雑文 Part 6

目次
No. 51 言い方
No. 52 いつもの、を...
No. 53 タイトル考
No. 54 歯医者さん恐い
No. 55 今日、吉野家で...
No. 56 美礼に編む
No. 57 between the word & the heart
No. 58 おみやげ
No. 59 帰ってきた
No. 60 私には分からない
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No. 51 言い方
 実は、これは雑文 Part5 のNo.50「いい草」の続篇である。
 本当は「もう、書くまい...。」と思っていたのだが...。(笑)
 「あの続きはないのですか?」という、質問とも要請とも取れることをとある人から言われたのだ...。(笑) だから、ってわけじゃないけれども。

 前回、私が無理して買って読もうとした本。実は、その後、全然、読み進んでいない。(笑) その後に買った本はもう何冊も読んだけれど。
 もう、読む気がしなくなったのだ、はっきり言うと...。(爆) 特に草柳氏の方のは、ひどい...。
 前回は「読んでいてイライラする」というようなことを書いたが、本当にそうだし、もう呆れてモノが言えない、という所まで来ている。というか、読んでいると気分が悪くなる。

 くどくどと書きたくないので、簡潔に。

 まず、草柳氏の書き方が嫌だ。もう、これは「生理的に」と言いたくなるほどだ。(爆)

 例を出そう。
 氏の表現方法、というか、書き振りはかなり異様だ。別に「です・ます」口調と「だ・である」口調とを混同してはならない、とかいうことではない。ま、確かにどちらかに統一しておいて、そして時折逸脱する、ということで表現を豊かにする、という手法はあるし、私だってそうしている。
 だけれども、草柳氏の場合、もう、ただ、思いつくまま、ぞんざいな書き方、という印象がどうしても拭えない。ためしに、無作為に選んだページの文末のあたりだけを並べてみよう。

 〜大きかったのです。
 〜ものです。
 〜すわりがよい。
 〜なるのです。
 〜なるんです。
 〜言いますしね。
 〜しているんだって。
 〜と答えたんですって。
 〜てもいいんじゃないかね。
 〜もした。
 〜だそうです。
 〜なんですって。
 〜が見られるね。
 〜わかるだろう。
 〜している風景さ。

...。あ〜、自分で書き写していてイヤになってきたぞ。(爆) 念のため言っておくが、上記の言葉は本当に同一のページの二段落あまりの文面からのものである。さらに言うと「会話」の文面ではなく、地の文、なのだ!(笑)

 「一体、何者なんだっ、この人は?」と叫びたくなるこの私の気持ちがお分かりだろうか...?
 もしかしたら口述筆記の本なのか...? 推敲はしたのか...? ひょっとしたら「語りかけるような文体」というのを狙っているのかもしれないが。(ただし、その狙いは大きく外れている...。)
 それにしても、である。(笑) いや、本当に、笑いしか出て来ない...。ちなみに氏は「東京大学卒」とのこと。しかも「雑誌編集者、新聞記者を経て執筆活動に入る」との経歴も。しょうはち先生の話でも書いたけれど、東大も戦後の頃は大したことはなかったとよく言われる。これは、もう、間違いないことのようだ。(もちろん、すぐれた人材がいたことも間違いないけれど、そうでない人も、確かにいたようだ。)

 あ〜。(←うんざりした気分と、腹立たしさとが混じったうなり声。)

 この人の嫌なところの元凶は、やはりその言い方なのだ。(もちろん、語られる内容のほとんどもそうであるけれど。)

 「私の経験を話そうか。ベルリンに行ったときのことだ。」

 いや、結構。聞きたくないです、と反発したくなる...。

 「こんなこと、ヨーロッパでやったら笑われるよ。」

 ほっといてくれ。人に笑われることは悪ではない。その土地それぞれの流儀があるだろうし。それに、なんで「ヨーロッパ」を引き合いに出すのか? アフリカじゃどうなんだ? 南米では? 中央アジアでは? 氏の文面には西洋コンプレックスが随所に溢れている...。

 気を取り直して(笑)、もう少しパラパラと読んでみた。おっ、「三浦綾子」の名前が出ている! 私の大好きな作家の一人だ。
 だが、それを読んで、腹が立った。(爆) ちょっと引用:

 作家の三浦綾子さんに札幌でお目にかかったとき、キリスト者としての「思いやり」の話になった。三浦さんはこう言った。
「ホウタイを巻いてあげられないなら、人の傷口に触れるな、ということだと思います。」

簡潔ながらも的を射た素晴らしい言葉だ...。さすが三浦綾子氏である...。と、感動していたら、その次の行:

この言葉、キミに上げる。心にしまっておいて、ときどき、使ってみたら。

おいっ!!(爆) 何の権限があって三浦氏の言葉を「キミに上げる」などと言えるのかっ!!

