音楽の話 Part 4

目次
その31 オフコースの話(1)---「秋の気配」---
その32 オフコースの話(2)---「ANGELES」---
その33 オフコースの話(3)---「きこえたかしら」---
その34 オフコースの話(4)---「小田さんのギター」---
その35 オフコースの話(5)---「ヴァージョン違い」---
その36 オフコースの話(6)---「アーティスト」---
その37 山崎まさよし(1)
その38 オフコースの話(7)---「ワインの匂い」---
その39 チェッカーズ
その40 山崎まさよし(2)

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その31 オフコースの話(1)---「秋の気配」---

 庭のもみじもようやく新芽を広げ始め(?)、一日過ぎるごとに「生い茂って行く」様子がありありとしている、今日この頃です。今日(4月11日)の広島は晴れ。風が吹いても、もう寒さを感じないほどのうららかな春の一日でした。といったところで、「秋の気配」の話(笑)。
 この曲はオフコースの1977年のアルバム「JUNKTION」に収録されているものであり、当時、モノラルのラジオからこの曲が流れてきたのがオフコースとの(本格的な)出会いだったということもあって、非常に私には思い入れの強い曲である。
 前奏のガットギター、そして華麗なストリングスの流れ、隠し味の効果抜群のトライアングル、絶妙なコーラスワークなどなど、ほとんど非の打ち所のない名曲である。(ただ、シングルカットされたヴァージョンのエンディングに入ってくるアコースティックギターのストロークは、ちょっとね...。)

 さて、この曲の歌詞の一番だけをここに引用しておこう:

 あれがあなたの好きな場所
 港が見下ろせるこだかい公園

 あなたの声が小さくなる
 ぼくは黙って外を見てる

 目を閉じて 息を止めて
 さかのぼる ほんのひととき

 こんなことは今までなかった
 ぼくがあなたから離れてゆく
 ぼくがあなたから離れてゆく
           (作詞:小田和正)

 ま、早い話、別れてゆく恋人達の情景を歌ったものであるが。細かい歌詞の解釈はオープンにしておくのが華ってものだろう。(笑)
 で、これをANGELESというアメリカのグループ(素性は良く知らないが...)が「Fade in Love −オフコース作品集−」(1991, PLCP-32)という、PLATZ INC.というところ(日本コロムビアの子会社?)から出しているCDの中でカヴァーしている。想像がつくだろうが、英語で歌っているのである。曲のタイトルは「This September Feeling」となっているのだが、これも同様に一番の歌詞だけを引用しておく:

 We go to your favorite spot on Sunday afternoon
 A little park where lovers sit
 And watch the ships sail out to sea
 The autumn wind blows through your hair
 When you turn to look at me
 You put your arms around me
 And whisper in my ear
 Listen to my heart -I can hardly breathe
 As we climb the hill -to say our first goodbye

 Oh my love this september feeling I will knot forget
 How can I say goodbye to you when we have only met
 How can I say goodbye to you when we have only met
                      (英語訳詞:Amy Sky)

CDのブックレットに記載されていた歌詞は全て大文字だったがここでは読みやすさのため手を加えてある。また途中には句読点などはなかったのでそれはそのままにしてあることも記しておく。
 原文の歌詞と比べてもらうとすぐに気づくだろうが、かなりの意訳をしているようだし、もとの歌詞にはない情報さえも付け加わえられている。(例えば、この曲が「日曜の午後」のことだという情報は原曲にはない。) また、この曲の舞台となっている横浜の「港が見える丘公園」については「恋人達が(ベンチに)腰掛けて、船が港から出てゆく光景を眺める」というような親切な情報も付加されている。

 だが!!(笑)

 原詩の「目を閉じて 息を止めて さかのぼる ほんのひととき」に相当する部分。英語の方では「Listen to my heart -I can hardly breathe As we climb the hill -to say our first goodbye」となっている...。そう、「さかのぼる」というのは「今までの、決して長くはなかったであろう、二人がつき合っていた時間を思い出す」ということであるだろうに、それが「坂を登る」という風に解釈されているのだ。(爆)
 しかも、英語の歌詞では、その前のところで「息苦しい」というようなことを言っているので余計に、「坂を登って息切れがしている」というような情けない場面を想像させてしまう...。確かに、あの公園への坂は、ま、傾斜がきついし、それなりの距離もあるのだけれど。

 私が学生時代にバンドを組んでいた頃、この曲は私の十八番の一つだった。(笑) (決してうまく歌えたとかいうのではないが。(爆) 大好きな曲だったので何度かステージでもやった、という意味だ。)
 だから、そういう思い入れや想い出のある曲なので、「つま先上がりの坂を上ってしんどい、きついよ。」だとかいうようなイメージなんてとんでもない話なのである。

