世捨て人講座 Part3
---精神的隠遁生活の道標---
目次
その21 しつけ篇
その22 そうじゃないですか篇
その23 続・しつけ篇
その24 うちの子に限って篇
その25 信じる力篇
その26 ヘルメット篇
その27 お告げ篇
その28 ワイン篇
その29 アメリカ人篇
その30 「どうして日本人は」篇

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その21 しつけ篇
 いきなりだが、私の妻は小学校の教師である。私も小学校の教員免許は持っているが、採用試験に見事に落ちた。(笑)
 で、彼女は、現在、公立小学校の教員をしているのだが、この4月から10月までは市の「教育センター」というところの長期研修生として校務を離れている。
 その教育センターには他にも何名かの小学校や中学校の教員が研修生として在籍している。そして、研修生たちがそれぞれの家族を連れて7月の祝日である「海の日」を利用し、その前日から一泊二日の山陰の方に泊まりがけの旅行をすることになり、そしてHASENOBU一家もそれに加わった。
 研修生として選ばれるのは、それなりの資質を持った(と妻は言う)教員で、もちろん、新規採用のひよっ子などはいくら希望しても無駄だそうだ。よって、妻の同期である研修生たちも30代から40代半ば、という者がほとんどである。そして、その子供たちも幼稚園児から小学校高学年という具合だ。

 19日の午後に授業があったため、私たちは19日の夜の宴会から合流する、ということになった。
 宿に着いたのは午後8時に近かった。妻の話では6家族が参加し、子供も含め総勢で20名近くになる、とのことだった。
 しかし、その宴会場である大広間に着いて私はびっくりした。
 何が、かというと、その場の騒々しさである。カラオケで盛り上がっていた、というのならまだ許せる。そうではなく、5歳児ほどの子供が5名ほど、そして小学生の3,4年生くらいの子供が3名ほど、広間の中を走り回っているのだ。もちろん、大はしゃぎで、だ。
 「キィ〜〜!!」という、文字通り金切り声を上げ続ける子供もいる。まるで動物園の猿みたいに。異常に「ハイ」になっている...。薬物か...?(笑)

 いきなりだが、私は落ち着きのない子供は大っ嫌いだ。「元気があっていい」というのと、傍若無人というのは異なる。大人が会食をする、という時に大声を出す子供など、はた迷惑も甚だしい。「お調子者」なら、「愛嬌がある」で、済ませられるが、「調子に乗り過ぎる」のは、いただけない。
 もしも、その時に硫酸か塩酸を持っていたら、その金切り声を上げる少年に飲ませていたところだ。

 また、畳の上に置いてある大きな皿(もちろん、料理が乗っている皿)を、走って跳び越す子供までいるという始末だ...。
 その時に、もしも私が木刀を持っていたら、その子供のスネを思いっきり打ちくだいたことだろう。別に本物の日本刀でも構わないが。

 大体、こういう席でそのような振舞いをする、ということ自体が信じられないのだが、その親達(もちろん、教員だ)は、それを悪いことだと思っているような素振りはない。というか、むしろ「うちの子は元気があって...。」と、微笑ましい光景を見ているかのようにニコニコしているのだ!!

 一体、何なんだろう? 妻の立場(?)もあるので怒鳴りつけはしなかったが、日頃、温厚な私であるが、切れる寸前だった...。

 私がこのような振舞いをする子供の親であったら、これは絶対に許さない。人前であろうがなかろうが、足を引き摺ってでも広間から連れ出し、顔が膨れ上がるまで殴りつけてやる。(って、私の子供は、そんなことをするような馬鹿な子供ではないのだが。)

 あぁ...。思い出しただけでもイライラするっ!!

 自分の子供もちゃんとしつけられないような教員はさっさと辞職しろっ!!

 かなり危ない発言だと思うけれど、私は、きちんと振る舞えない子供の人権は認めない。それは人間の形をした動物なのだから。

 「いじめ」がどうのこうの、だとか「学級崩壊」がどうしただとか、よく耳にするけれども、これはまず間違いなく親の責任だ。(慌てて補足しておくが、「いじめられる子が悪い」と言っているのではない。) 教員や学校の責任、などと言う前に、自分の子供の育て方に目を向けてもらいたい。
 変な喩えだけれど、物心がつくまでに「まっすぐ」に育てられなかった子供が、将来、まっすぐに伸びてゆくことは、まず、考えられない。後でいくら厳しくしても無駄だ。6才くらいまでが勝負だ。

