メールで話そう

第2弾 モノの価値 ひとの価値


ページ1へ戻る
ページ2へ戻る


お願い: このコーナーでは読んでくれた人からの意見や感想を待ってます。
      メールでHASENOBU、雪見の両方に同時に送ってくださいね。
      反対意見ももちろん歓迎だよ〜。 掲載されたくないという人はその旨明記しといてね。

HASENOBU、雪見へのメール(同時発信)



No.19 1999年9月3日 HASENOBU → 雪見

 こんにちは、雪見さん。もう9月になっちゃいましたね。朝晩、かなり過ごしやすい時期ですが、この中途半端な暑さも寒さも好きです。(笑)

 不機嫌な様子がありありと伝わるメールをありがとうございました...。(爆) 夏を惜しむのはいいのですが、夏風邪を大事にする必要はないと思いますので早く良くなって下さいね。

 さて、「雪見のジグソーパズル理論」、これが有名だとは知らなかったのですが(笑)、確かに言い得て妙、という気がします。と言いつつも、私としては突っ込みたい個所が幾つかあるのですけれども...。
 まず、一つ目は、「一体、そのジグソーパズルは仕上げることができるものなのか?」ということです。もう少し言うならば「仕上げる必要があるのか?」ということです。多分、雪見さんはどちらの問いに対しても「いいえ」と答えるんじゃないかな、と思いますが、どうでしょう?
 それから、二つ目。仮に「雪見ジグソーパズル」にAさんとBさんが取りかかるとしたとしましょう。そして、完成したとして、それは、AさんのとBさんのとは、まったく同じものになるのでしょうか? ま、別に完成してない段階でもいいのですが、製作途中で両者がそれぞれの作品を見比べたときに、ともに「あ、これは雪見だ」と納得できるのでしょうか? さらに言うと、それを雪見さん自身が見たときに「あ、私だ...。」と納得できるものでしょうか?
 と、疑問文を並べてしまいましたが、深い意味はありません。私も自分に問いかけながら、なのです。ついでですから、もう少し疑問点を出しておきます。「ピース」はどうやって手に入れるのか、ということです。
「ああ、こんな感じの人なんだ…」「こんな風でもあるんだ…」というシーンが素になっているのだろうとは思うのですが、そのピースは、先ほどの例で言うとAさんやBさんが手に入れるのは同じものである、ということになるのでしょうか?
 ということで、私としては全て「否。」と言いたくなるような疑問文を並べました...。
 さらに今、挙げた事柄以外のことも付け加えておきたいことがあります。(笑) そこで「雪見のジグソーパズル理論」を私が採るとすれば以下の点を補足しておきたいと思います。
・このジグソーパズルは完成できるかどうか分からない。
・完成するということはある人がもう一人の人を完全に理解できた、ということである。
・素材のピースは、その当該モデル(笑)との関わりの中から、組み立てる人が選びだすものである。
・その選び出し作業では、組み立てる人が自分の好みに応じたピースを選びがちである。
・従って、モデルに対する製作者の期待が反映されてゆく。
・当然、出来上がってゆくものは、組み立てる人次第であり、同じものができることは、まず、ない。
・組み立てる方法も無限に近い。一定のきまりはなく、端っこから造り上げてもいいし、真ん中からでもよい。
・ちなみにこのジグソーパズルは平面ではなく立体的である。

どうです、雪見さん? え、人の理論を勝手にいじくるな、って?(笑)

 次に「『ある日、突然』変わってしまうということ」と、その原因となる「命取りになる何気ない一言」について、雪見さんのジグソーパズル理論ではどう位置づけるのか、を考えてみましょう。
 いくつか考え方がありそうですが、私としては「命取りになる何気ない一言」というのは、新たな(ウイルスのような)ピースではなく、むしろ、それまでに作っていたものの土台(あるいは中心)部分のピースを取り外すということではないか、と思います。従って、それまでに作られていた像はガラガラと崩壊してゆく...。崩れないにしても、バランスが取れなくなってしまい傾いてしまう...。せっせと組み立てていた人は、もう、その製作意欲をなくしてしまう...。このような状況なのかな、と思います。

 ところで、雪見さん。最後の方に書かれていた、「わたしのピースをあなたはどれだけ集めましたか?」と尋ねてみたい、ということについて。このセリフ、かなり挑戦的に響くのは、ま、いいとして(笑)、それを尋ねてどうしようというのでしょう?(笑) 「他の人が自分に対してどのように評価しているのか、そして、どうしてそのような評価をしているのか?」ということを確認したい、ということなのでしょうか?(全然違うのかもしれませんが。) 少し、気になりました。(No.16の「雪見仮説」を信奉するとすれば、頷けます、はい。)

