雑文Part 2


目次
   No.11---Rain(前編)
   No.12---Rain(中編)
   No.13---Rain(後編)
   No.14---成人式のおじさん
   No.15---カラオケ考
   No.16---マックの爆弾とカラオケの話
   No.17---「書く」ということ
   No.18---ああ言えばこう言う
   No.19---本の話
   No.20---絵本の話

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No.11---Rain(前編)

 90分間の授業は、長い。授業を受けている学生もそうだが、教えている側もそれは同じだ。人間の集中力がどの程度持続するのか、もちろん置かれている状況や個人差もあろうが、長くても50分くらいではなかろうか?(50という数字には何の根拠もない。)
 そこで、私は一般教室(つまり、黒板と教卓と机と椅子がある典型的な教室)での授業の時は別だが、LL教室を使った授業においては、中途に「ブレイク」と称した時間を取ることにしている。
 LL教室であるから、個々の学生にブースがあり、それぞれにヘッドセット(ま、ヘッドフォンのことだが)が利用できるようになっている。そして、このLL教室は、これまた当たり前なのだが、教卓近辺に様々な装置が備えられ、オーディオテープはもとより、VHSやベータ、LDやCD、また、接続されたMacintoshからの映像・音声情報を各ブースのヘッドセット、個々の10インチモニタ、教室内のスピーカー、数台の29インチモニタ、さらには大型のプロジェクターなどを使って自在に送ることができるように設計されており、キャプション付きの映画などの多種多様な教材を用いて学生の英語力の向上が図られている。(うう...。まるで大学案内の文面みたいになりました。すみません。)
 で、「ブレイク」の話。
 この「ブレイクの時間」というのは、ま、文字通り「休憩の時間」ということである。(決して機材を破壊する時間ではない、念のため。)で、その時間には、何をするのか? 一言で答えると、「英語の歌」を聴く、のである。
 もちろん、貴重な授業時間を割いて行うのであるから決して遊びの時間ではない。したがって、学生には私が前もって用意した「虫食いの歌詞のプリント」がその場で渡され、2回、同じ曲をヘッドセットで聴く間に空所を埋めてゆく、という作業が課せられているのである。
 例えば、TOTOの "I won't hold you back" がその日の曲だったとする。すると、学生は、

 If I had (1   ) chance (2   )
 I'd tell you that the things we had were (3   )
 -----

