筒井康隆の断筆に関する参考資料(BY 雪見さん):

1.筒井康隆著  「断筆宣言への軌跡」  光文社 カッパハード


2.筒井康隆著  「筒井康隆スピーキング 対談インタヴュー集成」  出帆新社



どちらの本も実際に読んでいただきたいのですが、その暇がないという人のために
雪見が勝手ながら要約、抜粋します。あくまで雪見個人の判断による要約、抜粋です。
よろしければご参考に。


要約:なぜ、筒井康隆は断筆したのか

彼が書いた作品「無人警察」が角川書店発行の高校(小学校、中学校ではなく)の国語の教科書に採択された(1993年)。この作品は彼が言う所のブラックユーモアの精神で書かれた未来SF小説である。その中にその未来社会で警察がてんかん患者を取り締まるという個所があり、日本てんかん協会が「てんかんへの差別を助長する表現がある」として文部省に対して検定合格の取り消し、出版した角川書店に教科書からの削除または販売中止を求める声明文を発表した。

この問題に対し、新聞、出版社などのジャーナリズムは終始、筒井康隆を支持することもなく(例えば、てんかん協会の意見は掲載してもそれに対する筒井氏の意見は取材はされたのに掲載されなかった)、差別表現の取り扱いをどうすべきかという各社の主張も見られなかった。

1993年10月、日本における「言葉狩り」が「小説狩り」に移行しつつある傾向を危惧して筒井康隆は断筆宣言を行なった。
1996年12月、出版社との覚え書きを取り交わし、断筆を解除した。

抜粋: 「断筆宣言への軌跡」 より

P183 使用してはいけない語句が次第に増え、差別ということばさえ「人権問題」と言い換えられることによって「差別」という日本語すら使用できなくなりそうな傾向にある。連載をした某紙では「狂」という字が使えなかった。「狂人」「発狂」はむろんのこと、「芸術的狂気」も駄目だった。(中略) 言語で生きているジャーナリストの誰も、これを由々しきこととは思わないのだろうか。
(中略) この断筆宣言は、直接には日本癲癇協会などの糾弾への抗議でもあるが、また、自由に小説が書けない社会的状況や、及び、そうした社会の風潮を是認したり、見て見ぬふりをしたりする気配が、本来なら一般的良識におもねることなく、そもそもは「反体制的でなくてはならない小説」に理解を示すべき筈の多くの言論媒体にまで見られる傾向に対しての抗議である。人権問題、差別問題、ことば狩りなどに関するジャーナリズムの思想的脆弱性に対しては、強く疑念を呈しておく。(後略)



抜粋: 「筒井康隆スピーキング 対談インタヴュー集成」より

P343 「SAPIO」誌の取材に答えて 
− 今度のことで怒っているのは実は世の中に対してでは?!
− いえ、世の中にではないです。ジャーナリズムの自主規制に対してです。まだ抗議されてもいないうちから自主規制するというのがいけないのです。だから抗議してくるそういう団体。身体障害、部落開放同盟、そういったところに対しても怒っている。表現の自由が原則的にあるのだから、自分たちが差別されたと感じたら、それに対して抗議する自由というのはこれはなくてはいけない。(中略)その時にひたすら相手が謝る以外のことは認めないというのが、まずいけないということです。そして、そうしてしまったのは、こちらの反論を全く載せない、今の新聞、週刊誌です。つまりこちらの反論を載せると逆に新聞や雑誌までが糾弾を受ける。それを恐れているわけです。

P366 「デニム」誌の取材に答えて ・・・それは一言でいうなら、国民の「知性」の問題です。これは教養とはまた別のもので、この表現は差別になる、ならないとか、これは文学作品だからいいんだ、芸術性があるからいいんだということを判断するのも知性です。(中略) 差別の現状をいうなら、日本では昔と比べると暴力的な差別はなくなってきている。それなのに差別用語とか自主規制とかがドンドン拡大していく。それがおかしいんですね。文化が歪んできている。そしてそういう歪みを発生させているのが「長いものに巻かれろ」「臭いものに蓋・・・」といった日本人の性向じゃないかと思うんです。 (後略)


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