メールで話そう

第2弾 モノの価値 ひとの価値


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お願い: このコーナーでは読んでくれた人からの意見や感想を待ってます。
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      反対意見ももちろん歓迎だよ〜。 掲載されたくないという人はその旨明記しといてね。

HASENOBU、雪見へのメール(同時発信)



No.10 1999年6月28日 HASENOBU → 雪見

 梅雨もまっただ中! 来る日も来る日も雨!! って、別にうんざりしているわけじゃなく。(笑) そう、それでいいんだ、と納得している偏屈野郎です。(爆)

 さて、紅さんからの感想のメール。私も何度も読み返しました。紅さんは「なんかよくわからなくなってきた。」と書かれてますが、そんなことはないですっ! よく分かりました、はい。また「読む人はもっと疲れるんだろうな。」とも書かれていますが、そんなことも決してないですっ! 紅さんの言葉の一つ一つが胸に沁み入るようで、読んでいて私自身の中の、うまく言葉にならなかったもどかしさが解消されたような気がしました。本当にありがとうございます、紅さん。
 そして、雪見さん。寄り道するとのことで覚悟しておりました(笑)が、何の何の。まっとうなメールでいささか拍子抜けしました。で、私は私で脱線宣言をここに致します。覚悟して下さい。(爆)

 と、冗談めかして書きましたが、本当はおおいに「価値観」と関係のあることであって、しかも目に見えるモノよりももっと捉えづらい心の問題に関係する事柄です...。そして、これは思いっきり季節外れの話題です。(笑) はい、クリスマスの話です。
 まずは、かなり長いのですが、以下の文面をお読み下さい。これは1897年9月21日、ニューヨークのサン新聞に掲載されたものでして、後に「アメリカのジャーナリズムにおいて最も有名な社説」と『ニューヨーク・タイムズ』紙に評されたものです。そして今でもクリスマスが近づくと新聞や雑誌に繰り返し掲載されているそうです。どうやら著作権の問題はないようなので、HASENOBUが原文の英語にできるだけ忠実に、そして読みにくい(爆)和訳を致しました。(また、子供向けの言葉遣いにはあまり執着しませんでした、はい。):

 ニューヨーク・サン新聞社宛てに以下のようなたいへん素晴らしい手紙が届きましたので早速お答えしたいと思います。あわせて、私たちの新聞の読者の中に、この手紙を書いてくれた誠実な人がいるのだということで私たちはとても嬉しく思っていることを記しておきます。

記者さんへ

私は、8才です。
 私の友達の中に「サンタクロースなんていないよ」という子がいます。
 パパは「もしサン新聞にサンタクロースは本当にいると書いてあれば、きっとそのとおりだよ。」と言ってます。お願いですから本当のことを教えてください。サンタクロースって本当にいるんですか?

                          バージニア・オハンロン
                          ニューヨーク市西95番街115番地

バージニアへ
 「サンタクロースはいない」と言うお友達は間違っていますよ。その子たちは、現代の、何でも疑ってかかろうとする考え方に取り憑かれているのです。そういう人たちは目に見えるものだけしか信じないのです。自分の狭い心で理解できないことがこの世の中にあるはずがないと思っているのです。
 でも、バージニア、人間の心というものは、それが大人の心であっても子どもの心であっても、みんな小さいものです。この限りない宇宙の中では、人間なんてただの1匹の虫けらなのです。周りを取り巻く果てしない世界と較べてみれば、この宇宙の全てのことを理解し、知ることのできるような知性を基準とすれば、人間の知性なんて、まるでアリのようなものなのです。
 そうです、バージニア、サンタクロースは、いるんです。この世界の中に、人を愛する気持ち、思いやり、人のために尽くそうとする気持ちがあるのと同じくらい確かにサンタクロースはいるのです。そして、あなたも分かっているように、このような優しい気持ちは世の中のいたるところにあって、そしてあなたの生活を美しく楽しいものにしているのです。
 あぁ、もしサンタクロースがいないとしたらこの世はなんてさびしいものになるのでしょう。バージニアような子どもがいないのと同じくらいわびしい世界になるでしょうね。もしもサンタクロースがいなかったら、この世の中で生きてゆこうとする力を与えてくれる、純粋にものごとを信じる子どもらしい心や、詩もロマンスもなくなってしまうことでしょう。触れて感じるものや目で見えるものの他にはよろこびを感じることがなくなってしまいます。子供の頃の、世界を永遠に輝いた世界にしてくれる、あの光も消えてしまうことでしょう。
 サンタクロースを信じないですって! それは妖精がいないと信じるのと同じです。クリスマスイブにパパに頼んで、誰かやとってもらい、町中のエントツを見張ってもらうこともできるでしょうが、それでも、もしサンタクロースがエントツからおりてくるところが見えなかったとしても、それが何の証拠になるでしょう。サンタクロースの姿は誰にも見えないのです。でもだからと言ってサンタクロースがいないということにはなりません。この世の中で一番本当のものは子どもにも大人にも見えないものなのです。妖精達が芝生で踊っているのをこれまでに見たことがありますか? もちろんないでしょうけれども、それは「妖精がいない」という証拠にはならないのです。この世の中にある見えないもの、見ることができないもの全てを心に思い描き想像することのできる人などいないのです。
 赤ちゃんのガラガラを壊して、中の音が鳴る仕組みを知ることはできます。でも、目には見えない世界をおおっているベールは、どんな力持ちが頑張ったとしても、また、今までにいた世界中の力持ちが力を合わせたとしても、決してやぶることができないのです。ただ、信じる心、夢見る心、詩、愛、そしてロマンスだけが、そのカーテンを開くことができるのです。そして、その向こうにある気高く美しく輝く世界を見てそれを描くことができるのです。それは全部本当のものでしょうか? いいですか、バージニア、これほど確かで、これほど変わらないものは、この世の中には他にないのです。
 サンタクロースがいないですって! とんでもない。ありがたいことに、サンタクロースは、ちゃんといるんです。しかも決して死ぬことはないのです。今から千年たっても、いや、バージニア、今から百万年たったとしてもサンタクロースは子供たちの心を喜ばせ続けてくれることでしょう。