といった感じのプリントの空所に入る正しい英単語を聞き取り、書き込んでゆかねばならないのである。
 たった2回しか流さない、というのも可哀想かもしれないが、リラックスしつつ集中して(?)学生は作業に励んでいるようである。
 2回繰り返し聴いた後は答えあわせである。モニタに映し出された解答を見ながら学生は自分の書いた答えを確認してゆくのである。「ぜんっぜんっ、違う!!」という吐き捨てるような言葉も答え合わせの時には漏れ聞こえるが、ま、概ね、学生はこのブレイクの時間を楽しみにしているようである。英語の歌詞には口語的な表現も多々見られるのでその意味や重要表現の解説、英会話で発展的に使うための応用などが教師(HASENOBU のことです、もちろん)によってなされ、一応、英語の勉強の一環という名目が立つ。
 が...。
 実際は、何ということはない、私も息抜きをしたいがため。(爆)
 選曲ももちろん私の自由に任されているわけで、私の好きな曲が、当然、選ばれる。"Alone Again" や、"Love of my life" など、学生時代によく聴いてた曲や、自分が好きな曲をして楽しもう、というわけ。(爆)
 「今、流行っている曲は、皆さんもいつでも聴けるでしょうから、70年代、80年代に流行った曲を中心に流します。」なんてほざいているものの、実際は HASENOBU 本人がその頃のことを懐かしく思うためであり、最近のヒット曲をあまり知らないから、である。
 とは言え、学生達も結構、この時間を心待ちにしているようであり、たまに「今日は**ページまで進みたいので、ブレイクは無し、です。」などと私が言うと声を揃えて、「え〜〜〜っ!!」という不満の声が。(時には「こんなことなら今日は休めば良かった...。」などと呟く声すらも聞こえてきたりして...。)
 実際、英語の歌を聴き、できれば歌うことが、英語のリズム感や発音を向上させることになるのは間違いないことであるが。(続く)
(1998年9月書き下ろし)
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No.12---Rain(中編)
 その日も私はLL教室での授業の途中で、いつものように「では、ここでブレイクに入りましょう。」と宣言した。2年の英語専攻秘書コースの学生達は、「やれやれ...。さぁ、今日は何の曲かな?」といった面持ちで HASENOBU の配るプリントを待っていた。
 その日、私が準備してきたのは Rita Coolidge の歌う「Rain」という曲であった。 歌の素晴らしく上手なこの歌手の、このCDはいわゆるオムニバスの編成で、この「Rain」というのも森高千里とやらいう歌手の「雨」とかいう曲に英語の詞をつけたものであった。
 で、私は、これまたいつものようにCDをセットし、ヘッドセットを装着するよう学生に指示し、リモコンのプレイボタンを押した。
 「う〜ん...。この人は本当にいいなぁ...。声もセクシーだし、歌もうまいなぁ...。」などと思いつつ聴いていると、何と、教卓の一番近い席の学生(もちろん女学生)が机に突っ伏しているではないか!!
 「ん? 寝たのかなぁ?」と思ったものの、様子が変。肩が小刻みに震えている...。思わず私は自分のヘッドセットをはずした。すると、しゃくりあげるような嗚咽の声が聞こえる...。

 泣いている...。そう、その学生は Rain を聴きながら泣いていたのだ!!

 「おいおい...、頼むよぉ...。どんな思い出があるのか知らないけど、2回流して終わるまでには泣きやんでくれよぉ...。」と HASENOBU は祈った。が、ますます彼女は「本泣き」へと移行してゆく...。
 しかし、私の祈りとは裏腹に、彼女は泣きやまなかった。
 そして2回通して曲を聴き終えた学生達は自主的にヘッドセットをはずした。

 万事休す...。

 いつものように、そして努めて冷静に、私は解答をモニタに映し出した。が、彼女のただならぬ様子が他の学生に気づかれないわけはない...。「ええっ? ***さん、どうしたの? 泣いているんじゃない?」やら「いつも明るい***さんなのに...。先生が何かしたの...?」というヒソヒソ声のざわめきが教室中に...。そして教室がシーンと静まり返る。彼女の泣きじゃくる声だけを残して...。

 何とかせねば...。何とか...。

 「何なんだぁ、これはぁ〜っ!!」と私は叫びたくなった。が、そんなことを叫んでも何にもならない。
 「***さん...。だいじょうぶ?」と思い切って私は言った。
 「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ」
彼女は繰り返した、涙声で。
 「う〜ん、謝られても困るんですが...。さぁ、もう泣かないで。そんなつもりはなかったんです。私、女の涙には弱いから...。」などの自分でも訳のわからない言葉を呟き、教室中からの失笑を買う HASENOBU でした...。
(さらに続く)
(1998年8月書き下ろし)
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No.13---Rain(後編)

