つまんない話 PART 4


目次
つまんない話031 ムシャクシャする話
つまんない話032 バイバイ、SERA
つまんない話033 報告書01
つまんない話034 報告書02
つまんない話035 報告書03
つまんない話036 報告書04
つまんない話037 報告書05
つまんない話038 報告書06
つまんない話039 報告書07
つまんない話040 教育実習

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つまんない話031 ムシャクシャする話

 私は今、ムシャクシャしている。(いきなり、爆)
 別に、自室に入ったときに温度が4度だったから、とか、今日で38歳になったから、とかいうのではない。
 今日、即ち1月14日は木曜日だ。我が家では月、火、水、木の夕飯は遅い。娘が学習塾やら音楽教室に通っているからだ。今日も、夕飯は午後9時くらいに食べ始めた。
 で、以前、他の人のホームページ(ま、はっきり書くと、雪見さんのところですが...)に書いたことがあることと関わっているのだが、今日は関口宏と三宅裕司とが司会をしている料理のテレビの番組を見ながらの食事であった。(私はこんなつまらない番組は見たくないのだが、妻と子供は楽しみにしているのだ...。)
 今日の「対決」は「カニすき」と「焼肉」だった。
 この番組のつまらなさ、特に発想そのもののつまらなさについては上に記したところで書いたので興味のある方はそちらを読んで下さい、無理強いはしませんが。(笑) 雪見さんのホームページにはリンクの所から行けますので。

 だが、今日は見ていて本当に腹が立った!
 ま、これは他の番組に関しても言えることだが、訳の分からないゲストが意味なく多数出ている。真剣に見ていないが6人はいたのではないか? その中で名前の分かる「芸能人」は「ガッツ石松」だけだった。他には顔だけは見たことはあるような気がするのが2名。そして後のは見たことすらないしもちろん名前すら知らない人物だ。(妻の説明によると「SMAP」のメンバーだとか、歌手やら女子プロレスラーらしき人。お笑いの芸人などだったらしい。) だから、そういう「ゲスト」は私にとっては、その辺を歩いているお兄ちゃん、お姉ちゃんでしかない。要するになぜそこにいるのか、必然的な存在理由のない人が紛れ込んでいるのだ、早い話が。
 しかも、そういう訳の分からないゲストは料理や食材のことに関して、何か知ったようなことを好き勝手に口にしているのだ。
 「耳の不自由な人」のためでもないのだろうが、なぜか、時折、テロップ(と言うのか?)のように、ゲストの発言などが画面に出る。もしかしたらそれは「気の利いたセリフ」や「面白いギャグ」であるのかもしれないが、ちっとも笑えない。むしろ目障りで鬱陶しいだけだ。
 そして、そういう輩(司会を含めて)に限って、何かを試食したときに「表現できないほど〜」などとのたまう。おいおい...。そんなに簡単に言うな。
 「表現にできない」だとか、「何とも言えないほど〜」などというのは、本当に切羽詰まって言葉が出て来ないことなんだぞ。あっさり言うべき言葉じゃない。そんなことを連発するのは自分が無能だということなんだぞ。言えないのなら番組の出演を辞退して欲しい。邪魔だ。
 司会者にしても、料理の味見をしたときにも「あ〜、うまい!」程度のことしか言えないようだ。しかも、どういう理由からか、「ゲスト」を自分の陣営に引き込むために、その味見の直後に自分の推す料理のことを何秒間かの制限時間内で説明するという場面がある。おい! 食べ物を口に入れたままものを言うな! それはとてつもなくはしたないことだと小さいときにしつけて貰えなかったのか?
 この番組の食材の紹介の「浅はかさ」についても既に書いているのでそちらを参照して欲しい。今日だって「焼肉」を取り扱っているのに、「牛肉」そのものについての詳しい説明はなかったようだ。
 どうせ紹介するのなら、牛を屠殺する場面、それを解体する場面、そういったものを紹介して欲しいものだ。(妻は「そんな残虐なシーンを放映するわけにはいかないでしょう?」と言うけれど。) 人間が動物の肉を食べるということが、どういうことなのか、きちんと紹介してもらいたい、いやしくもそれをテーマとするのであれば。(できればで薬漬けで「促成栽培」のような鶏の飼育なども折りを見て紹介してもらいたい。しないだろうけど。)

