世捨て人講座 Part2
---精神的隠遁生活の道標---

目次
その11 化粧篇(1)
その12 化粧篇(2)
その13 化粧篇(3)
その14 葬式篇
その15 つもり篇
その16 指環篇(前)
その17 お酒篇(2)
その18 休日篇
その19 日本人篇
その20 む〜ん篇

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その11 化粧篇(1)

 化粧を話題にするのであれば、その前に、「果して『美しい』とはどういうことなのか...?」という極めて根源的な問題があるが、それは私自身、自分なりの回答が曖昧なので置いといて...。
 世の女性の多くは「化粧」をする。きっと「美しい」女性と思われたいからだろう。ま、場合によってはマナーに近い「身だしなみ」という理由もあるのだろうが、これもこれとして置いといて...。

 職業柄、実に多くの女性を目にする。(笑) 彼女達を「美人」とそうでない者という風に区別して考えることはない。私の信条の一つは『星の王子様』の中の一節「本当に大切なものは目には見えない」だからである。だから、彼女達はどの学生も、その人なりの「美」を持っているという訳だ。
 新入生の頃の彼女達はとても初々しい。(当たり前だが。) ところが、慌ただしい春が過ぎ去り、そして夏休みを終えて10月に再び会う頃になると「へ...? どちら様でしたでしょうか...?」と尋ねたくなるような感じに様変わりしてしまう者が毎年、必ずいる。そのような彼女達がどのような夏を過ごし、何が彼女の身に起こったのかなどは知ったことではない。
 いずれにしても、髪の色が変わったり、爪が毒々しい色に塗られていたり、ちょっと後ろずさりしたくなるようなショッキングな色の口紅をつけていたり、眉が妙に細く長かったり...。実に色々と手を加えているようだ。(笑)

 大袈裟に思えるかもしれないけれど、これは実話。
 数年前、例のごとく、海外語学研修で学生達を引率してカナダに行ったときの話だ。いや、正確にはカナダでの研修を終え、アメリカに帰りに立ち寄ったときのことだ。ロサンゼルスのホテルに宿泊していた私達だったが、そこでの朝食は貸し切りの部屋で取ることになっていた。決められた時間内に自由に来て朝食を済ます、ということである。全員揃って「では、合掌。いただきまぁ〜す。」ということではない。
 で、朝食を食べ終えて食後の珈琲をおかわりして飲んでいたときに、見知らぬ若い女性が2人、慌てた素振りで私達の部屋に入ってきた。そして、あろうことか、テーブルに座って朝食を食べ始めるではないか!
 ところが同じテーブルについている学生達が不審に思っている様子には見えない。「...?」 私は、私の隣で朝食をとっていた学生に尋ねてみた。
「ねぇ、ちょっと。ほら、あのテーブルに座っている、うん、Aさんのいる所。で、そこに、ほら、今、ジュースを飲んでる人が2人いるでしょう? あれは...?」
「あぁ、BさんとCさんですか。それが何か...?」
「ええっ!! あ..、いや、別に何でもないけど。」
 その二人は私の学生だったのだ...。(爆) しかも、一年の前期・後期通して私の授業を受けていたはずである...。今回の研修で三週間以上ほぼ毎日顔をあわせていたはずなのに、私には分からなかった...。
 ちなみに、私がこの時このBさんとCさんを「見知らぬ人」だと思ったのは、彼女達が見違えるほどきれいに化粧をしていたから、ではない。(笑) その逆である。ラフな格好であったが、彼女達はあきらかに「すっぴん」だった...。一人は眉がない...。何か、怖い...。もう一人はかなり色黒だ...。(私ほどではないが...。) では、いつも見知っていたBさんとCさんは、いつも化けていたのか...。そりゃ、化粧をしているなぁ、とは思っていたが別人に見えるほど化けていたとは気づかなかった...。(笑)

 うう...。こんなこと書いても、ただの中年男の屈折した欲望(!)だと取られるかもしれないが...。(笑) 昔から言うではないか、「娘十八、番茶も出花」と! 最近の若者は成長が早いので(笑)、少しずれているかもしれないけど、高校を卒業するころから二十歳くらいの時が、やはり一番華やいで見えるのではないか、化粧の力など借りなくたって。

