。
 
 これは私が帰省していたときに母から聞いた話であるが、私の実家から数軒離れた家の奥さんが今月の初めの頃に交通事故で亡くなったという...。私は面識はないのだけれど、母の言葉では「つい最近、家を建て直したばかりで、立派な屋敷ができて喜んでいた矢先だった」そうで、また「奥さん(50歳過ぎくらい)は人当たりのいい人」だったということだ。
 で、そのおばさん、何かの宗教に入っていて、その日の夜も集まりがあるということで、教会か道場か何かは知らないけれど、ま、とにかく自宅から2キロほど離れた所へ自転車に乗ってでかけたらしい。そして、無事に(?)その集会が終わり、帰途についたところで、車にはねられて頭を強打、意識不明となってそのまま亡くなった、とのこと...。
 
 何とも皮肉な話である...。

 もちろん事故なのだから、先ほども書いたように「もしも、〜〜していたら」あるいは「〜〜していなかったならば」というような言い方はいくらでもできるだろう。だが、その宗教の信者でなかったならば、そんな事故には遭わなかったのに...、と思ってしまう...。(そのおばさんの死を茶化すつもりはないけれど、こういうのも「殉教」というのだろうか...?) 
 成功率の非常に低い心臓の難病の手術に成功し、そして無事に退院の日を迎えタクシーで帰宅途中に、居眠り運転の大型トラックに激突されて死亡、なんてのも、とても皮肉な話だが、充分あり得ることだろう...。

 う〜ん...。いや、別にペシミスティックな考え方に取り憑かれている訳じゃないけど、偶然のなせる業、というか、運・不運というか...、そういうものに人間は弄ばれることがあるのだなぁ〜、とつくづく思ってしまう...。まさに一寸先は闇、だ...。
(2000年8月24日 書き下ろし)
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その38 娘、13歳
 娘は、今、13歳だ...。中学1年である...。

 小学校の高学年の時から「私立中学受験!」に向けて塾に通い続けた甲斐あって(?)、現在、第4志望の学校に通っている。(笑) 娘は5つの中学校(爆)を受けたのだが、その2つには不合格であった。世間の評価からすると、「第3志望」の学校の方が「いい」のかもしれないが、共学であること、自宅から一番近いことを考えると、娘が通っている「第4志望の学校」の学校こそ(私にとっては)「第1志望の学校」だったんで良かったと思っている。(いや、マジで。)

 さて、娘も「お年頃」である...。おでこのニキビを気にし、また着る服にもうるさくなってきた。そして、時には母親(もちろん、私の妻Fさん)と徒党を組み「もぉ〜、父さんったら!!」と私をたしなめる...。

 最近はちゃんとした音楽(笑)に少しは興味を持ち始めたようで、以前のように「スピードが〜、V6が〜」などと言うことはない。そしてFMラジオの音楽番組も熱心に聞いているようである。今日などは、その番組の聴取者対象のプレゼントが当たる問題にファックスで答えを送って、どうやら当選者で名前が読まれたらしく、「やったよぉ〜、お父さんっ!! 『ゆず』のポスターが当たったよぉ〜!!」とはしゃいでいた。(笑)

 「ほぉ〜。そんなに『ゆず』のポスターが欲しかったのか?」と応じると、「いや、そんな訳じゃないけど...。でも、とにかく当たったんだよぉ〜!! すごいでしょ!?」と言う。「そうかなぁ。別にすごいとは思わないけどね。」と言うと(笑)、やはり「もぉ〜、父さんったら!!」である。(笑) 「少しは娘の喜びを分かち合ってよ!」などと感動を強要してもくる...。やれやれ...。(笑)

 で、その娘が「ギターを教えてよ。」と言う。「ゆず」か「19」か、知らないけれど、ギターに興味を持ったらしい...。さすが(?)私の娘である...。

 最近では私の携帯用MDプレーヤーも娘に貸しっぱなしである。(いや、全然構わないのだけれども。) 前に、奇特な学生が私に貸してくれた『ゆずえん』を録音したMDも長らく私は聴いていない。恐らく近いうちに「ねぇ、お父さん。私、自分専用のMDラジカセが欲しいなぁ...。」などとすり寄ってくるのだろうなぁ...。

