雑文 Part 5

目次
No.41 こわれもの
No.42 ものの価値
No.43 運と勝負
No.44 ありがとうございました
No.45 そこ力
No.46 余計な一言(1)
No.47 余計な一言(2)
No.48 よ力
No.49 見切る
No.50 いい草

駄文の樹海案内板へ戻る

No.41 こわれもの
 先に、「一生もの」のことを書いた。そこでは控えめに「一生」という表現を使ったのだが、「もの」によってはもっと長いタイムスパンを考えてもよいかもしれない。と言いつつも偏屈な私は、その一方で「こわれもの」についても考えていた。(笑)
 
 まずもって、「壊れる」というのはどういうことだろう...?(爆)
 ま、普通に考えると、その「もの」が品物であれば「使い物にならなくなる」ということとほぼ同等だろうし、もう少し普遍的に言うなら「それまでの形をとどめなくなり、そしてその用途やそれまで保っていた機能や有効性が失われる」といったように定義してみてもよいだろう。(勝手に考えただけですが。)
 
 ここで思うのは、私の娘や息子が使っている「陶器製ではない」茶碗だ。これらは、硬化プラスチックというのかFRPというのか、はたまた硬化ビニール製なのか、要するに私がその名前を知らない物質でできている。茶碗だけではない。スプーンやフォークも、その類のものをセットで誕生祝いか何かでもらったのだ。
 これらは長いものでは既にもう11年近く使っている。まだ幼い頃の娘が食事中に手足をバタバタさせて食卓から落としても壊れることなく、これらはまだ充分使える状態を保っている。さすがに側面の図柄などは少し色が落ちて薄くなりつつあるけれど。
 今ではもう使っていないけれども哺乳瓶だって「ガラス製ではない」ものも使っていたはずで、これだって上記の茶碗やスプーンと同じような材質なのだろう、癇癪を起こした娘が投げても壊れずにいまだに原形をとどめている。
 だが、ふと思うのだ。壊れない茶碗って、本当に、それでいいのか?
 もちろん、壊れずにいつまでも使える、というのは、それはそれで良い面もあろう。少々乱暴に洗ってもその茶碗の縁がかけることもない。一つものを長く使い、そして愛着を持つ、というのも決して悪いことじゃない。

 だが、愛着が持てるものだからこそ、「壊れる可能性をはらむもの」の方がふさわしいような気がするのだ...。
 例えば、ものごころのついた年齢であれば、それなりの茶碗を買い与えて使わせたほうが良かったのかもしれない、と思ったりもする。「大事に扱ってきたのにとうとう壊れてしまった」という悲しみ、寂しさを知ることも子供には必要だろう。そしてそのような感情の経験を繰り返すことによって「愛着を持つ」ということの新たな意味を知ることができるのかもしれない。
 どんなに手荒に扱っても壊れないものには愛着が持てない、と言っているのではない。ただ、「もしかしたら壊れるかも...。」と内心恐れながら、あるいは、「これはきっといつか壊れる」ということを確信しつつ対峙する(大袈裟な表現だ...。)気構えというものを持っていてもいいのではないのだろうか、ということだ。
 
 さて、真面目な話、ここの「こわれもの」というのは、いわゆる「もの」でなくたっていい。友情やら愛情、もっと大きく「人との仲」と言っても良いような事柄(?)だって入れてもいいだろうし、さらには「人間そのもの」だってそうだ。

 ある時、私が「私は妻のことを私なりに大事にしてきたつもりだし、そしてこれからもそのつもりだ」というようなことを述べたときに「妻、というものは大事にするものではありません」とおっしゃった方がいた。もちろん、その方のおっしゃることは理解できるのだが、それでも私はやはり妻のことを、いや、妻だけではなく、子供や親や親族一同含め、さらには多少なりとも私と関わりのある人たちのことを大事にしたいと思う。(うわぁ...。HASENOBUはいつから博愛主義者になったのだ...? ま、「思う」だけかもしれないけどね。(爆)) 別に、その人たちが「壊れる」(=死ぬ)から、あるいは私が壊れるから、というのがその理由だというのじゃないのだけれど。
(1999年5月 書き下ろし)
「目次」へ

No.42 ものの価値
 これは、先の「一生もの」と、上の「こわれもの」とも通ずるところのあることだ。

 ものの価値、って何なんだろう、と訳もなく不思議に思い、そして不安になってしまうことがある。そしてこの不思議さは一向に解消されることもなく、当然、不安はいつまで経ってもHASENOBUにつきまとうのだ。
 別に、骨董品だとか芸術作品などの価値、ということではない。(もちろん、そのようなものの「価値」というものも私にはまったくもって分からないのだけれど。)

 「ありがたい」というのは、良く知られているように「有り難い」ことであり、滅多にないからこそ、いわゆる「希少価値」というものが付加されるのだろう。
 別のところで書いたように、「朱鷺」は特別天然記念物に指定されるほどの「希少」なものであり、絶滅寸前ということでその二世誕生の話題がもてはやされることになる。
 だが、「朱鷺」という鳥、そのものの価値はどうなのか? って、数のことではなく。朱鷺が、もしも日本中に棲息するちっとも珍しいものではなかったら? そうなると「価値」はないのか? そんな気がする...。生物学的に極めて特異な体内構造(?)をしているのかもしれないけど。
 この「希少価値」ということについて言うならダイヤモンドや金や銀だって、その量の少なさに基づいて価値が決められ与えられている。元素のレベルで言うならダイヤモンドも石炭も同じで炭素で構成されている(と記憶しているが...)。
 ま、ダイヤモンドなどの宝石などのことは全然分からないので置いといて...。