 ここは、本当は「精神的隠匿生活の道標」たるべくして生まれたコーナーだけど、最近は、それがすっかり揺らいで「HASENOBU の文句の広場」みたいになってきたような...。ま、いいか...。で、この化粧篇、まだまだ言い足りないので、いずれまた書く!
(1999年1月書き下ろし)
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その12 化粧篇(2)

 さてさて、前回は少し「化粧」というものに何故か感情的になってしまった感もあったけれど、今回は、落ち着いて、そしてどうでもいいような話を...。(笑)

 私の母は色が黒い。(笑) そして、私はもっと黒い。生まれたばかりの頃は色白の誠に愛らしい赤ちゃんだったと両親、親戚一同、口を揃えて言うのだから、きっとそうだったのだろう。(笑) が、夏のカンカン照りの陽射しの中、海で泳いでもさして赤く腫れ上がることのない丈夫な皮膚を私は持っている。そして、日焼けが取れる、ということはほとんどない。丁度、漆塗りの茶わんがうわぐすりを重ねてだんだん色濃くなるように、私も年々、黒さを増している。(すごい表現だ...。) 夏に海水浴に一度も行かないのに「この夏はたくさん泳がれたようですね。いい色になってますよ!」と言われたりする。もちろん、冬でも黒い。「スキーにでも行かれたのですか?」と問われることも珍しくない。
 そういう私の色の黒さを母は「見苦しい!」と言ってはばからない、自分のことは棚に上げて。
 で、いつだったか(多分、高校生の頃)、お出かけの前に化粧台の前で念入りに化粧をしている母に「母さん、無駄なことは止めたら?」と言って、こっぴどく叱られた記憶がある。(爆) そして、母はそのことを根に持っているらしく今でも時々その話を持ち出し、私をいびる。(笑) 私が結婚するときには「いいかい。決して女の化粧に口をだしちゃならんよ。」としっかり念を押されもした...。
 だから私は妻の化粧には文句を言わないようにしている...。が、私の価値観からすれば「あ、本が何冊も買える...。」という高額な化粧品を妻が買うと、「無駄だよ。」とまでは言ったことはないが、つい、ポロリと本音が出てしまうこともある。(爆) 「そんな化粧をしなくっても君は充分きれいだよ。」などというような歯が浮きそうなセリフは、たとえ仮に心の中でそう思っていたとしても、私には口にできない(笑)ので、「そんなに化粧しなくても...。」と歯切れの悪い言葉になってしまう。すると妻は「何よ! 化粧が無駄だって言うの!?」と膨れっ面になる。(笑) やれやれ...。

 でも、やはり、それでも思ってしまう...。
 ま、おそらくは肌にやさしい自然成分のみの化粧品もあるのだろうけれど、そもそも皮膚に何かを塗り付けようとするのは良くないのではないか? 「化粧ののり」だとか化粧による「肌荒れ」だとか、体験がないのではっきりとは言えないのだけど。自然じゃいけないのか? 紫外線でそばかすが、などという話も耳にするが、それは健康的ではないのか?(ま、皮膚ガンになる、というのは困るかもしれないけど。)

 う〜ん...。(何を、どのように書こうか迷っている...。)

 以前、「お歯黒」というのが流行ったらしい。(って、いつの話だ...?) 現実に見たことはないのだが、流行ではなく風習だったのかもしれない。あれは何だったんだ?(ちょっと意味不明)
 ピアス、というものがある。イヤリングも含めて、ああいった装飾品のことは良く知らないけれど、何であんなのが流行ったりするのか? 耳たぶならまだしも、鼻や唇にピアスをしている者までいて、一体、何を考えているのか分からない...。それは「美」なのか...?
 いわゆる「未開の部族」達には私からすると突飛な方法の装身具や装飾品を着用する文化を持っているものがある。首にわっかを何本も着けたり、下唇に皿状のものを入れたり。それらは確かに奇異に感じられるけれども、それが彼らの文化の一端であり、またアイデンティティを示すためのものでもあるのだからそれはそれで構わないことだ。
 だが、それを真似する、となると何か違うんじゃないのか、という気がする。