 いやぁ、それにしても、何だか、感動モノである...。赤ん坊の頃、片手で首根っこを掴んで(笑)湯船に浮かべて身体を洗ってやった、あの娘が...、である...。(分かんないだろうなぁ、この文じゃ。(笑))

 え? 何でこういう話が「堅い話」にあるのかって...?(笑) 十分、真剣で深刻な話だと私は思うけどなぁ...。

 ってことで、何を書きたいのか良く分からないままだろうけれど、これにて。(?)
(2000年10月18日 書き下ろし)
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その39 広報原稿
 深い意味も真剣な意図もないが、職場の広報用にしたためた原稿を全文、広報の発行に先んじて「くまきの部屋」の読者に公開したい。(いや、だから、別に何も企んでないってば。(笑))

ことばを楽しもう ---ことばについて考える---

0. はじめに
 世の中の学問は、大きく「実学」と「虚学」との二つに分けられるかもしれません。前者は「実用的な学問」、すなわち、人間の生活をより快適にするのに直接役立つような学問と捉えてよいでしょう。そして後者は「虚ろな学問」ということで、その種の学問の研究成果が日々の暮らしに直接寄与するとは考えにくいようなものを指します。(かなり乱暴な分け方ですが、概ね、いわゆる「理系」の学問は実学で「文系」の学問は虚学に属するとも言えるかもしれません。)
 しかし、ものごとを損得や、役に立つか立たないかだけで割り切ることはできないものです。いささか手前みそになってしまいますが、功利的な世界を離れた中でこそ純粋な知的好奇心が自由に翼を拡げることができるのかもしれません。
 さて、私の場合、専門としているのは、そのような「虚学」の中でも言語学、さらに言うと「英語学」となります。実際は、その中でも「文法理論」、「生成文法の枠組みの中での統語論」や「語用論」などが私の主な研究の分野ですが、あまり立ち入った話をしても面白くないでしょうから、日本語の問題を中心に「ことばを考える」ということについてここでは書いてみたいと思います。

1. 母語としての日本語
 私たちは「ことば」に囲まれて生きています。それがあまりにも身近なものであるため「ことばを使っている」ということを意識することもなく、その習得についても、ふと気がつくと「話していた」というような印象を持ちさえするかもしれません。私たち(の多く)が母語としてすでに身につけている「日本語」という言語を、いつ、どこで習得したのか考えたりすることなどないかもしれません。
 一般的には「母国語」という言い方がなされていますが、言語学の世界では「母語」という用語が用いられます。これは、言語の習得においては「国という政治的概念」は無関係であるから、という理由に基づきます。自分の子供にことばを教えるとき「日本という国家の言葉を教えたい」という意識を持って臨む人はいないように思われます。強いて言うならば「自分の使っていることばを教えたい」という(半ば本能的で)ひたむきな思いがそこにあるのではないでしょうか。ことばのしつけをするのは母親だけの役目ではありませんが、人が身につけるのは「国家の言語」ではなくて「母のことば」なのです。
 少し話はそれますが、「ただテープを聞いているだけで英語がペラペラとしゃべれるようになります!」と広告で謳う英語教材が巷に出回っています。確かに外国語の習得には反復練習が不可欠であることは間違いありませんし、なかんずく繰り返し聞くことが極めて重要だという点には全く賛同できますが、だからといって文法は不要であるということにはなりません。それらの広告には「日本語を身につけたとき努力しましたか? していないでしょう? だから、英語を覚えるのにも努力も文法も要らないのです。アメリカ人の赤ちゃんが英語を覚えてゆくように私たちも自然に英語を覚えればよいのです!」などとまで書いてありますが、そう考えるのは勘違いも甚だしいものです。生後間もない頃からの数年間の父・母、その他周りの人々の努力はいかなるものか、想像してみればすぐに分かることでしょう。まだ何も言えない赤ちゃんを相手に「ほ〜ら、これが『本』ですよ〜。」と繰り返し繰り返し(それこそ幾度となく)言い聞かせ続けてくれたその労力を無視することはできないはずです。
 このようにして身につけてきた日本語は、私たちの血となり肉となっていると言っていいかもしれません。そして、多くの聴衆の前でのスピーチなど多大な緊張が生まれる場面以外では、すらすらと思う通りに話せるものですから「日本語は簡単」という意識(その裏返しで「外国語は難しい」という意識)を持ったり、あるいは何でも分かっているつもりになったりすることもあることでしょう。しかし、果たして日本語は私たちが思うように簡単なのでしょうか? ほんの少し気をつけてみると、私たちの使う日本語にも実に様々な興味深い事柄、すぐには説明できないような事柄がたくさんあることに気づきます。そのような例を次節では幾つか出したいと思います。