 でも、最後の最後のところ、これには全くの同感です。そういう人を一人でも見つけることが、人間の(もしかしたら)最大の幸福につながるような気がします..。これは、浮ついた「価値観の共有」といった次元の話ではなく、です、もちろん。

 あぁ、今回もまた足踏み状態のHASENOBUでした...。でも、ちゃんと足は動かしていたんですよ!(笑) ただ、どちらに向かって進もうか、回りながら考えているのです。違った意味での牛歩のHASENOBUですねっ!(笑) では、「走り出してから考える」雪見さん、どうぞ走り出して下さいっ。(爆) え? 行き先ですか? う〜ん、「期待」と「失望」が標識に出てますよっ。ということで、また〜!




No.20 1999年9月10日 雪見 → HASENOBU 

HASENOBUさん、こんにちは〜。

やっぱり9月っていいですね〜。9月はわたしの生まれ月でもあります。さわやかな季節にさわやかな人間が生まれるのですねっ(特にコメントは求めません(爆))。

突然ですが、二宮尊徳ってご存知ですよね? そう、あの昔の小学校の校庭に必ず銅像となって建っていたあの人物です(わたしが通った小学校にはいなかったが)。で、今日突然思い出したのはその名前、「そんとく」です(笑)。損得…。永く忘れていた言葉でした…。少なくともわたしはここ何年も「損得」をあまり考えないで生きてきたような気がします。恐らくHASENOBUさんもでしょう(って、わたしの推測ですが)。それから、横丁に遊びに来ている大部分の人も(これも推測)。

自分にとって得にならないばかりか、下手をすると損になりそうなことを、一生懸命に心を傾けてやってしまうってこと、ありますよね…。頭で考えればやるべきでないことを不思議にやってしまっている。止められない。理性が命じる方向とは全く逆の方向に行こうとしている。「心は理性の知らないそれ自体の道理をもっている」とある本に書いてあったのを読んだことがありますが、理性と心が別々のことを言っているとき、どちらに従うべきなのでしょう。人によってきっと違うのでしょうね。

自分にとって価値があるもの、大切に思うものーそれを決めるのは果たして理性なのでしょうか、心なのでしょうか(それとも、それ以外の何かなのでしょうか)。

さて、雪見のジグソーパズル理論に賛成いただきありがとうございます。HASENOBUさんにも認めていただけたので、早速秋のほらふき学会で発表したいと思います(笑)。

HASENOBUさんのジグソーパズル理論の追加事項、大体いい線行ってますね、はい(笑)。
ひとつ付け加えるならば、そのパズルは立体であるという件について。そのパズルは3Dどころか4Dなのです(笑)。だって、人間には必ず過去があり、未来がありますものね。一体ひとの過去のピースをどれだけ集められるものなのか(集めていいものなのか)よく分かりませんけれど、少なくとも相手が過去と未来のピースを持っているということはよく承知しておくべきでしょうね。

仮にもひとりの人間をそんな風に理解しようとするならば、その作業が重くて危なくて時には辛いものだということを、この際肝に銘じておくべきでしょうね。(その覚悟もなくて、軽い気持ちでパズルのピースをいじってほしくないものですよね。前回、「ピースをろくに集めもせずに、軽々しく評価してほしくない」と書いたのはそういう意味でした。HASENOBUさんも言った「浮ついた価値観の共有」なんて大嫌いです。)

そう考えると「人を理解すること」あるいは「理解しようと努力すること」って時には自分の存在を賭けた大事業のようにも思われます。

ただ…。もし誰かが、たとえ自分が傷ついても相手のパズルを集める決意をして、気長に我慢強くその作業を続けるならば…。

星の王子様にあった言葉を思い出しませんか? 何かに自分の時間を注ぐことー自分の時間を「失う」こと、「浪費する」こと。別にその人のパズルのピースを集めたからって誰からも誉められるわけじゃない、自分の得になるわけでもない、それどころか損になりかねない、理性的に考えれば無意味な作業。そんな作業を心がしようとしている…。それが人を愛するということなんでしょうかねぇ。

って、そんなことを9月のある日、考えたりしてみるゆきみんでした…。 あらあら、またこないだの場所に戻ってしまいましたか?(笑) ま、いいか。

では、HASENOBUさん、次回よろしく〜





No.21 1999年11月1日 HASENOBU → 雪見

 さてさて、あっという間に「夏の終り」が来て、そして「秋の気配」をじっくりと確かめる間もなく、もう、秋のまっただ中。せめて「冬が来る前に」、私としては話を進めねば、と思いました。
 前回は9月の初旬の話だったのですね...。個人的には、読者の中のどなたかが口を挟んでくれるのではないか、という(根拠のない、だけれども、かなり強い)期待を抱いておりましたが、もう、それはあきらめます...。