 あ〜、まとまりがつかなくなった!(笑) また書く!(爆)
(1999年2月書き下ろし)
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その13 化粧篇(3)

 この前、高松へ行ったという話は別の所に書いた。その時に「栗林公園」という所を一時間ほど見学するという日程が組まれていた。その公園は「栗林」とあるものの栗の木が立ち並んでいるわけではなく、松の木の庭園と言ったほうが良いのではないかと思えるほど松だらけだった。
 確かに、手入れの行き届いた松のオンパレードである。これでもかこれでもか、と言わんばかりの名木がたくさんある。江戸時代の頃からの松の木であるので樹齢400年ほどのものも多い。池や造園も絶妙な配置である。「庭園」に興味のある人であれば感動の嵐に襲われるほどだろうと、素人の私でさえ思ったほどだ。同行の方達(はい、そうです、平均年齢70歳を越えている方達のことです)は「ほぉ〜...。これはこれは...。」と感嘆しきり、である。
 が、私はどうも「うわぁ...。すごいなぁ...。」というよりも「げっ。何、この松の形は...?」という思いの方が先に立って仕方がなかった。(笑) 造形の美しさ、奇抜さ(?)のためであろうが、枝が異様にひん曲げられている松がほとんどなのだ。巨大な亀の形に置かれた石の上に、羽を広げて留まる鶴の形の松もあった。(香川県知事はその木を1億5千万円で売りに出しているらしいが。)

 ま、観賞のためだということは分かっているんだけれど、何か腑に落ちないのだ...。

 と、化粧篇でこんな話を持ち出してしまったが、真意はお分かりいただけるだろう。え、「わからない」って?(笑)
 私は、このような人造的な木というのにはどこか違和感を感じてしまう。「面白い形になっているなぁ。」とは思うけれど、「こんな窮屈な格好にさせられて何百年も立っているなんて...。」と、無理やりねじ曲げられた木々が哀れに思えてきさえするのだ。むしろ、人の手でいじられていない原生林の方が私にはもっと魅力的だし、価値のあるもののように思えるのだ。
 木は、やはり自然のままに伸びてゆくのが最も生き生きとしているのではないか? バランスのために下枝や余分な枝(ってあるのかどうか分からないが)を刈り込んだり、あるいは枝の伸びる方向の矯正(?)などをするにしても最小限にすべきで、下に向かって伸びてゆく、折り返してゆく(!)というのは気色悪い。(って、ここまで言わなくてもいいんだけど。)

 はい、ということで、化粧に話を戻して...。
 人間も必要以上に手を加えなくたっていいんじゃないか? 白魚のような手の指にドギツイ色のマニキュアは似合わない。それぞれの顔にもともと付いてきた眉を剃り落とし、代わりに妙な形の棒線を書いたりするのは異常ではないのか? それなりの年齢になって、化粧品を使わねばならない、というのであれば、それはもう仕方のないことなのだろうけれど...。でも、毎日のように顔を合わせる18〜20歳の女学生の中に派手な化粧をしている者を見かけると、何だかとても腹立たしく、同時に悲しくなってしまう HASENOBU なのである...。
(1999年2月書き下ろし)
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その14 葬式篇

 以前、「同僚の中に年賀状を出さない主義を貫いている人がいる」ということを書いた。その時に、さらに彼は「生前遺言状」というものをすでに作っており「死んでも葬式はやらん。」と言い切っているということにも触れた。実は私も同意見である。私が死んでも葬式なんかして欲しくない。
 先日、その彼と話をしていて「葬式」が話題になった時に、「生前告別式」とタイトルのつけられた一枚の紙が HASENOBU に渡された。原文通りではないが次のようなことが書かれていた:
------------
 次の10点を考慮して葬儀・告別式は行わないこと。
 1. 生前、本人は遺族に迷惑をかけている。
 2. 生前、本人は親族に迷惑をかけている。
 3. 生前、本人はその他の人々に迷惑をかけている。
 4. 死んだ後も遺族へ迷惑をかけてはいけない。
 5. 死んだ後も親族へ迷惑をかけてはいけない。
 6. 死んだ後もその他の人々にへ迷惑をかけてはいけない。
 7. 葬儀屋へ無意味な貢献をする必要はない。
 8. 本人は死んでいるのである。
 9. 葬儀は本人が死んだから行なうのである。
10. 従って死んだ本人の遺志を尊重しなければならないのである。

