ちょっと堅い話 Part 5

目次
その41 「白黒はっきりさせる」ことについて
その42 アドリブ vs コピー
その43 ターミナルケア
その44 だったのにぃ〜...。
その45 貼り紙
その46 トモダチ
その47 文化
その48 価格
その49 健康
その50 げんなり

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その41 「白黒はっきりさせる」ことについて
---この文面は今はなきとあるホームページに以前、私が投稿していたものをもとにしています。---
 私は禿げる。(爆) いきなりだが、これは私が確信できる数少ない事柄の一つである。(2001年5月追記:この言明は正しいことが現在、日を追うごとに(笑)証明されつつある...。(爆)))

 さて、人を迷わすような導入部分はこれくらいにして...。(いい加減にしろよ、HASENOBU)

 「えっ?」と思われるかもしれないが「ハゲ」と「金持ち」には極めて高い相関関係があることが数々の統計や調査により証明されている。これは本当だ。もう少し言うと「禿げている人の平均年収」と「禿げていない人の平均年収」とを比較すると、そこには誤差以上の「年収額の開き」がある、という訳だ。もっと簡単に言うと、「ハゲには金持ちが多い。」ってことだ。(爆)

 では、「よし。それでは、髪を薄くしよう!」と決意し、髪の毛を引き抜いたり、剃ったりしたら年収が上がるかというと、そんなことはあり得ない。(当たり前だ。)

 だが、それにもかかわらず、先に述べた説は妥当な説であり、実証されている。それはどういうことか? って、改まって述べるほどのことじゃないんだけれど(笑)。
 結局は「禿げている人」と「禿げていない人」というのはおおまかに言えば「中高年者層」と「若年者層」とほぼ一致する、ということなのだ。もちろん、若はげ、というのもあろうが、数は少なく、若者というのはたいてい髪の毛がふさふさしている。そして多少の差はあれ、40歳、50歳と年を重ねるに連れ、髪の量は減ってゆくものである。そして「入社して数年」の若者と「定年間近」の中高年(?)者の年収を較べれば当然、後者の方が多い。極端に言えば、ただそれだけのことである。(爆)

 ところが、これが分からない人もいる。
 ある事柄と、もう一つの事柄との関連を考えるとき、考慮しなければならないことは数多くある。背後に隠れている要因を配慮しない人、これを単純な人と言ってよかろう。(私もそうかも...。(笑))
 だが、あなた(って、一体誰だ...?)は「年収を上げるために髪の毛を薄くしよう!」と思った人を笑えるか...?
 自分でも気づかないうちに(程度の差こそあれ)同じような思考方法をしているのではなかろうか? 「〜だから***である」というのは有効な経験則であるかもしれないけれども、同時にそれはものごとの本質を隠してしまうことにも繋がりかねない。
 自分なりの「〜だから***である」というパターンを数多く持っている人は処世術に長けているだろうし世渡り上手になれるかもしれない。それまでの人生の中で「学習」してきたのであるから。(ここでの「学習」というのは心理学の術語としての意味で、です。)
 もちろん、身の回りの全てのことに対して懐疑的になる必要はない。(それは精神的にとても疲れてしまうことになる...。(笑)) が、「これは」と思うようなこと(って、どれなのかな?)については立ち止まって、決めつけをすることなく考えてゆかねばならないのではないのだろうか、HASENOBU よ。(笑)
 「白黒はっきりさせる」というと非常に明快で歯切れがいいけれど、その潔さと引き換えに「グレー」の部分を黙殺せねばならなくなる。だけれども、それでいいのだろうか? その「グレー」の部分には濃淡の差があるだろうし、また「ぶち模様」や「まだら模様」であったりもする部分にこそ問題の本質が隠れていることもあるはずだ。決してそれを見限ってばかりではいけないのではなかろうか?

 と、まぁ、最近思ったことを書いてみました、自分に言い聞かせつつ。(笑)
(2001年05月02日掲載、書き下ろしたのは随分前。)
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その42 アドリブ vs コピー

 果たして、これらは「vs」としていいものか、つまり相対するものとして捉えていいのかどうかは良く分からないが、ま、一応、拮抗する概念だとしておこう。(笑)

 さて...。
 私は、昔、オフコースのコピーバンドをやっていた。解説するまでもなく、これは「オフコースが好きなものが集まって、そして彼らの楽曲を奏で、歌う」というものだ。
 その際に、アプローチの方法としては大きく二通りに分かれる(ような気がする)。一つは、できるだけ原曲に近いように(というか、原曲を目標として)という接近方法であり、もう一つは、原曲を自分達なりにアレンジして行くというものだ。

 私は、いや、私達のバンドは、できるだけ前者を目指した。他のメンバーにとってはどうだったのかは分からないけれども、少なくとも私自身は、そういう態度で曲に取り組んでいた。彼ら(オフコース)の曲は、実にやりがいのあるものだったし、それは演奏の面だけではなく、歌やコーラスにしてもそうだった。市販されているいい加減なギター譜をもとに、私達は、どうやったらオフコースの音に近づけるか、そりゃあもう(笑)大変な苦労をした(ような気がする)。