 さて。どうでしょう、雪見さん(そして読者の方々)? この問題(?)は、実のところ、個々人の「価値観」のかなり根源的な部分に関係すると思われます。
 ま、私の和訳が拙いために良く分からない、ということもあるかもしれません。(一番のキーワードとなっているのは"real" という言葉で、これをどう日本語で表わせば良いのか、かなり考えた揚げ句、「本当のもの」という何の変哲もない訳語にしました...。) 
 サンタクロースは、あくまで一つの例でしかありません。別にサンタクロースでなくったって七福神の恵比寿様でもいいっす。(笑)。目に見えないものを「本当にある(=存在する)もの」として捉えること、見なすこと、信じることができるかどうか。これがポイントでしょう。

 私は...、サンタクロースは、いる、と思っています。って、「赤装束に身を固めた白髪のずんぐりした、サンタクロースと名乗る、ある一人の人物が、この地球上のどこかで生存している」(笑)という意味ではなくって。それを信じる人たちの心の中に。
 「おいおい、いきなり何を言い切るんだ?」と笑いたくなった人は笑ってもいいです。(爆) でも、あなたが笑ったからといって私の中のサンタクロースは消えはしない。(って、これも変な書き方だけど。) 
 これを拡げてゆけば、例えば日々の自分の中に生まれる感情(好きだとか嫌いだとかも含めて、です)、そして「神」や「真理」といった事柄にまで繋がるはずです。ま、今のところ、そこまでの話には持って行きたくはないのですが。

 さぁ、雪見さん。今回の私のメールはかなり意表を突いたものだったと思います。(笑) 御感想を、そしてお考えをお聞かせ下さい。では、また!!



No.11 99年7月8日 雪見 → HASENOBU

メリークリスマス! HASENOBUさん、いよいよ年の瀬ですねっ。無事、ハルマゲドンを乗り切ることができてよかったですねっ。

ところで、わたしたちの話題は前回のサンタさんメールによって大きく旋回したようです。文鎮やら甲子園の土やら観音様やら、手に触れる目に見えるモノのことを眉間にしわを寄せて(笑)考えていたわたしはサンタさんの話を読んでいささか戸惑ってしまいました。
「まったく、はせちゃんたら、そんな風に目についたオモチャを次から次へと引っ張り出して、だめじゃないのぉ」と口うるさいママのようにお小言を言いたくなりました(笑)。だけど、はせちゃんが引っ張り出したオモチャを片づけようとして、ふと考えました。こんな風にどんどん引っ張り出して並べてみて、ぜ〜んぶを眺めてみるのもおもしろいかもね!と、いい加減な雪見ママは思い直して、サンタさんメールの返事を書いています。

「あなたが笑ったからといってわたしの心の中のサンタクロースは消えはしない」とHASENOBUさんは言いました。わたしはそれを読んで、サンタを信じている人のことよりも、「サンタなどいない」と笑って言う人のことを考えてしまいました。全ての子供がサンタを信じたわけではないでしょうね。もしサンタを心から信じていてクリスマスの頃はドキドキしていた幸福な子供時代を持った人がいたら、その人は幾つになっても、偉い重役や、大学の先生や、お医者さんや、とにかくどんな大人になっても、サンタを信じる人を笑ったりはしないだろうな、と思いました。

逆にサンタを信じる子供を笑う人ってどんな人?きっと幸福な子供時代を経験しなかった寂しい人だと思います。夢見る人を笑って傷つけるのはとてもよくないことだけど、傷つけてしまう人の寂しさを今日はちょっと考えてしまいました。

さて、わたしもはせちゃんのように別のオモチャを取り出してみようかな。

わたしのは「星の王子様」です。(この際、とことんロマンチック路線で行きましょう)
星の王子様は自分の星に大切にしているバラが1本ありました。そのバラは実は普通の平凡なバラなのですが、バラとの関わりによって、王子様にとってかけがえのない大事な存在になっていきます。「関わり」と軽く書いたけれど、別の言い方をすれば、彼は自分の思いを注いで、相手の思いを一生懸命に汲み取ろうとしたのでした。最後は王子様はちょっと疲れてしまいました。このあたりの話を読んでわたしは「これって男と女の関係そのものだなあ」って思ったものですが、もちろん人によっては違う捉え方をするかもしれません。対象は「人」でも「物事」でもいい、目に見えるものでも、見えないものでもいい。自分とその対象との関わり方、心の傾け方、についてサンタさんの話からなんとなく連想しました。

1本のバラに充分すぎるほど心を傾けてしまった星の王子様は、もうその後で別の場所で似ているたくさんのバラを見ても、もうそれらを自分の「あのバラ」と同列に考えることなどできないのです。あのバラはもう自分のたましいの一部になってしまっているからです。

このあたりのこと、わたしたちのテーマ「モノの価値、ひとの価値」につながる道になりそうな気がします。

さて、わたしたちの飛行機はこれからどっちに向かって飛んでいけばいいんでしょう(笑)。




No.12 1999年7月12日 HASENOBU → 雪見

 もうすぐ梅雨も明けるのでしょうか? このところ、とても強い陽射しの日が続いています。今回、広島を襲った大雨を降らした空が、突き抜けるような青さを見せる...。つくづく自然の奥深さ、容赦なさ(?)、無気味さを感じるばかりです。