 (私自身のことはさておき(爆))反面教師として偉大な草柳氏...。

 あ〜、もう止めた。かつて味わったことのないほどの虚しい気分になってきた...。もちろん、続篇は、もう、ないっ!
(1999年10月25日 書き下ろし)
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No. 52 いつもの、を...
 いたって普通の歩調で男は階段を上る。
 早すぎることもなく、また遅すぎることもない足取り。軽やかでもなく物々しくもない。この店に来ることは男にとって格段喜ばしいことではないし、もちろん気の滅入ることでもない。彼にとっては、ありふれた日常の中の、ありふれた情景の一つに過ぎない。
 男はノブに手をかけドアを開けた。かすかにドアがきしむ音を立てる。
 「いらっしゃいませ。」
 カウンターの向こうから、軽い目礼のような仕草とともに、初老のマスターの落ち着いた深い響きの声。店内には例のごとく60年代のジャズが控えめな音量で流れている。もちろんカラオケなどこの店には置かれていない。
 店には先客が一人いた。初めて見る若い女性客だ。彼女をちらりと見やって、カウンターの離れた席を選ぶ。
 鞄を床に置き、背の高いスツールに腰掛けた男はジャケットからタバコを取りだしながらマスターに言う。
 「いつもの、を。」
            (以上、「かりそめのスウィング」 『HASENOBU作品集Vol. 2』より引用)

...。あ〜...。(←ため息)

 やはり私にはこのような文は書けないや。(笑) 陳腐なセッティング、固定観念にどっぷりと浸されて取りだされたような風景しか思いつかない...。(爆)

 でも、何となく「おお...。ハードボイルド...。」って感じはあったでしょう?(え? 全然なかった...? (T_T))

 ついこの前のことだが、私は(ネット上で)とある人と話をしていた。すると、その人は、飲食店で「いつものを」と注文するのは「ハードボイルド」で、いつかそういうタイトルで書いてみたい、とおっしゃった。
 ふ〜む...。私は、今までたくさんの駄文を書いているけれど、そんなことを思ったことはなかった。ここで言う「そんなこと」というのは「タイトルを決めておいて、そして、書く」ということだが。私の場合には、何らかの「ネタ」があって、思いつくままに書きなぐり、そして最後の最後に(実にいい加減な)タイトルをつける、という手法(?)なのだ。

 で、気を取り直してもう一度。

 男はのれんを右手でさっとかわして店内に入った。
 「へぇい、らっしゃいっ!!」
 親爺さんの威勢の良い声が店内に響く。有線放送からは安っぽい歌謡曲。その素っ頓狂な若い歌手もどきの歌声とテレビの連続ドラマの音声とが入り交じって雑然とした雰囲気に拍車をかけている。
 男はおでんの鍋の近くの席に陣取る。そして揉み手姿の親爺さんに声をかける。
 「いつものをお願いします。」
 「へいっ!! 少々お待ちをっ!!」
 しばらくして男の前に、醤油味大盛りラーメン、卵入りが置かれる。麺は親爺さんに頼んで普通よりも少し堅めにゆで上げてもらったシャキシャキ感の歯ごたえある仕上がりだ。男は満足しながら麺をほお張り、そして呟く。
 「うむ...。これもハードボイルド...。」
            (以上、「鯉のぼりの悲劇」 『HASENOBU作品集Vol. 6』より引用)

...。うん、こちらの方が私らしいや。(笑)

 あ、念のため。(何のため?) 上の「かりそめのスウィング」、「鯉のぼりの悲劇」やら『HASENOBU作品集』なんて実在しませんので...。(爆)

 で、何だったんだろう、この雑文は? 
(1999年11月3日 書き下ろし)
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No. 53 タイトル考
 前回は図らずも「文化の日」にふさわしい崇高な文章であったが、今回もそれに優るとも劣らぬ格調あるものになりそうな気がする。(ん...? 今、誰かそこで笑った?(爆))

 前々から思っていたことだが、曲のタイトルというのは、かなり変だ。いや、別に演歌の曲名だとかのことではなく、洋楽の、である。

 ま、これは音楽に限らず、洋画などでもそうなのだろうが、原題と日本語のタイトルが大幅にずれている、というようものが多いように思う。ともに不得意分野なのであまり詳しくは分からないのだけど。

 例えば邦題「落ち葉のコンチェルト」というアルバート・ハモンドの曲。これの原題は "For The Peace Of All Mankind" だ。一体どこから「落ち葉」などを持って来たのだろうか...? 原詩を見ても取り立てて秋を彷彿させるようなものでもないし...。
 グローバー・ジャクソンJr. の名曲 "Just The Two of Us" は、なぜか「クリスタルな恋人たち」である...。(爆) ま、この曲の歌詞の中には crystal raindrop という言葉はあるけれど。でもねぇ〜...。その歌が流行ったころ、田中なんとか(?)の『何となくクリスタル』(だったっけ...? 読んでないんで知らない...。)が売れていたのかなぁ...。それにしてもねぇ...。
 サイモンとガーファンクルの "Bridge Over the Troubled Water" が「明日に架ける橋」となるというくらいなら、まだ、納得できる。