 ごく、稀にだが、デパートなどで床に寝そべってバタバタしながら「あのオモチャ、買ってぇ〜!」と泣きじゃくる子供がいる。そんな時に、子供の涙に負けてはいけない。ぐったりとするまで手足を蹴りつけてやれば良い。(って、もちろん、そんなことはしたことがないが。) ま、それ以前に、他の買い物客の迷惑にならないように引き摺って路上まで出したほうがいいけど。

 あ〜、まとまりがつかない...。しかも、かなり過激なことを書いたぞ、今回は...。ま、いいか。
(1999年9月 書き下ろし)
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その22 そうじゃないですか篇
 ...。また無言で始めてしまった...。

 今日(9月19日、日曜日)の夜、夕食後、ビールをちびりちびりと飲んでいた。私の個室、城、ではなく母屋で、だ。(笑) 妻や子供たちはテレビを見ていた。すると、よく分からないが、中井貴一の誕生日を祝う(?)ような番組が始まった。って、きっと特別番組ではないだろうから、毎週、「芸能人」の誕生日を祝っているのだろう、多分。
 「中井貴一の素顔に迫る」とかなんとか言っていたようだが、別に私は彼の素顔など知りたくないし、もちろん迫ってみたいとも思わない。(ちなみに私は、彼の出演した映画やテレビドラマは一つとして見たことがないような気がするんだが...。)
 ま、それはいいとして。

 画面は見ていないが、どうやら司会か意味のないゲストか、誰だか知らないが「中井さんって〜〜じゃないですか。」といった物言いを連発する...。しかも耳障りなほどに...。

 この「〜〜じゃないですか」という言い方が存在する理由も、そして好まれる理由も把握しているつもりの私であるが、あまり好きな表現じゃない。さらにこれが連発されるとなると、聞いていてかなりいらついてしまう...。
 もちろん、これが純粋な疑問文として相手に質問をしているというような使い方であれば、全然、構わない。例えば「HASENOBUさんはテニスをするんじゃないですか?」と尋ねられれば「ええ、そうですよ」と気持ち良く答えよう。
 だけれども、そういう(確認でのための)「質問」はなく、「私はこう思っている。きっとあなたも同じですよね?」という感じの使い方は、嫌いだ。一方的な押し付けがましさを感じてしまうのである。つまり、同感することを勝手に自明なこととされてしまうような印象を受ける、というわけだ。

 「中井さんは〜〜だと私は思うのですが」となぜ言えないのかっ!? 自分の意見・印象・感想が他の人に同意されるものと勝手に決めつけたりしないで欲しいのだ、私は!! 「〜〜じゃないですか」と言われたら即座に「じゃないよ。」と冷たく言い放ちたくなる...。

 ということで、この言い方って、とても変じゃないですか。(爆)
(1999年9月 書き下ろし)
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その23 続・しつけ篇
 あ〜!!(←怒りの声)
 何かねぇ〜...。
 で、何がこんなに腹立たしいのか、というと...。
 今朝のことだ。近くのコンビニエンスストアまでちょっと買い物に行く用事があって、車で行くほどの距離ではないんで、久し振りに(笑)自転車に乗って行ったその帰り道のことだ。
 私の住む団地はまだ若干の空き地がある。バブルがはじけて土地が売れなくなったのかどうかなんて知らない。とにかく、坂道をギヤを軽く変速しながら自転車を漕いでいたときに、ふと、道の横の空き地にマウンテンバイクが無造作にほうり投げてあるのが見えた。明らかに「捨てられてもう一カ月はゆうに過ぎました」というような様相である。チェーンははずれ、ハンドル(?)と前輪は歪んでいるようだ。「あらら...。またこんな所に自転車が...。」と思って通り過ぎようとした。だが、ふと気になって少し引き返し良く観てみるとちゃんとネームプレート(プレート、というよりもシール)がついていて、その住所がこの団地から少し離れた所のものだということ、持ち主の名前、電話番号もついている。「あ〜、こりゃ、盗難車かな...? そして乗り捨てられてしまったのかなぁ...?」と思い、私はその自転車を保護する(笑)ことにした。
 後輪のタイヤはパンクしているか、あるいは完全に空気が抜けているようだった。もちろん、私は自分のトレッキングバイクを降り、その放置自転車のハンドルを左手で操作しながら坂道を、この二台の自転車を押しながら汗を垂らしながら自宅までの坂道を登っていった。
 そして自宅に着いてから、その放置自転車に書かれていた電話番号へ電話をした。
 「あの〜、お宅の自転車がどうやら捨ててあるようだったんでお電話しているのですが...。ええ、銀色のマウンテンバイクです。」
 ちょっとこの後は話がややこしくなるんで簡単に説明すると...。その自転車の持ち主(すでに就職した青年)は、もうその自転車が不要になったんで自分の勤める会社の社長の息子さんにプレゼントしたとのことだった。ということで、しばらくして石田と名乗る、その社長さんから電話がかかってきて今から伺うとのこと。その電話の直後に、最初に私が連絡した家の人から電話があり、その社長さんが私と同じ団地に住んでいることが分かった。