 で、前回の雪見さんのメールを読んで、確かに私はため息をつきました...。(笑) 雪見さんの「またこないだの場所に戻ってしまいましたか?」という問に対する答えは(きっと、御自分でも分かっているのだと思いますが)「はい」です...。(爆)
 ま、実際、こういう(どういう?)展開になるのは、最初っから分かっていたことではあるのですが、いざ、こういう局面に立つと、それはそれで「閉塞感」に似たものを感じます。(笑)

 ということで、その前の私の(完全に無視された)発言:「『期待』と『失望』が標識に出てますよっ。」ということをもとに話を進めて行くことにします。

 唐突ですが、私は「自己中心主義者」です。ですが、これを単に「全ての事柄を全て自分の利益に繋がるように努力しようとする考え」と受け取ってもらうと、ちょっと(どころか、大変)困ります。(笑) 私の言いたいのは「全てを自分を基準として評価して行こうとする考え」です。
 恐らくは、これまでのメールのやり取りの中で気づかれたことでしょうが、私は「自分の判断」というものを大切にしたいと思っています。(蛇足ながら「大切にしたい」=「正しい」ということではないです。)
 もちろん、身の回りのモノや人間に対して一つ一つ評価を自分で下すということは、極めて労力が必要とされることであり、また時間的にも無理かと思います。ので、一時的な評価として、他者による評価、というものを援用しているのが実情ですけれども、「これは!」と思った時には、やはり、自分による判断というものを優先させて行きたいと思っているということです。

 ということで、これを無理やりに「価値」ということと関連づけてゆくと、これまた想像されるように、真の意味では、私は私自身が認めたものにしか「価値」を見出さない、ということになります。世間一般でどんなに人気を博していようが、基本的に、無関係です。

 あはは...。解釈の仕方によっては、ものすごく傲慢なことを並べていますね、私は...。
 でも、ちょっと、待ったぁ〜!(爆) これは、程度の問題であって(断言はできないけれども)実際には多くの人が感じていることのように思います。ただ、私はそれを「意識的に感じている」というだけのことです。

 で、今のが、ある意味では、前置きです。(爆) これが「期待」と「失望」とにどう繋がるか、ということに話を進めましょう。って、大袈裟に表現するほどのことではないのですが...。
 簡単に言ってしまえば、私は、自分が、自分なりの基準に基づいて「価値がある」と思ったものに対して「期待」をし、そして、それが、自分の思いと大きくマイナス方向に離れたときに「失望」する、ということです...。(当たり前じゃん、そんなの...。(爆))

 例えば「冗談なら何を言ってもいい」という原則を貫きたいけれど貫けない中途半端なHASENOBUという人物がいたとしましょう。(笑) そんなHASENOBUは、やはり、自分の発言においても、そして相手の発言においても、規制をかけてしまう。なのに、そうですね、例えば、「価値がある」と認めていた人から、その内容はともかく、「冗談を言うべきでないとHASENOBUが考えていた状況」で冗談を言われたとしたら...? きっとHASENOBUは、気分を害し「失望」することでしょう。そして(前に雪見さんが書いていた)ある人物に対する評価に修正がなされる、ということになるかと思います。
 ま、今のは人間を例にとりましたが、その対象はモノでも同じです。世間一般に言うのではない「ブランド志向」というものがあると思います...。

 さて...。言葉を弄しすぎたような気がします。

 締めくくる前に、前回、雪見さんが投げ掛けていた質問に対して、私なりの答えをしておきます。雪見さんは「自分にとって価値があるもの、大切に思うもの−それを決めるのは果たして理性なのでしょうか、心なのでしょうか(それとも、それ以外の何かなのでしょうか)。」とお尋ねになりました。では、天の邪鬼な私は答えましょう。「それは、私、です。」(笑)
 ちなみにこれは「心」と「理性」、この二つが時に相反するものだということを踏まえたうえでの回答ですので...。私は、そのどちらも所有しているけれど、そのどちらに対しても優位でありたい、という、そういう意味です、はい。

 ってことで、もう標識は出しません。さぁ、雪見さん、お好きな方向に進んで下さい。(爆)



No.22 1999年11月3日 雪見 → HASENOBU

HASENOBUさん、復活おめでとうございます(笑) そして、とてもHASENOBUさんらしいメールをありがとうございました。長〜〜〜い間、待った甲斐がありました(笑)。