2. 日本語の興味深い問題
 最初に『ユリシーズ』の翻訳などで著名な英文学者の柳瀬尚紀氏が著書の中で触れている例を挙げましょう。「待ちに待った楽しい遠足の日」などという表現、つまり「動詞連用形+に+同じ動詞」という言い回しに関して、氏は「どういう動詞にかぎって使われるのか」、「あるいは、どういう動詞には使われないのか」と問い掛けています。これについて回答も解答も出されていませんが「遊びに遊ぶ」、「運びに運ぶ」、「叫びに叫ぶ」、「転びに転ぶ」、「滅びに滅ぶ」などなど多数の例を考え、そうして、この表現の可否を司る規則のようなものがあるかどうか、あるとすればどのようなものなのかを探ってみるのも一興だと思います。
 語彙レベルで見ても興味深いものはたくさんあります。次の表は言語学者の城生伯太郎氏がよく引き合いに出しているものですが、日本語の「色彩名」としては「青、赤、黒、白」という4つが最も基本的であることが示されています:
〜い 〜くなる 〜さ 真〜 畳語
× × × × ×
× × × × ×
× × × × ×
× × × × ×
× × × × ×
× × × × ×

(城生伯太郎著 『日本語ちょっといい話』 創拓社 1991年 202頁より)
これらの語については、上に示されているように、幾つものヴァリエーションがある、即ち、これらの語が極めて古い時代からあったからこそ、それらを語幹とする様々な語が派生されたという訳です。
 続いて、次のような事例はどうでしょうか? 例えば「私は駅で山田さんに会った」も「私は駅で山田さんと会った」のどちらも正しい日本語の文ですし、ほとんど区別なく用いる人も多いことでしょう。しかし「隆は山で熊に会った」と「隆は山で熊と会った」となると、どちらも理解できるものの、後者には、いかにも隆さんが熊と待ち合わせをしたかのような不自然さが感じられることかと思います。これが童話やその他の幻想的な話であればさほど不自然さは感じられないかもしれませんが。では、「隆は昨日、交通事故にあった」と「隆は昨日、交通事故とあった」とではどうでしょうか? 言うまでもなく、後者は正しくない日本語の文だということは日本語を母語とする人には直感的に判断できます。ところが、これを日本語を外国語として学ぶ外国人に説明するとすればどのような説明が最も説得力を持つのでしょうか?
 音声の面でも、例えば「やはり」→「やっぱり」→「やっぱし」→「やっぱ」というような音転換、音脱落の現象も面白いものです。同様の例として「ばかり」というのもありますが、他にはどうでしょう?
 また「ないものはない」という表現も文脈次第では「何でも揃っている」という意味になったり「とにかく何もない!」という意味になったりするのも考えてみればとても不思議なことです。今、「とても」ということばを使いましたが、このことばはかつては「とてもできない」といったような否定の文脈においてのみ使われていたことを知れば、「全然楽しい」という言い方が現在、定着しつつあることもうなずけることでしょう。