 そこで、庭に出て草を抜いたりしていると一台の乗用車がゆっくりと道を下ってきてそして私の家の前に停まった。「お、もう?」と思いながら玄関の方へ行くと、その乗用車から一人の中学生らしき男の子が降りてきて、無言のまま、車庫の横に置いていた、例の放置自転車を持ってゆこうとした。
 「石田君、かな?」と私は声をかけた。
 なのに、その少年は無言で僅かに頷いただけで、返事もせず、自転車を押してそのまま去ろうとする。(おい...!)
 と、乗用車から出てきた父親が少年に向かって「ちゃんと挨拶をしなさいっ!」と少年に言った。が、少年はその声をも無視するかのように表情も変えずに去って行った。父親は「どうもお世話になりました。」と一言だけ私に告げ、車へと戻って帰って行った。

 一体、何なんだろう...?

 呆れてものが言えないという気分だ。別に私は過度に丁寧な挨拶やらお礼を求めてなどいない。だけれども、あの親子の態度は一体何なんだっ!?
 
 どんな時でもちゃんと挨拶をする、お世話になったときには「ありがとうございました」と言う。これは対人関係(たとえそれが一時的なものであったとしても)人間として弁えておく最低限のルールではないのか?

 ちなみに私は私の娘や息子が初対面の人にちゃんと挨拶できなかったら、その場でひっぱたく。(って、ちゃんと挨拶するんで問題はないのだが。) 「オアシス運動」だとかは大嫌いだけれど、挨拶をすること、お礼を言うこと、きちんと謝ること、この三つはしつけの基本中の基本であるはずだっ!! しかも、これらは習慣の問題であるから幼い頃に骨身に浸透させておかねばならないことだ(と思う)。
 確かに我が子というのは理屈を超えて可愛いものだが、このしつけをおざなりにしては、決してならないと私は思う。幼いときにそれができなかったら、もう、これは悲惨である。ま、私の知ったことではないが。
(1999年10月12日 書き下ろし)
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その24 うちの子に限って篇
 と、決まってこんなことを言うのは、我が子が犯罪に走ったときの、馬鹿な親だ。
 「うちの子に限って、まさか、そんな悪いことをするはずがない」という、盲信(この言葉は...? 私は、問題ないと思っているが)した親は、はっきり言って、多い(と思う)。
 実際、外での顔と家の中での顔とがまるっきり異なるといった、実に巧妙な子供は滅多にいない(と思う)。やはり、非行化していれば、子供の生活の中にそれなりの兆しが出てくるはずなのに、親がそれに気づかない、ということ自体からして問題があるのだが。
 
 ...。あはは、いっぱしのことを言うじゃないか、HASENOBUは...。(笑)

 って、言いたいのは、そんなことじゃなかったんだけど。(爆) むしろ、子供が、何か悪いことをして、それを知ったときには「え? まさか、うちの子に限って...。」という情けない反応はしたくないなぁ、ということだ。「ま、私の子供だから、それくらいはするだろう。」と、潔く、自分のしつけに問題があったことを認めたい、ということだ。(もちろん、これは子供が大人になっても、というのではない。その年齢は人によりけりだけれど、子供が、ちゃんと精神的に親から独立した後は、別だ。)

 上の「続・しつけ篇」の中で、結構、厳しい調子で書いた。が、もっとはっきりと書くと、私は「親には子の生殺与奪権がある」とさえ思っている。と、また、これだけ書くと、これはこれでとんでもない主張をしているようだが、敢えて多くは補足しない。ある年齢(もちろん、これも様々だ)までは、体罰、折檻、なんでもあり、だ。うまく巣立てないヒナは、撃ち落としてもよい。(おい...、変な比喩は使うなよ、おれ...。)

 こどものしつけに「自由放任主義的な教育」と「スパルタ式教育」とがあるとすれば、「ほぉ...、HASENOBUは後者を選んでいるのか。」と納得されるとしたら、それは間違いだ。(これは、「なだいなだ」氏も書いていたが)どんな人間を育てようとするのか、そして子供の発達の度合いによって、どうしつけるかということも変わってくるものである。どちらか一方だけが優れた教育方法というのではないだろう。

 ある少年が深夜に、盗んだバイクで暴走。そして運転を誤って激突死...。(ま、転落死でも、なんでもいいが。)