 さて、そういうわけで、Rainで予想せぬ反応にたじろいでしまった私ですが、「ふむふむ...。きっとあの学生はRainそのものは聴いたことがないだろう。とすれば、オリジナルの『雨』によほどの想い出があるんだろうなぁ...。」と思い、一度、森高千里とやらの歌うその曲を聴いてみたいもんだ、と思ったのでした。
 時は流れ、ふと或るとき、CD屋さんで何か昔のいいものはないだろうか、と物色しているうちに新譜のコーナーに置かれた森高千里の『ドゥー・ザ・ベスト』が、ふと私の目に留まりました。「へぇ〜、なかなか可愛い娘じゃん...。」などと思いながら手に取ってみると、例の『雨』も収録されているではありませんか!(って驚くほどのことじゃないだけど)
 実を言うと、彼女のことは少しは知っていたのです。同郷で、しかも道一つ挟んだ「九州女学院高校」の出身だということ、ある番組で「ハエ男」なる奇妙な歌を歌っていたこと、くらいなのですが。「なかなかこの手の女の子にしては変わった歌を歌うんだなぁ」くらいの印象は持っていた記憶があります。
 ま、これも何かの縁だからと思い、私は彼女のベスト盤を買ってみたわけです。そして家に帰り、期待しつつビニール袋を破り、初めて見る日本語の歌詞に「あぁ、なるほど...。」と思いながらもどんな曲だったんだろうとかなりの期待を胸に聴いてみると....。

 な、何ということだ...。

 荘厳な感じすらする前奏に気を良くしていた私は、彼女の歌を聴くなり、思わず吹き出しそうになり、次にメラメラと怒りを感じてしまいました。
 「歌手は歌がうまくなければならないのではないのかぁ〜!!」と拳を握り締めていた気がします。「その舌足らずな歌い方はなんだぁ〜〜!! 『ドゥー・ザ・ベスト』だとぉ〜〜!? そりゃあ、こっちのセリフじゃぁ〜〜! 金返せ〜〜!!」と、日頃温厚な HASENOBU ですが、この時ばかりは、もし彼女が目の前にいたら、胸グラを掴んで喰って掛かりたくなるような、そんな気持ちでした...。このCDを買ってしまった自分に腹を立てつつも...。
 覆水盆に返らず...。昔、宗の国の覆水という官吏があまりの忙しさゆえ、故郷である福建省へ盆にも帰省できなかったという...。
 すみません、つい取り乱してまたデマカセを書いてしまいました。

 ということで、このベスト盤、悔しいので一通り聴いてはみましたが、一番彼女らしいと思ったのは「ハエ男」と「私がオバさんになっても」の2曲でした。

 『雨』にしたって、曲と歌詞と演奏はいいんだから、あとは歌だけ、どうにかすればいいのに...。例えば水越恵子のような雰囲気を持った女性歌手がカバーすれば90年代の名曲の一つになれるかもしれないのに...。

 で、今ではもうこのCDを聴くこともありません。ただ、例のブレイクの時間で「では、今聴いてもらった"Rain"のオリジナルを聴いてみましょうか...。」と年に二、三度、学生達を巻き添えにして聴かせていますけれども...。

 ...。森高千里のファンを全員、敵に廻したな...、こりゃ...。なんでも彼女の熱烈なファン(私の友人K氏の同僚)は「森高千里に、ハイヒールで思いっきり踏んでもらいたい!」だとか、「彼女が目の前で僕の両手にウ○○してくれたら喜んで50万円出す!」などと言っているらしいから...。そういう人達に「音楽は趣味の問題ですから。」などと言っても分かってくれないだろうなぁ...、やっぱり。
(1998年8月書き下ろし)
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No.14---成人式のおじさん

 別に、私が「成人式を迎えたときに、どこからどうみてもオジサンっぽかった」というわけではありありませんので、変な期待は抱かないで下さいね。(笑)
 これは、「つまんない話」の範疇に入る話かもしれませんが、ま、いいでしょう。(ちなみに、この「ま、いいでしょう。」というのはとある教師の口癖なんです。私も愛用してますが。)

   で、本題に戻ります。成人式、これはたいていの人が(もちろん、ちゃんと生きていれば、という前提がありますが)祝ってもらえる一生に一度の記念すべき日ですね。私にも、この日を無事に迎えることが(十数年前に)できました。
 その日、つまり、成人の日に、私こと HASENOBU は中学時代の友人と連れ立って、2つの成人式をはしごしました。(笑)「行けば何か記念品がもらえる」というあさましい発想からの行動です、はい。