 さて、前回の私のサンタさん絡みのメールで雪見さんはいささか戸惑ってしまったようですが、実は、私、確信犯なのです...。(爆) 今回のテーマで話を始めた直後に、実は「サンタクロースネタ」を用意していたのでした...。(笑) 決して思いつきで持ち出した話ではないのです、あれは。

 そして、戸惑いながらもさすがに雪見さん、いい話へと繋いでくれましたねっ!(笑) 私も『星の王子様』ネタを振りたかったのです。(爆) 

 この話、つまり『星の王子様』を、私は、少なくとも三度読んでいます。小学生の頃、大学生の頃、そして就職してから、です。日本語で読んだり英語で読んだり(勉強のために)フランス語で読んだり...。それぞれに違った印象を抱きました。ちなみに日本語訳の分は、その中では最低でした。(爆) 一体、どれだけの日本語訳の『星の王子様』があるのかは知りませんが、岩波書店(岩波少年文庫)のものは、ちょっとね〜。(書き改めてみないかい、ぼう? といきなり呼びかけたりする...。)
 と、愚痴をこぼしても話が進まないので...。
 年を取れば取るほどに寓話的に思えてくるこの『星の王子様』、その中には輝くような言葉が詰まっています。少なくとも私にとっては。その一番のもの、それは地球にやって来た王子様に出会ったキツネが教えてくれる秘密。(ここで原文のフランス語だけを引用していたら嫌な野郎ですね、私は。(爆)) その秘密とは「大切なものは目には見えないものなんだ」ということ。これは、私の数少ない信条の一つになっているのです、実を言うと。だから私はできるだけモノにこだわらないようにしています。って言っても私の意志の力はとても弱いので「よすが」(!)としてモノに執着することもあるのですが。(このあたりの矛盾、問い詰めないで下さいね、雪見さん。)
 もう少し『星の王子様』から(私の)心に残る言葉を引いておきましょう。
・私があなたを愛していることがあなたに分からなかったのは私のせいです。(バラ→王子様)
・人を裁くことよりも自分自身を裁くことの方がはるかに難しいんだ。(325番目の星にいる王様→王子様)
・人から崇められる、ってことの中に、そんなに楽しいことがあるのでしょうか?(王子様→326番目の星に住む自惚れ男)
・(私が酒を飲むのは)恥ずかしい、ということを忘れるためだ。(327番目の星の酔っ払い→王子様)
・あなた(星の数を数え、自分のものだと言い張る男)は、星のためには何の役にも立っていませんよ。(王子様→328番目の星にいる実業家)
・(人間は根がないから)風に吹かれて流されてしまうんだよ。(砂漠の、名もない花→王子様)
・(二人が仲良くなれば)お互いが必要になってくる。僕にとって君はこの世の中でたった一人のかけがえのないものになるし、君にとっての僕もそうなるんだ。(キツネ→王子様)
・言葉があるから誤解が生まれるんだ。(キツネ→王子様)
・君が4時に来るのだとすれば、3時頃にはもう心がウキウキしてくるんだ。(キツネ→王子様)
・君が世話をしたものには、ず〜っと責任があるんだ。(だから)君のバラをほおっておいちゃいけないんだ。(キツネ→王子様)

さ、もう引用は充分でしょう。私は私の言葉で語るべきでしょうから。(笑)
 雪見さんは『星の王子様』の中の(王子の星の)バラと王子との関係を女と男の関係に見立てているようですが(そして同時に雪見さんも承知しているように)私は違ったふうに考えています。確かにあの花は女性であるけれども、両者の関係は異性間の事柄というよりも、もう一つ前のもの、だと考えています。性別以前のレベルで成り立つもの、ではないかと。(ま、これを「男女間の友情」と表現すると、これまた違った意味合いになるのかもしれませんが(笑)、そういうことではなく。)
 「関わり」という言葉がキーワードでしょうね、やはり。
 となると、すぐに思いつくのは、どのような「関わり」の形があるのか、ということです。まず、人と人、ということで考えてみると、その中で積極的な関わりの形と言えば「結婚」が究極的なものかもしれません。が、だからと言って、結婚=理想の関わり、ということを言っているのではありません。(爆) そういう図式があったとしても否定はしませんが、そうでないとしても、同じ生活の場を共有し続けてゆくこと(に合意し、実践すること)は、やはり最も積極的な関わり方のパターンだと思います。
 それから、積極的な関わり、ということでは「教育」や「影響」などの色々な形があるでしょうね〜。また、どのように呼ぶのかは別としてメールのやり取りや、あるいはこのような企画だって「関わり」を作っていく手だてとなることでしょう。

 あはは...。笑って誤魔化してますが、またまた迷走状態ですねっ!! ま、この「メールで話そう」の「価値」は「関わり」というものの中に見出されるだろうなぁ、ってことですが。
 さて、私たちのこの飛行機、サン・テグジュペリの様に行方不明とならないことを信じつつ、頑張れ、雪見操縦士!!(爆) って、爆発するのは嫌ですが...。次の目的地はどこかな?
 



No.13  1999年7月16日 読者のゆりりんさんからメールが来ました!