 「愛と青春の〜」やら「きらめきの〜」なんてのもありそうな気がする...。(ちなみに「愛と青春の旅だち」(って、知らないんだけれど)のオリジナルタイトルは "Up Where We Belong" である...。

 その一方で、「おぉ...、なるほど!」と思うようなものもないわけではない。シカゴの "Hard To Say I'm Sorry" は「素直になれなくて」というタイトルがつけられていて、思わず唸ってしまう。(もちろん、いい意味で、だ。) きっと他にもあるのだろうけれど、良く知らないんでもう書けない...。(笑)
 
 だけれども、最近では(何となく、だけれど)昔のような(?)、とんでもない、取ってつけたようなタイトルは少なくなって、原題をそのまま、あるいは少し省略して使う、というような傾向にあるようだ。(もちろん、カタカナ表記で、だが。) まるで無関係なタイトルを捏造したり、あるいは、無理にそのまま訳したりするよりはましだと思う。

 「無理にそのまま訳したり」というので思い出したのだけれど、(ず〜っと前に書いた)私の恩師の一人、しょうはち先生は、ビートルズの "Help" を「助けて!」と、ジェームズ・テイラーの "The Southerner" を「南部人」と訳していた...。(爆) 一体、何を考えているんだか...。

 ん...? どこが格調高いのかって?(笑) それは言いっこなし。(意味不明)
(1999年11月6日 書き下ろし)
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No. 54 歯医者さん恐い
 自分でもあまりに情なくって嫌になるのだが、私は、歯医者さんが恐い。って、別に落語の話をしたい訳じゃない。心の底から「歯医者さん恐い」なのである...。

 もちろん、個人的には、つまり、診察室、治療台(?)を離れた歯医者さんとなれば話は別だけれど。(当たり前だ...。)
 この春、奥歯の方が少し痛くなった。「あぁ〜...、歯医者さんに行かなきゃ...。」と思いつつ8カ月(爆)が過ぎた...。いつの間にか痛みはやわらいでいったのだけれど、虫歯が自然治癒する訳がない。
 そして、先日、イカフライを食べていたときに(笑)、奥歯の詰め物が取れる、という状況になって、とうとう観念した...。私は歯医者さんに行くことを決意したのだ。(そんな、大袈裟な...、と思うかもしれないが、本当に、だ。)
 何度かの通院、治療の末、やっと今日、終わったのだ...。

 あ〜...。(←安堵のため息)

 で、歯医者さんの何が恐いかというと、まず一つは注射である...。
 前にも書いたが、私は、注射が大の苦手なのだ...。子供の頃から嫌いだった。(ま、注射が大好き、というような人物はあんまりいないと思うけれど。) 大きくなれば、大人になるにつれて、この「注射恐いよ〜病」は治る、克服できる、と思っていたのだけれど、少なくとも今の時点までは、否、である...。健康診断で採血のために注射をされる時も「ちょっとちょっと、そんなに力を入れないで下さい」と看護婦さんにたしなめられてしまう始末である...。
 毎回、歯医者さんでの治療の度に注射される訳じゃないけれど、恐い...。特に歯茎にされる注射は...。テレビのドラマなどで、誘拐された女性が何らかの薬品をしみ込ませたハンカチで意識を失う、というような場面があるけれど、私も歯茎に注射されるよりは意識を失いたいものだ。(おい...。(爆))
 
 しかし、この注射と並んで恐いのが、あの「キュルキュルル〜ン」(?)という世にも恐ろしい音を立てる、あのドリルみたいな治療器具だ...。正式な名称は知らない...。まさか穿孔機...?(爆) 掘削機...?(爆)
 ま、その名前が何であろうと、あれは、恐い...。
 もちろん、歯医者さんがあの装置で治療をしているのだ、ということは重々承知している。(これも当たり前だ...。) だけれど、あれで歯を削られる時、特に、痛む歯の神経に突き刺さるような感触を味わう時のことを思い出すだけで身震いしてしまう...。
 だから「痛かったら手を上げて知らせて下さいね。」と歯医者さんに言われ、そして、例の機械が口に入った時点で思わず手を上げてしまい「まだ何もしてませんよ。」と呆れられたりするのだ...。

 そして...。
 ここから先は、本当に馬鹿げていると思うのだけれど、そのドリルのようなもので治療されている時に、もしも大きな地震が起こったら...。いや、極端なものでなくったっていい。ぐらっと来て、歯医者さんの手元が狂ったら...。補助をしている歯科衛生士(?)のお姉さんがくしゃみをしてしまって、私の口元を動かしてしまったら...。突然、歯医者さんが意識朦朧となったら...。
 こんなことを考えているときりがない...。(爆)