 問題なのは本当に身の回りの、ささいなものだ。もちろんブランド品でなくっていい。(笑) そしてそれが「使えるもの」であるかどうかさえも問わない。

 ただの石ころ。
 これだってある人にとってはものすごく価値のあるものかもしれない。それには何故かマジックで目と口が描かれていたりして...。それはあの夏の海辺で、ある人がふと手にして持ち帰ったものだったりして...。(はぁ...?) そしてそれがその人と過ごした時間の僅かな証拠だったりして...。(何なんだ...?) そんな石ころがあったとすれば、それはその人にとってのみ、本当に大切なものの一つであるかもしれない。

 価値に「内在的なもの」と「外在的なもの」があるとしよう。今の石ころの例で言うと、この変な石ころは後者に属すものだろう。その石を大切だと思う人以外には何の付随的な思い出も持たないのだから。
 先のダイヤモンドの例はどうだろう? これは、何となく前者のように思える。誰にとっても、少なくとも、ある程度の知識を持った人ならばダイヤモンドが貴重なもの、という風に感じるであろうから。ものによっては、お金という尺度を使えば、何万円、何十万円、何百万円、というものもある。
 だが、本当にそうなのだろうか?
 さっきも書いたように、これは「希少であるから」ということを根拠にした価値である。つまり、他の、同類のものとの数量的な比較の上でのみ生じてくる価値だ(と思う)。とすれば、内在的なものではない。
 
 人為的な努力の有無というものも価値の基準になるかもしれない。(ならないかもしれないが。)
 別にこれも職人さんや芸術家の汗と涙の結晶、図りしれない精神的な葛藤やら労力、というような高いレベルでなくっていい。どれだけの作業が必要とされたのか、くらいに考えてもいいし、また人間の作業の代替としての機械の工程ということで考えてもいいのかもしれないが。

 歴史や伝統というものも「価値」と結びつきやすいものだ...。

 ここまでは、目に見える「もの」というものを念頭に置いていたが、目に見えないものについてはどうだろう? また、目に見えるけれど「人間」はどうだろう...? 偉い人、立派な人ってどんな人なんだろう? 品のいい人ってどんな人なのだろう?

 そして究極の疑問。価値があるって、いいことなのか?

 ね? 不安になってきたでしょう?(爆)
(1999年5月 書き下ろし)
「目次」へ

No.43 運と勝負
 なんてタイトルのエッセイなどはいくらでもありそうだ。(笑) しかし、そのようなもののほとんどは、ま、その世界では一流といわれるような人たちの手によることが多い。例えば、名を馳せたギャンブラー、プロ野球選手、ゴルファーや棋士あたりなど、いかにもその自叙伝の中に書きそうだ。(って、そんなのを読んだことは一度もないが。(爆))
 しかし、そういった、その道を究めた、というような人が書くものというのは、えてしてレベルが違いすぎて参考になりづらい。丁度、偉人の伝記を読んでも、普通の人間には、その背景となる過酷な境遇や並外れた努力、そして何よりも決定的な要素となる資質などなど、あまりにも縁遠くて「へぇ〜、そうかぁ。」程度の認識しかもたらさないのと似ている。

 その点で、何一つ突出したものを持たないHASENOBUの話は卑近である。(笑) 往々にして的外れであることが多いが。(爆)

 さて、先日、私の掲示板にとある方(って、はい、そうです、ドンちゃんです。)がお子さんが卓球の試合に出てベスト8に入った、ということを書かれた。それで、私は「試合には運もつきものですよね〜。」というようなことを書いたのだが、それをもとに、ちょっと駄文を書いてみようって訳だ。

 「本当に強い人には運なんて要らない。」というのも、ある程度、頷ける。うんうん。例えば3歳の幼児と成人である私が殴り合いのケンカをすれば(ケンカが試合であるかどうかはさておき、また、私はそんなケンカはやらないということも置いておいて)、圧倒的な力の差により私が勝つ。その幼児がいかに運のよい子であったとしても。(ま、ケンカを始めた直後に私が落雷を受けた、とかいうような突拍子もない例は除外して。)
 しかし、私たちが遭遇(?)する勝負や試合、というのは、まず、そのほとんどが「ドングリの背比べ」レベルである。この時にこそ、「運」は結果を大きく左右するのだ。

 私は年に数度、テニスの公式試合に出場する。公式試合とは言え、住んでいる区の市民大会であるのだけれど。その大会では、A&B級、C級、D級と三つのクラスがあり、D級が初心者である。私は実はD級では優勝したことはない。(出場者が多くって朝から夕方までかかっても決勝戦まで行かないことがあるほどで、待ち時間を持て余して仕方がないのである。)C級について言うと、二回連続で準優勝。なのに、その次は二回続けて一回戦負け。(笑) そしてA&B級にも一度出たことがあり、そこでは優勝した。(爆) 一体、強いのか弱いのか分からない、自分でも...。

 そんな、良く分からない戦績を持った私が思うのは、やはり「運」という要素だ。十把一からげに試合や勝負のことを考えているわけではないが、少なくとも私のテニスのレベルで話をすれば、トーナメントでは、まず、組み合わせの運が占める率が全て、と言ってもいいくらいだ。(ちなみにC級二回連続初戦敗退の時の相手はいずれもその後の優勝者である。)
 