 と、かねがねから思っていたところ、知人のリードヴォーカル氏からメールが届いた。氏は、その名前のごとくバンドのリードヴォーカルを取っていたバンド仲間である。その彼が、やはり当時のバンド仲間のドラムス担当のY氏を、つい最近、その公園に連れていったそうな。
 で、その時の状況を氏のメールより引用:
>ちなみに今日は、半日会社をサボってY君と雨の中
>「港が見える丘公園」「山下公園」と散策して、中華街で食事してきました。
>港が見える丘公園で、Y君が奇妙なことを言い出しました。
>公園のとなりに古いホテルがあって、そこから見た風景を「秋の気配」
>で歌っているのだろうという話をしながら、ちょっとした登りを歩いているとき
>「坂ってここだろか」
>「えっ?」
>「いや、さかのぼる、ほんのひととき、の坂は、ここかね〜?」
>「坂登る? あれは、過去を振り返る、遡るじゃなかろか」(今、字は辞書で調べた)
>「あっ、そぎゃんね?」
>とても楽しい一日でした。

あららら...。(笑)
(1999年4月 書き下ろし)
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その32 オフコースの話(2)---「ANGELES」---

 これは、もちろん上で書いた、あの「ANGELES」のことだ。って言っても、彼らの素性は不明だが。
 分かっているのは、彼らがどうやらロスアンゼルスのミュージシャン達である、ということくらいだ。もっともこの5人でグループを組んでいるようではなく、それぞれは恐らく別個に活動しているシンガーだと思われるが。クレジットを見るかぎり、メインヴォーカルは曲ごとに異なるようだし、コーラスで残りの者が手伝っていることでもなさそうだ。(ただし5人の中で唯一、Brett Raymondという人物が全編アレンジとキーボードを担当している。このことからするとこのRaymondがリーダー的な存在、もっと言うとこのCDの仕掛け人の一人なのかもしれない。)
 さらに、彼らの「Fade in Love −オフコース作品集−」というCDが発売されたいきさつなども皆目、見当がつかないのだが。オフコースの解散は1989.2.26であるし、それに合わせた訳でもないし...。ま、強いて言うならば、一時期、ユーミンの曲をAs Soon As Possibleという3人組の女性グループがカヴァーして、そこそこに売れたことがあったから、その路線で「じゃ、一発、オフコースで...。」と目論んだ、ということなのかもしれない。(笑)

 話は変わるが(笑)、昨年末、角川書店から『YES-NO 小田和正ヒストリー』(著者:小貫信昭)という本が出版された。その162ページに小田和正の発言として「東京戻って、スタッフの知り合いのジミーってイギリス人と組んで10曲くらい、英語の詩を書いたな。---略---。デモ・テープ作って、そいつと一緒にキャピタル行って、前から知り合ってた人間に、聴かせたんだ。」というのがある。その後の記述からすると、このキャピタルはロスアンゼルスのキャピタルのようだ...。

 ここで、上の「Fade in Love −オフコース作品集−」のクレジットを見てみると、「SAYONARA」の作詞は「JIMMY COMPTON、小田和正」とある...。もともと英語の歌詞がRandy Goodrumによってつけられていた「Eyes in the back of my heart」を例外として、「SAYONARA」以外の曲は全て英語訳詞が新たにつけられているということを考えると、まず間違いなくJIMMY COMPTONというのは上の引用にある「ジミー」と同一人物だと考えてよいだろう。つまりジミーと小田氏が協力して作ったという歌詞が使われているのだ...。そして、このCDのマスタリングは(ロスアンゼルスの)「キャピタルレコーディングスタジオ」となっている...。こうなると、ただの偶然ではなさそうである。

 想像力を逞しくすれば、何となく見えてくる気がしないでもない。(笑) もちろん、だからといってこのCDの発売のいきさつが明確になったわけじゃないのだけれども、1980年頃に小田氏がオフコースの海外進出を考えていたことと(直接ではないかもしれないけれども)結びついているのではないかと思われるのである。あるいは全然関係ないのかもしれないけれど。(爆)
(1999年4月 書き下ろし)
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その33 オフコースの話(3)---「きこえたかしら」---

 「〜かしら?」という表現がある。例えば「あの人は誰かしら?」などのような半ば自分に問いかけるような、場合によっては心の呟きに近いような使われ方をする、あの「かしら?」のことだ。

 さて、オフコースに「ワインの匂い」という名曲がある。決して派手な曲ではないけれども、心に沁み渡るような余韻のある曲だ(と私は思う)。その歌詞の最後は次のようなフレーズで締め括られている:

 あの雨の日 傘の中で
 大きく僕がついた
 ためいきはあのひとに
 きこえたかしら
          (作詞:小田和正)

歌詞の中に歌われている状況からすると(それは、上の引用で明らかなように)「きこえたかしら」と言っているのは「僕」である。もちろん、この「僕」というのは、若い女の子が「ボク」と言ったりするような「僕」じゃなく、れっきとした(?)男のセリフであると考えられる。

 日本語には、いわゆる「男言葉」と「女言葉」というものがあり、髭を生やした威風堂々とした巨漢が「だって私には、そんなこと、できないわ...。」などと言うと、かなり奇怪である。うら若き女性が「メシ、もう食ったか?」などと言うと私はとても哀しい気分になる。「性差別」云々のこととは別のレベルでとても複雑な気持ちになってしまうのである。