 そして...。
 ここから先は、さらに馬鹿げていると思うのだけれど(爆)、治療されている時の、自分の舌の位置をどうすべきなのか、なぜか困ってしまう...。ま、「普通」(?)にしていればいいのだろうけれど。できるだけ邪魔にならないようにと、奥に引っ込めようとして妙に力を入れてしまうのは私だけだろうか...? 
 と、こんなに舌先に力を入れてしまうのは、自分でも恐いのだけれど、ほら、例えば歯の間に何かが詰まったり挟まったりした時に、舌先でレロレロ(笑)としたりすると思うけれど、あれと同じことを、例のドリルが入っている時(すごい表現だ...)にやってしまいそうになるのだ...。
 それをやったらどうなるのだろうか...。しちゃいけない...。絶対にそんなことをしたらいけない...。きっと取り返しのつかないようなことになってしまう...。あぁ、分かっているのに、それでも...。まるでたちの悪いジゴロに引っ掛かって堕ちてゆく女のような心境...。(変な喩えだが...。)

 「ダメだ。今、舌先を動かしちゃ...。」と自分に言い聞かせる。だけれど、あぁ、自然に舌先が今、掘削中(爆)の個所にだんだんと忍び寄って行ってしまったら...。というようなことを考えたりするものだから、妙に舌に力が入ってしまうのである...。(もちろん、その時は全身の筋肉が緊張している。治療台のひじ掛けを掴む私の手には満身の力が込められ、そしてスリッパの中のつま先にまで力がはいっているのだ...。)

 というような具合で、歯医者さんに行くと、精神的にも肉体的にもど〜んと疲れてしまう...。治療が済んだ後はしばらく放心状態になってしまう私なのである...。
 最近、「落ち」のない文を書くことが多くなった...。
(1999年11月17日 書き下ろし)
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No. 55 今日、吉野家で...
 これまで、この「くまきの部屋」ではできるだけ自分の頭の中から出て来たことだけを書き連ねてきた。って、それは当たり前のことではあるが。(笑) だけれども、前にも書いたように、全てが全て私の完全な創作、という訳でもない。知らず知らずのうちに私の中に取り込まれた情報(それらは私の40年近くの人生経験(?)はもちろんのこと、読書やその他諸々の事物や人物との関わりの中で得られたものだ)が、自分でも意識しないうちに出て来てしまっているということもあり得る。(って、これも当たり前のことなんだけれど。)
 「自分の書きたいことを、自分の言葉で」というのをモットーとしていたわけであるから、何かの書物などから引用をすることはできるだけ避けてきたつもりである。だけれども、今回の話は、ちょっと、引用部分が多いことを御承知おき頂きたい。

 今日の午後、所用で広島市内に出かける用事があった。時間が決められていたわけではなかったこともあり、途中の、吉野家に寄って昼食を取って行くことにした。
 実を言うと、私は食事中に本を読む、という自分でもはしたないと思う癖を持っている。もちろん、三食必ず読書しながら、という訳ではなく、昼食時に出かけるお店で、である。(それでも、ちょっと品がない行為だと自覚しつつ...。(笑)) 一種の活字中毒だと言ってしまえばそれでおしまいだが...。
 で、今日も、出かける前に鞄に忍ばせた三浦綾子氏の『生きること 思うこと』という随筆集を手にして吉野家に入ったのだった。

 三浦綾子氏は、この前も書いたのだけれど、私の数少ない好きな作家の一人である。と言っても氏の小説を全て読破したわけでもなく、私が読んだのは十作にも満たないだろう。だけれども、どの作品も胸を打つものばかりであった。小説以外でも氏の文面には、飾らない人柄が滲み出ていて、繰り返し読みたくなってしまうものが多い。そして、この『生きること 思うこと』も(恐らくは十年以上)前に読んだことがあるものであった。

 さて、午後2時を過ぎていたというのに、祝日であるせいか、吉野家はほぼ満席に近い繁昌振りであった。だけど、さすがは吉野家、注文して1分もしないうちに目の前には品が揃った。
 箸を手にしつつ、パラパラと本を開いて読み始めるHASENOBU。
 だが、途中で私は、じ〜んと来て牛丼が喉を通らなくなった...。目の前の丼の模様が揺らいで見える。カウンター席で食べかけの牛丼を前にして箸を持ったまま口をぐっと食いしばり懸命に涙をこらえる謎の中年男...。(爆) 自分でもかなり異様な光景だったと思うが...。
 その時に私が読んだ個所は次のようなものである。
---以下、引用:

 小説を書く以前、わたしは雑貨屋を経営していた。近所には家もまばらで、田圃の中に店を開いたようなものである。ところが二年たち三年たつと、家が次第にふえてきた。
 パーマ屋、理髪屋もできた。風呂屋もできた。そして、すぐ目と鼻の先に同じ雑貨屋が開店した。その店のほうが立地条件がよい。バス停の前である。
 あまり競争意識のないわたしも、いささか、この店の出現は気になった。
 すると三浦が言った。
「綾子、仕入れを控えろよ。」
「あら、どうして? 仕入れをふやして品物を多くしなければ、お客さんがこなくなるわ」
「それでいいんだよ。なるべく、向こうの店にございますから、向こうへおいでくださいと言うんだよ」
「そんな、ばかな。そしたら、この店がつぶれるわ」
「つぶれてもいいよ。隣人を愛せよだ。あちらは子供さんもいることだし、店がはやらなければならないのだ。こちらは二人っきりで、わたしの給料で食べていける。なるべく店の仕入れは控えるんだね」