 繰り返して言うが、本当に抜きんでた力を備えた人の場合は、違う。「運」を引き寄せるほどの実力を持っているのだ、そういう人は。そして、逆説的に聞こえるだろうけれども、「運」を必要としないほどの技量と集中力を手にしたときに、その人は「強い人」になれるのだ(と思う)。
 と自分に言い聞かせつつ、おしまいっ!(笑) (これ以上書くと、とても説教臭くなるんで...。(爆))
(1999年6月 書き下ろし)
「目次」へ

No.44 ありがとうございました
 「思い起こすと一年ほど前、私ことHASENOBUは、ふと思い立ってホームページとやらを作ってみようか、という気になり、深く考えないまま、この『くまきの部屋』を開店しました。(店だったのか...?) その間、紆余曲折を経つつ、色んな人々との出会いもありました。叱咤激励してくれた人もいれば、かなり屈折した言葉をかけて下さった人もいます。さて、当初の目的も、どうにか果たしたかと思える今日この頃。このあたりが潮時ではないかと存じます。これまでの皆様の御声援を胸に、またいつの日かお会いできることを信じながら...。本当に、皆様...」

 と来れば、次に続くのは「ありがとうございました。」であろう。ここで「ありがとうございます。」と言うのは、何となくしっくりこない。それは「〜ました。」という表現と「〜ます。」という表現の違いのせいである。

 上司の部屋に入るとする。その時に何と言うか? ま、色んな言葉がありそうだけど、「失礼しますっ!」という言葉と「失礼しましたっ!」では、どちらだろう? って、わざわざ疑問文にしなくても良いのだが、この二つの中では前者だろう。
 では、用件が済んで出てゆくときは? ん? ここでも「失礼しますっ!」の方がふさわしいような気がするのだけれども...。どうだろう?(「失礼しましたっ!」と言う時は、何らかの自分の側の落ち度を指摘された場合、そしてそれを謝罪する場合であるようだ。)

 いや、何が言いたいかというと、「〜ます。」と「〜ました。」は、決して対立的なものではないということ、さらに言うと「現在」VS「完了・過去」ということではない、ということだ。と、これだけだと、また、かなり不完全な言い方なのだが...。

 と言いつつも、また別のことで。(笑) 「おはよう」という言葉はよく耳にするし、私も使う。これをもう少し丁寧に言うとどうなるか? って、これまた自明なことを、と思われただろう。「おはようございます」に決まってる...。

 ところが、決まってないんだなぁ、それが。(何だ? この書き方は...?(笑))
 私は、広島に来て何度も「おはようございました。」という言葉を聞いたことがある。初めてその言い回しを聞いたときには「ええっ...? 何...? 『おはようございました』って...?」と、それこそ天地がひっくり返るくらいに驚いたのだが。
 しかし驚いてばかりもいられない。それなりの理由を考えねば。(笑)
 ま、手短に言うと、結局は、これも「完了形・過去時制を使用することで丁寧さを高める」一例だと考えるのがいいのだろうなと思っているのだが。仮定法で would や could が用いられることなどを考え合わせてみるのもよいかもしれない。

 ま、これは論文じゃないので詳しいことは書かないが。

 あ、そう言えば「ありがとう」に関係することをもう少し。って、英語の Thank you という表現のことだけど。多くの人は Thank you=「ありがとう」と思っているかもしれないけれど、先に述べた「ありがとうございます」と「ありがとうございました」との差異のことも含めて、決して等価なものだと思ってはいけないし、さらには文脈次第では「ありがとう」とは訳してはならないようなこともある。

 例えばニュースキャスターがニュース記事を読み終えたときや演説者がThank you と言った時。これは「このニュース/私の話は以上です。」という意味合いである。(私の良く知る人物は、英語のスピーチの中で何度となくこの言葉を発し、その度に「やれやれ...。つまらないスピーチだったな...。」という安堵の表情のカナダ人たちから大きな拍手をもらっていた...。(爆)) また、先日のウインブルドンテニスの中継を見ていた人は気づいたかもしれないがポイントの合間でざわついている観客に向かって審判は繰り返しThank youと言う。これは、"Quiet, please. Thank you."の最初の文が暗黙の了解によって発せられず先回りして謝辞が述べられる、という興味深い使い方である。(つまり、まだ静かにしていない観客に向かっての言葉なのだから、もしも、その審判の言葉を訳すとすれば「ありがとう」では意味をなさない。そこは意を汲み取って「御静粛に!」とでも訳したいところだ。)

 ん...? え〜っと、何の話だっけ...?(笑) ま、いいか。(爆)
 最後にもう一つだけ。(爆) 冒頭のあたりを読んで、「おっ。いよいよくまきの部屋もおしまいか?」と色めき立った人もいるかもしれないが、今のところ、これを閉じる予定はない。(笑) そして、もしも閉じるとしたら、その時は前触れもなく消えますので。(爆) では〜!!
(1999年7月 書き下ろし)
「目次」へ

No.45 「そこ」力
 もちろん、この話は「底力」の話ではない。「そこ」の「力」(ちから)の話だ。

 日本語には、って別に日本語に限らないのだが、言語には「呼びかけ」として使える言葉とそうでないものがある。例えば "Mr. 〜" というのは呼びかけに使えるし「〜」の部分がなくって "Mister" だけでもよい。が、「先生!」と日本語では呼びかけられるが "Teacher!" とは、通常、言わない。(というか、言えない。)