 新聞の片隅に載っていそうな事故だ。
 だが、これは私にとっては(それが、私の知らないことだから、という意味でではなく)「哀しい出来事」ではない。程度の差こそあれ、ま、自業自得である。その少年の親にしてみれば、悲痛な出来事かもしれないが、我が子がそういう人間に育ってしまったこと、我が子をそういう人間に育ててしまったことを悔い、あきらめるしかない。
 蛇足ながら、私の子供が将来、万が一、そのような破目になったとしても、私は決して責任転嫁しようなどとは思っていないが。
(1999年10月30日 書き下ろし)
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その25 信じる力篇
 ふむ...。
 いきなり腕組みして考え込みたくなるのだが、時折、我が家のポストに投げ込まれる宗教関係の会報・広報・定期刊行物らしきもの...。テレビ・ラジオには無関心、新聞だって斜め読み、といういびつな情報環境に身を置いている私だが、新聞の広告などとともに、結構真剣に(笑)こういった宗教関係のニュースレターを読み耽ったりすることが多いのだ。

 特定の宗教を批判したいわけじゃない。だけれども、先ほどまで読んでいたニュースレターに多数記されている「信者の体験記」。これが妙に私の関心を引く。
 その「体験談」の横には晴れやかな表情のカラー写真、そして氏名も記されている。手元の2つの会報に掲載されている合わせて50近くの体験談のうち、無作為にそのタイトルだけを並べてみよう。「子宮のポリープ全く無くなる!!」「腎臓病快復」「不治の目の病快復」「脊髄小脳変性症快復」「尿管の石 尿と一緒に出た」「二十年来の難聴 全く正常に!」等々...。
 
 まるで様々な病気のカルテの全快例を列挙しているような気分になって来る...。中には「難病シェーグレン症候群」や「キンベック病」「クレチン症」など、少なくとも私が今までに聞いたことのない病気を克服された方もある。
 また、病気だけではなく「借金と家庭不和 奇蹟的に解決!!」やら「若葉が芽を出す 庭が生き返る」というような御利益をあずかった例も報告されている...。

 ま、このような人達が病苦やその他の人生苦からから救われたことそのものは、とても喜ばしいことだし、別にいちゃもんをつけたくもない。
 だが、今挙げたタイトルには決まって次の言葉が載せられているのだ:「入信により〜」「御○霊によって〜」「聖地参拝により〜」。(中にはこの複合形も見られるが。)

 こうなると「おいおい...。ちょっとちょっと...。」と思ってしまうのだが...。

 確かに「病は気から」だとか「健全な精神は健全な肉体に宿る」などという言葉もあるし、それもある程度は人間という不思議な生き物の正鵠を射ている(?)とも思う。「精神」が「身体」と密接に結びついているということは「精神性〜」という、本格的な病気にかかった者でなくとも、実感できることだろう。
 だけれども、現代の医学でも「難病」あるいは「不治の病」とまで認識されるようなものが宗教によって、信仰によって完治した、と言われると...。

 つまり、だ。
 逆に考えてみればよい。病気を持った人というのは健全な魂を持っていない、ということなのか? 病気が治らないのは、家庭に不和が生じるのは信仰が足りないからだ、ということなのか?
 だとすれば、日本、いや、全世界に多数いるであろう病人達の立場はどうなるのか...?

 難病を克服したこと、そのものには(くどいようだけれど)ケチをつけるつもりはない。(当たり前だ...。) だけれども、本当にそれはその宗教のお陰なのか? それまで一度も医者に診てもらうこともなく治療も受けず、薬も服用せずに、ただただその宗教・信仰の力だけで治った、というのであれば、ま、うなずける。(しかし、そんな場合に「あぁ、自分は『脊髄小脳変性症』にかかっている...。」と自分で判断することができるのかどうか...。)
 治療の効果が出て来た時期と入信の時期がほぼ重なった、ということは考えられないか?
 「宗教そのもの」ではなく、自分の生活の変化、つまり住居環境や食生活などもの変化が、それまでの病を沈静化することになったのではないか?