雪見さん、HASENOBUさん、こんにちは。

お二人のやりとりを読んでいて、「星の王子さま」が気になって、買いに行ってしまいました。1日で読み終えてしまったところです。
今まで読んでいなかったことを後悔しました。訳が気になるところですが、本当に心の中にメモっておきたい言葉が沢山出てきますね。
そんなわけで、私の単純な感想を書きます。

キツネが、私の買った本(内藤濯氏の訳)だとこんな表現で話しています。
(*雪見注:引用はすべて内藤濯をHASENOBU訳に換えてあります)

「自分で愛着を持たないかぎり何も分からないよ。」
「あのバラに自分の時間を注いだからこそ、あのバラは君にとって大切に思えるんだよ」

その後で王子様はこう言っています。
「自分が何を探そうとしているのを分かっているのは子供たちだけなんだよ。ぬいぐるみなんかでいたずらに時を過ごして、そしてそのぬいぐるみは子供にとって大切なものになるんだ。だからもし誰かがそのぬいぐるみを取り上げたりしたら子供たちは泣きわめいてしまう・・・」

この「時間を注ぐ」という表現が雪見さんの言っていた「関わり」なんでしょうね。一見実利的ではない手間や、関わりは、心でしか見えない大切なもの、肝心な目では見ることのできないものを生み出すプロセスなのかな、なんて思っていました。

私が好きだったのは、最後の方で主人公が王子さまに井戸の水を汲んであげるシーンです。以下引用です。

「この水は、本当にただの食べ物なんかとは違ったものでした。それが甘いのは星空の下を歩いたから、つるべの滑車が歌ったから、そして僕の両腕が頑張ったからだったのです。だから心にしみ入り癒してくれる、贈り物のような水だったのです」

相手の自分への思いや、そのための行為や、その時の空気、時間。
たった1本のバラの花や、ほんの少しの水といったありふれたモノを、他とは違うものに変えるのは、こういう付加価値なのかもしれません。

モノの中に潜んだ美しさ、愛しさ、思い入れを作るのは、幾度も繰り返される「目に見えないたいせつなもの」という魔法なのかな、と星の王子さまを読んで思いました。

さて、もし、雪見さんの天狗の文鎮がそういう魔法に掛かっていたら、雪見さんはどうだったでしょうか?(笑)



No.14 1999年7月18日 雪見 → HASENOBU

HASENOBUどの:

雪見操縦士はただいま愛機のエンジンの不調に悩んでおり、今回は残念ながらサハラ砂漠を離陸できませんでした・・・(T_T)

ということで、今回わたしもあらためて数日前に買ってきた日本語訳を見ながら心に残る言葉を書き抜きたいと思います。ただし、内藤濯氏の訳は納得できない個所もありますので、HASENOBU訳を掲載します。
(読者のみなさんへ:前回のゆりりんNo.13及び前々回HASENOBUさんNo.12の中の引用もすべてHASENOBUさんがわざわざ訳してくれたものです。こちらの方がずっといいし、正確です。ありがとう!>HASENOBUさん)

☆ 大人というものは数字が大好きでたまらないのです。(4章:ぼく)
★ 「あのね...、とても悲しいとき日が沈むのがたまらなく恋しくなるでしょう...。」
  「その時、そんなに悲しかったのかい? 一日に43回も日が沈むのを
  眺めた日は?」  (6章:王子とぼく)
☆ 王子様はそれ以上何も言えなくなりました。涙が溢れてきて言葉にならな
  かったのです。 (略)今、この星に、つまり私のこの地球の上に、なぐさめて
  やらねばならない王子様がいるのです。(7章:ぼく)
★ 心の内側っていうのは本当に分からないところなのです。(7章:ぼく)
☆ 「もっと言うなら、あの頃の僕には、ものを理解するにはどうしたらいいのか、
  ってことが分かっていなかったんだ。言葉で判断しちゃいけなかったんだ。
  あの花の振る舞いで判断しなきゃいけなかったのに...。(略)あのバラに限らず、
  花っていうものは気まぐれでつじつまの合わないところがあるものなんだ。
  だけど、僕はあまりにも幼かったからあのバラをどうやって愛するのかが
  分かっていなかったんだよ...。」(8章:王子→ぼく)
★ 「私があなたを愛していることがあなたに分からなかったのは私のせいです」
  (9章:バラ→王子)
☆ 「君が4時に来るのだとすれば、3時頃にはもう心がウキウキしてくるんだ。」
  (21章:キツネ→王子)
★ 「あぁ...。泣いてしまうだろうなぁ...。」
  (略)
  「だったら僕と仲よくなったことは何にも君のためにならなかったという
  ことになるよ!」
  「そんなことはないよ。あの麦畑の色のおかげで君を思いだせるからね。」
  (21章:キツネと王子)
☆ 「大切なものは目には見えないものなんだ。」(21章:キツネ→王子)
★ 「君が世話をしたものには、ず〜っと責任があるんだ。」(21章:キツネ→王子)
☆ <今、私のこの腕の中で眠っている王子様のことで、こんなにも心が
  揺さぶられてしまうのは、きっとあのバラのことを想う王子様のひた向きな
  心のせいなんだ。> (24章:ぼく)

と、まあ、書き抜いていけば切りがないし、HASENOBUさんの作業が増えるばかりなので(笑)このへんにしましょう。

わたしもこの本は小学校高学年のときにはじめて読んだのを皮切りに、たぶん5,6回は読んでいると思います。読む度にいつもいいなあ、と思う個所もあるし、今回初めて目にとめた個所もあります。中でも今のわたしが一番気になったのはゆりりんも引用した「あのバラに自分の時間を注いだからこそ、あのバラは君にとって大切に思えるんだよ」という言葉でした。