他人の言葉に惑わされずに全てのことを自分で評価して行こうとするHASENOBUさんの考えはよく分かるし、そういう態度で生きていらっしゃることを(勿論わたしが限られた範囲で見ている分には、ですが)強く感じます。そのために「偏屈だ」と人から言われるだろうし、煙たがられたり、敬遠されたりすることもあるかもしれませんけど。でも、もう開き直ってますよね?(笑)

ある人が(また、あるモノや物事が)、多くの人にとって同じ価値を持つということは少なくともわたしには想像できません。「唯一無二の絶対的価値はあるのだ」と考える人も世の中にはいるようです。その価値を持つものは思想であったり、宗教であったり、またいつかの日本のように国家であったりするようです。そういう人たちは、自分が価値があると考えるものを他人も認めるべきだ、それが真実なのだから他人もその真実に目覚めるべきだ、と考える傾向にあるようです。でも、どんなにその意見がもっともらしく聞えても、どんなに権威の旗を頭上で振りまわされても、それぞれの人が自分の心と頭と、更に言えば身体を使って、自分が本当に実感できることだけを認めて行こうとするなら、「絶対的価値」の神話は成り立たないと思うのです。そういう訳で、HASENOBUさんの「自己中心主義」は納得できます。

しかし、同時にわたしは今回のHASENOBUさんのメールに少しだけ引っかかるものを感じてしまいました。それは「期待」「失望」などの言葉なのですけれど…。(あ、その前に…わたしは前々回二つの「標識」云々を無視したわけではないのです。ごめんなさい。あまり文学的表現をされると、鈍いわたしはよく分からなくて素通りしてしまうのです…(笑)。)で、どうしてここで「期待」、そしてその結果である「失望」という言葉が出てくるのだろう。(きっと順調に行けば「満足」となるのでしょうか。)これらはわたしには発想しにくい言葉なので不思議に思ってしまいました。そして、わたしが「価値」という言葉を好きでない理由も同じところにあるのかもしれない、と思いました。

これは恐らく性格の違いによるものかもしれませんが、わたしはどうしても「自分が人を評価する」ということに抵抗を感じてしまいます。わたしはNo.16のメールで悲しい気持ちで自分から「人の評価基準」だの「価値の変動」などという言葉を使いました。でも、これらの言葉はわたしにはどうしてもなじめないものです。だって、わたしという人間は他人を評価など、とてもできないのです。どんな人も − どんなに間抜けで鈍く見える人、どんなに懲りずに間違いを繰返す人、どんなに他人に迷惑をかける人でも −それぞれの人がかけがえのない存在だと思うから。

わたしは「人を理解しようとすること」をジグソーパズルのピースを集めることにたとえました。わたしのピースは自慢できるような立派なものはありません。隠したくなるような情けないものが殆どです。それでも、わたしは自分のピースを人から「評価」などされたくないです。「わたしの評価基準が厳しくなって、あなたの価値の相場は落ちました」などと言ってほしくないし、人にも決して言いません。そんなこと、余計なお世話、です。わたしはあるがままの人を見たいし、受け入れられるものならば受け入れたいです。評価などしない分、期待も失望もしないでしょう。

人が人と交わるということは、評価(そして期待、失望)などという生易しいことではないと思うのです。「評価」という言葉には自分がその対象から離れて、傷つかない安全な高みにいるイメージがありませんか? そういう態度で人と接するなら、人のパズルのピースは表面的なものしか集まらないし、人と交わる醍醐味も味わえないでしょう。自分にとっての「かけがえのない人」も見つけられないのではないでしょうか。

でも、わたしは1年以上HASENOBUさんとネット上で友達付き合いをさせていただいて、高みで人を評論するタイプの人とは全く思えないし…、そうすると、ご自分でおっしゃっているように「言葉を弄して」いるのかな、と少し気になります。それとも、わたしが言葉に必要以上にこだわり過ぎているのでしょうか…。こういうテーマで話をするときに理想としたいのは「感傷的になりすぎない」、でも「理性で割り切りすぎない」態度だと思うのですけれど。人がひとりひとり、物事を考え、迷い、決断するときに大切なことは、自分の理性と心と身体で納得しながら進んで行くことだとわたしは思うのですけれど。(とは言え、これまでの自分のメールを読み返しても、自分自身すでにこの両極の間で揺れているのが分かるし、ふらついてばかりで笑ってしまいますが…。)このあたり、わたしはHASENOBUさんのメッセージを読み誤まっているのでしょうか。

最後に−
「自分にとって価値があるもの、大切に思うもの−それを決めるのは果たして理性なのでしょうか、心なのでしょうか(それとも、それ以外の何かなのでしょうか)。」というわたしの問いかけに対するHASENOBUさんの「それは、私、です。」という答えを聞いて、わたしは「全くHASENOBUさんらしい答えだ」と思いました(笑)。でも、よく分かるような気もします。確かに理性や心の上に「何か」があるという気がしますから。で、それを「自分」と呼びたいけれど、果たして呼べるのかどうか、わたしにはまだ分からないのです。そして更に言えば、その「(仮に呼ぶ)自分」という存在は果たしてあなたが思っているほどあなたがよく知っている存在なのでしょうか。「そうだ」と答えられますか?

