とんぼとオフコース


 うう...。実は、私はオフコースの大ファンである...。自分でも半端じゃない、と自負している。って、ミーハーなファンのようにコンサートで「キャァ〜! 小田さ〜んっ!!」とか「鈴木さ〜んっ! こっち向いてぇ〜っ!!」などと叫んだりしていたわけではない。そもそも彼らのコンサートに行ったこともないし。(笑) 行く機会がなかったわけではないが、私の中では、既に神格化されていたんで生の彼らの姿を、彼らのステージを見ることにさして関心がなかっただけ、ということなのだ。ラジオから流れてくる音楽、アルバムで発表される曲、それが全て、である。

 さて...。このように非常に思い入れのあるオフコースと、とんぼ(ちゃん)とを並べて論じることは、実は、かなり無理がある。(と、このように書くと、とんぼ(ちゃん)の大ファンの人からカミソリが送られてくるかもしれないが、あくまで私の個人的見解である。)

 別にオフコースの方が商業的に大成功したからというようなことで彼らのことが好きなわけではない。もちろん、全然売れなかった時代というのは、当然、マスコミ媒体に現れることもないから、彼らのことを活動の初期から支援していた訳でもない。(ま、当たり前だ...。知らない歌手を応援しようもない。(笑))
 
 実はオフコース関連の書籍の中に、とんぼ(ちゃん)の名前が何度か出てくることがある。松尾一彦がとんぼに曲を書いたということもその一つであるが、別のところで彼らの名前が登場するのがあり、私はそれを読んでとても興味深く思った。
 以下、藤沢映子著『INNER DOCUMENT OFF COURSE』(旺文社)から、少し長いけれど引用:

 この後、シングル「こころは気紛れ」の発売を待って、彼らは全国キャンペーンなるものを展開した。地方の放送局を回り、番組のゲストに出て、レコードをかけてもらう作業である。
 そのキャンペーンで青森の放送局に行ったときのことである。こんな事件もあった。
アナウンサー「わざわざこんな遠くまでよくいらしてくださいました。さて、きょうは、オフコースのちょっとめずらしいテープを紹介しましょうか。CMソングをたくさんやっていらっしゃるということで、そのテープを。それにしても、ずいぶんやってらっしゃいますね。何本くらいこれまでに?」
小田「はあ、70本くらいだと思いますが...」
アナ「70本も。それだけやっているとけっこうもうかるでしょうね?」
小田「......まあ......」
アナ「そんなにもうかっているのなら、わざわざキャンペーンしなくてもいいんじゃないですか?」
小田「そんなことは......」
(このへんから状況がオカシクなって、話はギクシャク。そして終りの方で)
アナ「えー、まあ、そんなわけで今度いらっしゃるときは、公録にでも。来てくれますよね?」
小田「はあ、内容次第ですね。」
アナ「ずいぶんないい方ですね。”とんぼちゃん”なんかは、来てくれっていえば、明日にでもとんできてくれるのに」
小田「それとこれとは話が別でしょう」
アナ「き、きみ、何かね、ボクに説教するつもり?」
小田「そんなつもりはないですよ」
(アナウンサーは逆上して、まっ赤。対して小田は、終始、マイペース)
---以上、同書18、19ページより引用---