HASENOBUさんに問い合わせて原作を見てもらうとこの個所(HASENOBU訳では『時間を注ぐ』)は時間を「失う」"perdre"という表現になっているのです。(更に英語訳では 時間を「浪費する」"waste"という言葉が使われているようです)単に「時間をかける」とか「時間を費やす」ではなくて「失う」「浪費する」という、どちらかと言えばマイナスのイメージの言葉がなぜ使われているのでしょうか。

人を愛することとは自分の大事な「何か」を注ぎ込み、それを失いながらする行為なのかもしれないな、と思いました。その何かとはここで表現されているように「時間」であるとも言えるし、「人生」とか「生命」とさえ言えるかもしれません。人は自覚せずにそうやって人を愛しているのかなあ、と思いました。

ああ、なんだか久しぶりにこの本が読めて、良かったです。




No.15 1999年7月28日 HASENOBU → 雪見

 こんにちは、雪見さん! いつの間にか梅雨も明けてしましました。なのに広島ではこのところ湿っぽい天気が続いています...。ま、それはそれでいいのですが、ジリジリと焼けつくような強烈な陽射しも、これはこれで待ち遠しいものです。(笑)

 さて、エンジン不調のため砂漠を飛び立てなかった雪見操縦士、もう修理はすみましたか?(笑) 修理に手間取っている間、私はもう一度、このシリーズを読み返しておりました。そして、私達の飛行機は、同じような所を旋回しつつ、だけれども、全く同じ所を飛んでいるのでもなく、段々と核心に接近しながら螺旋形の航路を進んできたように感じました。(ついでに、軽い乗物酔を感じました。(爆))
 強引な比喩を使ったので、さらに言っておくと、私達の飛行機は、きっと目的地には辿り着けず、死ぬまで周り続けてゆくのかな、とも思いました。(笑) 結局、それが人生ってものなのかな、と。

 私達の燃料兼航空図(!)だった「(各人の)思い出の品々」「バージニアのサンタ話」「星の王子さま」など、使ってもなくならない、ある意味ではリサイクル可能なものですね。(ちょっと意味不明か...?)

 ゆりりんさんは「関わり」というものが、あるモノや人の価値を左右してゆくことになることを端的に述べてくれました。また雪見さんは「『何かを』注ぐ」ということに注目し、それが「愛する」ということとに繋がるのだと述べていました。ともに頷けます。
 そこで、それにまつわることを少しだけ。
 唐突ですが、価値観というものはその人の生き方に大きく関わってくるものですよね? ま、人生とか大袈裟に考えなくってもよくて、毎日の生活、暮らしぶりなどで考えてもいいのですが。例えば、部屋の中がいくら乱雑でも気にならないという人には「整理整頓」という事象(?)は大きな価値を持たないのでしょうし、また、マイホーム購入のために(あるいは購入後のローン返済のために)仕事を頑張るんだ、という気持ちでいる人にとっては、労働の報酬としてのお金がとても価値あるモノだということになるのでしょう。
 ちなみに、ず〜っと前にも少しだけ触れましたが、お金というものは「価値」というものを考えた時、なかなか面白い側面を持ってますね。「等価」「引き換え」「共通の取り決め」などの言葉と共に。(笑)

 で、それぞれの人間の人生が、その人なりの独特のものである(ことが多い)ということを考えると、当然、その数だけの価値観というものがあることになるようです。もちろん似ていることもあるでしょうし、相対するものであることもあるでしょう。だけれども、それぞれの人生がその人のものであって(原則的に)他の人がとやかく口出しできないのと同様、ある人の価値観を他の人が気に入らないと言って非難したり、また逆に崇めたりもすべきではないのでしょうね。いや、正確に言うと、たとえそう思っても、それは自分の心の中で留めておくべきものなのでしょうね。
 う〜ん、少し自分でも言葉不足。
 もっとはっきり言うと、仮にそうでも(つまり、自分の価値観を人に否定されたりしても(!))、それを不必要に気に留めるべきではないのでしょうね。
 れれっ? 自分でも何が言いたいのか分からなくなってきたぞっ。(爆)

 あはは...。考えがまとまらないときは複数の思考回路が働いているときなんだな、ということを再確認。(笑)

 さっきから気になっているのが「引き換え」ということ。考えてみると、例えば私達がモノを買うとき、というのは「引き換え」行為ですよね? 表面上はお金と品物との引き換え。もう少し突っ込んで考えると、自分の労働の報酬として得た「お金」と、その「品物」が製作・生産されて流通されるコストとの引き換え。ま、これはあくまで一種の具現化の一つですが。
 前に、私のホームページの中で私は「Fさん(私の妻)とのデートの時に、(Fさんと付き合い始める)以前に他の女の子からもらったマフラーを、間違えて首に巻いていった」という(とても冴えない)出来事について述べましたが、その時にFさんからの「そのマフラー、今すぐ捨ててっ!」という願い(?)を聞き入れなかったことも書きました。(笑) その時に、私は「そのマフラーの製作者の思いを踏みにじるような気がして捨てられなかった」というようなことを書きました。そしてそれはそれでその通りなのだけど、もう少し(きっとおぼろげながらも)感じていたことがあったのです。仮にその問題のマフラーをくれた人をAさんと呼ぶことにして説明すると:
1. Aさんは自分の時間を(どれくらいか分からないけど)費やしてそのマフラーを編んだ。
2. 当時、私もAさんも中学生だったから、そのマフラーの毛糸はAさんが自分のお小遣いで
   買ったものだ(と思う)。
3. Aさんの御両親は、仕事をして、娘(Aさん)が欲しいものを買えるように、お小遣いを与えた。
4. Aさんは、他にも買いたいものがあっただろうにもかかわら、他にもやりたいことがあっただろう
   にもかかわらず、毛糸を買い、マフラーを編んだ。
(ここで、編み物技術の伝承や、その毛糸の生産や流通過程までも考えると収拾がつかなくなるので止めておきますが。(爆))
 ま、上の事項の3.を除いたとしても(笑)、これらがHASENOBUの「ために」なされたのだと思うとき、とてもそのマフラーを捨てる、ということは私にはできかねなかったのだと思います。
 もちろん、その一方で「別れた昔の恋人からのプレゼントを捨てる」という潔さも充分、分かるのですが。(ちなみに私は上のAさんとつき合っていた訳ではありません、念のため。とにかく、その手のプレゼントは閉口するくらい貰っていたのです、昔の私は。(笑) 今では、誰も、そして、こちらからいくら頼んでも、妻さえも編んでくれません。(爆))