やっと横丁に戻って来てくれたHASENOBUさんに、今日は言いたい放題言ってしまったような…(笑)。HASENOBUさんからのお返しのきつ〜い反論、楽しみにしてますね。
ではでは。



No.23 1999年11月5日 HASENOBU → 雪見

 さてさて、このところ、部屋(自宅の、私の自室)に入ると温度計が10度を少しだけ上回っている程度ということが珍しくなくなってきました。もう、すぐそこに冬が、ということをひしひしと感じながら旧型ストーブに火を着ける私です...。(笑)

 本論に入る前にもう少し前置きを。(笑) え〜っとぉ、私としては自分が「復活した」とは思っていないし「やっと横丁に戻って」来たつもりもないのですが。(爆) ま、確かに、「長〜〜〜い間」の沈黙だったことは認めますが。決して他意はありませんでしたことは御理解下さいね、雪見さん。(だから、ほら、こんなに早くもリプライを書いている、という。(笑))

 さて、それでは本論に。雪見さんは「お返しのきつ〜い反論」を楽しみにされているようですが、多分、拍子抜け、というか肩透かし、と感じることでしょう。(笑)

 まずは「評価」ということについて。雪見さんの文面を読んでいると、私が思う「評価」というのとはかなり異なっているなぁ、という気がしています。確かに「評価」というのは「価値を評定すること」なのでしょうが、私としては「高みに立って」というようなニュアンスを込めたつもりはありませんでした。ひらたく言うならば「自分が、あるモノ(あるいは、人)をどのように思うか。」というような意味合いでした。
 「解釈の仕方によっては、ものすごく傲慢なことを並べていますね、私は...。」という表現でそのあたりの、私にとっては「誤解」と言いたい理解を避けようとしていたのですが、どうやらそれは失敗に終わったようです...。ま、いいのですが。(って、投げやりになっているのではなく、今から、また説明するから、という意味で、です。)

 雪見さんは、前回の文面の中で「HASENOBUさんらしい」という表現を二回使っていますが、これは、私に言わせると「私に対する評価」の一つの現れです。ついでに言うと(私が)「高みで人を評論するタイプの人とは全く思えない」というのも、まさに「私に対する評価」だと、私は感じます。
 さらについでに言うと、「HASENOBUさんらしい」というのは、評価に「期待」が加わったものだということです。ま、私のことを話題にするのは止めにして(笑)、他のモノでも人でもいいです。それまでの、そのモノ、あるいは人との触れ合い(あるいは「交わり」)によって、自分自身の中に「あ、こういうモノ(人)なんだなぁ...。」と思うことが、即ち、評価だということです。

 雪見さんは「人が人と交わるということは、評価(そして期待、失望)などという生易しいことではないと思うのです。」とおっしゃっていますが、これにはある部分、賛同し、ある部分、異論を唱えたいと思います。「人が人と交わるということは、生易しいことではない」というのは、ええ、私もそう思います。が、雪見さんの発言の前提となっている「評価(そして期待、失望)というものは生易しいことである」というのには、真っ向から異論を唱えたいです、はい。むしろ、全くその逆で、極めてツライことだ、ということもあると思います。ま、「期待する」側はそんなにツライことはないかもしれませんが、期待される立場というのは、かなりツライものがあるでしょうし、ましてや「失望」となると、これはする側にもされる側にも苦痛が伴うものでしょう。そういう意味で、期待や失望の根拠となる「評価」も、大変、厳しいものだと思うのですが...、どうでしょうか?