 さて。そこで、この「きこえたかしら」の話である。この曲を知ったのは、もうかれこれ20年以上前のことだったと思うが、初めて聴いたときから私の中ではこの「きこえたかしら」が引っ掛かっていた。「〜かしら」というのは(少なくとも私の語感では)「女言葉」なのである。男性が使う、というのには違和感を覚えてしまうのである。

 ということで、二年ほど前、その頃よく出入り(?)していたオフコース関連のサイトに、この「きこえたかしら」に違和感は感じませんか、というようなことを投稿した。残念ながら明確な返事はなかったものの、自分の中である程度、その疑問は解けた。まだ完全には決着はついていないけれども。(笑)
 その時に改めて投稿したのが以下のような文面である:

---以下、引用---
 で、この前、ロジャー・パルバース氏の『文通英語術』を読み返していたら、「〜かしら」が地の文で2回使われているのに気づきました。「なぁんだ、外国人の書いたものじゃないか」とおっしゃるなかれ。彼の日本語に関する知識は並大抵ではないです。
 さらに、考えてみたら私の上司の(小田さんと同じ年頃の)男性も「さあ、それはどうかしら?」といった感じの言葉遣いをすることにふと気づきました。彼自身は宮崎出身、広島に来て30年近くという人物ですが、普段私と話をするときは標準的な言葉で、丁寧な話し方をされます。
 本人に確認したところ「あれっ? そうですかね? 使ってるかしら? 意識したことないですねー。」とのことでした(笑)ので、彼には「〜かしら」は別に男性が使っても違和感のないフレーズなのでしょう。私自身は自分が使うには抵抗がありますし、実際、使ったこともないですけど。
 もしかしたら一般的に、彼らの世代の人にとっては「〜かしら」は我々が思っているほど「女性的なニュアンス」が感じられないのかもしれません。
 50歳前後の上司が身の周りにいらっしゃる方、何かの折りに(どんな折りだー!)この件に関して尋ねてみてくれませんか?
 あ、あわてて付け加えておきますが、もちろん、リズムというか語呂というか拍数というか、そういったことがあの歌詞の中では多いに関係あると私も思ってます。
---以上、引用---

 ちなみに、「ちょっとちゃっくでちゃっと」シリーズを読まれた方は気づいたかもしれないが、チャック氏は時折この「〜かしら?」というフレーズを用いる。果たして実際の会話でも使っているのかどうかは確かめていないのだけれども、きっと彼にとっては違和感のない語法なのだと思う。
(1999年4月 書き下ろし)
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その34 オフコースの話(4)---「小田さんのギター」---
 かつてバンド活動をしていた頃、何かと私たちのバンドの面倒を見てくれた北田さんという先輩がいる。昨年の夏に私たちが酔狂にも二日間だけのバンド再結成合宿企画を立てたときにも北田さんは色々と動いて下さった。私の結婚式の時には快く司会を引き受けて下さった人でもある。私が非常に恩義を感じている人の一人である。
 さて、彼自身は、というと、実はドラマーである。威勢の良いお祭り太鼓を叩かせたら天下一品である。(笑) 決して大柄で筋肉がもりもりしているような体つきではないが、とてもエネルギッシュなドラムを叩く人である。その彼が、昨年の合宿の時、ギターを抱えている私にしみじみとした顔で言った。
 「いやぁ〜、ギターって、本当に繊細な楽器だよねぇ〜。この前、ステージでやったんだけど、あんなに神経を使うものだとは思わなかったよ。」
 
 言われてみれば、そういう気もする。私がギターに初めて触れてから、かれこれ25年くらい経つが、コードのストロークはともかく、余分な音を出さないようにミュートする、弾いた音が途切れないようにしっかりとフレットを押さえる、スムーズな運指を心がける、ピッキングに強弱をつけて表現に彩りを添えることなどなど、確かに気を遣う楽器である。

 そこで、本題。小田和正のギターテクニックはどうなのか?(笑)
 偉そうなことを言っているが、許して欲しい。あくまで私の個人的見解だが、先の話の中で触れたオフコース関係のサイトに次のような文面を書いたことがある。若干、手を加えつつ、ここに再掲する。もちろん、今も同じ印象を持っている:

---以下、引用その1---
6月7日に、****さんは書きました。
--省略--
>「きっと同じ」のギターは、最初小田さんが自分で弾こうとしたのを、
>結局納得がいかなくて、ヤスさんに弾いてもらったのは有名な話ですね。
--中略
>あそこまで行くと、何で差が生まれるのかよく分からないです。
>この辺(たとえば小田さんとヤスさんの音の違い)、解説できる方いらっしゃいましたら、
>お願いしたいのですが・・・。