---以上、引用

 他言無用、というよりも、多言無用だ。
 三浦綾子氏も好きだし、私が尊敬する人物なのけれど、彼女を常に支えていた三浦光世氏も、心から尊敬したい人物だ...。

 キリスト教を抜いて(?)しまったとしても三浦綾子氏の書く文章(小説であろうと、エッセイであろうと)の中のメッセージが虚ろなものになるとは思えない。(キリスト教のことを深く知らずしてこんなことを言うのはおこがましいのだけれど)それこそ、全てを包み込む大きな愛、というものを氏の文面の中に感じないではいられない。
 
 私が上の引用の個所を読んだときに、なぜ心の底から感動したのかを理屈をこねまわして述べたりはしない。ただ、「あぁ、こういう考え方もあるんだ...。そしてそれを実践する人達がいるんだ...。」というような衝撃だったのかもしれない。
 十年以上前に読んだはずだが、このエピソードのことは心に残っていなかった。ふむ...。ということは、この十年ほどの間で、私が、このエピソードに心打たれるほどの変化が私の中に起こっていたということだろう。それが成長によるものであったのか、あるいは堕落によるものであったのかは、私には分からない。

 先日(って、もう前のことだけれど)三浦氏が亡くなった。だけれどもそれを知ったときに私は「ええっ...!? そ、そんな...。」と焦ったりはしなかった。きっと、彼女は、やるだけのことをやっていただろうから。遺すべきものは遺していったであろうから。
 だから、この駄文を彼女の御霊に捧げようなんて、これっぽっちも思っていない。氏は、充分に地の塩であったと私は思うし...。
 ということで、この文面は、隠密の約束の相手H.T氏に...。って、別にこの話の内容をH.T氏に言い聞かせたいから、ということではなく、私としては久し振りに気合いを入れて真面目に書いたから(?)、ということで...。
(1999年11月23日 書き下ろし)
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No. 56 美礼に編む
 「ミレニアム」と打とうとしたら「美礼に編む」となった...。つまんないのでそのままにしておく。(が、誤変換を「売り物」のように愛用するというのはいただけない。そんなことを意図的にする人の気が知れないが、私には関係のないことだから、どうでもいい。)

 で、この「ミレニアム」って単語だが、昨年の後半、それも秋口あたりから見かけるようになったように思うのだけれど「1000年(間)」や「千年祭」という意味の言葉だ。ところが新聞の広告などを見ていると「ミレニアムまであと僅か!」やら「ミレニアム大特価」(笑)などのフレーズも...。猫も杓子もミレニアム、である...。
 新聞本体のほうはあまりじっくり読まないけれど、広告のチラシはかなり気合いを入れて読む、ということは以前にも書いたことだが、先日も「ミレニアム記念 墓石 特別セール!」というのを見つけ、とても嬉しかった...。(「何で?」などと野暮なことは言わないで欲しい。)

 さてさて...。ま、それはそれとして、このように年が改まると「よぉ〜し、今年は〜。」と何らかの決意をして胸に秘めたり、あるいはそれを宣言したりすることが多い(ような気がする。) 今日の新聞の投稿欄も(タイトルしか読んでいないが)「信念の誓い特集」という感じであった。また、その新聞の「JOHO Box」という、何と言うか、個人の伝言板みたいな欄では「いよいよ2000年! この節目の今年こそはタバコを止めるぞっ!」という宣言が載ってたりして...。ま、いいんだけど。

 昔、人々が正月を迎え、門松を並べお屠蘇気分に浸っていると、一人の僧侶が、杖を片手に念仏を唱えながら歩いてくる。そのみすぼらしい僧侶の杖にはドクロが載せられている...。人々が「めでたい正月だというのに縁起の悪い! 何を考えているんだっ!」と僧侶に詰め寄ると、そのお坊さんは「新しい年を迎えたということは、また一歩、墓場に近づいたことじゃ。」と淡々と言ってのけたそうな。
 (有名な話だとは思うけれど)ちなみに、この僧侶は一休和尚である。

 と、お屠蘇替わりの冷や酒をあおりつつ、そんなことを山崎ハコの「きょうだい心中」(ライブ盤)を聴きながら思う私である...。

 え? で、HASENOBUの新年の決意は、って?
 そんなのないっす。(笑) ま、いつものように夜が更け、そして新しい朝が来た、というだけで、格別、感慨深いものはないけれど...。
(2000年1月1日 書き下ろし)