 ちなみに「評価などしない分、期待も失望もしないでしょう。」というのは、まさにその通りです。が、果たしてそんなことが生身の人間に可能なのだろうか、という気がします。あり得るとすれば、それは「全てに対して無関心」ということではないのかなぁ、とも。(もちろん、これは、私の「評価」という言葉と雪見さんの考える「評価」が異なっていたからだとは思うのですが。)

 雪見さんは最後の方で「自分」ということについて触れてますけれども、ちょっと、その前に。「わたしはあるがままの人を見たいし、受け入れられるものならば受け入れたいです。」ということについて。雪見さん、「あるがままの人を見たい」というのは私も同じなのですけれど、実際に、本当に「あるがままの人を見る」ということが可能なのでしょうか? 認知だとか知覚だとかのややこしい話をしたいわけではないのですけれども、どうしても私は「自分のフィルター」というのを通してのみ「見る」ことは可能だ、というように思うのですが...。(これは前に言った「自分中心主義」ということです。) ちょっと、自分でもうまく表現できないのがもどかしいのですけれども、「あるがまま」を真の意味で捉えられるほど人間は(普遍的に)「絶対」となれるのだろうか、ということです。

 ですので、雪見さんが「それを『自分』と呼びたいけれど、果たして呼べるのかどうか、わたしにはまだ分からないのです。」と言うのは、自己撞着のようにも思えますが...。つまり「自分にとって価値があるもの、大切に思うもの」を決めるのは「あるがままの人を見たい」という「私」と同じではないか、ということです。

 というようなことを踏まえた上で、雪見さんが疑問文で書かれていることに、私なりの回答をしておきます。前後は省略しますので、文脈を御確認お願いしますね。
・「もう開き直ってますよね?」--はい。(笑) というか、あきらめています。そうするしかない、と。
・「『評価』という言葉には自分がその対象から離れて、傷つかない安全な高みにいるイメージがありませんか?--前述の通り、私は、そうは思っていませんでした。
・「自分にとっての『かけがえのない人』も見つけられないのではないでしょうか。」--確かに、(高みに立って)あるがままを見ようとしないのであれば、はい、そう思います。
・わたしが言葉に必要以上にこだわり過ぎているのでしょうか…。--う〜ん、こだわりは大切ですが(笑)、御自身のことを私に尋ねられても....、という気がします。(笑)
・「わたしはHASENOBUさんのメッセージを読み誤まっているのでしょうか。」--少なくとも「評価」ということについては、はい、そんな気がします。
・「その『(仮に呼ぶ)自分』という存在は果たしてあなたが思っているほどあなたがよく知っている存在なのでしょうか。『そうだ』と答えられますか?」--少なくとも私のことを私以上に知っている人は、あり得ません。だからといって私が私自身のことを「よく知っている」ということではなく。親だろうが妻だろうが子だろうが、私のことを一番よく知っているのは私自身以外にはいない、という意味で、です。そして自分が知っていると思っている以上の私というものはない、とも思っています。もしもあったとすれば、その時は自分の認識を改めるだけです。

 ということで、雪見さんの質問にお答えしたところで今回は閉じたいと思います。敢えて先には進みませんでした。(爆) では、どうぞ、続きを。



No.24 99年11月9日 雪見 → HASENOBU

HASENOBUさん、こんばんは。
前回のメールで、わたしがHASENOBUさんの使った「評価」という言葉を少し違った意味で受け取っていたことが分かりました。で、「期待」「失望」についは尚もわたしはすっきりしない気持ちなのですが(笑)、今はこのままにしておきましょう。

ただひとつ言いたいのは、わたしが例えば「HASENOBUさんらしい発言だ」と言う場合、必ずしも「いい発言だ」と思っているわけではないです。「HASENOBUさんらしい、ひねくれた発言だ、うんざりするなあ」と思ってるかもしれません(笑)。わたしはHASENOBUさんという人のひとつの面を「優れている」とか「劣っている」とか判断することはありません。(「判断をしない」という意味でわたしは前回「あるがままの人を見たい」と言いました。「好き」「嫌い」を感じることは勿論あると思いますが。)だから、今後もわたしは「HASENOBUさんらしいですね」と何度か言うでしょうが、別にそれは「期待」「満足」して言っているわけではないですから、ご安心ください(笑)。強いて言えば、わたしが(自分のフィルターを通して)集めたHASENOBU情報(パズルのピース)に基づいて「予想」したことが当たった、というところでしょうか。

さて、次に「自分」という存在について、もっと考えてみたくなりました。

前回のHASENOBUさんの言葉―「少なくとも私のことを私以上に知っている人は、あり得ません。だからといって私が私自身のことを「よく知っている」ということではなく。(略)そして自分が知っていると思っている以上の私というものはない、とも思っています。もしもあったとすれば、その時は自分の認識を改めるだけです。」これはきっとHASENOBUさんだけではなく大抵の人が考えていることではないでしょうか。わたしもたぶん、似たようなことを考えます。でもちょっと違う表現をするかもしれませんが。「自分のことを自分はまだ充分に知らないのかもしれない。今後、今以上に自分がわかるときが来るのかもしれない」とか。