 もちろん、自分の病気が治ったのは、その宗教のお陰である、と考えるのは個人の勝手だ。けれども、頼むからそれを他の人に押し付けないで欲しいものだと、私は思う。(実はこれが一番言いたいことだった...。)

 しかし、思うに、上記のような人達は、心の底から、その宗教を、その教義を「信じる」ことが、そしてそうすることだけが自分に恩恵を施してくれたと信じているんだろうなぁ...。ふむ...。
 確かに「信じる力」というものは、予想のつかないような力を発揮すると思う。だけど、それでも、だけれど...。
 どうして私が素直に(笑)受け入れられないかというと、結局、何かを「信じる」ことは、それ以外の部分に目を背けてしまうことになりがちだから、かもしれない...。つまり(教義の)枠組みの中でしかものが見えなくなるような気がするのだ...。それが、とても、とても恐いような気がするのだ...。
(1999年11月23日 書き下ろし)
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その26 ヘルメット篇
 おいおい...。「ヘルメット篇」っていうのは何だ、一体...?(笑) と思ったかもしれないが、ま、読めば分かる。

 土曜日は授業がないので今朝はゆっくりと午前10時頃になって出かけた。
 土曜の朝、うららかな陽射しの中、ゆっくりと歩いている老夫婦を見かけた。(私は車に乗っていたので、わざわざ降りて確かめてたりしていないけれど、あの二人は、きっと夫婦だ。) のどかな雰囲気だ。談笑しつつ二人は散歩を楽しんでいるようだ。それだけ見れば、本当にほのぼのとした、いい風景である。
 だがそのお爺さんは、ヘルメットを被っていた...。いや、別にヘルメットを被っていちゃいけないわけじゃない。けれども、どう見ても彼は散歩の途中である。一体、なぜ...?
 もちろん、作業服を着ているという訳でもない。しつこいようだが、散歩なのだから。ヘルメットといってもオートバイに乗るときのフルフェースではなく、いたって普通のヘルメットだけど...。
 いや、真相を知りたいわけじゃないけれど、のどかでほのぼのとした散歩の風景とそのお爺さんのヘルメットの暗示する(?)危険との組み合わせを考えると、結構、インパクトのある光景だったなぁ、と感慨深くて...。

 で、それよりも、何よりもっ!!(爆)

 実は、もっと解せない風景がある。それは、夕方のスーパーマーケットで観察される光景だ。そう、(何がそうなんだか...。)ヘルメットを被ったまま夕食のための買い物をするおばさん軍団である。(「軍団」って...。)

 いつ頃からかは分からない。が、きっと、「女性でも簡単に乗れる!」ということを売り物にした「スクーター」が市場に広がり始めた1980年頃からではないかと思われる。(いや、確信はないけれど。) もう少し正確を期す(笑)と、原動機付き自転車であっても「ヘルメット着用」が義務づけられた後のことだろう。(多分、これは1982年頃だったと思う。)
 
 一体、何なんだ、と思う。屋内ではかぶり物は外す、というのは常識ではないか? ま、とてもオシャレなデザインの帽子であれば、それはそれで一つのファッションの小道具になるのだろうからとやかく言わないけれど。おばさん達のあのヘルメットは「おしゃれのため」とは、到底、思えない。では、変装用なのか...? 少しでも素顔が見えないように、ということで。
 コンビニエンスストアなどでは、犯罪防止のためか、「ヘルメットの着用は御遠慮下さい」というような注意書きがあるけれども、スーパーマーケットは無法地帯なのか?

 それとも危険防止のためか? 店内で転倒すると危ないからか? 
 乗ってきたバイクにヘルメットを置くと盗まれてしまうのだろうか?

 あはは...。嫌みな書き方だ...。答えは簡単明瞭だ。尋ねたことはないけれど「ヘルメットを外すのが面倒だから」だろう、きっと...。

 でも、何か、ねぇ〜...。いやだな...。ま、確かに男性でもヘルメットを被ったまま、という姿を見かけないわけじゃない。でも、(気のせいかもしれないけれど)その比率で言うなら、女性の方が多いのではないだろうか...?(ま、スーパーマーケットに食料品を買いに来るお客さんの性別の比率が違うだろうし...。)
 
 私は時折スーパーマーケットに買い物に行くのだけれど、いつだったか、大きなお店で、その3階にある文具品売り場でヘルメットおばさんを見かけたときには、かなり、驚いた...。まさか、この人はその格好で1階から上まで来たのだろうか...?(まず間違いなく、そうだろうとは思うが...。) 食料品売り場(普通のスーパーマーケットであれば1階、デパートならば地下1階であるか...?)であれば、もう、物珍しくないような気さえするが、それ以外の場所だとかなり異様に感じるのだが、そう思う私が変なのか...?