 次の5点をくれぐれも固く守ること。
 1. 死んだことは親族以外に知らせないこと。
 2. 遺族のみによる密葬ですますこと。
 3. 遺族・親族以外の密葬出席を拒否すること。
 4. 焼香・供物・香典・その他の申し出は固く断ること。
 5. 戒名は本人が生前に作っているので頼まないこと。戒名は「純情院無軌道居士」である。
------------

 最後の戒名の所は笑えるが、私自身は戒名などもいらない。
 別に後世に名を残したいとも思わないしね...。自分ではもう、やるべきことのほとんどはやったような気もするし(笑)、あとしばらくは、楽しく生きていたいなぁ、と思う程度なので...。
 だから、葬式を出したりして多く(?)の人達に時間を割いてもらいたくないし、気を遣ってもらうのは御遠慮したいと思うのである。
 何かのついでに訃報を聞いた人が「あ、そう。ふ〜ん...。」と軽く受け流してくれればそれで充分である。
 あ、でも律義な私は、死ぬ前に、世話になった人達に「ありがとう」の一言だけは言っておきたいなぁ...。(笑)
(1999年2月書き下ろし)
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その15 つもり篇

 「つもり篇」などという、かなり身勝手なタイトルをつけました、はい。深い意味はありません、どうぞ気にしないで。
 で、この「つもり」っていうのは何のことかと言うと、「〜したつもりで・・・」という時の「つもり」のことだ。

 確か、これはてっこう氏のホームページのどこかにも書いてあったことなのだが、「この百科事典。それがわずか一日にコーヒー一杯飲むのと同じの金額で買えるのですよ! コーヒーを飲んだつもりで、それを10カ月続ければこの豪華な百科事典があなたのものに!」などという売り込みのセリフなどでよく聞かれる「つもり」のことである。
 てっこう氏は「そんな話、とんでもない。一杯の珈琲の寛ぎとそんなものなどを引き換えにできるものか!」と言う。けだし名言である。(最近、私の言葉遣いが古めかしくなってきたような気がする...。)

 「〜したつもりで貯金」というのも私にはできないことである。(笑) 貯金をするならするで、潔く貯金したいものである。自分に言い聞かせ無理やり納得させるようなでっち上げの理由など要らない。

 と、こんなことを思っていたら、先日、新聞のコラムにとある婦人が「パスポート騒動」という題名で投稿している文面が目に留まった。どうやら結婚20周年を祝って御夫婦揃ってパスポートの申請をされたそうな。で、パスポート写真のために一番の晴れ着を着て写してもらったものの「主人」(!)のネクタイが曲がっていただとか、申請日にはせっかく大安を選んだ(!)というのに申請の窓口で書類に不備があって慌てふためいただとか書かれてる。ま、それはいい。が、その御夫婦がパスポート申請をしようと思ったのは、海外旅行に行くため、ではない。(爆)
 「海外旅行は夢のまた夢、かないそうにない」から、せめてパスポートだけでも取得して「海外旅行に行った気分になろう」というのだ...。銀行の通帳とさして変わらないあの手帳を手にして、本当に海外旅行に行った気分に浸れるものだろうか、一体...?
 もちろん、私にはその御夫婦の発想を笑う権利などはない。が、仮に私が笑ったとしてもその御夫婦には私の笑いを禁ずる権利はあるのだろうか...?(と、妙な理屈をこねてます、はい。)
 妻からの情報だが、妻の妹(もちろん、私にとっても妹である!)は「お兄さんは、一風変わった人だ」と私のことを評したそうだ...。ま、それは否定しまい。(笑) 極端ではないが、どちらかというと自分でも「変人」に近いところがあるかもしれないとは思う。
 が、そんな私であるが、この「パスポート騒動」の御夫婦は、かなり変わっている、と思うのだが...。どうだろうか?
(1999年3月書き下ろし)
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その16 指環篇(前)