ところで、「雪見」という人間について誰よりもよく知っている「雪見エキスパート」のわたしですが、時々雪見についてわたしほど知らないはずの人から言われた言葉がふっと心にとまることがあります。曰く「雪見さんって******ですね」まあ、この*の部分は何でもいいんですが。言われて初めて気づくということもあるし、「言われなくても分かっているよ、だけど改めて言われるとやっぱりショック」ということもあるでしょう。「え、それはあなたの誤解だよ。わたしってそんな人間じゃないの」と叫びたくなることもあるかも。

ジグソーパズルに続いてまたもや比喩的な表現をすれば、自分のまわりにいる人たちってそれぞれに鏡を持っていて、その鏡を何気なく覗くと自分の姿が映っている、そんな気がすることってないですか?小さい鏡や大きい鏡、ぼやけた鏡、ゆがんだ鏡、太った自分をあまりにスマートに映している鏡(笑)などなど。鏡が身の回りにあることはありがたいことです。そして、できればゆがんでいない鏡を持っている人が近くにいてほしいな、と思います。誰かが熱心に自分に差し出してくれる鏡が美しすぎる自分を映していれば、ちょっと気が重くなることもあるでしょう。

では誰の鏡がゆがんでいない正しい鏡なの? それを判断するのはきっと自分自身なのでしょうね。但しこの場合、自分の像は自分自身では外から見られないという問題はありますが(笑)。というわけで、この「あなたは鏡」理論(いま急遽名づけました(笑))で言えば、ゆがんでいない鏡を持つ人をわたしは大事にしたいし、わたしにとって価値ある人、ということにもなるのでしょうか。




No.25 1999年11月20日 HASENOBU → 雪見

こんにちは、雪見さん。この企画が始まったのは春でしたがもう「季節は流れて」、冬となってしまいましたね...。やはり今回も結論は出ない雰囲気ですが、年内には打ち止めとしましょう。(笑)

 さて、さて...。まずは「わたしが例えば『HASENOBUさんらしい発言だ』と言う場合、必ずしも『いい発言だ』と思っているわけではないです。」ということについて。
 ええ、それは重々承知していましたが。(笑) というか、前回の私のメールではそういうことを念頭に置きつつ書いたつもりだったのですけれども...。やはり、まだ伝わらなかったのかなぁ、と意味で「残念」です。(笑)

 また、「『判断をしない』という意味でわたしは前回『あるがままの人を見たい』と言いました。」ということについては、逆に、雪見さんの言いたいことが(今でも)私には伝わっていないようです。私だったら、それは「評価をしない」と表現したくなるところです。(とは言え、私の言う「評価」と「判断」は極めて密接に繋がっているのですが。)

 ま、このあたりの言葉について、あるいは表現については、恐らく、個々の人によって少しずつずれがあることでしょうから、執着するのはこれくらいで止めておきますね。

 ということで、雪見さんの「あなたは鏡」理論について話を進めましょう。(ちなみに「誰かが熱心に自分に差し出してくれる鏡が美しすぎる自分を映していれば、ちょっと気が重くなることもあるでしょう。」というのが、私が前回言っていた「期待される立場というのは、かなりツライものがあるでしょう」ということです。) で、雪見さんは「では誰の鏡がゆがんでいない正しい鏡なの?」と問い掛けられてますが、厳密に言うと、そんな鏡はない、と私は思っています。「それは、ないものねだりですよ。」とまでは言いませんが。(爆)
 この「あなたは鏡」理論をジグソーパズル理論とつきあわせて考えれば、そこに映っている「自分の姿」というのは、その人が造り上げた(というか、正確には「造り上げようとしている」)姿、なのではないでしょうか? たとえ、仮にその人が「あるがままの人を見たい」と強く思い、そしてそうしているんだと自分では思っている人であっても、詰まるところ、その人なりの「フィルター」をかけられて入手したピースしかないのですから。
 ということで、雪見さんが唱えられたこれら二つの理論は、突き詰めると両立し得ないものだと思います...。

 ですが、だからと言って、そのどちらも受け入れがたいものだと言いたいわけじゃないです。(笑) むしろ、どちらも実際の生活の中で私たちが(意識せずとも)現に使っているものだと思います。
 ですので「ゆがんでいない鏡を持つ人をわたしは大事にしたい」というのは、もっともなことだと思いますし、そういう人が「価値ある人」であるということになると、私も思います。