 「元旦や 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(一休和尚)(2000年1月22日 追記) 「目次」へ
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No. 57 between the word & the heart
 今日、つまり2月2日は、私にとって記念日の一つである。1986年の今日、私はFさんと結婚したのだ。
 ふむ...。もう14年か...。まだ14年か、という気もするが。(笑) ちなみに彼女と付き合い始めたのは15の秋(笑)のことだから、気分的には銀婚式に近づいた老夫婦、とも言える。(意味不明)

 さて...、小田和正の曲に「between the word & the heart −言葉と心−」という曲がある。
 軽快なメロディー、きらびやかなギターの音色に耳を奪われがち(?)だが、その詞はなかなか興味深い。

 ♪ 言葉と心の間 それは君しか分らない
   見えないところで 傷ついて
   ひとりで涙を 流さないで
   すべてあなたの 言葉にして
   伝えてそのまま ためらわないで ♪

 うむ...。

 で、話は戻って、先日、妻と、夫婦げんかをした。(爆) って、刃物が登場するようなものではなく、ちょっとした言い争いから険悪なムードに、というものだが。

 そんな時の私は、言いたいことをまくし立てる、というようなことはしない。逆に、自分の感情をじっと抑え、心の中に言葉を押し込める。
 だけれども、どうしても不機嫌な表情になってしまう。そして「怒り」という感情を制御できない自分に腹が立つ、という悪循環が私の中で、しばらく続く。

 「どうしたのよ、一体?」
 「いや、別に。」
 「そんなことないでしょっ!? 何を怒っているのよっ!?」
 「さっきから怒ってない、って言ってるじゃないか。」
 「もぉ〜っ!! 怒っているじゃないっ!?」
 「だ〜か〜ら〜。怒っていないって。」
 「ちゃんと言ってよ。何で怒ってるのよ? 言ってくれないと分からないでしょっ!」

と、まぁ、文字にしてしまうと愚にもつかないやり取りがあったりする。(笑) これじゃ、犬どころか、どんなに空腹のハイエナだって食わない。(意味不明)

 「はっきり言わないと分からないでしょ?」
 なるほど、一理ある。(笑)
 だけれども、「言葉にしないとわからないのか?」という気もする。(笑) ついでに言うなら「言葉にすれば、必ず分かるのか?」とも。(爆)

 おっと、話がずれた。(って、別にテーマがあるわけじゃないが。)
 
 というわけで、今日は私の結婚記念日である。
 4年前には、10周年を記念して、結婚後すぐに紛失してしまった結婚指輪を改めて買い直す、ということをしたが、どこかに書いた通り、その指輪も3カ月ほどで、またなくした。以来、2月2日は、ほそぼそと祝うことにしている。(笑)
 だから今日もケーキを買ってきて食べただけだ。(笑) しかも、そのケーキは私が仕事帰りに立ち寄ったスーパーのお菓子コーナーで買った「バースデーケーキ」である。
 それを買うときに店員さんから「お名前は何とお入れしましょうか? ロウソクは何本?」と尋ねられた。ま、バースデーケーキなのだから、そのような質問が来るのも不思議じゃないが。
 しかし、別に「誰かの誕生日」という訳ではない。強いて言えば「HASENOBU家」の誕生日、だとも言えるが、そんなものをホワイトチョコのプレートに記してもらうのも変な気がするし。(笑)

 家に帰ると、目ざといじゅそが早速、大喜びで包みを開けた。
 「あれ? 今日は誰の誕生日なの?」
 「今日はね、『うち』の誕生日なんだよ。」
 「ふ〜ん...。それはよかったね。」(無関心な様子で)
 
 ということで(?)、私と妻は、安物のワインで乾杯をしたのだった。
(2000年2月2日 書き下ろし)
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No. 58 おみやげ
 おみやげ、ってのはなかなか鬱陶しいものである。(笑) ま、もらう立場であればあまり悩むこともないが。(もちろん、「え...? 何でこんなものを...?」と不審に思ってしまうようなこともあるだろうけれど。)

 「鬱陶しい」ということを考えてみると、そこには幾つかの理由が見られる。まずは「誰に贈るのか」ということだ。というか、これが中心にあって、それに付随する諸問題がある、と言っていいかもしれない。即ち「どんなモノであれば喜んでもらえるのか?」、「その人との親近度は、どの程度の金額を費すに値するのか?」(笑)等々...。
 このようなことを思いあぐねて、結局はありきたりのモノになってしまう、というのは誰にも経験のあることではなかろうか?(え...? 「そんな経験はない」って...? そりゃあ、失礼しました...。)
 ま、その相手が無類の酒好き(爆)であれば、その地で愛飲されるアルコール飲料を選べばさして問題はないだろう。しかし、その人の趣向(?)をうまく把握していない場合には、それこそ当たり障りのない選択となってしまう。(笑) 「キーホルダー」(ちなみにこれは和製英語だが)などというのは、その最たるものかもしれない。(笑) 私の机の中にも、もらったけれども使うことのないキーホルダーが十数個、眠っている...。ついでに言うと、それらが眠りから覚めることは、まず、ない。(笑)
 置物、の類も始末が悪い。(爆)(←何て言い草だ...。)
 どこかのタワーのミニチュアだけならまだしも、日本のものだと御丁寧に(?)その横に「根性」だとか「友情」だとかの文字が入っていたりもする...。一体、贈り主は私に何を伝えたいというのか...?
 どうせならば「吐瀉」だとか「荼毘」だとかのような言葉が入っている方が楽しめるのだが...。(笑) 残念ながらそんなモノはどこのお土産屋さんにも置かれていない。「ないものは、ない」と言われるほどの物質社会の日本なのに...。(果たして、そうか...?)