 その2つの成人式の、最初の会場でそれは起こったのです...。

 そこは、K市のとある小学校の体育館を会場にした地区の成人式でした。私はその小学校の卒業生ではないのですが、中学校の時に同窓であった顔見知り、つまり「中学の卒業式以来会っていなかった人」なども多く来ていて「うわぁ、懐かしいね〜...。元気だった?」などというやり取りが交わされる中、その成人式は始まりました。
 だいたいどこの成人式もありきたりなものだろうと思いますが、まずは来賓であるその地区の町内会の役員の祝辞から、です。式次第によるとどうやら3人ほどの来賓からのスピーチがあるようです...。体育館のステージには来賓の何人かのおじさんやおばさん達が並んで座っています。「これから社会の一員としての自覚を持って〜〜」といった、これまたありきたりな祝辞を聞きながら、「やれやれ...。つまんないなぁ...。」と、緊張の中にも退屈さを感じ始めていた HASENOBU の目に映ったのは...、ステージに並ぶ町内会の役員のおじさんのうちの一人、でした。その人は、異様に頬が紅潮していたのです。「ん...? なんだ、あの人は...? 真っ赤な顔をしているけど...。さては朝っぱらから景気付けに一杯、引っ掛けて来たのか...?」などと私は思いました。
 ところが、どうも様子が...。決して暑くはないのに(ま、冬の体育館ですから...)、何度もハンカチで汗を拭っている...。パイプ椅子に腰掛けているものの両膝が小刻みに震えている...。「...? どうしたんだろう...? 熱でもあるのかな...?」
 その時、司会のおじさんが次の来賓の祝辞の番だということを会場にアナウンスすると、それに応じて立ち上がったのは、そのおじさん!!
 「おいおい...。大丈夫かなぁ...。」という私の心配をよそに、そのおじさんはよろめくように歩き、壇上へ。そして深々とぎこちないお辞儀をし、第一声。

 「み、みなさん、ほ、本日は、御成人、まことにありがとうございます!」
 う...。私たちが成人したからといっておじさんにお礼を言われても困るのだが...。
 どうやら、そのおじさん、酔っていたわけでもなく、熱があったわけでもなく、ただ、極度にあがっていたようで...。

 毎年、成人式のニュースなどを耳にすると、このセリフが、強烈な印象として甦ってくるのです...。この一言が成人式のメインの記憶であるというのも情けない...。(笑)
(1998年9月書き下ろし)
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No.15---カラオケ考

 私はカラオケが好きではない。いや、むしろ、「取り立てて聞きたくもない歌をカラオケで歌われるのが嫌いである」と表現した方が正確かもしれない。(ま、これは大体誰でもそうでしょうが。(笑))
 ゆえに、カラオケに行くなんてのは、年に1,2回あるかどうか、である。行く場合というのも、ほぼ間違いなく大学の同窓生と二次会で、というパターンで、職場の同僚と行く、なんていうのはまず、ない。(きっぱり)なのに今年は何故か、すでにテニス仲間との新年会で一度、そしてチャットで知りあった方の御自宅(!)で一度、と行っているのだ、実を言うと...。
 この、今年に入っての2回、というのがなかなか強烈なものだった。(強烈という言葉がふさわしいかどうかは置いといて...。)
 「テニス仲間」というと、いかにも同年代、あるいは若人達の集まり、というイメージを持たれるかもしれませんが、ところが、どっこい。(何が、「どっこい」なのやら...。)
 確か、その時は私を含めて6名だったと思うのですけど、一番上が既に古希を迎えた男性、次いで還暦をとうに過ぎた女性、それから40〜50歳(恐くて尋ねたことがないんで...)の女性が3人、一番若いのは、37歳になろうかという私である...。
 ま、カラオケというと酒が付き物だけど、この時は新年会、とは言えビールジョッキ1杯だけ。で、その、 40〜50の女性達によって「カラオケへ行こう案」が否応なく可決され、実施の運びとなった次第でありました...。
 はい、もう、予想がつきますよね。出てくる曲、ほとんどが「懐かしいメロディー」、略して「懐メロ」という曲ばかり....。しかも四十年以上前の曲やらが続出するという...。出し抜けに「ラバウル小唄」やら「さくら貝の歌」やらを聞かされても...。かと思うと「子供がよく聞いてるから」ということでなんだかわからない最近の曲を聞かされたり、突然、ペギー葉山や五輪真弓の世界にいざなわれたりしても...。  つくづく、よっぽどの覚悟がないかぎり、カラオケは同世代で、ということを実感したものでした。