 こういう「娯楽」番組がいかに多いことか...。(良く知らないけど。) あ〜、やっぱり腹が立つ!(爆)
(1999年1月書き下ろし)
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つまんない話032 バイバイ、SERA

 妻はその時焦っていたと言う。娘を病院に連れて行ったのは良いが、もうすぐ塾の始まる時間だ。急がなきゃ。
 妻は、駐車場に置いていた愛車SERAに子供を乗り込ませ、そして方向転換しようとしていたそうだ。バックして切り返しをしようとしていた時だった。ブレーキを踏むはずだった右足は精一杯アクセルを踏んでいた。(文字通り、爆)
 後ろに人がいなくて幸いだった。そこにあったのは電柱だけだった。だからSERAは左後ろのバンパー辺りをぐしゃっとしただけで他に異常はなかったし、子供も妻もむち打ち症になる、というほどのことでもなかった。
 もちろん、「事故を起こした...。」という連絡を受けた HASENOBU は一瞬血の気が引いたが、内容を聞いて安心したが。
 運転に支障はなく、どうにか帰ってきたSERAの後ろ姿は無残であった...。

 かつてはその特異なガルウイングのドアの採用で一世を風靡した車、TOYOTA SERA。流面系の造形がどこから見ても美しく、「形の美しい車」ということで小学校の図工の教科書に写真が載せられているのも頷ける話である。
 妻は大層、この車を気に入っていた。洗車するのはいつも私であったが。(笑) 購入したのは5年ほど前で、家を買うことに決めた際に、HASENOBU夫婦が共に通勤するために必要だったのだ。当時、HASENOBU家には TOYOTA CAMRY 2000 ZX があり、買い足すとすれば小型の車がいいだろう、ということで色々と中古車ショップを回って見つけた希有な車がSERAだったのだ。エンジンは1500cc、スターレットなどと同じものであったが、内装は、スペシャルティーカーのはしくれ、なかなか良かったし、何と言ってもグラストップの解放感、適度な車体と取り回しの良さが妻の心をつかんだらしい。
 この車の整備をいつもお願いしていたトヨタの販売店に翌日持っていったところ、修理には30万円前後必要だということだった...。とても気に入っている車であったし、修理することも考えたのだが、1990年式ということを考えるとあとどれくらい乗れるか心配だ。
 悩んだ揚げ句、SERAは廃車にすることになった...。
 買い替える車も決まり、その納車がなされる前の日、私は最後の洗車をした。シルバーメタリックのマイカ塗装のボディはまだまだ輝きを失っていなかった...。私は滅多に運転することがなかったが、狭い室内の適度な圧迫感、少しばかり窮屈なドライビングポジションなど、それなりに好きだった。
 って、ことで、バイバイ、SERA...。
 あ、在りし日のSERAの姿を見たい人はここをクリック。
(1999年1月書き下ろし)
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つまんない話033 報告書01

 よくぞ無事に異次元空間から生還したものだ...。これは私の現在の偽らざる心境である。(というのは大袈裟で、本当はそんなことは全然思っていない。)
 が、この二日間というのはなかなかインパクトの強いものであったのは間違いのないことだ。って、何のことか分からない人は、まず「つまんない話 Part 3」にある「029 第29回合同研修会」って駄文を読んで下さいね。そこで報告すると宣言したことなのです、はい。
 日記をつけたりメモを取ったりしていたわけではないのでこれからの話は通時的ではなく、思いだすまま、そして徒然なるままに書いてゆくことにする。

 21:30, 23:00頃,00:35,02:00頃,03:40頃,05:20
 さて、これは何の時間でしょう?(爆)
 あまりにも唐突だろうけれども、大体予想がつくだろう。最初の時間が私がこの1泊2日の研修旅行で床に就いた時間、最後が起床時間。そして途中の時間は私が目を覚ました時間である。(笑)
 私は通常12時過ぎ、遅いときでも午前2時頃には寝ることにしている。ところが、なぜに昨夜は21:30に床に就いたのか?(笑) って、答えは簡単。同室の他のみなさんががとっくに寝たからである。