 さて、みなさん(?)は、仮に子供がいたとしてその子を何と呼ぶか? たいていの場合、名前だろう。場合によっては「〜ちゃん」のように「ちゃん」付けで呼ぶかもしれない。(ちなみに私は、我が子を「〜ちゃん」やら「〜くん」「〜さん」と呼ぶのは変だと思っているが。ま、いいけど。)
 私の子供は私のことを「お父さん」と呼ぶ。では私は子供を何と呼ぶか?(あはは...。こんなのを疑問文で出されても...。(爆))
 大体の場合は名前だ。(もちろん、呼び捨てだ。) 時に愛称(「いずみん」及び「じゅそ」)でも呼ぶが。しかし、それだけではない。二人同時に呼ぶこともある。その時には「子供〜!」と呼ぶ。(爆) すると我が子達は「な〜に、お父さん?」とやってくる...。

 「こども!」というのが、呼びかけに使えない言葉だということは、私も重々承知している。が、これは一種の実験なのだ。(笑) 「通常『こども』という単語は呼びかけに用いられない。だけれども、言葉は慣習的なものである、というのなら、普段から『こども!』と呼びかけると、その違和感はなくなって行くのだろうか?」と思った私は妻の協力を得て(笑)、そのようにHASENOBU家では呼ぶことにしたのであった。

 そして、その実験結果。答えはイエスであった...。少なくとも私と妻のどちらも、子供のことを「こども〜!」と呼びかけることに違和感はなくなってきたし、そして子供たちは何の違和感も感じていない...。(子供たちには悪いことをしたかもしれない、とちょっと罪悪感を感じないでもないが...。)

 さて、「そこ」の話だ。(笑)

 これは、なんのことかというと、やはり今の話を関係あるのだけれど、通常、単独では呼称としては使えないような一般名詞(というか、普通名詞)絡みで使われる「そこ」のことだ。
 って、具体例を出したほうが良かろう。例えば女の子がいたとする。その女の子に「女の子っ!」と呼びかけたり「少女っ!」と呼びかけることは、まず、できない。が、たくさん女の子が並んでいて、その中の特定の女の子を指さしながら「そこの女の子!」や「そこの少女!」と呼ぶことはできる。(とは言え、この場合、普通の呼びかけではなく、注意を喚起するため、という感があるけれども。)

 学生達は私のことを「先生。」と呼ぶのだが、私は学生に向かって「学生。」と呼びかけることはない。(笑) だが、もしも授業中に私語をする学生がいれば「そこの学生! さっきから何をおしゃべりしているんですかっ!」と言うことはあり得る。(って、私の授業で私語をする者は、まず、いない。(笑))

 と、そういう意味で、「そこ」の持つ力のことを言いたかったわけだけど。

 もちろん、この「そこ」だって万能ではない。「そこの部下!」と言っている課長や部長の姿というのは想像しづらい。「そこの職員!」というのも、かなり違和感があるようだ...。

 さっきも言ったように、言語によっても異なる側面もある。英語では "Friend" は呼びかけに使えるけど、日本語では「友達!」と呼ぶのは変だ。(笑) 極く稀に「(わが)友よ。」と言えないこともないが、かなり状況は限られている。

 人を呼ぶときに、名前だけでなく、その役職、身分、(自分との)相対的な関係を表わす言葉などなど、その種類も色々あるし、またそれぞれに独特のニュアンスというのもある。ちなみに教職に就いている者の中には、自分を指す言葉として「先生は〜。」というような言い方を好む者もいるようだが、あれは、いただけない。(笑) ま、場合によりけりかもしれないけれど、高校以上の学校でそんなことはしてもらいたくないようにも思う。かといって、教員同士の呼びかけとしては「〜さん」よりも「〜先生」を使うのが、少なくとも同年配、あるいは年長者に向かっての場合は適切なような気がする....。(このあたりは私の中でもかなり曖昧だ...。)

 ま、呼びかけの言葉というのも考えてみるとなかなか面白いものだ(と思う、私は)。
 あ、ちなみに、日本語における親族名称の非対称性については、鈴木孝夫氏の『ことばと文化』(岩波新書)で触れられているので、是非是非、御一読をお薦めする。

 さて、この駄文はいかがだったろうか、我が読者よ?(爆)
(1999年7月 書き下ろし)
「目次」へ

No.46 余計な一言(1)
 まかせて欲しい。私の得意中の得意だ。(爆) だけれども今回は私の話では、ない。本の話だ。このところ、まともな専門書を読むことが少なくなった。かわりに良く読むようになったのは「雑学」絡みの本、あるいは「英語(学習法)」絡みの新書や文庫本、具体的には『言葉の不思議〜〜』だとか『日本語面白〜〜』といった類のものなどのことである。
 ま、これらの本は、乱発乱造という感もするのだが、成句の成り立ちなど「ふむふむ...。なるほどねぇ。」と、それなりに楽しめるし、「耳学問」という感じも味わえないこともない。
 だが!!(笑)

 索引がない、参考文献はあってもそれぞれの項の出典が明記されていないなどなど、手抜きのものがほとんどだ。ま、これは我慢しよう。(また偉そうなことを...。(爆)) 我慢ならないのは、往々にして、それぞれの項の締め括りに、実にどうでもいいような一文が加わっていることだっ!!(って、こんなに力まなくたっていいんだけど。)
 新書の方は、ま、編集者もしっかりしているのかもしれないからそういう例はあまりないのだが、文庫本の場合はいい加減な記述も多く、まさに無法地帯、野放しの状況を呈している。(そこまで言うか...?(爆))
 