 もちろん、ここまでの書き方の中で私は「規範」というのか「公衆道徳」のようなものとして「屋内ではかぶり物は外す」ということを暗黙の了解事項として書いているのだけれど、そういう私の感覚からすれば、やはりヘルメットおばさんは、受け入れがたい。一言で言ってみっともない、と思う。
 他にも色んな「みっともない行動」というのはあるだろう、女性に限らず、男性にも、そしてそのどちらにも。だけども、その行動が「ヘルメットを外すのが面倒」ということの結果とすれば、うん、これは、かなりみっともない部類に入るように思う。初対面の人に会うときにサングラスをかけたまま、などというのはもってのほかである!!(爆) (あぁ、草柳某氏(笑)が書きそうなことを書いてしまったぞ。(爆))
(1999年12月4日 書き下ろし)
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その27 お告げ篇
 むふふ...。(意味なく含み笑いで登場)

 いや、実際考えてみると「お告げ」ってのはかなり範囲が広い言葉だ...。神社のおみくじだって、ノストラダムスの大予言だって、亀の甲羅を使った占いだって、そしてキリスト教の黙示録だって、そうかもしれない。(ってこんな風に書くとキリスト教信者から「亀の甲羅の占いと同列に扱うのか!?」と抗議が来るかもしれないが、そう言っているのじゃない、ちなみに。)
 そして、これらに共通すると思われるのが、どこかしら宗教絡み、ということだ。

 ま、これは「お告げ」という言葉が「人間の英知を越えた何らかの存在が、一見奇異で無分別とも思われるが、それを信奉するものにとっては極めて合理的に感じられらる、とある方法により、場合によっては特定の個人を通じて、ある人間、人間の集団、あるいは彼らの住む世界の今後の動向について、予め伝達すること、またはそのようにして伝達されたもの」を意味するからだが。(あのぉ〜...、これは今、私が勝手に定義したものです、はい。一応、断っておくけれど。)

 で、私はつい先日、お告げに出会った...。

 もう、この時点で胡散臭いと思われただろうが。
 しかも、それは人のたむろするところで、の話であり、私自身、実に思い掛けないことであったのだが。

 あ、ごめ〜ん。(笑) 意味なく引っ張りました〜。

 それは、先日、娘と待ち合わせたとある書店でのことだった。別に特定の宗教を名指しで攻撃(?)したい訳でも何でもないんで曖昧に書くけれど、「今日発売!」のコーナーに並んでいた数々の雑誌の中に「昭和天皇のメッセージ」だったか、ま、そんなタイトルが大見出し(?)で載ったものがあったのだ。「ん...? 何か書き残していたものでもあったのかな...? 彼の懺悔録かなんかがあって、それを宮内庁が公表したのかな?」などと思いながら好奇心に駆られた私はその雑誌をおもむろに手に取り、パラパラとめくり、そして、のけぞった。(爆)

 それは「霊界にいる昭和天皇」からのメッセージだったのだ...。
 もちろん、読まなかったが。

 「一体、何なんだぁ〜、この雑誌は?」と思い、目次をめくると、T.K氏の名前が! 彼は私の好きな作家の一人だが、一昨年の正月(だったと思う)不運な火災事故で他界してしまった人物だ。
 そのT.K氏からのメッセージも載せられているのだ...。
 これは気になったのでそのページをめくって読んだのだけれど、いやはや何とも...。(もちろん、その内容をここに記すつもりはない。気になる人は書店にダッシュ! 今ならまだ店頭に並んでいるかも。)

 「やれやれ...。」と溜め息をつきつつ、他のページを見てみると(笑)、どうやら、この宗教の教祖様は、今までに数多くの世界の偉人達と霊界での交流を持ってきたらしく、それらがシリーズの本となって出版されているとのこと!
 その宗教の名前だけは前々から知っていたけれど、まさか、そういう手法(?)を取っていたとは...。
 そのシリーズには「釈迦」や「イエス・キリスト」の名前まで挙がっていたようだが、きっと彼らとの対談(?)では、仏教もキリスト教も、その教祖の唱える宗教の傘下にあるべきものだとして描かれているんだろうなぁ...、いや、読んでないんで分からないけれど。

 ただ、私には「ちょっとねぇ〜...。」と首をかしげたくなる話だ。かといって私の疑問を晴らすために詳しい説明を聞きたくもないが。
 でも、それでも、きっとその教祖様は、彼自身「本当に昭和天皇と交信してメッセージを受け取った」と思っているのだろうし、それを読んだその宗教の信者達も、何一つ疑問を持たずそれをそのまま受け容れているのだろう。完全な自己完結の世界である...。

 ふむ...。

 ちなみに(前にも書いたと思うけど)私自身は特定の宗教を信じているわけでもないし、特定の宗教を否定するつもりもない。(いや、ほんとに。犯罪を起こしたオウム真理教にしたって、全てが全て荒唐無稽な教義を持っていたわけじゃないだろうとも思う。) でも、個人的には何かを「強要する」宗教、というのは好きになれないけど。特にそれが「物質的なもの」(端的に言えば財産だとか)の供出であればなおさら。
 むしろ私は、ほとんど全ての宗教は、本質的には善、だとさえ思う。(言い過ぎかもしれないけれど。) その人の信奉する宗教が何であれ、極めるまでその本質に迫っていった人というのは、「あぁ〜、一本、太い芯が通っているなぁ...。」と思わずにはいられないほどだ。(って、そんな人にお目にかかることは実に稀なことだけれど。)