 また、重要なものとして「この土地ならでは、のようなものは何があるのか?」という事柄がある。やはり人に何か贈ろう、という時にありきたりのものというのは憚られる。「ほら、これ、お土産。ロサンゼルスで買ったトイレットペーパー。大事に使ってね。」と手渡されても、ちょっと、困る。「大事に」って、5センチ単位で使え、ということなのか? 使用後も流さずに、別のティッシュペーパーで汚物を拭き取って再使用しろ、ってことなのか...?(あ〜、ものすごく意味不明な想定をして、それに応じているHASENOBU...。(爆))

 ということで、ここまでが前置き。(爆)

 さして旅行好き、というわけでもないが、海外旅行を十数回経験した(爆)私からの取って置きのアドバイスを授けよう。(おいおい、随分と偉そうだな...、HASENOBUは...。)
 って、万人に受け容れられるようなものじゃないけれど(笑)「外国のラジオ番組を録音したテープ」というのはなかなかいいアイテムだと思うが、いかがだろう...?
 例えば、贈る相手が英語を解する人であれば「L.A.のローカルFM放送局の音楽番組のテープ」だったら、かなり喜んでもらえるのではないか? (私だったら、とってもうれしい。)
 別に語学の勉強をして欲しい訳ではないけれど、そういうテープは、いいお土産になると思う。私自身、パリに行ったときに録音したテープは(フランス語は分からないけれど)いい思い出になっている。(パリには苦い思い出も残してきたが...。(爆))
 別に音楽番組でなくってもいい。よくある「人生相談」のようなものであっても、それなりに楽しめる(爆)ものである。「ふむ...。こういうときにアメリカ人はこういう対応をするのか...。」などを知り得て興味深いものである。
 この「外国のラジオ番組を録音したテープ」というものは、非常に価値あるモノである。何と言っても日本で簡単に入手することができるようなシロモノではないし、もっと言うなら、世界に全く同一のものがない、ようなモノであるから。(笑) それに、第一、元手がほとんどかからない、という点で極めて経済的である。(爆)
 もちろん用意すべきものとして「録音機能付きのラジカセ」というのはあるけれど、例えばソニーのウォークマンシリーズ(?)の機種の中に(小型スピーカー内蔵の)もあるので心配はいらない。(って、誰も心配はしていないだろうが...。) ただ、カセットテープは、現地で調達するよりも日本で購入していった方が無難かもしれない。(決して日本製が最高、という訳ではないないが、外国の、例えば北米のスーパーマーケットで普通に売られているものは、粗悪品、って感じがする...。)
 という訳で、野菜ジュースの入ったマグカップに、間違えてコーヒーサーバーからコーヒーを注いでしまって(笑)ムシャクシャしているHASENOBUからの提案でした...。
(2000年2月23日 書き下ろし)
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No. 59 帰ってきた

 ってことで、タイトル通りだ。
 昨夜、午後11時20分過ぎに無事に帰着。ふぅ〜、やれやれ、って感じだ。

 先週半ばからネットに繋げなくなって、もしかしたら「おぉ、やっと消息不明になったか...。」と小躍りした人もいるかもしれないが(笑)残念でしたっ、私は元気です!(爆)

 いやぁ、それにしても昨日のフライトはなかなかしんどかった。北米に行く時にはジェット気流に乗ってかなり早く到着する(今回も、成田空港→バンクーバー間の実質飛行時間は8時間少々)のだが、昨日は、午後0時50分テイクオフで、そして昨日午後6時25分ランディングである。17時間の時差を考えると帰りのロサンゼルス→関西空港の所要時間は12.5時間!
 
 ふむ...。

 昨日(?)は、午前7時に起き、そして朝食、チェックアウト、空港への移動、そしてJAL069便で帰国。そしてはるか、ひかり、とJRを乗り継ぎ、広島駅での解散が午後10時40分。ロサンゼルス空港以降は私がツアーコンダクターである。(笑) 飛行機の中ではほとんど眠れなかった...。
 で、暇つぶしに計算してみると、太平洋標準時間の23日午前7時は日本時間の24日の午前0時。帰宅して床に就いたのが25日の午前0時半であるから、丸々一日起きて活動(?)していたことになる。