 ま、小田和正氏の性格からして(?)、番組の中だからといって媚を売るような言動や、当たり障りのない社交辞令で応ずることはないだろうけれども、いかにもオフコースのスタンスを象徴するエピソードだと、私は思う。ちなみに、このエピソードの時期は、(その内容からすると)恐らく1976年頃だと思われる。とんぼちゃんがデビューして2年目というところか? すでに「ひと足遅れの春」や「遠い悲しみ」などの(爆発的ではなかったであろうが)ヒットを出していた後のことだ。
 もちろんここでは彼らが東北出身だからということも、差し引いて考えなければならない。けれども、私としては、このエピソードはその後の両者の成り行きを暗示しているように思えるのだ...。
 もう少し言うと、私はオフコース、というと「臥薪嘗胆」という言葉を思い出すほどだ。(笑) 彼らがヒット曲に恵まれるまで辿ってきた長い道のり、前座や下積みの内容を知れば知るほど、その思いは強まるのだ...。
 もちろん、とんぼ(ちゃん)だって地方を巡業しただろうし、デパートでのミニコンサートやサイン即売会などの、本当に雑多な仕事をたくさんこなしてきただろう。決してその努力が足りなかったとか言いたいのではない。
 だけれども、それでも思ってしまう...。

 例えば、だ。(?) 奇しくも、オフコースもとんぼちゃんもデビューアルバムを出して2年後にライブアルバムを出している。その両者を聴き較べてみるがいい。(おいおい...、偉そうだな、HASENOBUよ...。(笑))
 音楽の質の差とかではなく、その内容を、だ。
 オフコースの方は、音楽で直球勝負、という感じであるけれど、とんぼちゃんの方は、歯に衣着せず言うと(私にとっては、不要な)「しゃべり」が異常に多いアルバムとなっている...。
 ま、前述のエピソードにもあるように、オフコースの方は、面白おかしいトークなど望むべくもないのだが...。(笑) (実際、彼らの初期の頃の活動を詳しく記した『はじめの一歩』という書籍によると、オフコースのトークの内容は、彼らなりに努力したのだろうけれど、実につまらないものである。)

 私の手元には、色んな人を経由して(?)、あるいは、とある方の御厚意で、オフコースやとんぼちゃんのライブ音源が、少数ではあるけれど、ある。それらを聞いてみても、先の印象は変わらない...。実際に測ったわけじゃないけれど、とんぼちゃんの場合、仮に60分のステージがあったとすれば、少なく見ても20分以上は、場合によっては時間の半分近くが「しゃべり」に費やされているのではないか?
 なまじ、とよが話術に長けていたのが良くなかったのかもしれない...。(って、こんな風に書くと「とんぼちゃんの、あの、ほのぼのとしたライブがダメだって言うの?」と反論が来るかもしれないが...。) 当時のフォーク界の風潮というものも、もちろん、あっただろう。だけど、それでも...。

 このように思うのは、私が、とんぼ(ちゃん)の音楽が好きだからこそ、なのだが...。彼らの音楽がとても素晴らしいものだったからこそ、しゃべりでお客さんを楽しませるんじゃなくって、曲で勝負してもらいたかったのだ。(あぁ、この書き方も読みようによっては過激な発言だ...。私の真意が伝わっているだろうか...?)

 後に(「よろしく さよなら」のミュージックテープに添付されていた富澤一誠氏の解説によると)「デビューした頃、レコードを出せば売れるもんだと思っていた。なにしろ、ラブリー・フォークとか言われて華々しいデビューをしたもんだから、そのままいっちゃうんだろうと思っていた。ところが、3年ぐらいしてそんなに簡単じゃないということがわかったんです。確かに「ひと足遅れの春」は少し売れたけど、あの頃はぼくら自体に主体性がなかったんです。事務所の指示のままに動いていただけというか......そんな矛盾に3年目に気がついたとき、本当にやっていけるのかなと思い始めたんです。」と、とよは語っている。
 何となく、頷ける話である...。オフコースとは異なり、とんぼちゃんは、当時、二十歳かそこらであったのだ...。事務所の意向に対して、自己主張をするということも難しかったのだろう...。

 あ〜、それにしても、悔しい...。
 ラストアルバム「ありがとう とんぼ」の中で、とよが「ほんと、いい曲、多いよな...。」と呟いているけれども、本当にその通りなのだっ! だから、余計に悔しくてたまらないのだ...、私は...。
Special thanks to Mr. N.O.

(2000年1月22日 書き下ろし)


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