 そしてもう一つのカラオケ。つまり「チャットで知りあった方の御自宅」でのカラオケ。  これは参加者が4名で、しかも「35歳プラス、マイナス2」くらいの集まりでしたので世代のギャップというものは感じなかったものの...。
 ほとんど初対面!といった状況でのカラオケ、というのもなかなか勇気のいるものです。(あ、お招き下さったO夫妻に文句があるとかいうのではないんです! 「では行きましょう!」と快諾したのも私ですし...。奥様のおいしい手料理でもてなしてもらった恩義は忘れていません。)でも、いざ、その場になると「照れ臭さ」が私を包み込んでしまいました。(笑)
 いきなり、「HASENOBU さんはオフコースが好きでしたよね。じゃあ『YES-YES-YES』、行きましょう!」って...。しかも最初はオリジナルキー...。(爆) 音を少し下げてもらってからでさえ、歌いながら「脳かどこかの血管がぶっちぎれるのでは...?」と思いました。と、同時に「俺は、一体、ここで何をしているんだろう...?」との迷いも...。なかなか吹っ切れることのできない私でした...。

 カラオケ、という極めて自己陶酔の世界と結びつきやすい代物には、いつも冷静な HASENOBU はどうしても抵抗を感じてしまうのであります...。(笑)
 バンドをやってたんだから自己陶酔の世界には馴染みがあるはずなんですけれどもね。(爆)
(1998年9月書き下ろし)
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No.16---マックの爆弾とカラオケの話

 「コンタクトとゲンパツ」以来の強引な組み合わせのタイトルです。が、その強引さをこれから説明しましょう。(笑)
 マックの爆弾、という言葉は マックをお使いの方ならピーンと来て、半分はうなずいてくれたかもしれません...。まず、この話からします。
 そうです、マックにはよく「爆弾」が出るのです。ここでの「爆弾」というのはシステムエラー、つまり再起動を余儀なくされる、あるいは強制再起動をしなければならないという悲惨な状況のことです。ま、メモリ管理上の問題、アプリケーションのバグ、何らかのコンフリクト等々、いろんな要因があるようですが...。
 漢字トークの頃(昨年9月まで)は結構、私もこの爆弾に悩まされていました。作業の途中で、導火線に火が点いた爆弾がいきなり画面に出ると、こちらまでフリーズしてしまいます。
 ですが、OS8にシステムのヴァージョンが上がり、この爆弾にお目にかかることは少なくなりました。(この一年近くで二回くらいしか見たことがないような...。)しかし、代わって、その一つ前の段階のアラートがよく出るようになりました。(爆) それはいきなりアプリケーションが終了してしまうというものなのですが...。 複数のアプリケーションを切り替えながら使っているときだと、「爆弾」とは違って、他のものを道連れにすることはないので比較的、被害は少なくてすみます。(どちらもそうならないに越したことはないけど。)
 ですが、私のマック(職場のも自宅のも)は、日本語インプットメソッド(E○Brid○e---伏せ字の意味はないかも...?)に、どうやら難点があるようで、ある特定の文字列を変換しようとすると爆弾が現れないのにいきなり完全にハングアップしてしまうという、何ともしがたい状況に陥ることがしばしば!(二日に一回くらいの信じられない頻度!)
 ま、こまめにセーブするということでできるだけ被害を少なくしていますが、それでも「まだ全然保存してなかったのに〜...。」というような状況もよくあるんです、はい。