正式にギター教室に通ったことがないので私も素人なのですけど、少し思ったことを書きます。

 中学、高校、大学の頃はほとんど毎日と言っていいほどギター弾いていました。でも、勤め出してからはだんだんその回数も減り、今では1カ月に数回触る程度。その度に腕が落ちてることに愕然として悲しい気持ちになります。
 でも、しばらく弾かなかったらそれは当たり前のことなので...。私の場合は技術的なこともありますが、それ以前に、「ギターをしばらく弾かないと左手の皮が柔らかくなる」ということが一番の原因です。ギターを弾いたことのある人はお分かりかと思いますが、指先の(フレットを押さえる)部分、また、人さし指の(セーハやバレーと呼ばれる押さえ方、例えばローポジションのFコードなどを押さえるのに使う)腹の部分(わかってください〜!)が(ギターを弾くことで堅くなっていたのが)柔らかくなってしまって鮮明な音が出せないということです。(自分で書いていてイライラしてきた...。ようするに「角質化した皮膚が元に戻る」ってことです、はい。)
 それに上記のFやらの時には「筋力」と「コツ」が必要ですし。一旦覚えた「コツ」は忘れないにしても、ちょっと長く弾くと左手に力が入りません...。
 同時に、右手の「爪の長さ」もピックを使わない場合、特に音色に大きく影響します。
 少なくとも「きっと同じ」の場合に、それまで長くキーボードを演奏してきた小田さんには弱く立ち上がりの悪い音しか鳴らせなくって(過去にうまく弾けていたのであればそれだけ)自分のギターの音色にがっかりしたのだろうと思います。
 中途半端なフォローですみません。
---以上、引用その1---


---以下、引用その2---
こんにちは。日曜出勤で涙のHASENOBUです。

 昨日この件については、特に「きっと同じ」のことに限定してフォローを書きましたが、今日はもう少し全般的に。

6月7日に、****さんは書きました。
>小田さんのギター(特にAG)も、
>標準からはかなり高いレベルにあると思うのですが・・

 ここで、小田さんがギターを弾いている曲を**さんは何か具体的に念頭に置かれているのでしょうか? 確かにかなり前の(2人の頃まで)はギターを持っている写真が見受けられますけれど...。

>あそこまで行くと、何で差が生まれるのかよく分からないです。
>この辺(たとえば小田さんとヤスさんの音の違い)、解説できる方いらっしゃいましたら、
>お願いしたいのですが・・・。

たとえば「秋ゆく街で/オフ・コース ライブ・イン・コンサート」の「竹田の子守唄」、「メドレー 悩み多き者よ 傘がない」、「でももう花はいらない」、「アンコール 僕の贈りもの」では間違いなく鈴木さんと2人でギターを弾いているようです。この時の音に関しては何気なく聴くとどっちがどっちとは言えないぐらいです(きっと左チャンネルの方が小田さんのギターでしょうけれど)。ま、その時のギターの音はある程度のレベルだと思います。でも「取り立ててうまい」という程ではないように思います。(その頃の普通のフォークシンガーと変わらない程度ってところでしょうか。)

 「たとえば小田さんとヤスさんの音の違い」っていうのも難しいことですが、これも「秋ゆく街で」のライブに限定して言うと、小田さんのストロークはハイポジションを多用してビートに合わせた堅い感じの音色、一方、鈴木さんの方は手首が柔らかく粒の揃ったストロークが特徴で、ソロ(リード、オブリガート)は、さすがギタリスト、っていう感じを受けます。

 とはいえ、20年以上も前のことを持ち出しても始まらないか...。

 CDが自宅と車と仕事場と3個所に分散しているので全て確認はしていませんが、3枚目以降のオフコースのアルバムで小田さんがギターを弾いているというのは見当たらないようです。(間違っていたらごめんなさい。)
 ただ、これまた10年近く前の話ですが、アルバム「BETWEEN THE WORD & THE HEART」の中ではどうやら「静かな夜」、「between the word & the heart −言葉と心−」、「moon river」ではアコースティックギターを小田さんが弾いているようですね。これらの曲でのギター、うまいと思います。とは言うものの、だからといってやはりびっくりするほどではないように思えます。(「一枚の写真」にもギターがありますけど、最初、一瞬「ええっ! これ小田さん!?」と驚いたら、何のことはない、Dann Huffでした...。あのギター、小田さんにはちょっと難しすぎる、と思います。)
 でも「between the word & the heart −言葉と心−」の(12弦)ギターなんて、いいですね!
 結局よく分からない中途半端なフォロー...。ううっ。(後ずさりしている...。)
---以上、引用その2---

と、まぁ、まとまりのない文面だけれど、ある程度は正しいことを言っているような気がする。
 ただ、それだけ。
(1999年4月 書き下ろし)
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その35 オフコースの話(5)---「ヴァージョン違い」---
 ある種の曲にはヴァージョンというものがある。代表的なのは「ライブヴァージョン」と「スタジオヴァージョン」である。これなどは、その録音環境が完全に違うのだから、そして往々にしてアレンジも変えられているのだから、場合によっては「これが同じ曲?」と思いたくなるほど異なっていることがある。また、同じ「スタジオテイク」であっても、その曲を何年も経ってリメイクする場合などもかなり異なってくる。
 一方、発表時期は極端には違っていないのにシングルカットされたもの、オリジナルアルバムに収録されたもの、そしてベストアルバムに入れられたものなどで、僅かながら聞こえ方に「違い」が感じられるものもある。オフコースの楽曲にもこのような微妙な「ヴァージョン違い」というものがある。(詳しくは、やすさんの「湘南音楽館」を参考にして頂きたい。私のリンクのページから行けます。)