 話が前後するが、今回の私の部屋には私を含め、5人が割り当てられていた。午後の研修(講演会)が終り、部屋に移動した時に、同室の人達の一番私の年齢に近い人が大正13年の生まれ、一番離れているのが大正6年。後のお二人は大正9年だということを私は知った。
 午後6時に始まった懇親会(夕食兼宴会)は予定より15分遅れて、午後8時15分に終了した。部屋に引き上げた5人のうち、大正13年さんは「若い人は元気がええのう。」の言葉に送られて二次会へと出かけて行き、そして私を除く残り3人はその後10分もしないうちに寝たのだった...。
 一人取り残された私は障子を挟んで奥にある小さなテーブルとひじ掛け椅子のあるスペースで持参してきていた文庫本を読み始めたが、さきほどの宴会でしこたま飲み食いしたもので少し気分が悪くなった。(笑) そこで夜風にあたりにホテルを出て琴平の人通りの無い道を浴衣姿で歩き、道すがらアイスクリームをローソンで買い求めて宿に戻った。が、3人がすっかり寝入っているのにいつまでも明りをつけて読書をするのははばかられる。で、「老人に入りては老人に従え」ということで21:30に床に就いたのであった...。
 その後、23:00頃に目覚めた、というのは「元気な若い人」が部屋に戻ってこられた物音で目が覚めたときである。そして、00:35というのは大正6年さんに呼ばれて起こされてのことである。というのも、翌朝「6時30分に金比羅宮参拝を希望する人はロビーに集合」ということがあり、その大正6年さんと私は一緒に行く約束をしていたのであった。ところが、どうやら腕時計の長針と短針を読み違えてしまったらしい彼は「こりゃいかん。もう7時になる!」ということで私を呼び起こしたのであった...。
 お陰で、人間の睡眠時間は90分単位、という睡眠時間のリズムのツボを押されてしまった私は無為に02:00頃と03:40頃に目覚めてしまい、悶々と寝返りを打つばかりであった...。
(1999年1月書き下ろし)
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つまんない話034 報告書02

 広島駅新幹線口待合室前8時40分集合...。かろうじて指定の時間に間に合った HASENOBU であったが、果して着いてみるとそれらしき(どれらしき?)団体の姿は見当たらない...。(笑)
 が、「広島市公衆衛生推進協議会」ののぼりが立てられて、その横には「なんとか観光」(って、本当に「なんとか観光」じゃないのだけれど)の旗を持った人がいた。尋ねてみると集合場所に到着次第、バスへと乗り込んでいるとのことであった。で、早速私は指定された2号車へと向かった。

 このような観光バスでの旅、というのは久しぶりのような気がする。もちろん、職場での「新入生歓迎オリエンテーションセミナー」などで観光バスに乗ることはあるが、あれは引率という一種の仕事であるから、今回のようなものとは気分的にも異なる。今回のは、研修会という名目とは言え、事実上、慰安旅行である。(爆) 前にも書いたように、恐らくは70歳以上の方ばかりであろう集団の中に私はうまく溶け込めるのか、という不安はあったものの、やはり「慰安旅行」ということで心は浮き浮き気分であった。(笑)

 が、バスに乗り込んだ瞬間、心の中で「うっ...。」と思ってしまった...。すでに座席は満席に近い状態であり、そこに居並ぶ老人たちのほとんどはネクタイを締め、三つ揃えで決めている人も少なからずいるようだ。翻って私は、というと、ワークシャツにプルオーバーのセーター、そしてコーデュロイのパンツというラフな格好である。私の登場の直後、それまでざわついていた車内は一瞬静まり、そしてヒソヒソ声が聞こえてきた。
 「なんだ、あの若造は...?」、「きっと職場の慰安旅行に行くのだろうがバスを乗り間違えたのじゃないか?」、「しかし、今、区の会長さんに挨拶したぞ。」、「とすれば、この研修会の参加者か...?」、「だとすると、一体、何だ、あの格好は?」、「まったくもって近ごろの若造はなっとらん!」、「そうじゃ。ケシカラン!」という声が耳に入った。
 というのは大ウソですが。(笑)
 が、いずれにせよ、彼らの中に少しの戸惑いが感じ取られた。共有していた彼らの独自の世界(どんな世界だ、それは...?)を、不遜極まる一人の異端者によって打ち破られた、という戸惑いだ。
 あはは...。これも大袈裟です。(笑) ま、中には、「おや?」と思った人もいるだろうけれど、彼らのほとんどはそれほど私のことを気に留めてはいなかったと思う。一方的な戸惑いを感じたのは私だけである。(笑)
(1999年1月書き下ろし)
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つまんない話035 報告書03