 一方で「どうしてオリジナルにこだわるの? 好きなふうに演奏すりゃいいじゃん。」という風潮の(笑)意見もある。そう言う人は「コピーなんてめんどくさいじゃん。アドリブでやって何が悪いの?」という考えを持っているようだが、私には、到底受け入れられない考えだ...。

 ま、これは「音楽の話」のコーナーに書くべきことかもしれないけれど、一種、私の持っている数少ないポリシー(笑)と関わることなんでここに書く。

 まず、アドリブ、あるいはインプロヴィゼーションというものについてだが、これは、力量や技量(?)との関わりはさておき(笑)、とても難しいものだと思う。(くどいようだが、技や習熟度とは無関係に、だ。)
 例えば、オフコースの松尾一彦がギターのアドリブを入れるとする。良く知られたところでは「思いのままに」のエンディングのギターソロ。これらは確かにアドリブであり、各地のコンサート会場で演奏されたものもそれぞれに異なるし、もちろんライブアルバムに収められたものが完璧なもの、というのでもないだろう。
 しかし、それをやらずに自分で好きに演奏する、ということは、(ま、私にとっては)「自分のアドリブは松尾氏のアドリブよりも優れたものだ」と思っていることに他ならないのだ。自分の奏でる旋律が、松尾氏のそれよりももっと情感豊かで音楽的にも(?)技術的にも上を行っている、ということなのだ。

 そんな恐れ多いことは、私にはできない。別に松尾氏(の演奏)を神聖かつ不可侵なものだと思っている訳じゃないけれども(笑)、それでも、私にはそんなことはできない。
 
 また、先ほどアドリブを唱える人達(笑)は「コピーするのがめんどくさい」と思っているようだとも書いたが、実際、「思っているようだ」ではなく、明言している人も私は遭遇(笑)したことがある。
 だが、これまた私に言わせれば「怠慢」そのものであり「傲慢」であるとさえ思う。もう詳しくは書かないが。(笑) きっとそういう人達は、(以前、どこかで書いた)「定番」の意味も価値も分からないだろうし、もっと言うと私とは絶対に(爆)、気が合わない。

 もちろん、コピーしようとしてみたもののどうにもうまく音が採れない、技術的に困難なために再現できない、という場合は話は別だ。(ま、私自身、常にそうだったけれど。(爆)) 努力の結果、それが妥協という形になってしまうのなら、もう仕方がないではないか!(と、いきなり自己弁護。(爆)) 言うまでもなく、それ以外にも、例えばバンド形式の楽曲をギターの弾き語りでやる、とかいうのも全く話は別だが。

 とまぁ、こういうことを考えるのはオフコースの曲に余程思い入れがあるからでもあるんだけれど...。(もちろん、全てに、ではない。)

 以上、前々から思っていたことをちょっと書いてみました。ま、こう考えるのが正しい、という訳でもないでしょうし、見解の相違、という一言で片づけられるものですけどね。(笑)
(2001年06月24日書き下ろし)
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その43 ターミナルケア

 「ターミナルケア」...。いつ頃から使われ始めた言葉なのか良く知らないけれど、そして、何となく和製英語っぽいけれども、それはもう、突っ込まないでおく。

 この春からどうやら祖母(私の母の母)が具合を悪くし、寝込んでしまっているらしい、とのことは母からの電話で知っていた。
 
 詳細は書かないけれど、自宅にいてもちっとも良くならないってことで、入院、そしてより医療設備の整った病院への転院、ということだった...。話からすると、もう余命いくばくだという...。ただ、まだ意識だけはしっかりしていて応答もちゃんとできるとのこと...。
 だが、今月初めの母の電話内容は、もう治療を中止し、そして祖母は自宅に戻る、とのことで、しかも、早くて1カ月、長くて3カ月持てばよいとのこと...。

 そこで、その週末(7月7,8日)に、急遽、HASENOBU家は一家揃って九州に帰った。もう、これが最後、となる可能性が高いのだ...。

 あいにく土曜日も色々な仕事で私も妻も遅くなり、午後4時を過ぎて広島を発った。新幹線、そして特急に乗っている時間は今では3時間ほどである。だが、Door to door となるとやはり4時間ほどかかる。もちろん夜にお見舞い、というのは失礼なんで、翌日、日曜の朝から、ということにする。

 そして、日曜の朝。

 祖母宅は私の実家から徒歩で十分程度の距離である。中学生の時、大阪から転校してきた後、帰り道に時々、その家に立ち寄ったのを今でもよく覚えている...。

 と、ここまで書いて、そのままにしていた。どうしてもその後が続けず書けなかったのだ。

 で、見舞いに行ったその翌週、私は、今度は単独で帰省した。祖母の通夜と葬儀に参列するためであった。このあたりのことも、もう書きたくないんで書かない。いつか書くかもしれないけれど、今は書けない。