3. 「ことば」を楽しむ
 上で色彩名の話をしましたが、以前、講義の中でそのことを扱ったときに「『真ムラサキ』というのは、ある、と思いますが...。」や「『マッキ』は少し不自然ですが『マッキイロ』ならいいように思います。」という学生の声があり、私としては嬉しく思いました。「ことばは生きている」ということがよく言われますが、まさにその通りで、日本語の色彩名の中にも先の4語以外にも、すっかり定着して派生語を部分的ながらも持つようになりつつものがあると考えられます。ふだん何気なく使っていることばを俎上に載せ「これは変だけれど、このように言えば自然ではないのか...? でも、これはなぜ変に思えるのだろう?」と自ら問い掛け、そして色んな可能性を探る面白さ、あれこれと自由に思索する楽しさを、先ほどの意見を述べた学生たちは感じ取っていたことでしょう。
 以上、英語という外国語を研究の対象として選び、その研究の過程の中で自分の母語である日本語にも強い興味を必然的に感じるに至った私から、「ことば」について考えることの面白さの一端を紹介いたしました。
(2000年11月19日 書き下ろし)
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その40 必要なモノ
 この前、上野恩賜(!)公園を友人と散策した。
 夢にまで見た、誉れ高い「犬を連れた西郷隆盛の銅像」を見ることができ、もはや思い残すことはない。と、のっけからデマカセを書いてしまったが(笑)。

 ま、その銅像を見たのは確かに印象的なことだったし、その後、不忍の池をぐるりと歩いて廻ったことも、それなりに印象深いものではあるけれども、一番心に残ったものは、園内にたむろする多くの(恐らく20名を越す)浮浪者だった...。

 私が友人Kと公園を歩いたのは午前8時過ぎのことだが、その浮浪者たちも別段、公園に遊びに来た、散策しに来た、という風体(?)ではなかった。彼らの傍らにある、デパートか何かの大きな紙袋、そして段ボールや新聞紙。どう見ても公園をねぐらとしている様だ。

 ふむ...。

 彼らの姿を見て、私は少し考えた。いや、都政がどうだとか、日本の福祉問題とか、そんなんじゃない。彼らの家財道具(?)について、だ。

 あの紙袋の中には何が入っているのだろうか...? 寒さをしのぐためのタオルケットか何かだろうか...? いや、別に何でもいいのだけれど、「人が生きてゆくのに必要なモノって何なのだろう?」とちょいとばかり考えたくなったのだ。もちろん、この場合の「必要なモノ」ってのは「空気」とか、そんなんじゃなくって、だ。ま、いわゆる「モノ」ということであって、「希望」だとか「夢」だとか、そういうものも、この際ちょっと置いといて、だ。

 う〜む...。

 これは、難問である...。というか、問い掛けが曖昧すぎて答えが出て来ない。(って、自分で問い掛けたのですが。(笑))

 人間の最低限必要なモノ、と言ってもそれでも曖昧な気もするし、生活必需品(?)という言葉を持ち出してもここでは何もならないような気もする...。

 生活の三本柱である「衣食住」という言葉が想起されるところだが、この中では「食」が最重要なモノだろう...。前に「食べることの悲しさ」について書いたけれども、食べ物がないことは、即、死へと繋がることであるのは改めて指摘するまでもない。
 しかし、今のような(つまり、夜になると零下になるような)時期であれば、「住」や「衣」も、生命の存続と関わる事柄となる。(ま、これも普段は意識しないことだろうけれども。)

 いや、別に、彼らのことを見て、そして我が身を振り返り「あぁ、自分は何て恵まれているんだろう〜。」なんて思っているのではないのだけれどね...。(現実には難しいけれども、他の人との比較を基準として喜んだり悲しんだりしたくない、って常々思っているんです、はい。)

 以上、例のごとく、答えの出ないまま、これにて...。
(2001年01月04日 書き下ろし)
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