 指環、それとも指輪? ま、ここではどっちでもいい。昔、「ルビーの指環」という曲がはやったが、あれには「指環」と表記すべき深い理由があったのだろうか、そう言えば...?(別にどうでもいいけれど。)

 さて、指環に対して私は複雑な思いを抱いている...。特に、男がする指環というものに対しては。
 もちろん、女性の場合の指環だって、見ていて嫌になるようなこともあるが。ま、それはさておき。

 で、男の指環、というと、私の中では大きく二つに分かれる。とても「おしゃれ」で格好良く見える場合と、どうしようもなく「胡散臭い」感じがする場合と、だ。そして、私の見かける「指環をした男性」のほぼ全員が、指環を胡散臭さの小道具として使っているとしか思えない。(また、言い切っている...。)
 今までに見た「男の指環」の中で一番カッコイイと思ったのは、オフコースの鈴木康博が、愛用の Gibson のエレキギターを弾いている手元がアップになって写っている写真だ。これは『Fairway』という写真集に載っているのだが、モノクロのページで、実にカッコイイ。はっきり言って、憧れた。(笑) そして、安物の指環を買ったくらいだ。(爆) 私が大学に入った頃のことだが。
 だが、私の手には指環は似合わなかった。取り立てて短く不格好な指ではないと思うが、決して「すらりと伸びた(?)きれいな指」ではない。で、その指環はすぐにお払い箱になった。
 次に私が指環をしたのは、結婚したときである。そう、「結婚指輪」というものである。叔母の知り合いの宝石商に自宅に来てもらい買った指環だった。その頃の私は就職してまだ一年も過ぎていない薄給取り(?)だったので決して高価で豪華な指環ではなかったが。
 だが、結婚して2ヶ月後、妻の転勤で一緒に暮らし始めてまだ間もない頃に、この指環は行方不明になった...。(笑) もちろん、指ごとどこかに忘れた、とかいうのではない。(当たり前だ...。) この、銀の指環は、なぜか装着(?)していると、指がかぶれてしまい、自宅に帰るとすぐにはずしていたのだ。私は2月2日に結婚したのだが、ゴールデンウイークの頃にはすでに紛失してしまっていた...。(爆) もちろん、無くしたのは自宅で、である。確か、テーブルの上に置いていたはず、だったのだが、妻とともにいくら探しても見つからず、かなり、「なじられた」...。
 そして、時は流れ、その十年後。ま、結婚十周年、ということで、妻と私は新たに指環を買うことにした。CMに毒されたのか、妻は「テン・スイート・ダイヤモンド」がどうのこうのと言っていたが、私にはそんな趣味(?)はない。だが、「結婚指輪紛失」という前科がある以上、二人で揃いの指環を買おうということになった。装飾品にお金をかけるなどということは極めて馬鹿げたことだと思っている私であったが、二つ合わせてそれなりの金額となる指環を買うことに相成った。
 だが、この指環の寿命もかなり短かった...。(爆)
 その運命の日曜日(多分、その年の6月にはなっていなかった...)、私は自宅から車で十分もかからない「運動公園」のテニスコートへとでかけた。いや、正確には「テニスコート横の壁打ち用練習場」だ。  どういう理由からかは知らないが、結婚指輪、それに類するもの(?)は左手の薬指にするというのが一般的だそうだが、私は左利きなので指環をしたままラケットを握ると非常に都合が悪い。そこで、指環をはずし一時間ほど汗を流した。(もちろん、壁を相手に練習をした、ということだ。) そして、練習を終え、駐車場に戻ったときに「あ、指環...?」と思い出した。急いで壁打ち練習場へ引き返し散々あたりを探したが、ない...。テニス用のバッグの中も、駐車場と練習場の間の道も、考えられるところは全て探し回ったが、それでも、ない...。
 さて、探し回った揚げ句、見つけられず途方に暮れて帰宅し、そして指環をまたなくしてしまったということを私が告げたときのFさん(もちろん、私の妻のことです、はい。)の反応が想像できるだろうか?>読者のみなさん (ん? どこかでこのフレーズを最近使ったなぁ...。ま、いいか。)
 そう、激昂し、そして泣いたのである。(ん...? これも...?)
 以降、ことあるごとに「どうせ、その程度の気持ちなのよ、あなたは。」という感じでねちねちと責め立てられる私なのである...。「そんなことはない。」と言っても「でも、なくしたんでしょ?」と言われると返す言葉もない...。(続く)
(1999年3月書き下ろし)
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その17 お酒篇(2)