 ちなみにホームページの更新がしばらく途絶えていたのはこのことだけが理由じゃないんだけれども。
(2001年07月20日書き下ろし)
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その44 だったのにぃ〜...。

 「だったのにぃ〜...。」というのは、実は私の口癖の一つである...。
 「口癖」とはいってものべつ幕無しにそう言っている訳じゃない。私がこれを言うのは娘(通称:いずみん)や息子(通称:じゅそ)、ついでに言うと、合わせて「のぶっこ」(笑)を「抱っこ」(笑)している時だ...。

 娘、あるいは息子をぎゅ〜っと抱き締めながら私は思わず言ってしまう。「いずみん(或いは、じゅそ)のお父さんだったのにぃ〜...。」(爆) あるいは「のぶっこだったのにぃ〜...。」(爆)

 で、娘や息子は、「何で、『だった』なのっ?!」と言うのだが、私の気分は、そうなのだ...。(意味不明かな...?)

 確かに私は、今、ここにこうして生きている。(笑) だけれども、今のこの世の中、明日をも知れぬ命である。もちろん、娘や息子についてもそうである。
 通学途中に歩いていた娘に車が突っ込んできて、はねられて即死、ということもある。息子が授業を受けている最中に錯乱した人間が刃物を振り回し、見事(爆)、息子の頚動脈を切断、ってこともあるかもしれないし、私が、突然、心筋梗塞、その他の事故などで帰らぬ人となることある...。そういう可能性は低いと思うけれど(そしてこういうことを書くことがそれを願っていることではないにしても)、とにかくあり得ることだ。

 ってことで(笑)、ついつい先ほどのようなセリフが口を突くことになる...。今、この時をかけがえのない貴重なものだと思いたいのだ...。そう、確かに私はのぶっこの父であり、のぶっこはその名が示す通りHASENOBUの子供だ。これには異論の余地はない(笑)し、今後もおそらくそうだと思う。けれども、おのおのが五体満足で、ぎゅ〜っと抱き締めることができる時間・機会というのはかなり限られているはずなのだ...。

 ま、これ以外にも発する同様の言葉は色々あるが(笑)、それらについては、また気が向いたら書く。(笑) あんまり「堅い話」じゃないと思ったかもしれないけれど、書かれている内容は私の死生観とも関わる極めて堅い話だということに気づいてくれただろうか...?(爆)
(2001年10月29日書き下ろし)
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その45 貼り紙
 以下の文面はとあるホームページの掲示板に先日私が書き込んだものである。掲示板の記事、ということで著作権の観点からするとどうなるのかよく分からないけれども、ま、私が書いたものだということを考えると半分くらいは私にあるのかな。(笑)

 ま、それはさておき、投稿した記事をいきなり載せても何のことか分からないだろうから少しだけ、前後のいきさつを書く。(笑)

 早い話(笑)、その人(便宜上、Aさんと表記)は自分のホームページをレストランに喩え、そして自分の書いた文面はさしずめ「料理」ということだそうだ。そしてレストランの客、即ち読者の中にドボドボと持参のウスターソースをかけて食べ、「あ〜、おいしかった!」と誉めて帰って行く人がいるそうな。その度にAさんは、長時間かけて作った料理を正しく味わってもらえなかったことに閉口する、ということなのである。
 そして、「マイ・ソースお断り」というような文言をお店に掲げるのはいけないことなのか、そんなお客さんでも「お金を払って」くれるかぎり歓迎しなければならないのだろうか、とAさんは嘆きつつも、ホームページを持っている他の人たちに意見を乞うのである。
 
 それを読んだ私は早速、Aさんの比喩はよく分からないけれども、誰でも多少の差はあれマイ・ソースを持っている、ホームページの運営者には来場者を規制する権利がある旨のことを書き、実際私のところでは制限していることも記した。(トップページにある、例の「冗談と本気の区別のつかない方、そもそも冗談のわからない方、頼むから、どうぞお引き取り願います...。」っていう、あれのこと。(笑))

 すると、そのAさんは、私のその制限がよく分からない、とおっしゃるのだ...。

 ということで、以下のような投稿となった次第である:

 ふ〜む...。そうですか...。私がホームページを開いて既に2年半くらい過ぎてますけれども、比較的早い時期からの数少ない読者であるAさんからそういう言葉を聞くとは思いもよりませんでしたが...。(笑)