 時差ボケは気分的に無視したい(爆)ので今朝は6時過ぎに起床。今日から何事もなかったように普通の時間帯で生活するつもりである。(笑) 「時差ボケは気分的に無視したい」というのは、例えば、これを書いている今は25日の午前11時であるが、「あぁ、ってことは、今は午後4時かぁ...。」などと思いたくない、ということだ。ちょっとしんどいけど。(笑)

 あ〜、しかし...。春休みはあと一週間だけか...。本当なら1カ月以上あったのに...。(爆)
(2000年3月25日 書き下ろし)
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No. 60 私には分からない
 分からない、私には何にも分からない...。(爆)

 何が、かって? よくぞ訊いて下さった!(意味不明) 何を隠そう、先日、倉敷を訪れた際に大原美術館に行ったのです、はい。(笑)

 で、2時間近く館内の絵画、彫刻などなどの美術作品を見て回ったのだけれど、う〜ん、分からない...。大原美術館は(多分)著名な美術館であろうから、その説明は端折るとして(笑)、そこに展示されているセザンヌやルノアール、ピカソ、ゴーギャン、シャガール、モディリアーニ等々、美術に興味のない私ですらその名前を知っているという巨匠達の作品を目の前にして「あぁ、きれいだな。」と思うのはまだましなほうで、どちらかというと「...?」なのである。

 どこがいいのだろう...?(爆)

 まさしく「見る目を持たない」私なのである...。よって、感動は、ほとんど、なかった。(爆) 一つあったとすれば、幅が11メートルほどの巨大な絵画の大きさに、である...。(爆)

 「ふ〜ん、これがセザンヌの絵かぁ...。」「はぁ...、これがロートレックねぇ...。」という程度の感想(「感想」とは言えないけれど)しか感じない...。

 う〜ん...。

 土曜日の午前中ということもあって館内にはそれほど多くの観客(?)は、いない。だけれども一枚の絵の前で「う〜む...。」と言わんばかりに立ち止まって絵を凝視している人も何人か、いた。「一体、この人は、この絵のどこに感動しているのだろうか...?」という妙な好奇心の方が私の頭の中にわき上がったりもした。(笑)

 作品のタイトルも、謎である。フォートリエの作品に「Hostage」というタイトルのものがあった。その絵は、幾分おどろおどろしい人物の横顔が描かれている。制作年が1944年ということだからきっと戦争と関係するものなのだろうが、「人質」と名付けられても、私には分からない...。何の人質だというのだ...?

 ま、非常に直截だと思われるタイトルの作品もあり、「あぁ、なるほど。確かにこれは『赤い衣装をつけた三人の踊り子』だ...。」と思うこともあるけれども、往々にしてタイトル名を見ると想像が限定されてしまい、さらに謎めいた気分になる(笑)ということの方が多かった...。

 もちろん、中には「あ、この微妙なグラデーション、きれいだな。」と思うことはあっても「感動」にまでは結びつかない...。
 あまりにも自分が無感動なことに驚いた私は『大原美術館の120選』というパンフレットを2,000円出して売店で買い求めたが、その解説を読んでみてもピンと来ない...。

 現代美術のコーナーに行くと、もう、何でもあり、である。(爆) 「一面に赤く塗ったカンヴァスに、鋭い刃物による裂け目が三本はいっているだけ」の『空間概念 MT364』という作品は、私には、そう、ただそれだけ、である...。この作品が「強い緊張感に満ちた」ものとは、思えない...。

 何やらヤケに前衛的だけれども制作者の意図がまるっきり見えない、というのもなかなか虚しく、そして疲れるものである...。「うっ...。一体これは何を...?」というようなものが、これでもか、これでもか、と言わんばかりに(?)展示されているのを見るのは、うん、精神的に参ってしまうことである...。

 意味を見出そうとしては、ことごとく失敗する私の頭の中を「全てのことに答えを 求めていた あの頃♪」という佐野元春の歌がエンドレスで駆け巡る...。

 河原に打ち捨てられたオートバイを拾ってきて少し色を塗って、回転する展示台に載せただけ、としか思えないような「作品」、どこかの幼稚園児達が卒園記念に制作したと言われても充分に納得できるような「作品」の群れ(笑)を前にして、「果たして美術とは何なのか?」「『観賞する』『味わう』というのはどういうことか?」等々の疑問が次々に湧き、頭の中を疑問符だらけにして私は大原美術館をあとにしたのだった...。(爆)

 ちなみに大原美術館を訪れたのは今回が、多分3回目だと思うが、来る度に私には訳がわからなくなっている...。

 きっと、この駄文をいずれ読むであろう、美術の専門家Hさん...。こんな私を嗤って下さい...。(爆)

 あ、それと、蛇足だけれど、私がこのような文面を書いたからと言って、作品の価値に何ら変化はないだろうし(当たり前だ...)、そして私自身、それらの美術作品を揶揄したいわけでもないし、貶めたくもない。ただ言いたかったのは「私には美術的なセンスのかけらもありませ〜ん。あはは...。(ToT)」ということだけ。(爆)
(2000年4月12日 書き下ろし)
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