 で、この「ヴァージョン違い」絡みで「秋の気配」について以前書いたものを再掲:

---以下、引用---
こんにちは、HASENOBU@マニアックです。

 つい先日、とある方が「オフコースはシングル盤とアルバム盤では曲に手を加えることがよくある」という趣旨のことを書かれていましたが、それに触発(?)されて...。

 これまでにも、この部屋で「心は気紛れ」や「YES-NO」、その他の曲について話題になりました。「愛を止めないで」もそうでしたが。
 で、その「愛を止めないで」については私もオリジナルアルバム盤とセレクション盤の違いなどについて書いたりもしましたが、その時に「EP盤もあるんだけど今はレコードが聴けないので不明」と書きました。
 その後、ふと思い出したのが、前に「オフコースA面コレクション」というCDを借りて録音していたテープのこと。1,2回聴いたっきりでほとんど眠っていたのですけど、早速、引っ張り出して聴いてみました。

 実際、この「オフコースA面コレクション」っていうのが本当にシングル盤を音源にしているのかどうかは確証がありません(どなたか御存知の方、教えて下さい!)が、「愛を止めないで」に関するかぎり、恐らくセレクション版と同じようです。

 が、何と! 「秋の気配」が少し違う!!

 この曲は私にとっての初めてのオフコースナンバーで、今まで「Junction」も「SELECTION 1973-78」も、そしてシングル盤も、きっと同じなんだと思っていました。ところが、「オフコースA面コレクション」に入っているのは、少し違うんです。具体的に言うと以下の点です。

「オフコースA面コレクション」(=シングル盤?)
1. 左のチャンネルからはガットギター、右のチャンネルからはアコースティックギターが聞こえてくるというのは同じだが、そのステレオ感が弱い。
2. ボーカル、コーラス共にリバーブ(エコー?)が曲全体を通して強い。
3. トライアングルが左チャンネルの方にある。
4. 小田さんのボーカルが、熱情的、というか、力を込めた歌い方である。(特にサビのところ)
5. エンディングのフェイドアウトしていくところで、右チャンネルからアコースティックギター(もしかするとエレキギター?)の低音弦をミュートしてきざむ音が4小節ごとにかなりはっきりと聞こえる。

 ちなみに「SELECTION 1973-78」では上の1.については「かなりはっきりとセパレートしている」、2.については「ボーカルの残響音はあまりない」、3.については「ほとんど右から聞こえる」、4.は「力を抜いた、おだやかな歌い方」、5.については「そのような音はほとんど聞こえない」ということになります。
 それから、両者を聴き較べてみるとドラムス、ベース、ストリングスも微妙に異なっています。(ミキシングに拠るものが大、でしょうが、別テイクのように思われます。)
 で、「Junction」に入っているのはどうか、というと、基本的にセレクション版と同じです。が、トライアングルが全体を通して中央に位置しているようで、この点、異なっています。あとは...、わかりません。
 ということで、「秋の気配」にも細かく言えば3つのヴァージョン、大雑把に言えば2つのヴァージョンがある、ということです。
 思い入れの強い曲なんでついつい熱っぽく書いてしまいました...。でも、こんなこと、既にみなさん御存じだったりして...。
 では。
---以上、引用---

 このような話、つまり極端に言うとトライアングルの音が左から聞こえようが、真ん中あたりから聞こえようが、ほとんどの人にとっては、(そしてオフコースのファンでないならば、まず間違いなく)「くまき」である。(笑) うん、まさにこの部屋にぴったりの話題だ!(爆)
(1999年4月 書き下ろし)
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その36 オフコースの話(6)---「アーティスト」---
 このところ新しいネタを提供していませんが(ま、それ以前に、それを求めている人がいるのかどうかもわからないけれど(爆))、このオフコースの話シリーズは自分自身の記録、という意味合いを込めたものです。(笑)

 さて、以前、「アーティスト」という言葉について書いて、それはすでにどこかにアップしてるのだけれども、そもそもその発端(?)となった文面が捜索の結果、判明した。問題の文面は以下のようなものである。

---以下、引用---
Date: 1997/06/07 16:41:41
こんにちは。静かな昼下がりに元気なHASENOBUです。

これから書くことは、もしかしたらある人達にとっては真っ向から対立するような事柄かもしれません。特に**さんに対してのフォローになっているので、**さんは気分を害されるのではないかと、書く前から懸念しております。でも、**さん、これは決して**さん個人へケンカを売っているわけでもなく、また御主張に真っ向から反論しているつもりではないので、その点、是非、御了承下さい。それでも、もし誤解されたとしたら、それは(いつものことなんだけど)私の書き方が悪い、言葉が足りないからだと思いますので、(開き直るつもりはないですけど)残念だけど、「見解の相違ですから。」としか言い様がありません。