 今回の旅行で、一番楽しかったのは、帰りのバスの中で見たビデオ、「釣りバカ日誌9」(副題は忘れた...)であった...。(笑) ただ、これもガイドさんがスタートさせるのが遅かったので半分くらいしか観られなかったのが残念だが。(かといってレンタルビデオ屋さんから借りて続きを見ようという気はさらさらない。)
 もちろん、「介護保険制度」についての講演は有益なものであったし、金比羅宮の参拝や栗林公園や屋島の訪問もそれなりに想い出深いものであったが。

 ま、それはさておき、問題なのはバスガイドさんだ。(爆)
 これまでに国内、海外旅行を含め、多くのバスガイドさん達の仕事に接してきたのであるが、今回の、私の乗った2号車のバスガイドさんは、私の判断からすればワースト3にきっと入ることだと思う。(笑)
 まず、喋る喋る...。もちろん「立板に水」というような意味ではない。
 観光案内が本業だろうにそれは1割にも満たず、それ以外はただの世間話を延々と続けるのである...。讃岐平野を走りながらどうして「広島市長選挙」の話を聞かなきゃならんのだ!?
 旅行の前夜、しておかねばならない仕事を夜遅くまでかかってやり、いささか睡眠不足気味であった私は、せめて瀬戸大橋まではバスの中でゆっくりと仮眠していたかった。ところがこの有り様である。(笑)
 しかも、この頃のバスはカラオケかビデオ上映のためか、やたらとスピーカーが多い。数えたところ、少なくとも10個はあった。どこに座っても音がよく聞こえるように、ということなのだろうが...。
 さらに、耳が少し遠くなっている人達のためであろうが、かなり音量が大きい。なのに「お姉ちゃん、もっと大きゅうしんさいや!」と叫ぶ方もいて、ガイドさんの声はますますガンガンと鳴り響く...。延々と...。眠れるわけなどない...。
 二日間を通してバスガイドさんが話した内容で有益だったのは「桃の生産量は岡山を抜いて、山梨が現在の日本一であること」と「岡山のマスカットは山の上では栽培されず、平地のハウス栽培がほとんどだということ」だけであった。あとのはどうでもいいような話ばかりであった。「阪神の監督が野村監督になった」ということは私には初耳であったが何の価値もない情報である。
 屋島の観光の前にも源平合戦の話をちゃんとしてくれればいいのに、「源氏を海から来ると待ち受けていた平家は、裏をかかれて攻められて『やぁ〜、しまった!』と言った。」などということは言わなくっても結構だ。ま、それで一同、爆笑なのだから気を良くするのも分かるけれど。
 屋島の若いガイドさんも...。屋島にも「ダンノウラ」という地名があり、それは「檀ノ浦」であり、平家が最後に破れる山口の「壇ノ浦」と字は違うという。「ほぉ〜...。」と聞き入っていたが、観光案内図を良く見てくれという。するとそこには「壇ノ浦」と...。「で、私達はこれを『だんちがい』と呼んでいます。」って...。思わずうつむいてしまった...。

 あ、今、思いついたのだけど...。今日(1月30日)は私の親友、甲斐圭介氏(またの名をリードヴォーカル)の38歳の誕生日ではないか! よし、決めた。今回の報告書シリーズは彼への誕生日の贈り物にしよう! うん、決まった。(笑) あと幾つか書くから嫌な顔をせずに受け取ってくれよ、甲斐。
(1999年1月書き下ろし)
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つまんない話036 報告書04

 今回の宿泊地は香川県琴平の「琴参閣」というなかなか立派なホテルであった。瀬戸大橋の開通の時にオープンし、またつい3年ほど前に増改築をしたという非常にきれいなホテルだった。地下1800メートルまで掘って湧き出たという温泉も、その豪華な浴室と相まって高く評価できるものである。
 さて、初日の午後の研修も終わり、そしてゆったりとお風呂で寛ぎ、夕方6時から大広間で懇親会である。もちろん、この懇親会とは夕食であり、宴の場でもある。(笑)
 広島市公衆衛生推進協議会会長の挨拶、そして事務局長の乾杯の発声の後、にぎにぎしく宴会は始まった。 あちこちから聞こえる談笑、どっと上がる歓声。HASENOBU は料理を食べながら、隣に座った同室の大正6年さんと時折言葉と酌を交わしたりして、しみじみと「あぁ...。いいなぁ。こういう平和的な光景...。来てよかった...。」と思ったりしていたのであった...。
 が、その時、突然、司会の声が大広間に響いた。
 「さぁ、みなさん。お待ちかねの歌謡ショウのお時間です!」(「歌謡ショー」ではなく「歌謡ショウ」と表記したい。自分でもなぜかは分からないけど。)
 「今夜のゲストは演歌の期待の星、長浜ゆみさんです〜!」