 う〜ん...。読みようによってはかなり過激なことを書いたかもしれないなぁ。ま、いいか。私には私の「信教の自由」というものがあるし。そしてこの文面は他の人のそれを侵害しようとしたものでもないし。
(2000年2月6日 書き下ろし)
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その28 ワイン篇
 ♪ワインの好きなその中年男は〜いくつもいくつも駄文を書いて〜 手当たり次第にアップして〜♪

 あ〜、意味のない替え歌は止めよう。(ほとんど意味不明)

 で、ワインの話だ。
 と、「ワインの話」などのように書くと「19**年ものの****地方の、赤! あのフルボディが何たらかんたら〜」という能書きを予想する人もいるかもしれないが、この私がそんなことを書くはずもない。

 しかし、世の中には自称「ワイン通」という人がいて、しかも始末の悪いことになんだかんだと意味不明な講釈を垂れたがるようだ。一体、そのように言い切る根拠は何なのか私には分からないし知りたいとも思わないが、特定の銘柄が素晴らしい、と言い張ったりもする(らしい)。

 ま、そもそも「食」ということに、極力、価値を認めようとしない(爆)私であるので、当然ながら、酒類に関してもうるさくない。「おいしく飲めれば何だっていい」のだ。その市場価格などどうでもいい。一本数万円するようなワインがあるとすれば、そんなものよりも私は千円ワインを何十本も買いたい。数万円するからといって、それだけの理由でそれをありがたいとは思いたくない。それだけの理由で、きっとおいしいはずだ、とも思いたくない。(実際に飲んでみて、それで「おいしい」と思うかどうかは別として、だ。)
 もちろん、自分の「舌」に自信があるから、という訳じゃない。(笑) むしろ、全然、自分の「舌」に自信はないということに自信を持っているほどだ。(何て言ったって私はスモーカーだし。)
 
 いつか、どこかで書いたけれども、あるもの(食べ物、飲み物)が「おいしい」というのは、極めて個人的な見解で、あくまで「自分にとってはおいしい」、ということだと思う。だから、「絶対に***がおいしい」とは、言えない、とさえ思う。(ちょっと表現が足りないけれど...。)

 たとえ、フランス料理の超一流コックが究極(?)の「たまごやき」(笑)を焼いてくれたとしても、私はそれよりも娘が作ったたまごやきが食べたいし、そちらの方が私には「おいしい」のだ。

 ま、たまごやきはともかく(笑)、ワインだ。

 各人(?)にそれぞれ好きなワインがある、ということは全然問題ない。だけれども、それを(何故か自慢気に)語ったりして欲しくない。ま、語るのは個人の自由だが、それを人に強要して欲しくない。もちろん世の中には本当に味覚に敏感でワインの善し悪しを語れる人がいることだろう。だけれども、そんな人は本当に稀有であると思う。「何て言ってもワインなら****に限るよ〜。」なんて言える人は極々僅かしかいないはずだ。(って、それも、本当なら世界中の、しかも各年のワインを全て試した上でないといけないと思うが。ついでながら言うと私が「全て」と言うときにはかなり気合いが入っている...。(笑))

 だから、通ぶって「ワインは〜」などと言う人を見かけると、ちゃんちゃらおかしいのだ。実におこがましい、とさえ思うのだ、私は...。
 結局は「趣味・好み」の問題なんだから...。完全に理屈を越えていることなんだから...。
(2000年2月15日 書き下ろし)
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その29 アメリカ人篇
 むふふ...。いきなり含み笑いで登場だ。(意味はない、ちなみに。)

 アメリカ人...。嫌いだ...。(爆)
 別に個人的に嫌いなアメリカ人がいる、ということではないのだけれど、慨して言うと、好きになれないような気がする。
 ま、ちょっと話をしたり、という程度の付き合いならば問題はないかもしれないが、突っ込んだ話となるとちょっと事情が異なる(ような気がする...)。

 う〜ん、これは間違った先入観なのかもしれないけれど、アメリカ人は、慨して言うと、独善的である...。(爆) 言い過ぎかもしれないが。(笑)

 政治的なこと、軍事的なことは今一つ分からないのだけれど、何となく、アメリカ人は「アメリカが世界の中心」と考えているような節がある...。そして、この考えは「自分の価値観(!)と合わないものは排除し、徹底的に糾弾する」という姿勢へと繋がっているような気がする...。(気のせいかもしれないけれど。)