 え〜っと、そろそろバトンタッチとしたいところです。(笑) 雪見さんはもう準備ができたかな? え? これからの進路? まかせま〜す。(爆) じゃ、また。



No.16 1999年8月2日 雪見 → HASENOBU

HASENOBUさん、こんにちは。暑いですね…。大の暑がりのわたしは毎年8月になると日本人に生まれたことを悔やみます…。

ところで、わたしたちの飛行機のエンジンも暑さのせいか、なかなか直らないです。何とか飛び立つことはできるのですが、いつ失速してしまうか分からない危険な状態です。HASENOBUさん、ちゃんと緊急脱出用のパラシュートを身につけていてくださいね。

さて。ふと、思ったんですけれど、このシリーズのタイトルを「モノの価値、ひとの価値」と無造作に並列させましたが、もちろんこのふたつには大きな違いがあります。何と言っても人は人。言葉を話し、感じ、考える存在なのです。その点がモノとは大違い。

せっかく前回のメールでHASENOBUさんが若き日の思い出(この真夏に手編みのマフラーとは何とタイムリー!(笑))を語ってくれたので、それを例に取って話してみましょう。中学生のAさんは同じクラスのHくんが好きでした。(この際、理由は問わないことにしましょう。きっと「はにかむ笑顔が素敵、とかギターかき鳴らして歌う姿がかっこいい」とか、そんなところだったのでしょうか)で、Aさんはマフラーを編んで渡すことでHくんに「あなたが好きです。あなたはわたしにとって大切な人です。価値がある人です」という意思表示をしたことになりますよね。(あるいは実際にそういう言葉を発したのかもしれませんね。)受け取ったHくんにしてみれば(閉口してしまうほど、たくさんの女の子からすでに「好きです」と言われていたとしても)やはり、Aさんの「好き」は今回新たに加わった他人の自分に対する評価ですね。

で、Aさんが「好き」と言ったせいで、Hくんの「人としての価値」は上がったのでしょうか。それともAさんが口に出さないで恋心を秘めて黙っていても、Hくんは同じように価値ある素敵な少年だったのでしょうか。

別の例。
わたしは1年前からこの「ゆきみ横丁」というHPを始めて駄文を書いてきました。素人が好き勝手に書き散らかしている文章なのに、ときどき読んだ人からメールで丁寧な感想をもらうことがあるのです。また、チャットなどで「いつも読んでますよ」と言われることもあります。たまには「あなたの文章に影響を受けました」と言う方もいらっしゃいます。わたしはできるだけ人に影響したくない、と思っている人間なので、少し戸惑ってしまうのですが、それでも素直にその人の言葉を受け取るようにしています。そういう人たちがわたしに対する誉め言葉をわたしに伝えるということ、これはわたしという人間の「価値」について考えると、どういう意味があるのでしょう。たくさんの人が「雪見が書く文章が好きだ。いつも楽しく読んでいるよ」と言ってくれれば、誰も何も言わない場合と比べてわたしの「価値」に違いが出るのでしょうか。

ああ、暑さのせいでわたしは変なことを言っていますか?(笑)

じゃあ、こんな例はどうでしょう。(と、例に出しながら自分でもよく理解できないことなのですが。)わたしがある人と知り合いになり、いろんな話をするようになったとします。お互いに得るところが多くて、しかも気が合う。「あなたのようないい友達ができて嬉しい」と相手も言ってくれるし、わたしも相手のことをそう思っている。ところが、何らかの理由があって、その人が突然よそよそしくなってしまう。もうわたしのことを以前のように「いい友達」とは思わなくなったらしい。わたしのどこかが変わったのか、相手の「価値観」あるいは「評価基準」が変わったのか。こんな場合、わたし自身の人としての「価値」は下がってしまったのですか?価値ってそんな風に変動するものなの?(笑) (う〜ん。何だか、この例はよくなかったかしらん…。)

こういう仮定をしてみますね。
「あなたの『人としての価値』は他人があなたをどう思うか、によって決まる。Aさんにとってあなたが非常に大切でかけがえのない人であるとするならば、あなたはその分、価値のある人間です。」(以上、雪見仮説(爆))

その場合、Aさんがあなたにその事実を言葉にして(あるいは行動で)あなたに伝えるということは人間だからできることですよね。それによってあなたは自分がAさんに大事に思われているということを知るのです。これも「関わり」ですよね。更に言えば、Aさんから「好きです」と言われたときに、Hくんが「僕も好きです」あるいは「僕は特に好きじゃないけど、ありがとう」(笑)あるいは「そんなことを言われると僕、困ります」(笑)などと返答すれば、それもまた人と人との「関わり」ですよね。

こんなことを書きながらふと思い出すのはこの「メールで話そう」の第1弾「心のほころび」(No.6)でめぐみさんが引用した「誰も見ていない森の中で木が一本倒れたとしたら、その木は本当に倒れた事になるのか?」という言葉です・・・。