 ...。おいおい...。待ってなんかいないよぉ〜、私は...。何にも期待なんかしてないよぉ〜...。(笑)

 そして、ステージには色も鮮やかな和服に身を包んだ肉付きの良い中年女性がマイクを片手に...。続いてカラオケの音楽が鳴り響く...。一曲目は...、忘れた。(笑) 確か、誰か他の演歌歌手の持ち歌だということだったのは歌い終わった後の MC (と言うのかな...?)で言っていたのは憶えているが。二曲目は、彼女のために「イチカワショウスケ先生」が作ってくれた曲、「女のまごころ」...。そして、三曲目は「浪花の男節」(多分、こういう漢字表記だと思う、何となくだけど)...。
 確かに歌はうまい。声の伸びや「こぶし」のきかせかたなど、そこいらののど自慢の人とは一線を画している。だけど、私は、演歌は嫌なのだ。あのどろどろした世界が大嫌いなのだ。(笑)
 「ふぅ...。」
 彼女が三曲歌い終えてステージを去ったときに思わず安堵の溜め息をついてしまった...。
(続く)
(1999年1月書き下ろし)
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つまんない話037 報告書05

 「長浜ゆみ」という、名前をそれまでに聞いたことのない、そしてこれから先、二度と聞くことのないであろう歌手がなぜか宴会の場に登場し、演歌を三曲歌い終えてステージを去ったときに思わず安堵の溜め息をついてしまった HASENOBU であったが、その安堵は一分も続かなかった...。
 「それでは引き続き、カラオケタイム〜!」と司会の声...。(爆)

 きっと例年、この調子なのだろう。すでに事前にリクエストをしていた人もいたようで、ちゃっかりとステージに立ち、マイクを持っている...。「山」、「竹」など、そんなタイトルの歌があったのかと思うくらいの曲の数々、中には「さざんかの宿」など、いくら演歌を聞かない私であっても耳にしたことがあるような曲もあるにはあったが...。かと思うと「加藤隼戦闘隊」(?)などの軍歌まで飛び出す始末...。

 一体、いつになったら終わるのだろう...? これじゃ、まるで拷問だ...。

 そんな私の苦悩をよそに、一人歌い終わると、すぐに次の曲の前奏が続くという手際の良さ。(笑) 続々と、そして延々と...。
 宴会は終了予定時刻をオーバーして、8時15分にやっと終わった...。「歌謡ショウ」が始まったのが、多分、6時15分頃だったから、丸二時間、演歌責めに遭ったことになる...。小心者の私には、場が場だけに(つまり、周りは全て年長者という場であるから)中座するのも失礼極まりないように思えてず〜っと耐え忍んでいたのだが、これほどの精神的苦痛を長時間受けたのは実に久しぶりであった...。やれやれ...。

 で、その苦痛から逃れるために私はビールと日本酒を飲みまくっていた。って、牛馬のごとく飲んだわけではないけれど、いつもよりも早いペースで、そしていつもよりも大量に。(笑)
 部屋に戻ってからのことは既に書いたので省略。

 時間は跳んで、午後8時55分。その時間は、私はホテルのロビーのソファーに腰掛け、タバコを吸いながらくつろいでいた。宴会終了後、部屋で本を読み始めたものの10分少々で気分が悪くなり、夜風にあたりに散歩に出かけ、ついでにアイスクリームを食べ、ホテルに戻り、「やれやれ...。」と思いながら、ソファーでほっとしていたのであった。ここでならゆっくりと気兼ねなく本を読める...。

 その時だ! 私が座っていたソファーの後ろに置かれた JBL の大きなスピーカーからロビー中にアナウンスが鳴り響いたのは。
 「皆さん、こんばんは! 本日は当ホテル、琴参閣を御利用いただき、誠にありがとうございます! 今宵のこのひとときを、どうぞ演歌でお楽しみ下さい。曲は『女のまごころ』、歌うはテイチクレコード専属歌手、長浜ゆみ〜!」(爆)
(1999年1月書き下ろし)
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つまんない話038 報告書06