 もちろん、アメリカの素晴らしい点、というのもたくさんあるだろう。ボランティア精神、ということにかけては、そしてその行動力や組織力、ということになると比するものがないほどだとさえ思う。建国の頃の高邁な精神も尊敬に値すると思う。

 けれども...。(笑)

 何だかなぁ、精神的に熟していない国家という気がしてならない...。何かにつけ不遜だ、って気もする...。(おお、何てことを...。(爆))
 例えば「アメリカの野球界のナンバーワン」を決めるだけのことなのに臆面もなく「ワールドシリーズ」と称したりするし...。

 う〜ん、うまく書けないけれど、何か釈然としないなぁ...。

 う〜ん、う〜ん...。ちょっと不調だな...。鋭い切り口も何もない駄文だ...、ま、いつものことだけどさ。(笑)
(2000年5月2日 書き下ろし)
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その30 「どうして日本人は」篇
 日本の英語(教育)界(?)の中には、大きな年中行事と言っても良いような全国規模の検定試験がある。
 それは、英語に興味を持った人ならば誰でも一度はその名前を聞いたことがあるであろうし、そして「中学生の時に、学校でその4級の試験を受けたことがある」というような人も決して少なくはないはずだ。
 かく言う私自身、中学2年、高校2年、大学1年(この時は不合格(笑))、さらには27歳(?)の時にも、その試験を受けたことがある。そして今ではその試験実施の片棒を担いでいるのだが...。(笑)

 で、その試験の、この春から夏にかけて実施される分の広告のことが今回の駄文のテーマである。どうも、その広告のことが引っ掛かるのだ...。いや、正確に言うと「見ていて腹が立つ」のだ...。(笑)
 もう願書の受付期間は過ぎてしまったかもしれないんで、書店に貼ってあったであろう大きな広告にはお目にかかれないかもしれない。それを見たことがない人のために記すと、その広告には金髪の少女(推定年齢17歳前後)が日本の住宅街(バックに写っているカーブミラーに記された地名は「世田谷区」である)の路上に立っている姿が写っている。だが、その女の子は大きな紙を持って、眉間にしわを寄せながら仁王立ちしているのだ。そしてその紙に下手な日本語で書かれているのは...。:

 「どうして日本人は話しかけるとはずかしそうにするのですか?」

...。おい...。何か大きな勘違いをしてはいないか...?

 (って、私が勝手に勘違いしているのかもしれないけれど(笑))その場面、そしてそれが「英語の試験の広告である」ということから察するに、その女の子は「日本に来て、そして日本人に英語で話しかけてみた。なのに、日本人は恥ずかしそうにしてばかり。中には逃げ出してしまう人もいる。一体これはどういうことなのっ?!」と言いたいらしい。(違うかもしれない...。)

 だが、もしもそうだとすれば、ちょっと待て、と言いたくなる。

 英語は日本の言語ではない。もちろん公用語でもない。そういう国に来てどうして英語で日本人に話しかけるのだ? まさか「日本はアメリカの植民地。英語ももちろん通じる。」などと思ったりしていないだろうな? よその国に来て、その現地の言葉を使わずに自分の言葉で用足りると思い上がってはいないだろうな...?

 ま、確かに日本語の中には英単語由来の外来語が(異常なほどに)氾濫しているし、日本人の中には英語をある程度操れる人がいるのも間違いない。しかし、だからと言って「日本に行っても日本語を学ぶ必要などない。そっち(日本人)が私たちの言葉を使えばいいのよ。」などと考えてもらっては困る。よその国に行ったら、たとえ片言でもそこで使われている言語を話すように努めるのが最低限のマナーではないか...? そんなことも分からず、自分の思うようにならないからといって腹を立てるのは御門違いではないか?
(ちなみに、日本人の中に「英語が話せるようになりたいっ!」と思う人が少なからずいることは、それはそれで良いと思う。それぞれが好きに練習するなり勉強すればいい。その意志(と言うか「望み」)は否定しない。(?) だけれども、このことと上のこととは何ら関係がない。だからこそ、その広告の意図が不明だし、何か、腹立たしい。(笑))

 ふむ...。

 そうか...。日本人も英語を学び、そして人と話すときには「アイコンタクト」をしっかりと保て、と言うのだな...。話相手の目を凝視することが日本の文化では極めて失礼なことではあるけれども、やれ、と言うのだな...。日本語の複雑で巧妙精緻な呼称体系・敬語体系を捨て去れ、と言うのだな...。(←誰も言ってないって、そんなこと...。)

 ということで、結論づけずに、おしまいっ!(爆)  
(2000年6月3日 書き下ろし)
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