 以前、お酒のことについては書いた。別に今回はその後編、という訳じゃないが。正確にタイトルを付けるのであれば「御酌篇」といったところだ。
 御酌、あれはどうにかならないのか?(笑) もう、この一言に尽きる。

 「さ、さ、ぐっと空けて。」などと急かすな!
 「私の杯じゃ飲めないのか?」なんて絡まないでくれ!

 どこが「一言に尽きる」のか...?(爆)
 ま、それはそれとして、お酒はやはり自分のペースで飲みたいものである。先日、職場の歓送迎会があった。もちろん、聞きたくないカラオケまで付いている宴会形式である...。御酌をするのもされるのも嫌だが、「隣に座っているのに知らん顔する不届き者!」と思われるのは少し心外なので両隣の人くらいには私も御酌はしてしまうのだが。だが、わざわざ席を立って注いで廻るようなことは、もうやらない。

 昔、就職し立ての頃、当然、私が一番の若輩者で、先輩方に御酌をしてまわっていた。だが、挨拶を兼ねて御酌していると返杯され、それを受けているととんでもない量になる。もう飲みたくないから少しだけ飲んでコップを差し出すと「何だ、それは? しっかり飲まんか!」と訳の分からない叱咤激励を垂れる人もいる。中には寛容な、というか常識を弁えていて無理に飲ませたりしない人もいるが、酔っ払ってしまった人にかかると始末に終えない。「ほぉ...。おれの酒は飲めないってことだな...。そうか...。」などと嫌みったらしく迫る人すらいる。(笑)
 また、御酌をすると、あの人のところには行ったが、この人のところには行かない、というようなことになることもある。すると、こっちには何一つ悪気はないのに思わぬ邪推を生じさせることにもなりかねない...。

 単に儀礼上、注いで廻っているだけなのに、「そんなに私に飲ませて、どうするつもり?」なんて女性に言われたりしたら大変だ。(笑) 幸い、そういうことを言われたことはないが。う〜ん...、言われたらどうしよう...?(笑) 「身ぐるみ剥がして金目のものだけ奪って、そして足に重りを付けて河に突き落とすつもりです。」とか答えたいけどね。(爆)
 
 とまぁ、こういうこともあって私はあまり外で飲む、というのを好まないのだ。だから「店で飲むことなどは年に5回くらいあるかどうか、という程」ということになる。帰省した時、出張先で知人と飲む時などは話は別だが、「忘年会」などで出かけてもたいてい一次会で帰る。記録などは取っていないけれども、5回のうち3回くらいは午後9〜10時には帰っていると思う。

 やはり酒は、一人で、しみじみと、というのが好きだ。  (1999年4月書き下ろし)
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その18 休日篇

 この話は「休日」そのものの是非を論じるのではなく、正確には「休日の過ごし方」にその緒を発するものである、ちなみに。(何にちなむわけじゃないけれども。)

 「日本人は休暇の使い方が下手である」ということを良く耳にする(ような気がする)。この発言は外国人からなされることもあるし、日本人自身からなされることもある。「文化人」やら「評論家」の口から発せられることもあるし、「一般民間人」からさえも自嘲めいた発言として聞かれることもある(ような気がする)。

 ほっといてくれ。 

 この一言に尽きる。(笑)