 これだけじゃ何の話なのか分からないだろうから具体例を挙げよう、敢えて。(笑)

 「ヤッホー−−いつ誰が叫びはじめたの?」という項目を拾ってみよう。この見出しだけ見ると「ほぉ...。そう言えば不思議だな。誰だろ? 何でだろう...?」などと興味を呼び起こすから始末が悪い。(爆)

 で、以下、引用(出典は記さない)。便宜上(1)〜(6)までの番号を付す。

 昔から有名な登山家たちが数々の名言を残している。(1)「なぜ登るのか、それはそこに山があるからだ」というあまりにも有名な言葉は、エベレスト初登頂に成功したイギリスのヒラリー卿がいったものである。
 (2)さて、有名ではない私たちが山の頂上に着いたとき、叫ぶ言葉はだいたい「ヤッホー」。あまりにもおなじみのこの言葉、もともとドイツ語だ。つづりは johoo で、(3)もとは「ヨッホー」というかけ声。近代登山発祥の地はヨーロッパ。そのなかでもドイツ人はアルプス登山をはじめ、いろいろな山を征服したが、(4)そういったドイツ人が使いはじめた。日本にこの言葉が伝わったのは昭和の初期。(5)「ヨッホー」がなまって「ヤッホー」となった。(6)せめて言葉だけでも、登山王国ドイツにあやかろうとしたのだろう。


 さぁ、ここから私の本領発揮だ。(爆)
 まず、(1)。なぜここでヒラリー卿を持ち出すのか? 「ヤッホー」と関係があるのか? だが、その後を読むと全く関係はない。それなら、持ち出すなっ!!(笑) 紛らわしいだけだ。もしかしたら少しでも雑学が身につくようにという配慮なのかもしれないが、さっさと本題に入ってもらいたいものだ。(←これは自戒を込めて。(笑)) それに、その配慮があだとなることもある。この言葉はヒラリー卿の言葉ではないのだ。(爆) ヒラリー卿...。機関車トーマス...。いや、何でもない。
 この「そこに山があるからだ」というのは誤訳である。あまりにも人口に膾炙しているのだけれど(これについては前に本田勝一氏が指摘している文面を読んだことがある。また最近、『週間金曜日』においても同氏は「世紀の大誤訳」として記事を書いていた。)元の英文は "Because it's there."という文だそうだから、「そこにソレがあるから。」(本田勝一訳)となるべきだ。  そして、この言葉はヒラリー卿が発したものではなく、マロリーという名前の、やはりエベレスト登頂に執念を燃やすイギリスの登山家が言った言葉であり、もちろん、ここでの「ソレ」とは(前人未踏の)エベレストのことだ。そこいらの、どんな山でもいいのではないのだ。
 ちなみにヒラリー卿がエベレスト初登頂に成功した(1953年5月29日)というのは本当だが。
 あぁ...、(1)だけでブリタニカ百科事典を調べたりして時間も紙面(?)も使ってしまった...。以下、続くっ!
(1999年8月 書き下ろし)
「目次」へ

No.47 余計な一言(2)
 さて、気を取り直して話を続けよう。(笑)
 続いて(2)の記述だ。本当か、それは?
 本当に、私たちは山の頂上に着いたときに「ヤッホー」と叫ぶか? いや、そもそも山頂で何か言葉を叫んだりするか...?
 実は、私は学生時代に北アルプスの白馬の頂上付近で丸1カ月くらい住み込みでアルバイトをしていたことがある。このアルバイトのことを詳しく記すつもりはないが大学の1年、2年の夏休みのことだ。ま、夏山だし、白馬はそんなに険しい山でもないんで多くの登山者がいるのだけれど、その山頂で「ヤッホー」と叫んでいる人を見た記憶はないように思う。周りに他の登山者がいれば、なおさら、そんな言葉を叫ぶのは勇気がいる。いや、勇気というよりもツラの皮の厚さか...? いずれにしても、山頂で「ヤッホー」と叫ぶ理由など、常人にはない、と思う。
 多くの場合、満足げに周りの山々を見渡し、ふぅ〜っとため息をついて、しばらく腰を下ろした後、おもむろに記念写真を撮る、というのが良識ある行動だろう。そんな中で大声で「ヤッホー」だろうが何だろうが叫ぶ、というのははた迷惑も甚だしい。
 もちろん「山頂で『ヤッホー』と叫ぶ人は絶対にいないのか?」などと言われると困るが。中にはそんな酔狂な人もいるだろう。子供ならそうするかもしれないし、大人でも受けを狙って叫ぶ人はいるかもしれない。
 しかし、思うに「山頂で『ヤッホー』と叫ぶ」という構図は、一種の固定観念ではなかろうか...?