ところで、HASENOBUさんも知っているように「ゆきみ横丁」の「屋根の上の小説家」のコーナーで小説を書いてくれていた、ぼうが考えるところがあって最近彼のHPを突然閉じてしまいました。そのとき、彼のもとにはたくさんの人からの感謝や励ましのメールが届いたそうです。その中には彼が今まで知らなかった人からのメールもあったそうです。その人たちはこれまでも黙ってぼうのHPを楽しんで読んでいたのでしょうが、ぼうはその事実を全く知らなかった訳です。最後の最後になって彼らが「あなたの書くものが好きだった」と声に出して気持ちを伝えたとき、初めてぼうの物書きとしての価値がまた高まったと考えられないでしょうか。

あ…。HASENOBUさん、あきれてパラシュートで脱出しようとしてますか?(爆)



No.17 1999年8月26日 HASENOBU → 雪見

 こんにちは、雪見さん! もう立秋もとうに過ぎてしまいました。この前、夜明け前に起きだすことがあったのだけど、その時の空の色、何と言うか、本当に「瑠璃色の夜明け」という感じでとても印象的でした。

 さてさて...。前回の雪見さんの文面を何度か読み返して、私は唸ってばかりいました。「う〜ん、う〜ん...。次を、どのように書こうかなぁ...?」と。(爆)
 ですが、いつまでも腕を組んで眉間にしわを寄せていても始まりませんので、自分でもまとまらないまま書き始めますねっ!! 脱出用のパラシュートは隠されたみたいだし...。(爆)

 まず、雪見さんの前回の文面の最初の方のこと。「何と言っても人は人。言葉を話し、感じ、考える存在なのです。その点がモノとは大違い。」ということについて。
 ええ、そりゃそうですよ。(爆) と、コメントして終りにしたらあれ(どれ?)なので...。
 だけど、思うに、ここで「〜の価値」とした時点で、その「モノ」と「ひと」との差異はある程度、無視しなければならないように思います。ただ「ひと」の場合は、雪見さんも言うように(直接、何らかのかかわりがある場合は特に)、その価値は「変動」するものだ、ということで了解しておく必要がある、と。「昨日の友は今日の敵」だとか「昨日の敵は今日の友」だとかの言葉にあるように...。
 「それは、人間関係が変わった、ということでしょう?」と言われてしまいそうですが、結局のところ、人間関係が変わる、ということは、その当該の人物間で、お互いに対する価値の置き方が更新された、ということだろうと思います。
 それが大幅なヴァージョンアップなのか、コンマ以下の小変更なのか、それともヴァージョンダウンなのか(爆)、色々とあると思いますが。

 ということで、続いて雪見さんが疑問文で提示されたことについて私なりの返事を...。(笑) 多分、最後まで行き着けないと思いますが。

 まず、H君とAさんとの例。「Aさんが『好き』と言ったせいで、Hくんの『人としての価値』は上がったのでしょうか。」とのことですね。(笑) ま、この「H君」について詮索するのは止めにして(爆)、ここで、雪見さんは「人に好かれることは、良いことである。価値あることである」ということを暗黙の前提とされていますよね? すみません、別に質問に質問で答えようというわけじゃないです、私は。(笑)
 さらに「Aさんが口に出さないで恋心を秘めて黙っていても、Hくんは同じように価値ある素敵な少年だったのでしょうか。」とのこと。
 この二つのことについて、私は「Aさんが、『好き』と伝えようと、恋心を秘めて黙ってたとしても、H君の人間的な価値とは本質的には関係がない。」と思っています。慌てて補足しておきたいのですが、問題なのは誰が「H君の人間的な価値」を決めるのか、ということです。そこを切り離して考えないといけないのではないかな、と思っていますが。
 もう少し補足します。(自分でもわかりづらいんで。(爆))
 例えば、その「告白」を受けたH君が、それを友達に自慢気に触れ回ったりしたとしたら、彼は、友達から「女の子にもてるからといって自慢する鼻持ちならない野郎」という評価を受けることになるでしょうし、また、その告白をH君が胸に秘めて「あ、そうですか。」とつれなく受け止めたとすれば(爆)、まわりの友人からの評価も変わらないでしょうし、H君自身の中に何らかの「人間的向上」があったとも言えないでしょう。H君は、相変わらず、素敵な少年のままか、あるいは陰湿な少年であるか知らないけれど、変わりがない、ということもあり得るでしょう。

 続いて、雪見さんのホームページに関わる例について。
 「たくさんの人が『雪見が書く文章が好きだ。いつも楽しく読んでいるよ』と言ってくれれば、誰も何も言わない場合と比べてわたしの『価値』に違いが出るのでしょうか。」
 もう、私の返事は予想できますね?(笑) そうです、雪見さんがそう思うのなら、そうなのです(と私は思います)。そして、その自意識が、雪見さんが偏屈者でなければ(爆)今後の雪見さんの身の振り方(?)に反映されることでしょう。

 で、その次。ある人と疎遠になったという例。「こんな場合、わたし自身の人としての『価値』は下がってしまったのですか?」
 はい、そうです。少なくとも、その相手の人は雪見さんに対しての評価基準を厳しくした、そしてその結果、雪見さんは振るい落とされた、ということです。正確に言うと「その人にとっての雪見さんの価値」が変わった、ということで、これと、雪見さん自身の本来の(...? つまり、自分で考える自分自身が持つであろう)価値とは関係ないと思いますが。
 また「価値ってそんな風に変動するものなの?」については、上に書いた、人間関係の変動相場制理論(笑)を御参照下さい。
 思うに、人間関係って、ものすごく微妙で、一夜にして逆転やら崩壊なんてこともあるでしょう。「何気ない一言が命取り」ということなど、私は何度も何度も経験しました...。(爆) 特に、ネット上では、言葉だけが頼りですからね〜。

 む〜。既に充分長くなりました。それに「雪見仮説」に、私が完全には同意していないことも察しがついたことでしょうから(って、大筋、同意しているんですが)、今日のところはこの辺で...。
 では、また〜!!