 と、これだけだとまた身もふたもないので...。
 そもそも「休日の過ごし方」なんて、人それぞれ、千差万別でいいのじゃないか? 「どこかの行楽地へ出かけよう」という強迫観念にかられ出かけていって人込みにもまれてみるのも一興だろうし、自宅でレンタルビデオ漬けになろうと、テレビゲーム三昧であろうと、読書三昧であろうと、酒に溺れようと、好きにしていいのではないのか?(実際、いいんだけど...。)
 日頃忙しくって子供の相手をしてやれず、どこかの遊園地に連れてって〜、と泣き叫ぶ子供に頼まれて、くたくたになりながらも遊園地で子供を肩車をしているお父さんの姿。神々しいではないかっ!(勝手な想像をしてますが...。) それで「休日の使い方が下手」なんて言われたらお父さんの立つ瀬もなければ浮かぶ瀬もない。(ま、別にお父さんを弁護したいわけじゃなくって。)
 もちろん、「休日の使い方がうまいですね!」と誉めてもらいたくもない。別に上手だとか下手だとかどうでもいいのだ。そんな評価はしてもらわなくたっていい。自分で納得の行く過ごし方ができれば、それで「いい休日」であるだろうし、納得が行かなければ「悲惨な休日」だったというだけのことなんだから。
 それを、何を勘違いしたのか知らないが「日本人は〜。」などとしたり顔で言うのは変な話(笑)だし、ましてや、そういう能書きを「うん、うん。そうだよなぁ...。」などと納得したり反省する人たちがいるとすれば、それはさらに変な話だ(と私は思う)。

 ええ〜い、ついでだ。書いちゃえ。(笑)
 時折、「〜するのは日本人の悪い癖だ。」というようなことを言う人がいるが、あれは日本人の悪い癖だ。(爆)
 そこで言う「日本人」って誰なんだ、一体?
 そして、その発言が日本人によってなされるものだとしたら「その『日本人』の中にあなたは含まれていないのですか?」と問い掛けたくなるのだが、私は。
 せめて「私を含めて、私の身の回りにいる日本人は〜。」と言ってもらいたいものだ。(笑)

 大体、どうでもいいようなことを言うのに「日本人」というくくりをつけなければならないのはどうしてなのだ? もう一つついでに言うのなら、「同じ日本人ではないか?」というような考え方の危険さに思いを馳せたことがあるのだろうか? ま、別にいいけど。

 ってことで、はい、連休のただ中、ふと思ったことでした。
(1999年5月書き下ろし)
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その19 日本人篇

 ぎゃははは...。いきなり、(爆)ですな、このタイトルは。
 ってことで、今回は日本人について、思うところを少し。とは言え、あまりにも大きすぎるテーマなので、その中で「白人かぶれ」というか「西洋崇拝主義」について。

 ある程度、これがあるのは仕方ない、と思う。日本の、鎖国解除以来の社会の発展や技術の進歩はかなりのところ西洋の文明・文化や技術の輸入に負うところが大きいだろうから。
 だが、広告などに訳もなく白人たち(とくくっていいかどうか、良く分からないけど)が登場するのは何なんだぁ、あれは? って、こんなことを思う人はたくさんいるだろうけれど、この20年ほどのことをざぁ〜っと振り返っても一向にこの風潮が弱まる気配はない。
 私はテレビをほとんど見ないのでテレビのコマーシャルについてはコメントしないが、新聞の広告はよく見る。興味はないが時折服を買ったりすることもあるんで紳士服店の広告などは、ま、じっくりと見ることもある。バカらしくて統計を取ったこともないが、おそらく半数以上のモデルは外国人じゃないのか? いや、正確には白人じゃないのか? 百貨店の婦人服の広告もそうだ。何で、青い目の金髪のモデルを載せるんだ?
 ま、「日本に住む外国人」にターゲットを絞っているということであれば納得できるが、まさか、そんなことはあるまい。購買層(?)は普通の、(概して言うと)黒い瞳の、黒い髪の日本人ではないのか? 服でも、浴衣や和服の場合にはさすがに気が引けるのか金髪モデルというのはないような気がするが。

 「洋服」だから「西洋人」じゃないといけないとでもいうのだろうか? 