 続いて(3)だ。
 かけ声...? 何の? どんな時の? 
 例えば、日本語では「せ〜のぉ」という掛け声は「何か重いものを複数の人間で持ち上げる時などに、あるいは一斉にある動作を開始する(伴奏なしで歌を歌う場合など)に使用される」といったような特性があり、ある特定の場面と結びついている(と私は思う)。一体、ドイツ語の「ヨッホー」というのはどんな時に使われる、というのだ、もともとは? 私としてはそれを知りたいと思うのだが。(笑)

 (4)。「そういった」...? 「アルプス登山をはじめ、いろいろな山を征服した」ドイツ人、ということか? 本当か、それは? それに、さっきの疑問とも関係するが、なんでその時に「ヨッホー」なのだ?
 そして、それはいつ? まさか「山に登ったとき」と言うんじゃないだろうな...?(爆)
 見出しに「いつ誰が叫びはじめたの?」というからにはちゃんとした答えを出して欲しいものだ。「18**年に、****に初登頂した、ドイツの高名な登山家*******が、他に言葉を思いつかず歓喜のあまり叫んだ」とかいうような説明なら、まだ納得もできるが。

 そして(5)。「なまって」って...?
 「昭和の初期に伝わった」というのも良く分からないが。どうやって伝わったのだ? 外国でドイツ人と登山した日本人がその慣わしを持ち込んだのか? それともドイツ人登山家が日本の山に登ってそう叫んだ、ということなのか? そして「ヨッホー」とやらが、日本人の登山家たちが真似しているうちに「ヤッホー」と「なまって」いった、というのか?
 一体、ドイツ人は今でも山に登ったら周りの人の迷惑も顧みず「ヨッホー」と叫ぶのだろうか...?

 そして、極め付けの(6)。
 「あやかろうとしたのだろう」だって? 憶測でものを言うなぁっ!!(爆) (←実はこれが一番言いたかった。)
 それにいつのまにかドイツは「登山王国」になっているのだが、これも本当なのか?(笑) 確かに、登山用語にはドイツ語がたくさん使われている、と思う。だけれども、だからと言って本当に、この言葉が伝わったとされる昭和初期にドイツは「登山王国」だったのだろうか...?
 ちなみにブリタニカ大百科事典によれば「登山をスポーツとして始めたのはイギリス人だ」ということらしい。ま、ブリタニカはイギリスの事典だからそう書いてあるだけかもしれないが。(笑)

 と、まぁ、このように、一つの記事をとってもかなりの疑問が生じてくる。もちろん、全てが全て、まるっきりのデタラメ、作り話、という訳ではないだろうが(笑)、あくまで「読み物」として楽しむ、程度だと思った方がいいんじゃないか、という気がする...。あるいは、完全に捏造された、他愛もないものだと割り切ってしまうか。(爆)
 いずれにしても、くれぐれも「活字になっているから、それだけで信用する」ということの決してないように。(笑)
 もう続かないっ!
(1999年8月 書き下ろし)
「目次」へ

No.48 よ力
 もちろん、これは「余力」ではない。(ワンパターンだ...。)
 ま、いわゆる終助詞としての「よ」のことだ。この言葉も色んな使い方があってなかなか面白いと思う。
 すぐに思いつくのは「そうだよ。」やら「行こうよ。」などの使い方だろうが、ちょっと考えるだけでもこの言葉が付くことによって微妙なニュアンスが生まれてくるようだ。

 で、考える前に、手元にある『現代国語例解辞典 第二版』(小学館)を見ることにする。残念ながら主見出の中には説明がなく、巻末の付録の助詞・助動詞解説を参照するようにと指示があり、それを見る。以下、引用:

 〔終助詞〕
 風は過ぎし日の歌をばささやく<米山正夫「山小舎の灯」>
  いろいろな語について
  「遊ぼう」「京都は日本の古い都だ」のように語調を整える。
 ⇒「たとえば今地震が起きたらあなたはどうします」のように間投助詞としても使われる。

ふむふむ...。物足りないなぁ、この説明じゃ...。(笑)
 「よ」が使われるのは「語調を整える」ため...? う〜ん、そういう時もあるかもしれないけれど、そうじゃないときの方が多いような気がするけどなぁ...。
 例えば「遊ぼう」というのと「遊ぼうよ」とを較べると、前者が単なる提案であるのに対して後者は、提案を却下・無視されて、それでもめげずに「ねぇ、遊ぼうよぉ。遊ぼうったら!」としつこく食い下がっているような場合、というようなニュアンスも感じられるのだが。(ちなみに、この「〜ったら」も面白い表現だ。いずれ「たら力」という駄文を...。(笑))

 相手に何かを言われて「それはそうだ。」と応じれば、それは「今、言われて気付いた、納得した」という感じが強いが「それはそうだよ。」と言えば、「当然じゃん。そんなのは分かっていたよ」という状況だ(と思う)。

 それだけじゃない。(笑) 例えば、提案や勧誘ではない、正真正銘の命令文の場合だ。先に指摘したように、「よ」を付けることでしつこく言い張る感じが加わるのはもちろんのことだ。(例えば「書け」というのと「書けよ」というのではやはり後者の方が押しが強い。) 
 話はちょっとそれるが、自制可能ではない動詞の場合は基本的に命令文にできない。英語の例であるが、"Be kind to 〜." という表現は可能だが Be tall. などはダメだし、"Stand up." は問題なくとも、"Know a song." というのはダメだ。詳細はここでは論じないが、日本語でも命令形にすると変な動詞はある。複合的な動詞であれば特に違和感もある。
 「頑張る」を命令形にすれば「頑張れ」だが、「張り切る」はどうだろう? 「張り切れ」? 「張り切ろ」? 私にはどちらもしっくり来ないのだが、どうだろう?
 だが、これに「よ」をつけた「張り切れよ」は、何となくだが、少しだけ許容される可能性が高いように思える...。気のせいかな...?
 他にいい例が思いつかないのだが、これをもって私は「よ力」と名付けたい。(爆)

 あ、国語辞典といえば何と言っても『新明解国語辞典』!! 第五版の定義を引用しておこう:

 主体の意志・感情・判断・意見などを強く相手に押しつけようとする気持ちを表わす。

ふむふむ...。これはかなり納得できるなぁ...。(笑) 前半部分はかなり曖昧で広範囲だけど、「強く相手に押しつけようとする」というところなどはもろ手を上げて賛成だ!!(笑)

 以前、書いたとある御老人が「そうでしょうよ」を連発するのに感じた違和感は、意味なく強く押しつけられたからなのだ。(笑)

 う〜む、また他のことを考えたんだけど、「待て」というのと「待って」というのは、かなりニュアンスが異なるなぁ...。もちろん「待てよ」というのと「待ってよ」というのも。促音便が作用しているようだ...。「持て」と「持って」などもそうだなぁ。他にもあるかなぁ...。あるだろうなぁ...。また暇なときに考えようっと。(笑)
(1999年8月 書き下ろし)
「目次」へ

No.49 見切る
 いきなりだが、訂正だ。この前、髪を切って、それは「スポーツ刈り」だと書いた。決して間違いではないが、さわやかさに決定的に欠ける私としては「いがぐり頭」と言い直しておきたい、はい。
 ちゃんとネクタイを締めスーツを着ようとした。だが鏡を前にして思った。「これじゃ、まるで田舎のお寺から都会に出かけるお坊さんだ...。」
 そこで、サングラスをかけ、奇妙な帽子を被ってみた。そして鏡を見て思った。「これじゃ、『世の中の裏街道を歩いております』って感じだ...。」
 自分としては前者のイメージの方が、どちらかと言えば、より好ましいのだが。
 
 さて、今宵の拙僧の話は何にするかのう...。(←すっかりその気になっている...。(笑))
 おぉ、そうじゃった、そうじゃった。(し、しつこい...。)

 普通モードに切り替え。私の考える「見切る」ということについて。
 通常、「見切る」と言った場合には、う〜ん、そうだなぁ、多分「全て見終えてしまう」ということと「あるものを、価値がないものとして見限ってしまう」ということを意味するのであろうが、それ以外に提唱しておきたい。(爆)
 
 もともとの話は学生時代に読んだ、とあるマンガの中の話だ。作品名は忘れたが、本宮ひろし氏のものだったように記憶している。
 はっきりと覚えていないので、私なりに再編成しておく。
 例えば、家の廊下に新聞紙でも何でもいいから幅20cmくらいの紙を、そうだなぁ、ま、2mくらい並べて置くとする。そしてその紙の上を歩く。(笑) 何てことはないだろう。酔っていなければ目をつぶったままでも歩けるはずだ。
 次に、このような状況を想像して欲しい。崖と崖の間に一枚の板が渡されていて、それは先ほどの紙と同じサイズだ。ところが、その崖から谷間を見下ろすと、底が見えないほど。一歩踏み外せば真っ逆さま。もちろん、あの世行きだ。そんな所にその板は置かれているのだ。いくら風がなく、突風が吹くこともない、と分かっていたとしても、その板の橋を歩いて渡れるだろうか?
 行なう動作に差異はない。ただ、まっすぐ、歩くだけ。
 だけれども、場面が崖、となると、何となく足がすくみそうだ...。「もしも足を踏み外したら...。」という思いの方が先行してしまって仕方ないような気がする。
 
 しかし「見切る」ことができる人には、問題はない。場所が廊下であろうが、崖であろうが変わりはない。行なうのは、ただ、幅20cm、長さ2mの範囲内を歩くだけ、なのだから。そのことの本質(?)には、何ら変わりはないのだから。

 ちなみにHASENOBUはテニスプレーヤーだ。「テニスは緊急事態の連続のスポーツである。」と良く言われる。野球のように相手が狙いを定めて指定範囲内の所に投げてきたボールを打つ、というのでもなく、ゴルフのように止まっているボールを打てばいい、というのでもない。そんな中で、唯一、自分のリズムで打てるショットがある。それは「サーブ」だ。サーブは、自分で好きなようにトスを上げ、そして自分のタイミングでラケットを振り、放つことができるものなのである。
 ところが、ゲームの大事な局面となると、これがまた一筋縄では行かなくなるのだ...。「このセカンドサーブを入れそこなったら、負けだ...。」というような状況。身体の動きがぎこちなく、トスを上げる手もラケットを振りだす手も委縮してしまいそうな重圧のかかる場面...。
 こんな時に、私は、先の「見切る」ことの大切さを思うのだ。

 必要以上に恐れてはならない。そしてまた、必要以上に見くびってもいけない。ただただ、あるがままに受け止めたいものだと思う。その、対峙するものがどんなものであろうと、どんな状況であろうと。

 ということで、説教話が自己決意に終わりましたが、ま、いいでしょう。(笑) 
(1999年8月 書き下ろし)
「目次」へ

No.50 いい草
 漢方薬などに使われる有用な草のことだ。あぁ...、書いていて虚しい...。(なら書くなよ、オレ...。) 「草」にいいも悪いもない。本当は「言い草」のことだ。(わざと無変換までしておいて...。(爆))
 
 「何だよ、あの言い草は!」と言ったりする「言い草」だ。毎度ながら私の勝手な辞書的定義を出すとすれば「ものの言い方。特に、言われた内容そのものよりも、その表現方法が、それを受け取る側の人間の感情を逆撫でするような言い方を指す」とでもなるかと思う。(あはは...。今、適当に考えたんだけど。)