 「Aさんの比喩が分からない」という言葉がカチンと来たのかもしれませんね...。

 百歩譲って(爆)、(一般に公開されている)ホームページがレストランと同じだとして、貼り紙こそないかもしれませんが、「ノーネクタイお断り」といったような、何らかの規制をしている所はあるのではないでしょうか...?
 え? Aさんのところはそういう高級レストランじゃないって?(爆) いや、高級レストランだろうが、大衆食堂だろうが、本質的には同じでしょ?
 店頭には書いていなくても店に入ると「ビールはお客様お一人につき3杯までとさせていただきます」(爆)といったような宣言をしているお店だって珍しくないと思いますが。
 私は自分のホームページを飲食店に喩えるつもりは毛頭ありませんけれども、一万歩譲って(爆)そうだと認めても、その店の経営者である私には、来客に対して何らかの制限を加えるのは至極まっとうな権限だと思います。(しかも、私の場合、ちゃんと「私の言う冗談について」の説明書きまで載せています!! あ〜、何て良心的なお店...。(爆))

 で、「お金を払って」というあたりについてはいかがなのでしょうか...? 「ホームページはレストランである説」を提唱するAさんにお伺いしたいところです。

 やはり「読後の感想文」みたいなのが「お金」なのですか? それを受け取って、それを生活の糧にするのかどうかは知りませんが、少なくともそれを励みにして、そして次の料理を作る、のですか...? このあたり、分かりません、私には。

 あ、一応、補足しておきますが、私が「ホームページをレストランに喩えるのは変」と思うのは、(少なくとも私は)読者の注文によって文を書いたりしないから、です。自分の書きたい放題書いていますし、読む人のことは、まず考えません。ましてやその準備に3時間もかけるなどということはしません。長くても1つの文章に30分がいいところで、ほとんどは10分前後の殴り書きです。(あ、だからといって、3時間かけるのは駄目とか言うんじゃないですよ。3時間でも30時間でも好きにすればいいのです。)

 というようなことで、私は自分のホームページの宣伝も特にしたくないし、読みたい(と思う奇特な)人だけ読めばいいと思っています。もちろん読後感を聞きたいとは特に思わないですし、もしも間違ってとんちんかんなことを掲示板に書いたりする人がいれば、あっさりいなします。これで「敷居が高い」と思われても一向に構いませんし、「何様のつもり?」と言われれば「様はつかないけれども、ただのHASENOBUです」と答えます。

 う〜む...。何だか、これはこれで私のホームページの駄文の一つにしてもいいような文面になりましたね...。今度、アップしておきます。

 では、また。
---以上、引用---

 ということで...。
 ま、よそのホームページの掲示板だし敢えてそれ以上は書かなかったのだけれど(と言うか、私はあんまり掲示板を見ていないし、滅多に書きたいとも思わないのだけれど(爆))、この文面を読んでいる人のために(というわけでもないかもしれないが(笑))もう少し補足しておこう。

 私は例の但し書き、つまり「私の言う冗談について」を読んで理解できない人には来て欲しくないのだ。そんなに難解な文面でもないあの程度の文章が分からない、あるいは、あれが置かれている理由が察せられない愚鈍な人にはお引き取り願いたいのだ。

 と、かなり挑戦的なことを書いたかもしれないけれど、そして「何て高慢な野郎だ、HASENOBUは...。」と呆れてしまって「二度と来るもんか!」と思った人もいるかもしれないが、そういう人には、「はい、さようなら〜。」 引き留めるつもりは毛頭ありませんので〜。(爆) あれしきのハードル(?)を越えられない人には場違いですよ、ここは。
 と言いつつも(笑)、その上で「解釈を読み手に完全に委ねる」というスタンスも持ち続けます〜。(爆) え? 意味不明だって...? ふ〜ん、そうかなぁ。ま、いいけど。
(2002年01月06日書き下ろし)

「私がホームページを開いて既に2年半くらい過ぎてます」と上で書いていますが「3年半」の間違いでした...。(爆) もうそんなになるのか...。うむ...。
(2002年01月08日2度目の付記)


 ちなみにAさんは、その後「お金を払って」のあたりについては修正されたそうです。
(2002年01月22日付記)


(2002年03月04日 本文ならびに「付記」の事項を一部修正)

その46 トモダチ
 漢字で書かずにカタカナで書いたのは、ま、それなりの意味があるが、それがどんな意味なのかは書かない。(笑)

 今日(1月30日)は私のトモダチのK君の誕生日だ。「確か、もうすぐだったよなぁ。」と思いながらこの前から何度かK君の自宅に電話をしていたのだけれど、外国に出張していたり、千葉に出張していたりしていて不在だったのだけれど、今夜、彼の方から電話があった。

 K君:「何か用?」
 私:「いや、別に。(笑) でも、確か、もうそろそろ誕生日だったよな?」
 K君:「うん、今日だよ。」
 私:「あ、そうだったかぁ。そんな気はしてたんだけれど。(笑) 嬉しくもないだろうが、41歳、おめでと。」
 K君:「うん、ちっとも嬉しくないね。」