 あの悪夢から一週間が過ぎ、私は大分落ち着き、自分自身を取り戻したような気がする...。というのは大ウソで...。(最近、ウソばっかりついているなぁ...。)
 せっかくの、この「報告書シリーズ」はどうやらリードヴォーカル氏にはお気に召さなかったらしい...。38歳を迎えての絶好の贈り物だと思ったのに...。(爆)
 だが、それにもめげず、私は書く。(笑)

 せっかくの温泉地だというのに一度しか入浴しなかったのは今でも心残りであるが、今回の話はその「お風呂」絡みの話である。
 「介護保険制度」についての講演の後、一旦、部屋に行き、そして私達811号室の5人は揃って大浴場へと赴いた。「ま、ひとっ風呂浴びてからのんびりしましょうや。」ということである。一番年齢が近いということもあってか、私は大正13年さんとその後も行動を共にすることが多かったのだが、脱衣所で私は、本当に久しぶりに「褌姿」を見た...。(私の母方の祖父も褌の愛好者であった。夏休みに遊びに行くと褌一丁の姿で浴衣を羽織った祖父の姿を見たものだった。あれはもう30年ほど前のことだ...?)
 で、私の(?)大正13年さんも褌愛好者だったのだ...。
 彼の褌姿を見て「ほぉ〜...。」と思わず感嘆の声を上げた HASENOBU に、大正13年さんは微笑みながら言った。「いや、私は剣道を時々するんだが、蹲踞(そんきょ)の時にパンツだと、なんか、変な感じがしてねぇ〜。しっくりこないんだよ。」
 ま、そういうものかもしれない。「しっくりこない」というのは良く分からないが、きっとパンツよりもトランクス、そしてトランクスよりも褌の方が解放感(と言っていいかどうか分からないが...)は勝るように思える。
 浴室へ向かいながら、しかし、大正13年さんは少し悲しげな目をして私にこうも言った。
 「じゃがね、家内が嫌うんですよ、私が褌をするのを...。」
 「はぁ...。そうですか...?」と私は、少し意外な感じを受けながら相づちを打った。ふんどしの一つや二つくらい(って、重ね着をすることはないだろうけどね...)好きにはかせてもいいのではないか? 度量の狭い奥さんだ...。まだ見ぬ(って、会うことはないと思うけれど)大正13年さんの奥方に私は少し義憤を感じた。(ちょっと意味不明。) そんな私の心中を察してか大正13年さんはさらに言葉を続けた。
 「褌をはくことには何も言わないんだが、洗濯をする時に困るというんだ。他の洗濯物に絡みついて困るんだとよ。」

 あ、なるほど! そうか、それは確かにそうだろう! と、私は妙に納得してしまった。何でこんなことに今まで気づかなかったのだろう? 目から鱗が落ちる思いがした...。

 ...。しかし...、つまらん話だ...。(笑) 今までの「つまんない話シリーズ」の中でも群を抜いてつまんない話かもしれない...。ま、いいか...。今年のテーマの一つは「針小棒大」だし...。
(1999年2月書き下ろし)
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つまんない話039 報告書07

 あの悪夢のような日々から20日近く立ち、私は無事に社会復帰を果たした。(まだ言っている...。)
 ということで、今回は報告書シリーズを締め括る感動の完結編。(な訳ないけど。)

 同じ部屋の人達の中で一番親密になったのは大正13年さんだということは前にも触れた。が、彼の言葉遣いでいまだに気にかかっているものがある。それは「〜でしょうよ。」という言葉だ。これだけじゃ分からないだろうから例を示そう。

1. 私「うわぁ、この雲の感じからすると外は寒そうですね。」
   大正13年さん「ええ、寒いでしょうよ。」

2. 私「あれ? ***さん、まだ来てないのですか?」
   大正13年さん「すぐ戻ってくるでしょうよ。」

と、まぁ、こういう感じなのである。
 「〜でしょうよ」という言葉には、何となく投げやりな感じがする。「そりゃ、そうでしょうよ!」だとか、「あんたはそれでいいでしょうよ!」という感じのフレーズであればしっくりと来るような気がする。
 が、大正13年さんの言い方には(その前後の発言からしても)別段、気を悪くしていらっしゃるような雰囲気はないし、捨て鉢な感じもない。普通ならば「〜でしょう(ね)。」という言い方が選ばれるような状況なのである。なのに、どうして...?