 それと、ついでにもう一つ。何となくだが、「外国人」というと、すぐに「白人」が連想されることが多いような気がするけれど、当たり前だが、それは当てはまらない。(あぁ、なんて言わずもがなのことを...。) 私は決して外国事情に通じているわけでも「国際感覚」に溢れている訳でもないけれど、外国=西洋、という短絡的な考えはしないつもりだ。

 前にも書いたけれど、何で若者は髪を金色、いや、金色とまでは行かなくとも、いわゆる「茶髪」という言葉に表わされるような色に染めたりするのだろうか...? 本当にそれが自分に似合う、オシャレ、カッコイイ、とでも思っているのだろうか...? 日頃、若い人たちと接することが多い私だがこのような個人的な話題を持ち出すことがないので依然としてその真相は不明である。品のよい御婦人の髪が栗毛色だったりすると、「おぉっ...。」と思ったりはするが。(爆)
 
 スタイルの良さ、ということでは黒人も素晴らしい。以前、同僚だったアフリカ系アメリカ人の女性は、ほんと、カモシカのようなすらっとした足の持ち主だった。(しかし、彼女よりも私の肌の色の方が黒かった...。) なのに黒人のモデル、というのは、少なくとも私の講読する新聞の広告に使われていることはまず、皆無と言ってよい。それは何故なのか?

 あ〜、まとまらないっ!! とにかく言いたいのは、日本の広告において、白人が偏重されているのがとても腹立たしい、ということだ。(あ、念のため言っておくと私は国粋主義者じゃないっす、はい。)
(1999年6月書き下ろし)
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その20 む〜ん篇

 む〜ん...。(いがらしみきおのマンガ風に...。) 「む〜ん篇」としたが深い意味はない。ただ適切なタイトルが思い浮かばなかっただけのことである。もちろん「moon」のことではない。別に「月」にいちゃもんはつけたくないし。(笑)

 それにしても、何だかなぁ、ちょいとね〜。(意味不明) 「世捨て人講座」と名乗りつつも、なかなか筆が進まないなぁ...、このシリーズは...。(笑) って、無理に書く必要はないんだけれど。(爆)
 
 ちなみに(って、何に因むわけでもないのだが)「『伝えたいことはほとんどないんだ』でしょうけれども、『言いたいことはたくさんある』んでしょう?」と、この前、とある人に見透かされて指摘されてしまった...。(爆)
 すっかりHASENOBUの愚痴コーナーとなってしまった感もあるが、それはそれでいいことだ。(さらに意味不明)
 さて、今回、やり玉に上げたい(笑)のは「気になるお値段」というフレーズだ。もちろん「気になる価格」というのも含めてだ。

 滅多にテレビを見ない、という私でも全然見ないわけじゃない。ただ自発的に「よし、この番組を見るぞっ!」ということが、まず、ない、というだけで、妻や子供が見ている番組を横目で見ることが全然ないわけではないのだ。
 唐突に、広告の中で、あるいは、テレビショッピングのコーナー(番組)で、訳の分からない胡散臭い商品の特長(?)がひとしきり述べられた後、決まって出てくるのが、この「気になるお値段」というフレーズだ。

 ほっといてくれ〜!! 勝手に他人の懐具合を気にしないでくれぇ〜!!(最近、このパターンが多いなぁ...。)
 ま、確かにお金の問題はそれなりに切実な人もいるだろうし、私だって有り余って困るような状況にはない。(笑) だけれども、だからといって一方的に「気になる」と決めつけないで欲しいのだ。
 せめて「視聴者の皆さんはともかく、私個人には気になるお値段」とでも言ってくれないものか...? 言ってくれないだろうなぁ...。

 つい最近、とあるコンピュータ関係の月刊誌を読んでいたら、大手のB.T.O.方式の直版メーカー(デ○コンピュータ)の広告が記事風に掲載されていた。中堅メーカーに勤務する若者が自宅用のパソコンを買い替えることにし、○ルコンピュータに発注し無事使えるまでをレポート風にまとめた広告である。その中でもやはりこのフレーズは使われていた...。

 「気になる」は「お値段」や「価格」の枕詞になったのだろうか...?

 ま、別にいいんだけど。(笑) (1999年8月書き下ろし)
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