 とまぁ、こういう感じで取り留めのない話をして電話を切ったのだけれど。

 思い返すと(笑)、K君との付き合い(笑)は、かれこれ30年近くとなる...。私は少年時代を大阪で過ごし、中学1年の3学期が始まってから九州に引っ越したため、いわゆる「幼なじみ」という友人がいない。(ま、いない、と言うか、もう疎遠になっていうるのだが。) そういう意味ではK君などは私の旧友の中でも最古参になる...。もちろん、その頃からの付き合いの友人も他にいるけれども、私はこういう性格(?)であるため、今でも親交のあるのは五指に満たないのだ。

 ま、それはさておき、K君の話だ。と言うか、トモダチの話だ。

 40を過ぎると、ことあるごとに自分の中の変化(?)に気づくことが多い(ように思う)。物忘れのひどさ、身体能力(?)の衰えなどなど。まだまだ深刻なものではない(と自分では思っている(笑))が、何かにつけ「あ、そうだったっけ...?」と思ったり、テニスをしていても(笑)、以前は打ち返せたボールに届かない、というようなことが増えているようにも感じる...。赤瀬川源平氏風に言えば「老人力」がつきつつある、ってことだろうが、早い話、老いている、ってことだ。
 私はそこそこに生きられればいいと思っていて、さして健康管理もしていない。酒は飲む、タバコは吸うということで(笑)、人生の折り返し地点はとうの昔に過ぎたと思っている。積極的に死を見つめている訳じゃないけれども、おぼろげながら(?)、自分の身の周りの色々なことやモノ、ヒトそのものについて、或いはそれらと自分との関わりについてぼぉ〜っと考えたりすることが多くなっている。ぼぉ〜っと考えるだけだから、筋道立てて真剣に取り組むこともなく、思いは迷走し、時には曖昧な、うやむやな(笑)結論めいたものになったりならなかったりして、そしてこのくまきの部屋に駄文が登場したりしなかったりすることになる。(意味不明)

 で、「トモダチ」って何だろう、と。(笑)

 ま、人の縁ってのも不思議なもので、腐れ縁もあれば多少の縁も、他生の縁もある。親子の縁、ってのもこれまた興味深い(?)ものだし、赤の他人との縁(?)ってのも。
 親子の縁、ってのはやはり異色なところがあって、こればかりは切っても切れないものだ。以前はあんまり思っていなかったが、自分の子ができると、「あ〜、この動物(爆)の中に自分の遺伝子が入っているのだ〜...。」とつくづく思ってしまう。もちろん、その半分は私の妻Fさんの遺伝子だが。で、Fさんに向かって「夫婦って言ったって、所詮、他人だよなぁ...。」などと呟いて怒りを買ったりする。(意味不明)

 で、「トモダチ」のことだが。(笑)

 「縁」という言葉を勝手にキーワードにしたいところだが、ありそうでなさそうなものだ。30年近くの交流を保っているK君と私との間に何らかの「運命的な繋がり」があると思ったこともないし(笑)、そう思っているんだよと彼に囁けば(爆)「お前、そんな気色の悪いこと思っていたのかっ!」となじられそうだ。(笑)>だろ?>K君(ま、逆の場合なら私は、なじる。(笑))
 
 ま、トモダチ同士でなじりあっても仕方ないので話を先に進めるが。
 
 考えてみると、K君という人物を友人の一人として持つ(笑)ということで、何らかの特典(爆)があるようにも思えない。(この文だけ取り出すと、絶交状みたいだが。(笑)) もちろん、傍らで見ていてハラハラするからそばに付いてやらなきゃいけない、と思っている、ってこともない。(爆) ま、またまた立場を逆にしてもきっと彼から見た私もそうだろう。
 
 う〜む...。音楽関係(これは私の人生の中でかなり大きな比重を占めるのだが)では、何かと世話になったりしたような気もするが。(笑) あ、この前、一家4人で上京したとき(笑)彼のマンションに泊まった。ああ、あの件ではお世話になったか...。(笑)
 
 ま、それもさておき...。
 結局は(笑)、つきあう「目的」やら「利益」「損得」というような概念とは、それこそ「無縁」の縁(笑)ってことなのかなぁ...。>トモダチという存在

 何のために、だとか、どうして、というような疑問を受け付けないようなものなのかな。

 う〜ん...。でもこれは人間関係全般について言えそうな気がしてきたぞ...。(ま、商売(?)絡みの場合は別だろうが、「個人的な人間関係」の場合は...。)

 むむ...。また迷走だぁ〜!!