 恐らく雪見さんは嫌がることと思いますが、結婚前の若い男女が「結婚するなら、同じ価値観を持った人がいい。」などと言ったりしますよね? 厳密に言うと「同じ価値観」なんてあり得ない(笑)のですが「似たような価値観」ならあるでしょう。同じものを見た夫婦が常に全く違った、あるいは逆の印象を受けてばかりだとすれば、その二人は(断言はしませんが)うまくやってゆけないことでしょう。そんな二人が良好な関係を続けたいのであれば、双方にかなりの忍耐力というか、寛容さが必要とされることでしょう。(って、偉そうに言ってますが...。(笑))

 無難なまとめ方をすれば(爆)、同じじゃないからこそ、面白い、ということです。私は妻と知りあって二十年以上(笑)過ぎましたが、それでも厭きないのは、そして、雪見さんと知りあって一年が過ぎましたが、今でもこのような企画を続けているのは、やはり「同じじゃないから面白い」からだということなのだと思います...。

 と、強引に締めに持って行きました。(爆) もう少し言いたいことがありますが、今回はこの辺で...。



No.26 1999年12月2日 雪見 → HASENOBU

HASENOBUさん! 
ある日、はっと気がつくと2000年は目の前なのでした…。いやぁ、わたしたちは何をモタモタしていたんでしょう。(爆)もういい加減で話をまとめなくては…。しかし、どうやって?(笑) 考えれば考えるほど、今回の「モノの価値、ひとの価値」というテーマを選んだ自分を責めたくなってしまうのでした(笑)。

さて、前回HASENOBUさんはかなり無理をして強引に結論めいたものを書いていましたが、それを横目で見ながら(あ、別に無視するわけではないのですが(笑))、今日はちょっと違うことをお話してみたいと思います…。

今日はちょっと素直になって自分の胸に聞いてみました。自分にとって現在、価値がある人は誰だろう。過去に価値があった人は誰だったろう、って。数人の顔が浮かびました。それらの人たちに何か共通するものはあるだろうか…。

ひとつ、ありました。それは彼らが「雪見」という人間と係わって、その係わりを通じてわたしが自分を見つめることになった人たちだと思います。彼らは別に「雪見さん、ちょっと考えてご覧なさい、あなたという人は…云々」と特別説教じみた話をしたわけではないのです。ただ、その人との自然な付き合いを通じて、わたしは嫌でも自分を見詰め直すことになった、そういう人たちなのでした。彼らの多くはわたしという人間を愛してくれた、好意を持ってくれていた、或いは少なくとも興味を持ってくれていた、と思います。

でも、そうでない場合もあったかもしれません。今、ある人のことを思い出していますが…。その人は年輩の女性で、はっきり言って沢山の人から嫌われていました。その人との付き合いはわずか1ヶ月だったのですが(わたしがうんざりして彼女から逃げ出した(笑))、強烈な思い出を残してくれました。具体的にここには書きたくないのですが、彼女はあらゆる他人に対する彼女のいつもの失礼な態度でわたしに接しました。そして、わたしという人間について、恐らく一生忘れられない、胸に30センチもグサリと刺さるような言葉を何度か投げつけてくれたものです(笑)。

彼女という人間自体をわたしは全く尊敬もしていないし、好き嫌いで言えば、大嫌いです(笑)。でも、彼女の人間を見る目は鋭かったし、わたしについて彼女が言った言葉は血がどくどく出るほど、真実を突いた(と、少なくとも自分で感じられた)ものでした。彼女が突きつけた鏡に映っている自分は悔しいけれど、目を背けられないものでした。あの夏の1ヶ月は確かにわたしにとって価値のある経験でした。

自分にとって価値があると思う人、もの、出来事。それは、歓迎したい嬉しいものであれ、逃げたいような嫌なものであれ、結果的に「自分」という存在について教えてくれるものではないでしょうか。過去の辛い出来事もそれが自分を知るきっかけになったのなら、価値のある経験だと言えるでしょう。(ただ傷ついただけなら、それは自分を弱めるだけの無意味な出来事なのでしょう。)一見あなたに敵対するような、まるで心が通わない人でさえ、ひょっとしたら隠れた価値を持つ人なのかもしれません。もう少し時間がたたないと、あなたはその価値に気づかないのかもしれません…。

今回のシリーズも最後に近づいて、わたしがしみじみ思うのは、自分という人間を知ること、あなたという人間を知ること、の難しさです。だから、中途半端な気構えで「価値」とか「価値観」という言葉を扱ってほしくない、と(こんなタイトルを自分で考え出しておきながら)思ってしまうのでした。

で、HASENOBUさん、いよいよ最後が近づいてきましたが、何か言い足りないことは?(笑)


次のページへ進む
メニューへ戻る
くまきの部屋のトップへ戻る inserted by FC2 system