No.18 1999年9月1日 雪見 → HASENOBU

HASENOBUさん、こんばんは。
今日から9月です。行く夏を惜しんでわたしは夏風邪をひいています。すっきりしない気分です。

前回
HASENOBUさんのメールを読んで、ずいぶん書きにくそうに書いているなあ、と思いました。何だか暗い沼地に引きずり込んだようで気が咎めました(笑)。わたし自身は沼地でグジグジしているのは嫌いではないのですが、今日はちょっと気分を変えてみましょう。

えーっと、実はわたしは「価値」とか「価値観」という言葉があまり好きではないんですよね…(笑)。ふだん何気なく使う言葉なんだけど(こないだ美容院に行ったら美容師さんが「あなたの価値観は…」ってわたしに言ったので、びっくりしました。髪型の話をしていた時に、ですよ!)ちょっと気軽に使い過ぎではって思います。

「価値」って何なの? (って、言ってすぐに辞書の定義を出すのもわたしは嫌いです。)
わたしにとって価値があるモノ。価値がある人。それはわたしが大切に思っていて、それがなくなれば(その人がいなくなれば)非常に辛い思いをするだろうものです。「かけがえがない」という言葉、文字どおりの意味です。別のものでは代用できない。

で、人は成長していくものだし変容していくものだから、価値観(自分が何を大切に思うか)が時を経て変わっていくのは自然だと思います。ただね、どうしても引っかかるのは「ある日、突然」変わってしまうということなんです(笑)。それって結局、相手を理解していなかったということじゃない?(この際、恋愛はちょっと例外扱いにしましょう。あれは一種、魔法がかかった状態だから(笑)。ある日突然、魔法がかかり、また突然魔法が解けて元に戻るということはあるでしょうから。あ、同じように宗教もそういうところがあるかも…)

人が人を理解するってどういうことだろう。
わたしがいつも想像するのはこんな感じ。有名な雪見のジグソーパズル理論です(笑)。新しい人に会うでしょ。しばらく話をしていて、「ああ、こんな感じの人なんだ…」って思うでしょ。また別の機会に会って、「こんな風でもあるんだ…」また違うシーンで会って…という風にその人の色んな面を知る。そうやって、その人のパズルのピースがだんだんはまっていく。ジグソーパズルのピースには大事なピースとそうでないものがあるけれど、最初から大事なピースが見つかっている場合もあるし、それが分かるのはずっと後になってから、ということもある。最後まで知らないままということもあるかもしれない。大きいピースが重要という訳でもない。小さくて見落としてしまいそうなピースが実はその人の人間性を知る鍵だったりするかもしれない。

きのうまでわたしを「いい友達」と呼んでいた人が今日は冷たくなったとしたら、それはその人がわたしのあるピースを見つけたけれど、それが気に入らなかったということかなあ、と思います。わたしという人間のピースは、(当たり前だけど)そんなに自慢できるもんじゃないし、自分自身で見てもウンザリと思うことが多い(笑)。だから、人が「雪見のこのピースは大嫌い」と言ったとしても「そうだろうねぇ…」と思うばかりです(笑)。(逆に「雪見さんのこのピースが好き」と言われたら、「あなた大丈夫ですか?」って心配してしまいます(爆))

「思うに、人間関係って、ものすごく微妙で、一夜にして逆転やら崩壊なんてこともあるでしょう。『何気ない一言が命取り』ということなど、私は何度も何度も経験しました...。(爆) 特に、ネット上では、言葉だけが頼りですからね〜。」と、HASENOBUさんは書いています。おっしゃる通りです。わたしはHASENOBUさん以上に言葉による失敗が多い人間ですので、この忠告は肝に命じるべきですよね…。でもね、やっぱり引っかかるんだな…。「命取りになる何気ない一言」でわたしが良好だった人間関係を壊してしまったとしたら、それはわたしという人間が「命取りになる何気ない一言」をうっかり言ってしまうようなデリカシーのない人間であるということ、そして相手の人はその一言を言われるまで、雪見がそういう人間であることを知らなかったということではないでしょうか。(言うまでもないことですが、わたしは「自分はそういう人間なのだから仕方ないのだ」と開き直っているわけじゃありませんから(笑)。 まあ、そういう面はあるけど(爆)。努力して直さなくてはならないと思っています。ナイフを持つのなら、ナイフを使うときの注意点は承知しているべきでしょう。でない と怪我が絶えませんものね)

相手が自分にとって価値のある人だと考えるとき、それは、少なくともかなりの程度、その人を理解している(と、自分で思っている)場合でしょうね。「雪見さん、あなたはわたしにとって価値のある人です」と誰かが言ってくれるとしたら…。わたしは聞きたいです。「わたしのピースをあなたはどれだけ集めましたか?」って。

わたしの詰まらないピース、汚い、情けないピース、色んなピースを充分集めてはめこんで、なおかつ「雪見は自分にとってかけがえのない人だ」と言ってくれる人がいたら…。そういう人をわたしは失いたくないです。

ふぅ…。
今日の雪見おばさんは夏風邪のため少々不機嫌だったの。
読んでいて分かりましたか?(爆)




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