 ってことで、これまたこんな意味不明の駄文になってしまった上に、これのどこが「堅い話」なのかって気もするが、K君の41歳の誕生日プレゼントとして謹んで進呈しよう!(爆) おいおい、そんな迷惑そうな顔するなよ。>K君 俺達、トモダチじゃないか。(爆)
(2002年01月30日 書き下ろし)
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その47 文化
 「文化」とは何かを考えると、とてもじゃないが簡単には述べられない...。
 ま、誰も私にそんな質問はしないだろうけれども、「人間の社会に見られる、生得的、本能的な部分を除いて、世代を超えて学習により伝承されるもの」とでも定義すれば良いかもしれない...。もちろん、数秒考えて書いた定義だから不充分だろうが。

 最近(でもないか...?)よく耳にする言葉に「文化相対主義」という言葉がある。「相対」というからには、恐らく「絶対」ということとの関連において解釈しなければならないのだろう、きっと。つまり(私の解釈では)、「文化というものは、どこかあるところの文化というものが絶対的な基準となっていて、それに沿って個々の文化の優劣が決められる、ということではない」ってことだろう。もっと言うならば、それぞれの文化はそれ自体で完結(?)していて、他の文化との特徴の比較はできても、優劣の比較はできないということでもあろう。
 ともすれば、西欧の文化は崇高で日本文化は下等、ましてやアフリカやその他の未開の地(?)の部族達の文化など下劣、なんてこと考えるのは、この「文化相対主義」とは相容れないものだろう。(いや、私がそう思うということじゃないのだが。)
 
 さて...。

 上のように定義(笑)したとして、私にとって興味深いのは異文化理解ということである。いや、「理解」と言うよりも、異文化が「接触する時」と言ったほうがいいかもしれない。

 このあたりのことになると、言語の問題も絡んでくるため、私としては突如として雄弁、多弁になるところである。例えば、とある二つの(当然、異質な)文化があったとして、それが接触するときには色んなバリエーションがある。ある時には経済的、政治的な理由で片方の文化が優勢であるならば、もう一方の文化を侵略し、一方的に踏みにじるようなこともあるだろうし、時には、その「侵略される側」の文化がそれを歓迎するということもあるだろう。また、その場合に、侵略される側の文化の担い手によって、文化が拮抗し、アンバランスな共存、あるいは対立の形態を持ったままということもあるかもしれない。

 が、そんな堅い話は抜きにして、ここでは「インターネット上での文化」(笑)というものを俎上に載せたい。
 
 私自身、インターネットの世界に足を踏み入れてまだ10年も経っていないのだが、その側面、例えば Net news、ホームページ、掲示板、チャット(ルーム)、メーリングリスト、e-mailなどの様々な形態(?)それぞれに、独自の文化というものがあると思っている。例えば、メーリングリストにおいて、個人的なやり取りを続けるというのはその趣旨に反するものだろうし、チェーンメールみたいなものを不特定のアドレスに送り付けるのもe-mailの正しい使い方ではない、といったようなものだ。
 その他、ハンドルネームの取扱い(?)についても同様だろう。いきなり、ここで私が「セッション小間使い(笑)」という名において(笑)、そしてその立場で発言したりしても、多くの人に無意味な戸惑いを与えるだけだろう。
 
 こんなことを思ったのは、実は、先日、とあることがあったからである。
 
 話があちこちに跳ぶようだけれども、いわゆる「チャット」の世界では、それなりの文化がある。初登場の者であっても快く迎え入れる、新参者がいた場合には話題を特定の(常連の)個人間にしか通用しないものにしてはいけないだとか、あるいは、「〜さん」やらの言い方をせず呼び捨てにするだとか。
 これはこれで結構なことである。そのチャット(ルーム)に関わっている人には極く自然なことであろうし、順守すべき不文律があってもちっとも不思議ではない。

 ところが、その慣習を、いきなり私信に持ち込んだとしたらどうだろうか...?
 
 分かりやすく言うと、仮にA, B, C という3人の人間がいて、AとBはチャットの友達、そしてBとCは(そのチャットとは無関係の)メール友達。で、AとBはチャット(ルーム)においては呼び捨てであるが、BとCはメールにおいても「さん」付けの仲(?)であるとして、Bが、Cに宛てた私信の中でいきなりAのことを持ち出し、しかも、Aのことを呼び捨てであったという場合。(もちろん、AとCとの間には何の面識もない。)

 果たしてCはどのように感じるだろうか...?
 
 って、他人事みたいに書いたけれど、私がそのCの立場、という境遇をついこないだ体験したばかりである...。その時の私の気持ちは、ものすごい違和感と、Bに対する不信感(?)で一杯であった...。「不信感」という言葉は妥当ではないかもしれないが...。

 もちろん、BとAとがチャット仲間であることや、そのチャットにおいて当該の二人が呼び捨てだろうが愛称だろうが一向にC、即ち私(笑)の関与するところではない。(当たり前だ。(笑)) しかし、その「チャットルームでの文化」を、BがC(しつこいようだが、私)とのメールの中に持ち込むのは一体どういうことだろうか...? 私に言わせれば無礼も甚だしいところなのだが...。変な比喩かもしれないが、人と話をしている時に、その相手が「うちのお父さんが〜」と言い出したのを聞いた時と同じくらいの唐突さ、非常識さを感じた次第である...。換言すれば、日本にやって来たアメリカ人が臆面もなく英語で用を済まそうとしているのと同じくらいの厚かましさを感じたのである、私は。
 