 この疑問はまだ解けていない。が、言葉というものは習慣に拠る部分がかなり大きいので、このことばかりを考えていると、だんだん不自然さが私の中で弱まっている...。
 「先生!」と呼びかけるのは自然であるが「生徒!」と呼びかけるのは不自然である。「お父さん!」と呼んでも「父!」と呼びかけることはない。また、父親が娘に向かって「娘!」などとは言わない。このように単語の中には理屈だけでは説明できないような不規則な語法を持つものがある。ちなみに我が家では、子供のことを「お〜い、子供!」と呼んだり、「息子!」と呼びかけたりする実験を十年以上行なっている。その結果、少なくとも私はそのような呼びかけ方に違和感を持つことはなくなった...。(爆)
 とはいえ、大正13年さんの「〜でしょうよ」にはまだ違和感が残る...。

 このシリーズはこれで終わりでしょうよ。(爆)
(1999年2月書き下ろし)
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つまんない話040 教育実習

 教育実習、と聞くと、まず誰もが学校の先生になるための教育実習というものを思い浮かべることだろう。私もこの言葉を聞くとまずそれを思い浮かべ、15年ほども前の自身の体験を懐かしく思い出すのであるが。だが、この話はそういう教育実習についてではない。(笑)

 今日、子供の病気のため、採点の仕事を自宅で行なうことにしたのだが、とある書類を取りに午後3時過ぎになって私は職場へと向かった。自宅から車でわずか15分ほどの距離であるが、途中で3台の「教育実習」という札を着けたタクシーとすれ違った。
 ほぉ...。タクシーにも教育実習というのがあるのか...。と、しきりに感心した次第であるが、ふと気になったことが幾つかある。(って、別に文句を言いたいというのではなく。ただ、疑問に思っただけのことだ。(笑))
 すれ違っただけなんでじっくりと見てはいないが、運転をしているのが「実習生」で、後部座席に座っている人が教官代わりの本職のタクシードライバーであろう。で、疑問なのは、一体、何を「実習」しているのか、ということである。
 もちろん「タクシーの運転」であろうが、運転技術についてはきっと問題ないことだろうし、路線についての知識にしたってきっと見習い(?)のタクシードライバー候補生には備わっていることだろう。(時折、都会のタクシードライバーが道を知らない、という話は聞くが。) だとすれば、一体何を...?
 愛想の良さや好感度などの接客マナー? 当たり障りのない会話の方法? ドアの開閉? 安全運転?

 よく分からない...。どれも、別段、実車を使って「実習」しなければならないほどのものではないようだし...。

 自動車学校の「仮免許」の運転練習ならば、その「路上教習」の意図も充分わかる。が、タクシーの教育実習とは...? 
 謎だ...。誰か、教えて下さい。(笑)

 と、これだけだというのも「あれ」なんで...。(「あれ」ってどれ?)
 私の教育実習の話。(笑) これはあまりしたくない。前にどこかで書いたように私は大学入学直後から自分が小学校の先生という職業に向いていないことに気づいていたし、実際に付属小学校、そして近隣の公立小学校での教育実習ではそれは決定的になったのであるが。
 で、その「付属小学校」での実習の時のことだ。(児童にとって)哀れなことに、一クラスに対して6人くらいの教育実習生が配置されるという有り様で、担当の指導教員も「教育実習は子供にとって邪魔!」と言い切るような先生だった。で、実習開始の直後に私が「実は、まだ小学校教員になるかどうかは決めていないのです。」と言うと、彼は烈火の如く怒った。(爆) 「そんな生半可な気持ちでやってもらっては困る! やるなら一所懸命に実習しろ!」とのことであった。(ま、当たり前だが。)
 そして、その付属小学校での実習期間が何とか過ぎたときに彼は私に言った。「どうだ? 実際に子供たちを相手にして? 最初は悩んでいるとのことだったが、君の様子を見ていると、日に日に『よし、小学校の先生になるぞ!』という意欲が感じ取られたよ。これからもその調子で頑張りなさい。」
 が、実は、私は、「こりゃ、ダメだ。やっぱり私には小学校の先生はできない...。」と堅く堅く心に決めていたのであった...。(爆) 一体、あの指導教官、私のどこを見ていたのやら...? ちゃんと人を見る目があったのだろうか...? 今も不思議である...。
(1999年2月書き下ろし)
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