 話は飛ぶように思えるかもしれませんがタイトルの後半部、つまり「カラオケの話」の話に移ります。この文面も含め、最近のくまきの部屋の文章は、夜9時以降から午前1時前後にかけて私の自室のコンピュータで書かれています。(自室のマックは回線に繋いでませんので、ジップディスクにファイルを保存し、そして翌日、職場に行ったとき、折りを見てアップロードする、のです。)その際、使っているのは軽快なテキストエディタ(Jedit)です。私は文字だけで勝負しています(爆)のでテキストさえ入力できればそれでいいのです。が、残念ながら、このエディタには「自動保存」の機能はついていません。

 唐突ですが、私は夜、自室にこもると、必ず飲み始めます。(爆) 少し前までは白ワインがメインでしたが、最近ではジン(しかも多くの場合、ストレート)をちびちびやりながらキーボードを叩いています。(もちろん、「文字を入力している」という意味です。)ですので、酩酊、ということはないにしても、ほろ酔い気分で、もしくは酔った状態で文章を書いているのです。(爆) となると、途中で「念のために、一応保存しておく」というのをつい、忘れてしまうのです。(笑)

 さて、以上のことを踏まえたうえで本題に移りましょう。

 私の「くまきの部屋」で、重複してアップされた内容のものがあります...。(爆)そうです、この「雑文 Part 2」の「カラオケ考」と、「音楽の話」の中の「カラオケの話(1)、(2)」です。
 何故に HASENOBUは 同じ話を繰り返して書いたのか...? 「もうろくして、くどくどと同じ話を繰り返してしまった。」という答えも、正解かもしれません...。
 が、本当の理由は、上に述べてきたこと、全てと関わっているのです...。
 段階1 「カラオケ考」を書き始めた。
 段階2 飲みながら書いている途中にフリーズした。
 段階3 保存していなかったので再び最初から「カラオケ考」を書き始めた。
 段階4 酔っ払いつつも書き上げて、ちゃんと保存した。
 段階5 数日後、酔った勢いで何か書こうと思いつく。
 段階6 「カラオケ」の話を書いていて途中でフリーズしたこと(段階2)を思い出す。
 段階7 上の「段階3,4」を忘れて、再び同じネタで「カラオケの話(1)、(2)」を書き始める。
 段階8 やはり途中で、保存していないのにフリーズして振り出しに戻る。
 段階9 どうにか書き上げて保存する。

 このような段階を経て、そしてそれぞれのファイルが翌日アップロードされてしまったのでありました...。しかも、さらに数日経つまでは気づかなかったという...。あぁ...、情けない...。「確か、これ書いたような気がするなぁ...。」と思ったのは覚えてますが、書き上げたことをすっかり忘れていたとは...。
 冴えない話でした。
(1998年9月書き下ろし)
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No.17---「書く」ということ

 申し訳ないとは思うけれども、私にとって「書く」という作業は、少なくとも9月以降は「昇華」のため、かもしれない...。
 では、何のための昇華なのか、と問う人もいるかもしれないが、その答えは私自身、明確ではない。数えたくないような幾つもの範疇の問題、といういい加減な答えで納得して頂きたい。(別に納得してもらわなくっても本当は、全然構わないのですけど。)
 だから、ほとんど書きなぐったままの洗練されていない文面ばかりだし、露悪趣味に走っているなぁ、と思われるようなものもある。
 来る人は拒まず、そして去る人も追わないのが私のモットーの一つである。ただ、扉のページにも書いたように、冗談の通じない人や、冗談と本気の区別のつかない方はそもそも御遠慮願いたいのだが...。