 ということで、このあたりのことには妙に神経質な私の感想でした。
(2002年03月25日 書き下ろし)
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その48 価格
 モノの価値と価格との間には相関関係が認められることが多いにしても、極言するなら、それぞれ違った次元で決まるものである(と私は思っている)。
 前者は「金銭」という尺度とは本質的には無縁であるのに、その「モノ」が「流通」というシステムに組み込まれた時に「価格」やら「値段」というレッテルを貼られてしまうのである。
 って、別に経済学的なことでもなんでもなく、私達の現在の、そして現実の生活の中で、どうしても金銭的なものが抜きにして語れなくなっているということなのだが...。(「なのだ」と言われても困るだろうけれども...。)
 
 例えば、極端と言われるかもしれないが、年収300万円というのと、年収800万円というのでは、やはり後者の方が「魅力的」だろうし、そのために必要な仕事がほとんど同じであるというのならば、300万円の方を選ぶというのは愚の骨頂と謗られても仕方ないとも思う。(意味不明) (少なくとも私ならば後者の仕事を選ぶ。)
 
 で、だ。

 これまでにもどこかで書いたけれども、私は「新品」というものにはこだわらない性格であり、時間が許すならば古本屋さんや中古CDの店などを巡ったりするのも好きだ。(ついでに言うならばヤフーオークションを眺めるのも。(笑)) そこには、今ではもう手に入らないかもしれない、あるいは、入手可能であるかもしれないけれど新品の定価よりも格安なモノがあるかもしれないからである。(これまた前に書いたことだけれども、鈴木康博氏の書いた『時代(とき)を超えて今』という本など、関係者の間では「稀覯本」の誉れ高いモノであるけれども、私が昨年、幸運にも入手したときには「百円均一コーナー」に並んでいたのだ...。ま、100〜300円均一で売りに出される書籍やCDなども、哀れではあるけれども、私にとっては願ってもない掘り出し物が見つかることもあるのだ...。(笑))

 「う〜ん、買おうかな、どうしようかな...?」と迷うときも、ある。(って言い切るほどのことじゃないけどさ。(笑)) ビル・チャップリンのCDか...。350円...。う〜ん...。4曲しか入っていないミニアルバムか...。う〜ん、せめて8曲くらい入って入れば迷うことはないけれど、う〜ん...。手に取ってしげしげと悩むこと1分弱...。(笑) ええ〜い、買ってしまえ。(爆)
 ま、こんな感じの苦悩(?)が繰り広げられ、手持ちのCDや書籍がどんどんと増えてゆく...。(現在、登録を済ませていないCDが百十数枚...。)

 さて...。この、一種の「葛藤」を経て「よし、買うぞ!」と思ったら、もうそこにはわだかまり(?)は、ない。その書籍、あるいはそのCDに付けられている価格での購入を私は良しとした、ということなのだ。(笑) 当然、そこで「値切ろう。」というような思いは浮かばない。「その価格で買う」ことを私が認可(笑)したのだから。
 それは同時に、その価格を付けた人に対する敬意(?)でもある。確かに、古本や中古CDには定価はないだろう。だけれども、そのモノに対してそれなりの価格を売り主は提示した訳であり、そしてそれに対して私がゴーサイン(笑)を出した訳なんだから、それに対して何の妥協の余地もない。少なくとも相手がプロである(本当の意味での商売である)場合に「一度にたくさん買ったから値段をまけて〜。」などと頼みたくもない。(ま、フリーマーケットみたいなところで、値引き交渉が楽しみの一つ、ってことであれば話は別だろうが。)
 そりゃあ、いい品物が安く買えるのであれば、それに越したことはないだろう。その浮いたお金で昼食代が、あるいは一家揃っての豪華な食事(笑)ができる、ってこともあるだろう。しかし、私はあくまで(笑)、自分がその価格で納得したから、ということを大事にしたいとも思う。提示された価格で納得できないのなら、それを最初から値切ろうとするくらいなら、最初から手を出したくないのだ。

 ってことで、つい最近、強く思ったことを書いてみました。
(2002年06月24日 書き下ろし)
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その49 健康
 最近では駄文を書く時に最初からタイトルをつけることが多くなった。(深い意味はないが。)

 で、この駄文、最初は「死期」あるいは「死相」としようかと思ったのだが、根拠が希薄なのでやめた。(縁起が悪い、などとはほんのかけらも思っていないことを強調しておきたい。)

 一休和尚の言葉を借りるでもなく、新しい年を迎えるたびに一歩一歩冥土(笑)に近づいていると思うし、もっと言うなら新しい朝を迎えることは、即ち、「あぁ、命日が一日近づいた。」ということでもあると分かっている。(って、そんなことを思いながら目覚めているのではないが。)

 だが、「あぁ、だんだん死期が近づいているんだなぁ。」と思うのは、たとえば今日のように健康診断の結果を受け取った時など、である。(爆)