6月6日に、**さんは書きました。
>--ちょっと略--
>このころ,自分自身の仕事に加えて,他のアーティストへの参加が活発だった頃だったよ
>うです。(加山雄三のcho.担当とか,CMソングなども多いですからね)こんな仕事
>もやってたんですね。

ごめんなさい。本当に自分でも言葉じりを捉えているとは思うのですが、前々から気になっていたことなので書かせて下さい。

 加山雄三ってアーティストなんでしょうか?(これまた加山雄三の熱烈なファンからカミソリが送られてきそうな書き方だと自分でも思う...。) 私には、彼は、そうですね、エンターテイナー以外の何者でもないように思えるのですが。

 特に、**さん、決してケンカを売ってるんじゃないです。ただ、「アーティスト」という言葉が、特に最近、ものすごく軽い意味で使われているような気がしてならないのです。

 ちょっと売れただけの歌手が、何を思ったか、自分で自分のことを「アーティスト」と称したりするのは、(私だけかもしれないけど)ちゃんちゃらおかしくてたまらないのです。現在の日本に正真正銘の「アーティスト」って本当に限られているんじゃないのか、っていう風に思うんです。もちろんバカにするつもりはないにしても、そんなことを自称する人達の多くは厳密に言えば「歌手」であったり「ミュージシャン」、そして時には「TVタレント」でしかないように思うのです。

 もちろん、ある人にとってある特定の歌手の歌が心を揺さぶるものであって、絶えず感動を与えてくれるもので、場合によっては聴く者の生き方にまで影響しているのであれば、その歌手はその人にとって「アーティスト」なのかもしれません。そういう意味では個々の人にとって「アーティスト」は異なっているにしても、それでも、私には、本当の「アーティスト」って誰でもなれるものではないのじゃないのかな、って思うのです。

 ある(世代の)人々にとっては The Beatles は、「ただのうるさい音を鳴らすイカれた野郎ども」かもしれない。そして同時に(私を含めた)ある人達にとっては、ほとんど神格化された「稀有のアーティスト」であるかもしれない。

 そういう意味で「アーティスト」を考えている私にとっては、現在の、「アーティスト」の大安売り状態は、ちょっと堪えられないものがあるんです。

 繰り返しますけど、**さん、決して**さん個人のことをとやかく言っているわけじゃないんです。ただ単に「アーティスト」っていう言葉に私が過剰に反応しているだけで、ましてやそれを押し付けたいわけではありませんので...。

 では。いつもながらの乱文、お許し下さい。

 あ、それともう一つ、オフコースは、私の一番好きな「アーティスト」です。(ふー、どうにかオフコースに持ってこれた。)
---以上、引用---

ふむ...。「ふっ...、若いな、HASENOBUよ」というのが現在、これを読み返しての私の感想だ。(笑) と同時に、その思いは今も何一つ変わっていないのだが、表現形式がかなりストレートな気がする。僅か2年前の文なのだからそれほど変化があるわけじゃないけれども、今ならこうは書かないだろうと思う...、多分だけど。
 今回はもう名前を出さないけれど、**さん、この件では大変失礼しました。そして同時に**さんの寛恕を賜りましたことを改めて感謝します...。

 そう言えば、とある人からその頃、私信で「あなたはあの部屋の将軍のおつもり?」と言われたこともある。(爆) そんなことは夢にも思ったことがなかったのだけれど、そう思う人がきっとたくさんいたのだろうなぁ...。(遠い目で...。) もうあの部屋(私がかつて頻繁に投稿していたオフコース関係のとあるサイト)に書くことは滅多にないだろうけれど...。
 と、今、思いだしたのだけれど、新聞に折り込みの広告を時折入れてくる美容室がある。カット後の写真の横に「ワイルドなウェーブでイメージチェンジ」やら「セミロングでシャープにきめる。」などの解説(?)を添えて。ちなみに、そこの美容院には5名の「artist」がいるそうだ...。
 ん...? 表現形式、ただ嫌みっぽくなっただけか?(爆)
(1999年4月 書き下ろし)
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その37 山崎まさよし


 以前、この「音楽の話」のNo.24で「山崎まさよし」のことは触れた。
 今日(5月1日)の夕方、私の部屋の机の横の物品棚に無造作に重ねてある50枚ほどのCDを何気なく見ていると山崎まさよしの「ドミノ」が目に止まった。「あ〜、そう言えば、こういうCD、買ってたなぁ...。」と思い、久し振りに聴いてみた。一通り聴いてみてやはり、感想は前と変わらない。一曲目だけが印象に残り、他の曲は私には何ら訴えるところがない。
 が、だからと言って聞いていてつらい、というほどではない。往々にして最近の音楽は、何となく聞いていて落ち着かないものが多いのだけれど、このCDは、そんなに違和感が感じられない。「何でだろう...? 取り立てて歌がうまい、って訳でもないのに...?」と思いながら繰り返し聞いてみた。
 答えは簡単だった。音が自然なのだ。
 アコースティックギターが前面に使われている、というのもあるが、幾つかの曲には本当のストリングスが使われているのだ。一曲目の(結構気に入っている)「僕はここにいる」も心地よいと思ったらやはりストリングスが本物だ。

 基本的にシンセサイザーの音は私は好きじゃないのだが、それだけじゃなく、ちゃんと本物のパーカッションの音も入っている。独り、納得をした次第だ。(笑)
 
 で、一曲目だけをリピートして聴いた。(笑) なんで、魅かれるんだろう?