 これまでの人生で、その時その時に、それなりの悩みを抱えていた。そして、これは確信はないものの、ほぼ全ての人に当てはまることだろうとも思うけれど。

 したたかさ、戸惑い、やるせなさ、道化、没頭、苦悩、逃避、理想、冗談、懸念、落胆、責任感、奮闘...。自分でも御し切れない程の雑多な感情や振る舞いを表す言葉が現在の私を取り巻いている...。だからどうしたってこともないけど。だから助けて欲しいとか泣き言を言うつもりもないのだけれど。

 う〜ん...、支離滅裂、ですねぇ...、これでは。(笑) ま、いいか。(爆)
(1998年9月書き下ろし)
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No.18---ああ言えばこう言う

 「ああ言えばこう言う...。」と評されることが多かった。(爆) いわゆる「へらず口」というものだ。

 「冗談でもそんなことを言ってはなりません!」と言われたら「冗談だからこそ言えるのです。」と応じてみたくなる...。相手の怒りに油を注ぐことにしかならないけど。
「どうせ〜〜なんだから。」を言い訳にして甘えていると、いざ、何か行動を起こそうとすると「〜〜のくせに。」と言われても仕方がない。逆に、ある人から「たかが〜〜だから。」と行動を制されるのであれば、その人に頼られた時には「どうせ〜〜だから。」と拒否すればよい。

 人と議論を交わす。中には「逆に言えば〜〜ということになりますね。」といった表現を好む人もいる。その度「ちょっと待って下さい。何で逆に言う必要があるんですか? 勝手に逆にしないで下さい。」と、どこかもっともらしいことを思わず言いたくなることがある。言わないけど。

 「それとこれとは話が別でしょう?」...。これもよく聞くセリフだ。そんな時には「そうですよ。」と開き直りたい。話が進まないので言わないけど。
(1998年10月書き下ろし)
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No.19---本の話

 私はテレビも見ないし、ラジオも聞かない。新聞すら斜め読み。これはもう何度か書いた。
 が、替わりに本だけは読むほうだと思う。平均的な日本人が年間にどれくらいの数の本を読むのか知らない(知らないし、別にそんなことは知りたくもない)が、多分、私は150〜200冊程度は読んでいると思う。読書ノートを付けたりしないんではっきりは自分でも分からないが...。もちろんこの数字に漫画や週刊誌は含まれていない。と同時に、仕事絡みの本は、恐らくその2割も占めないだろうけど。(笑)

 テーマは雑多であるが、最近はあまり小説は読まなくなった。歴史物なども興味はない。「最近のベストセラー」なども興味がない。お分かりだとは思うが「たくさんの人々が読んでいるから」というのが私の書物選びの要因になるはずもない。で、実際に書店で手に取ってパラパラと読んで、あるいは『これから出る本』の内容案内を読んで面白そうなものを買ったり注文したりしている。そして、それらは、もっぱらエッセイや文化論や教育、言語関係であることが多い。
 9月に読んだものの中からアトランダムに挙げると...:
 『サービスの法則』 田辺英蔵著 ダイヤモンド社刊
 『あなたへの手紙』 なだいなだ著 角川文庫
 『お嬢さん放浪記』 犬養道子著 中公文庫
 『教えるということ』 大村はま著 ちくま学芸文庫
 『昔話にはウラがある』 ひろさちや著 新潮社刊
 『私の英語開眼』 長谷川潔著 大修館書店刊

 後は...、忘れた。(笑) 読んだ本はあまり自宅に置かないことにしているのではっきりと出版社までは思いだせない。
 本代にいくら使うのか、それもよくはわからないが、多分、年間で(私費で購入するものだけで)20〜30万円くらいは使っているような気がする...。(輸入の本で高いものもあるんで...。) 本代にお金がかかるのは全然構わないことだが、最近はあちこちにリサイクルの本屋が出来ているんで、できるだけ(読み流すような本は)そういうところで買うことにしている。
 が、実際、買った本を全て読むだけの時間はないのが残念である。ま、軽く読める本ならどうでもいいけど、じっくりと読みたいものは、せめて2時間は中断されない保証がないと手を出しづらい。