 ま、詳細に書いても意味がないのだけれど、このところ、ず〜っと身体的にも、精神的にも充実感のない時を過ごしている。テニスをする時間も取れず溜め息をつきながら暮らしているようなものだ。城に籠って(笑)毎晩浴びるように酒を飲んでも頭が痛くなるだけで「酔って気分がいい」ってことはない。(爆) それでも(今もそうだけれど)飲んでいる、ってのは私はアル中なのか...?(マジでそうかも...。)

 飲酒にしても喫煙にしても誰に頼まれるでもなく(笑)自分で選んだ選択肢であるし、そしてその「つけ」が廻ってきてもジタバタするつもりはない。もう、やぁ〜めた、と自分で思ったときがやめる時、だ。

 で、思うのだが、一体自分はどこに向かっているのか、ってことだ。(いや、「それは墓場」とかいういつもの突っ込みは控えるとして。)
 何をするために生きているのか、何をするために生まれてきたのか?、ってことだ。ギターを買い漁るため?(爆)
 ま、ギターのこともさておき...。(笑)

 こういうの(?)は、安っぽい小説・ドラマ・マンガなどでも出て来るのだろうが、それが分からないからこそ生きているのだ、という気もしないでもない。

 取り立てて自分が存在することによって社会が、あるいは人類が少しでも良い方向に進んでいるとは決して思えないし、でも、そう思えないからといって自らの命を絶とうというような若い頃の極端な考えも今はない。
 
 これを突き詰めていった時、そこに人間の限界(というか、分際というか...)を超えたもの、即ち、神だとか、あるいはもっと体系的な思想としての宗教というものが登場してくるのだろうなぁ...。(と言いつつも私は宗教を持っていないのだが。(笑))

 これまた安直な言い方かもしれないが、「死を見つめることは生を見つめること」でもあろう。などと高邁なことを口にしつつもそれを反映させないのが実に私らしいと思う。(爆)

たたえるものも絶えてなく
いとしむものも稀なりき。

 う〜ん、迷走状態だな、この駄文は。(笑)

 ま、やりたいようにやって、好きなように生きていくんだと思う、自分としては。(何だ、この結論は!?(爆))
(2002年07月10日 書き下ろし)

その50 げんなり
 私は今、思いっ切りげんなりしている...。

 先ほど夕食を終え自室に入ったのだけれど、とにかく、気が重い...。
 一昨日あたりから急に冷え込んだからということで今夜の夕食は鍋物だった。いや、別にその食事の内容で気が重いわけじゃない。
 今夜は夕食の開始は9時45分過ぎだった。で、子供たちがテレビをつけていたんだけれど、あまりにつまらないんで私はチャンネルを変えた。と、NHKの衛星放送で少年兵関係のドキュメンタリー番組らしきものが放送されていた。
 う〜む、まだ10歳ちょっとくらいの少年がミャンマーでは解放軍の兵士となっているのかぁ...、何てことだ...。などと思いながらも思わず真剣に番組を観てしまった。
 
 すると、あるわあるわ、というか、でるわでるわ、と言うべきか、とにかく、この世の中、まだ年端も行かない子供たちが実に手軽な兵士として、そして便利な兵器として使われているのだ...。
 帰宅途中に拉致されて入軍させられた者もいれば、女の子の場合、(まだ10歳くらいなのに)性の奴隷として蹂躙されたり...。番組が進むに連れて目を覆いたくなるような、耳を塞ぎたくなるような「現実」が次々に提示される...。

 アフリカ西部のとある国からの報告では、まだどう見ても8歳くらいの少年が「女の人に目隠ししてね、そして両腕をナタで切り落としたんだよ。」と話したりしている...。いや、目撃証言ではなく、この少年の体験談なのだ...。インタビュアーがその時どう思ったかを尋ねると「ボク、笑っちゃったよ。」だって...。
 また別の少年が語る。「妊娠した女の人を見つけると仲間と賭けをするんだ。お腹の中の赤ちゃんが男の子か女の子か、ってね。で、女の人のお腹を切り開いて確かめるんだよ。」

 番組で取り上げられたのは、これだけではない。「え...? 何だって...?」と思わず耳を、目を疑いたくなるような報告が、ほんと、これでもか、とばかりに...。

 彼らは洗脳され、時には麻薬漬けにされたりして、自分がしているのがどういうことなのかもか分からないまま、想像を絶するようなことを平気でしでかしているのだ...。

 もう、絶句である...。

 一緒に番組を観ていた娘も言葉を失っている...。(ま、そりゃ、そうだろ...。)

 ここで、翻って「ああ、日本は平和だなぁ...。」としみじみ思ったりするのは、とても傲慢なことだと思うけれども、じゃあ、今の私に何ができるのか、となると、つくづく嫌になってしまう...。

 とにかくげんなりしている私だ...。(情けないけれど、思考停止状態...。)
(2002年12月10日 書き下ろし)
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