「遠い悲しみ」のこと(続篇)


 さて、前回、「また稿を改めて」と勝手に締めくくったのだけれど、今回は「どうして歌詞が変えられたのか?」ということを考えてゆく。
 まず、最も端的な言い方をすれば「より、いい歌詞を思いついたから変えた。」ということだろう。(笑) とんぼちゃんメーリングリストでもN.Oさんが書かれていたことだが、実際そうだと私も思う。他の人に頼んで作ってもらったのであれば話は別だが、作詞は「伊藤豊昇」だし、好きに変えても誰も文句は言わないはずだ。
 だが、もう少し突っ込んで考えてみたい。
 前回、記したように、「遠い悲しみ」には「もうすぐ二十歳」ヴァージョンと、「心はぐれた日から」ヴァージョンとがある。後者はシングルヴァージョンでもあるのだが。先に出た(1975年5月10日発売)前者を、以降「」と、そして後者(シングルは同年9月10日発売)を「」と表記することとし、変更されたフレーズを比較しつつ考察を進めたい。
 では、まずは、一番の歌詞から。

(1)
:夏が窓をたたくと 誰かが僕を呼んだような気がして
:風が窓をたたくと 誰かが僕を呼んだような気がして

見ての通り、「夏」が「風」に変えられている。での情景は、はっきり言って、浮かびづらい...。つまり、想像しづらい、ということだが。もちろん、「夏」そのものが窓を叩いたりするわけはないのだけれど、詩的許容を考えたとしても、それでも、ちょっと受け入れがたい...。(私は文学評論には疎いのだけれど「詩的許容」というのは、「芸術的な効果を高めるため、詩人が文法・論理を意図的に逸脱する」という手法のことだ。)
 では「風が窓をたたく」という、極めて無難な擬人法が用いられている。当たり前すぎて面白くないとも言える(笑)が、その後の「急いで窓の外を見てみます」という行動を引き起こすものとしては、充分妥当なものだ。
 窓で物音がする...。「ん...? 誰か、人が来たのかな...?」と思い、窓際へ。だけれどもそこには誰もいない...。「あ...。なんだ、風だったのか...。」と納得することはあり得ることだが、その時に「あ、夏だったのか...。」と思うことは、まず、ない。

 これは歌詞の変更とはあまり関係ないかもしれないけれど、私が「遠い悲しみ」を初めて聴いたのは、多分(シングル発売の時期からしても)秋から冬にかけて、のことだった。そのせいかこの曲は(少なくとも私には)「冬の歌」というイメージがある。そういう意味でも(?)「夏が窓をたたく」というのは、かなりの違和感を感じてしまうのだ。

(2)
:そこには誰もいなくて 風のいたずらなんだと 独り言
:外はいつもの暗やみ 風のいたずらなんだと 独り言

これは、上の(1)とも関わっているのだけれど、の方の「そこには誰もいなくて」というのは、いかにも説明的である。そもそも「夏」であるならば、イメージとしてさんさんと降り注ぐ明るい陽射し、というものがつきまといそうだし...。の方は、これまた、陳腐であるかもしれない。けれど、その場面が夜であることが明確に設定され、しかも、この歌の主人公が、「あ...。誰か来た...? もしかして...?」と一瞬胸をときめかしてしまうのがこれまでにも何度かあった、ということさえも想像させる。

(3)
:空から雨が降れば 君との思い出が頭の中を
  一つ一つ 夢のようにかけめぐる
:(なし)

これは歌詞の違い、というよりも曲の構成の変更と言っていいだろう。の方の8小節分がでは、ない、のだ。だから歌詞の比較はできない(笑)が「空から雨が降れば」というのは、余りにも当たり前すぎる。そんなことを言われると「ほぉ...。では「空から」ではないような降り方をする雨もあるってわけ?」と、天の邪鬼の私はくだらない突っ込みをしたくなる。だけれど「君との思い出が頭の中を一つ一つ夢のようにかけめぐる」というのは、好きなフレーズだ...。(「頭の中を」というのは、ちょっと嫌だけれど。)

(4)
:君がとても好きだった ガラス張りのお店で待ちあわせ
:初めて雪を見た朝 ガラス張りのお店で待ちあわせ

う〜ん...。これは、も、どちらもそれなりに気に入っている...。強いて言うならばの方は、やはり「冬」をイメージさせるという意味で、私の印象には合うものだ。(もちろん、この歌の場面としては、同じ一つの季節ではなく、「遠い悲しみ」なのだから、何年か前の、「昔のこと」があった冬と、今の冬、とのタイムスパンがあるのだけれど。)
 ここでの「初めて雪を見た朝」というのがいつ頃のことなのかは、断定できない。(当たり前だが...。) だけれど、吐く息が白くなるような、決して心躍るような時期ではない、というのがポイントになりそうだ。
 汗をだらだらと流しながら、恋人と待ち合わせる風景...。何か、イヤだ...。もちろん「ガラス張りのお店」は空調設備もあることだろうけれど、初雪が降るような寒い時に、そのお店へと、冷たい風の中を待ち合わせのために急ぐ恋人...。思わず抱きしめたくなるほどだ。(爆)
 ま、夏の日の恋、というのは、それはそれでいいものかもしれないが。(笑) 私にはそういうものを語るだけの経験がない。(爆)

(5)
:今でもこんなに君を愛しているのに
  君の心はもう戻っては来ない
:今でもこんなに君を愛しているのに
  君の心はもう戻っては来ない
  あんなに幸せだったふたりの恋が
  さよならだけで終わってしまうなんて
  小さな冷たい君のあの手のひらを
  もう一度あたためてあげたい

の2行だけ、というのも、それはそれで意味深でいいかもしれない。が、私としてはの「小さな冷たい君のあの手のひらをもう一度あたためてあげたい」という、きわめてストレートな表現に心が動かされる...。いや、はっきり言うと、実はこのフレーズがこの歌で一番好きなのだ、私は...。(って、これをあまり強く言うと「男は強く、女は弱くあるべきだ」と思っていると糾弾(爆)されそうだが...。)
 途中の「あんなに幸せだったふたりの恋がさよならだけで終わってしまうなんて」というのは、実は良く分からない...。一体、この二人はどうして別れたのかさえ、私には想像がつかないのだが...。男女が別れる理由って、きっと色々とあるのだろうけれど、やはり、残念ながら私にはそのあたりのことを詳しく論じるだけの経験も資格もないのだ...。(笑)

 ということで、以上、5つの点について考えてみた。読んですぐに分かるように、かなり一方的な見解を述べただけである。というのも、どうしても「遠い悲しみ」はの方が馴染みが深く、思い入れが強いもので...。どうしても、(歌詞だけではなく、アレンジも)シングルヴァージョンの方が完成度が高いような気がしてならないんで...。
(1999年11月29日書き下ろし)
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