 ここまでの文面で「ほぉ...。では博覧強記でしょうな。」と思われた人もいるだろうが、残念ながら、そんなことはない。(笑) もちろん、読んだことさえ覚えていない、というほどひどくはないが、次々に忘れるのが得意なのだ。最近では年齢のこともあって(爆)、忘れるつもりがなくても忘れてしまうこともあるが。
(1998年10月書き下ろし)
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No.20---絵本の話
この駄文を、おどろおどろしい絵を2つ、そして言葉を発し始めた愛娘の写真を送りつけてくれた、
まだ見ぬ友人Y.S氏に捧げましょう、要らないと言うだろうけど。


 絵本は...、あまり読まない。が、小さいお子さんを持つ方のために、無理やり、絵本絡みの話を一つ。

 書店に行くと子供向けの本のコーナーに様々な絵本が並んでいる。もう買うこともなくなったが、娘や息子がまだ幼いころはよく買ってやった。
 もちろん最初のうちは私、あるいは妻が選んでいたのだが、その時に思ったこと。
 印刷技術も進歩して、絵本のほとんどはカラーの見事な挿し絵があり、中には芸術作品とも評してもよいほどの綺麗な絵が載せられているものもある。「うわぁ...。見事だぁ...。こんなのを子供に買ってやると喜ぶだろうなぁ。」とつい値段も気にしないで買いたくなってしまう。
 が。ちょっと待った。(何なんだ、この書き方は...?)
 果して、それが「幼児向けの絵本」としてふさわしいものなのだろうか?
 「美しいものを見せて何が良くないのだ? 美的感覚を養うのに役立つのではないか?」という反論があるかもしれない。それに対して私は効果的な反論を展開できない。(なら、最初から偉そうに変なことを言うな、と言われそうですね、あはは...。)

 昔はどうだったのだろう? 絵本はもちろん、本さえも一般に手に入らなかったような時代は? その中で語り継がれてきた昔話や寓話などの伝承文学のことを考えて欲しい。「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんが・・・」という類のものだ。これらには共通して、登場人物や情景に関しての緻密な描写はないという点が見出される(と思う。)
 ということは、つまり、だ。(?) これらを夜、布団の中で(別にいつでもどこでもいいけどね)母親や父親、あるいは祖父母から寝物語として聞かされるとき、子供の頭の中では、その物語の展開に連れてどんどんと情景が浮かび、そして広がっていったのではなかろうか?
 と、すれば、だ。(??) それは子供たちの想像力と創造力とを刺激し、発達させてゆくことになるのではないか?
 もう少し、はっきり言おう。綺麗な絵がある絵本が必ず悪いとは言わない。が、そういう見事な挿し絵ばかりが与えられていると、それを見る子供は頭の中で独自の絵を造り上げては行かなくなるのではないか。どんなお城だろう、どんなお姫さまだろう、と不思議に思い、頭の中で造り上げてゆくことなく、与えられた絵で納得してしまって終わり、ではなかろうか。
 (だからと言って、これをもって「マンガ」はつまらない、などと安直な結論へ持ってゆきたいのではない。私はマンガの価値を否定はしないし、むしろ、それは立派な一つの文化であり、また思想も盛り込まれうる優れた表現形式だとも思う。)
 しかし、「活字ばかりだと読む気にならない」という(私には理解できない)ことを言う人もいるようだ。きっとそういう人は文字から人物や情景をイメージしてゆくことが苦痛なのだろう、と思う。何かものすごくもったいないなぁ、という気がしてしまう。要らぬお世話だろうけど。
(1998年10月書き下ろし)
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