 さて。(何だ?) 
 読んでいてとても「むかつく」ことが多い文章がある。ま、人によりけりで、ある人にとっては何でもないけれど、別の人にとっては読んでいてイライラしてしまう、というようなものだが。
 例えば、私の「くまきの部屋」の駄文群もそうだ。「いつまで経っても本題に入らない。」「煮え切らない態度が読む人を疲れさせる」「人をおちょくったような表現が散見されてイラつく」「一方的なものの見方が気にくわない」「そもそも真剣なのかふざけているのか、判断に迷う時がある」などなど。これらは私のところに寄せられた苦情のメールのほんの一部だ...。(あぁ、また嘘八百並べた...。(爆) 意外に思われるかもしれないが、私のところには「苦情のメール」は、滅多に(笑)来ない。今、並べたのは私が自分で思っていることだ。)←こういうのがその例だ。(笑)

 で、唐突だが千葉敦子氏というジャーナリストがいた。私は彼女のことをほとんど知らない。氏は数多くの著作を遺しているが、私はまだ二冊しか読んでいない。『ちょっとおかしいぞ、日本人』と『寄りかかっては生きられない −−男と女のパートナーシップ−−』だけだ。前者はかなり前に一度読み、最近読み返したばかりである。後者は、つい最近、古本屋で文庫本を見つけて読んだものである。(ちなみにガンの闘病記のようなものも書かれているが、あまり読む気にならない。)
 
 この千葉敦子氏のことは、実は本題じゃないので(笑)、軽く流しておきたいが、彼女の文章もなかなかイラつかせるものである。(爆) 特に『ちょっとおかしいぞ、日本人』では、アメリカ文化を引き合いに出しながら「どうして日本人の男性は〜〜〜なのかしら?」といった感じの(私にとっては)嫌みったらしい言い草のオンパレードだ。ちなみに「パレード」を(二重母音を意識してだろうが)「パレイド」と表記するような点も、嫌だ。
 しかし「アメリカかぶれ」的な部分を取り除き、さらに氏が独自の「かなりいびつな日本人男性像」を持っていることを差し引いて考えると、千葉氏の主張は概ね、正論だと思う。(おいおい...。すごいことを書いているぞ、私は...。) ま、それはともかく、『寄りかかっては生きられない −−男と女のパートナーシップ−−』という「女性の生き方」「女性の権利」、さらには「新しい男女関係」などを論じた著作の中で、氏は、私の嫌いな鈴木健二氏の「気くばりのすすめ」を槍玉にあげている。(笑) さらに「草柳大蔵」とやらいう人の「女性論(?)シリーズ」にも噛み付いている。読んでいて、実にスカッとする(笑)思いがした。

 以上が前置きで、では、そろそろ本題に入る。(爆)
 
 先だって、とある人が、この種の話題で「鈴木某やら草柳某の本など読む気にならない。お金を出して買う人の気が知れない。古本屋で百円均一で並んでいても絶対に買わない。」と言った。(笑) それを聞いた私は今度機会があれば買ってみようと思った。(爆) 鈴木某の『気くばりのすすめ』は、ず〜っと前に(買ってはいないけれど)読んだ記憶がある。(このことについては前にも書いた。) 草柳某については、初めて知る名前だったのだが千葉氏の著作の引用からすると、この人もかなり閉塞した精神の持ち主(爆)のようで、好奇心がそそられる...。

 ということで、昨夜、古本屋にでかけたところ、あるある...。百円均一の山の中に、ベストセラーであった『気くばりのすすめ』が何冊も...。鈴木氏のおぞましい笑顔がリアルに描かれた精密画(?)の表紙のその本を手にするのは少し勇気を必要としたが...。
 また、もう一方の雄(爆)、草柳某の著作もゴロゴロしていた。そこで前の読者が真剣に読み込んだ形跡のない本を一冊買うことにした。(一応タイトルを記すと『25歳までのマナーの本』という書籍だ。「一応」と書いたのは、何種類か手に取ってパラパラと斜め読みしたところ、どの本も同じような内容の、同じようなものだったからだ。)
 
 確かに、読みたい、という起こさせない本だ...。まだ共に50ページ辺りくらいまでしか読んでいないのだが、既に私はうんざりしている...。
 「オアシス」...。もちろん砂漠のオアシスのことじゃない。例の「オハヨウ」「アリガトウ」「シツレイシマス」「スミマセン」の頭文字を並べた、あの「オアシス運動」のことだ...。初めてこれを聞いた小学3年生頃の私がその当時すぐに見限ったというのに、この草柳某はまだ拘泥しているのか...?(だが、この言葉がもともとは山口のとある町の老人クラブから始まった、というのは知らなかった。しかも、最初は上の4つではなく、「シ」は「シアワセデスカ」だった、というのも...。しかし「町でゆきあった人に」いきなり「シアワセデスカ」なんて声をかけるのはかなり無気味なことのようだが...。町を歩いていてそんなことを知らない人から言われたら「ん? 宗教の勧誘か?」としか私は思わないが。)
 鈴木某の方も似たり寄ったりだ...。「忙という字は心が亡びると書くのである」か...。はぁ...。(←これはため息) ど〜んと疲れてしまう...。

 せっかく本題に入ったところだが、書く気が失せてきた...。(爆)
 ということで、続編があるかどうか未定のまま、いきなりおしまいっ!!(笑)
(1999年10月09日 書き下ろし)
「目次」へ inserted by FC2 system