 これも繰り返して聴いて分かった。歌詞が、とてもストレートなのだ。はっきり言うと「こっぱずかしいような」歌詞ではあるが。(爆)

 「ため息だけが 静寂(しじま)に消えていった 帰り道」

という歌いだしも。何か、いい。(笑)

 「はかない うたかたの恋ならば せめて今 君の声だけでも」

という終り方も、尻切れトンボだが(だからこそ)何か、いい。(笑) 後半の畳み掛けるような歌詞やメロディーもなかなかだ。(何だ、偉そうに...。)
 ってことで、また機会があったら彼の別のCDを買おうかと思っている。

 あ、そう言えば。(笑) 前述の「ドミノ」を買ってきたときのことだ。ま、それを買ったのは父の勧めだったというのは前にも書いたことだが、自宅(その時は九州の実家に帰省中だったのだ)に戻ってそのCDを取り出すと母が「あぁ、山崎まさよしを買ってきたの?」と言う。(母も知っていたとは...!)
 すると、妻が「『セロリ』も山崎まさよしが作ったんですよ。」と言う。
 何だ...? セロリって...? あの野菜のセロリ...?
 独り訳が分からずにいる私に母が言う。
 「何ね? あんたは『セロリ』も知らんとね? ほら、SMAPが歌いよったでしょうが...?」

 そんなこと言われても知らないものは知らない。そもそもSMAPが歌っているのを「あぁ、SMAPの歌だ...。」と自覚(?)しつつ聞いたことなど一度もない。もっと言うならSMAPのメンバー(何人いるのか知らないが)が総入れ換えしたって恐らく気づかない。(あ、言い過ぎだ。木村拓哉だけは知ってる。「キムタク」という言葉を聞いたときには「ん...? 『木村タクシー』の略か...?」と思ったが。)

 ん? 話がそれた。ま、いいでしょう。
(1999年5月 書き下ろし)
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その38 オフコースの話(7)---「ワインの匂い」---

 普通、「ワインの〜」と来れば、その後に続く語はある程度の連想により、相場(?)が決まっている。「ワインのボトル」や「ワインの色合い」、「ワインの香り」、「ワインの風味」などなど、個人によって違いはあるだろうが「ワインの運動」「ワインの沙汰」や「ワインのせめぎ合い」などのようなフレーズは(それを思いつく理由もないのだが)思いつかない。
 と、具体的な話から始めたが、一言で言ってしまえばコロケーションの問題だ。ある語がどのような他の語と(慣用的に)ともに用いられやすいか、ということだ。

 詩人はこのコロケーションを念頭に置いたうえで「(文学的な)逸脱」を行う。「意外さ」と「意味不明」の境界線をぎりぎりのところまで突き進んでゆくのだ。(って、言い切ってますが...。) あ、止めておこう、確信のないことを書くのは。(笑)

 さて、「ワインの匂い」だ。これはオフコースの1975年に発売されたアルバム名であり、同タイトルの佳曲もそのアルバムには収められている。
 冒頭に記したように、普通、「ワインの〜」と来れば、その後には「匂い」は来ないだろう。来るとすれば「香り」である。「えっ? 『ワインの匂い』...? 『香り』じゃなくって?」というのが予想される反応だ。(実際、私も最初は違和感を覚えたような気がする...。(笑))
 意表を突かれた、という程ではないにしても、「匂い」という言葉の陳腐さ(?)とワインとを結びつけたところに、表現としての面白さがあるような気がするのだが...。「どこが?」なんて言わないで欲しい。(笑)

 あ、それから、これはいつだったかオフコースのメーリングリストにどなたかが書かれていたのだけれども、
「風の坂道」(小田和正がソロになっての曲)なんて言葉、それぞれの言葉は普通の言葉だけれどそれを繋ごうという着想はなかなかできないですよね、ということが述べられていた。なるほど、確かに...。

 小田和正氏が「言葉の魔術師」であるとは決して、思わない。「詞」(あるいは「詩」)でいうならば、もっともっと才能に溢れた人はいることだろうと思う。だけど、その言葉に合ったメロディーを作ること(あるいは逆にメロディーに合った言葉探し)、曲のアレンジというところまで考慮すると、やはり彼はアーティストの称号にふさわしい才能を備えた人なのだと私は思わないではいられないのだ。(ちなみに彼の作った映画については良く分からないのでノーコメントです、はい。)
(1999年5月 書き下ろし)
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その39 チェッカーズ

 実は、これはほとんど誰も知らないことだが、私はチェッカーズが結構、好きだ。(爆)
 Fさん(私の妻)はもちろん、昔のバンド仲間も知らないことだと思う。(だろ、リードヴォーカル君よ?) もしかして私の友人で一人だけこのことにうすうす気づいている者がいるかもしれないが。(笑) 最近、その友人とは会っていないので確認はしてないけれど。
 で、今日(5月6日)、彼らの3枚組のベストアルバムを買った。これまでは断片的にカセットテープに録音してこっそりと聴いていたのだが。(爆)

 ただし、「チェッカーズが好き」とは言うものの、別にファンじゃない。実際、知っている曲名は10曲に満たないし、今日のCDを買うまで彼らが(どうやら)7名のメンバーからなるグループであることを知らなかったぐらいだ。(笑)
 ただ、ヴォーカルの藤井郁弥の声がとても好きだった、のだ。
 知らないうちに(笑)チェッカーズは解散したようだが、その後、「藤井郁弥」の名前は時折耳にすることがあるんで、きっと彼はソロ歌手となっているのだろう。どんな曲を歌っているのか、全然知らないけど。

 彼らの曲に「時の K-City」という曲があるのだが、なぜかは分からないけれど、これが、ものすごく印象に残っているのだ。多分、ヒットした曲じゃないのだと思うけれど、FMかなんかで流れていたのを聞いて、「あ、これ、いい...。」と妙に感動した記憶がある。もちろん、この曲は今日買ったベストアルバムにも入っていて、改めて聞いてみると、ミキシングに難点あり、という感じがしたものの、やはり、ストリングスのメロディーがとてもきれいな、ポップスにしては珍しいワルツ系の名曲だと思った。

 何でだろ...? 別に特定の印象的な光景や出来事と結びついているわけじゃないけれども、今、聴いても妙に心にしみる...。ほんと、自分でも不思議だ...。

 あまり関係ないけれど、藤井郁弥の英語はきれいな発音をしていて、稲垣潤一とは比べ物にならない。(笑) 全編英語の曲は聞いたことはないけれど、歌詞の中に時折(どういう理由からか)ちりばめられる英語を聞く限り、かなりうまい、と思う。もっと言うならば、山下達郎などよりもうまい。(山下達郎の英語は、う〜ん、そうだなぁ...、日本人の英語という感じはしないけれども、どこかの他のアジアの国の人の英語を、何となく思い起こさせる...。ま、私の勝手な印象だが。)
(1999年5月 書き下ろし)
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その40 山崎まさよし(2)


 この「音楽の話」の中でNo.24と37に引き続き、山崎まさよしについて触れるのはこれで3回目...。(笑)

 No.24では次のように書いている:
---以下、引用---
聴いていると往年の(笑)因幡晃を彷彿とさせないでもないが。(笑) というか、どこかで流れていた「僕はここにいる」(あるいは別の曲かもしれない)を聞いたときには、「おお、因幡晃、まだ頑張っているんだ...。」と勘違いしたほどである。ちょっとねちっこい歌い方、そして鼻にかかる(?)ような声など、とても良く似ている。
---以上、引用---

 ということで、「どこかで流れていた」その曲のことが実は、少し気になっていた...。アルバム「ドミノ」の発売は昨年末であるが、私が以前にふと聞いたのはもっと前のような気がしていたのだ。つまり、その「どこかで流れていた曲」は「僕はここにいる」ではなく、別の曲ではないか、ということだ。
 もっとはっきり言うと、私の印象の中の、その曲は、畳み掛けるような歌詞の中に「こんなところにいるはずもない」というフレーズがあって、それだけはなぜか心に強く残っていて、「僕はここにいる」を真剣に聴いてみると、やはり、どうやら別の曲だと確信するに至った。

 そこで、今日、大きな書店に行ったついでに楽譜のコーナーに立ち寄って、山崎まさよしのスコアを立ち読みしたところ、私の印象に残っていた曲は、「One more time, One more chance」であるということが判明(笑)し、そのCDシングルを買い求めた。うん、間違いない、この曲だ。

 さっきからこの曲「One more time, One more chance」をリピートして聴いている。これは完全に因幡晃だ。(言い切ってますが...。) 上に引用したことに加え、聴いていると暗鬱な気分になるところも、まさに因幡晃の世界だ。(ちなみに今日行ったCD屋さんには因幡晃のCD選書の復刻アルバムが置いてあったのでついでに2枚買った。これで因幡晃のアルバムも5枚、手元に集まった...。あと何枚あるのかは知らないが。(笑))

 しかし、「One more time, One more chance」...。この歌、別れた恋人のことを歌っているのは間違いないだろうが、「ふいに消えた鼓動」って? まさか死別...?
 いや、でも「いつでも捜しているよ どっかに君の姿を」や「こんなとこに来るはずもないのに」というフレーズからすると、ただ別れただけかもしれない...。
 でも、「奇跡がもし起こるなら」やら「命が繰り返すならば 何度も君のもとへ」というのは...?

 よく分からない...。が、あまり気分を高揚させてくれる曲ではないということと、「僕はここにいる」と同様、半音ずつ下がってゆくコード進行がとても印象に残る曲だということは確かだ...。あ、それから、感情移入しすぎると飲んでいる酒の量が増えて、やけ酒みたいになってくるということも...。(笑)
(1999年5月 書き下ろし)
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